2011/6/4 15:50 《現在地》
昭和49年に開通した新外沢トンネル(全長1360m)北口脇にある、旧道入り口。
前に来たときはここへ来るのも自転車で、途中の坂道に苦しんで辿り着いたが、今度はラクチンにマイカーで直づけだ。
どうでも良いが、2度目以降の訪問では、車で最大限にラクをするというのが私の好み。
そのくらいは、手抜きを嫌う旧道の神さまだって許してくれるはず。
しかし、旧道へは最初から徒歩で挑むことにする。
もう少し奥までは車でも行けるだろうが、どちらにせよ300mも進めばどうにもならない決壊が待っているのだ。
この程度の距離は、路面がぬかるんで車がはまるリスクを考えれば、歩いた方がマシ。
それに、満身創痍の旧道をあまり“いじめる”のもどうかと思うので…。
また、チャリを下ろすほどの距離でもない。
ここは、気合いを込めて、歩く。
100mも進まぬうちに、なにやら前回とは様子が違うことに気がついた。
緑が前よりも濃い気がする。
前は自転車でも労無く通過できたはずなんだが。
…そうだ。正確には1年と2週間ぶりの訪問だ。
普段ならば2週間ずれても大差ないが、この“萌え上がり”の季節においては、2週間でかなり緑が勢いづいてしまったようだ。
…これは良くない徴候だぞ。
前回探索した北側区間でも、藪が濃ければどんなに大変だろうかと思うような場面が多かった。
出発から3分という僅かな時間で、見覚えのある廃車が現れた。
ここまでも緑に包まれた“立派な”廃道だったが、この長年の風雪に押し潰されたような廃車体を境にして、礎盤自体の欠落が始まる。
危険地帯の、はじまりである。
第一の路盤欠損地帯。
30mにわたって、本来は6mくらいあっただろう道幅の大半が崩れ落ちてしまっている。
残った幅は最も狭いところで50cm程度しかないので、前は自転車同伴で怖い思いをしたところだ。
しかし、とりあえず徒歩ならばここは問題ない。
ここまでは。
15:55 《現在地》
問題は、ここからだ。
というか、問題はまず目の前のこの場面に尽きる。
この第二の崩壊現場を突破してはじめて、まだ見ぬ未踏破区間400mにアプローチ出来るのだ。
しかし当然のことながら、一度は文句なく撤退を決断した場面だ。突破容易なはずがない。
前回よりも周囲の緑が濃くなり、より“縁”に近付かなければ、崩壊地の全貌を確認することが出来なくなっていた。
足元に注意しながら、さらに数メートルの前進を試みる。
周囲は「ウルシ」が多いので、あまり心地よくない。
さて、
どうするべ。
まずは崩壊地帯の外周を取り囲むような崖を、
どうにかして下って崩壊地帯の内側に入らなければならない。
高巻きという回避手段は、あまりに崩壊斜面が高所に達しているので、
まず不可能だろう。
ところで、前回はその存在に気づかなかったのだが(よく写真を見直すと存在はしていた)、路盤の欠落区間の両側を結ぶように送水管らしきワイヤー吊りのゴムパイプが渡っていた。
その存在の目的は不明ながら、確実に大崩壊発生後に設置されたものだろう。
となると、この設置者は崩壊地の対岸にも行ったということになる。
私が最初の踏破者ではないことになるが、そんなことよりも、この事実は励みになった。
やはり、この斜面を突破できる何らかのルートは、存在するのだ。
もし私が類い希な身体能力の持ち主ならば、このワイヤーにぶら下がって対岸へ移動することも考えられるのかも知れない。
しかし、現実としては地に足を着けて行くしかない。
この、険しくとも緑に満ちた崩壊地を乗り越える難関は、最初と最後だ。
最初の難関というのは、このすり鉢状をした巨大な崩壊斜面の内側に入り込むための下降。
この落差は5mくらいもあり、下るだけでなく戻ってこられなければならない。
しかし、これは概ね成るだろう。
その後は、緑の斜面の横断が待ち受ける。
これもまず失敗は無いはずだ。
足場が悪いだろうから、かなり汗は絞られると思うが、横断できないような斜面ではない。
心配なのはやはり最後の難関となる、対岸側の斜面を登って路盤へ復帰する過程だ。
ここから見ていても分かるのが、路盤よりもかなり低い崩壊斜面の下端近くまで行かないと、対岸の崖は“鼠返し”のように反っていて、登れなさそうなのだ。
しかも土の斜面なので、手がかり足がかりも乏しい。
直線距離で50mほどの崩壊斜面を超えるのに、私が求めるべき動線の長さは100mを超えた。高低差を20mを超す。
文字通りへの、未踏への難関。