道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯 第7回

公開日 2016.7.29
探索日 2008.7.02
所在地 長野県松本市

水に挟まれたシェッド


16:07 《現在地》

急死しかねない危機を体感した直後で心臓はバクバク。
この時の私の精神は常時とは違う恐慌状態にあったのだが、実際に私の無防備な尻餅を目にしていた相方を余り心配させたくないのと、自分自身を出来るだけ平静にさせるべく、「えへへ危なかったぜ!」の軽いノリで、やり過ごすことにした。

幸いにして、今いる場所には平坦な地面があって、私も1分とたたず、探索時の平常心を取り戻したと思う。
(真に冷静に考えれば、この場所もいつ人頭大の落石が落ちてくるのか分からないような危険箇所だが、直前に較べれば遙かにマシな場所なのは確かだった)

そして、先ほど危機に遭う直前の記憶が確かならば、次のカーブの先には久々のロックシェッドが待ち受けていたはずだ。
オブローダーとして、橋やトンネルは当然だが、それに準じる大がかりな道路構造物である洞門やロックシェッド・スノーシェッドなども、ポイントの高い成果である。
まして事前情報にない発見ともなれば、おそらく多くの方が思う以上に私は大喜びする。



大小の落石が堆積し、本来の鋪装された路面が全く見えなくなってしまった路盤には、落石の他に、“ここにあるべきでは無いもの”の姿があった。
それは、ぐちゃぐちゃにひしゃげた落石防護柵の残骸
こいつはここで落石と一緒に寝っ転がっていて良い存在ではない。本来は、こうした落石から路盤を守るという尊い使命を持っていたはず。

そいつの“あるべき場所”に目を向ける(→)。
なるほど、こいつは無理だ。責めてゴメン。
むしろ責めるべきは設置者だ。どうしてこの場所にこの落石防護柵で「いける」「やれる」「だいじょうぶ」「安心だよ」「にゃ〜」って思ったのか、小一分くらい問い質したい。

本当に申し訳程度に下の方だけコンクリートの吹き付けがなされていて、それより上の大半の崖は裸である。
この裸の崖からの膨大かつ超高速の落石は、ぜんぶ落石防護柵で受け止めようとしていたのだろうが、それは無理な話だろ。

まあ、現実に落石の被害にあった訳でも無い我々が真に不満を感じるはずもなく、むしろ「管理者GJ!」なんて言いながら親指を立てていたわけだが。



そうして次のカーブを曲がると…

ありました〜〜♪ ロックシェッドちゃん!

ただしこの周囲は直前までより明らかに緑が豊富で、それだけに、ロックシェッドが本当に欲しかったのはここじゃ無いんじゃないかという気もしたが、敢えてそれは胸に仕舞っておいて、ここに書いた。

金属製のロックシェッドはステージ1の雷岩にあったヤツ以来だから、3kmぶりくらいか。
現代の安全基準だったら、もう大半の区間がロックシェッドでも不思議が無いくらい険しい国道だが、実際はそうならず、一連の旧道は早々に放棄され、トンネルと橋の連続で渓谷を串刺しにする抜本的改良道路である今の国道が整備されたのである。

これは、元来の梓川渓谷の美景をほぼ全て放棄するという、観光的にはデメリットもある決断だったはずだが、全体としては大正解と言えるのだろう。



相変わらず路上に横たわったままの落石防護柵を踏みつけながら、

いざ、ロックシェッドの内部へ侵入。

短いシェッドなのは侵入前から分かっていたが、見えてきた出口付近が…

!!



15:59 《現在地》

ぁああ!!

シェッドの出口付近が、膨大な量の土砂で埋もれていた!!
その高さは、ほとんど天井にまで達している!

さらに写真からは伝わらないかもしれないが、「瀑音」が、ハンパなかった!!

その音といっしょに、大量の水気を含んだ霧の一歩手前のような風が、シェッド内を濡らしている。

なんなんだ、このシェッドの異常な状況は!!



   


(てんねんかいきょ)

この絶対に国語のテストには出ない四字熟語が、この景色の名前である。
シェッド直下から100mほど上流までの梓川は、極端に峡谷の幅が狭まっていて、膨大な水量がレーザービームのように収斂する。

開渠とは、空に開いた水路のこと(⇔暗渠)。コンクリートウォールに挟まれた都市の河川のような開渠が、天然の造形として存在するから、何者の命名かは分からないが、昔からこう呼ばれてきたのである。


「天然開渠」の名前は、『安曇村誌』に「梓川のすがたを消した名所」として、既に紹介した「雷岩」や「百間長屋」と共に記されていた。
これらはいずれも、国道の改良によって見ることが難しくなった梓川の景勝地だ。

同書には場所と名前が書かれていただけなので、「天然開渠」が実際にどのような景観なのかは全く分からなかったが(雷岩なども同様)、こうして目にしてみると、有無を言わせぬ迫力と、特異なネーミングセンスの両方に感服した!

しかも、これらの「すがたを消した名所」の全てが、路傍にただ「現れた」のではなく、オブローディングの決死の舞台として、活き活きと我々に立ちはだかって見せたのだから、これはもう本当にタマラナイ!!(狂喜)

なお、天然開渠の名前を記録した資料は、私の知る限りもう一つある。それはこのレポートで何度も引用している、『釜トンネル 上高地の昭和史』だ。同書には次のような悲劇的エピソードが記録されている。

釜トンネルが開通したとはいえ、もともと釜ヶ淵一帯はV字峡の見本みたいな地形で、冬場は雪崩の常襲地帯だった。そこへ人間が入り込むようになったのだから、自然の仕返しを受けるのは、ある意味で当然だった。通行する回数の多い人ほど犠牲になる確率は高い。
その限りでは当の坂巻温泉の主人、上松三次さんが昭和三十(一九五五)年の三月、釜トンネル手前の梓川の流れがせばまった天然開渠で、雪崩で死亡したのは運命的だった。上松さんは温泉の経営のかたわら、一キロほど上流の中ノ湯近くにある湯川発電所の取水口の番人を兼ね、毎日朝、夕、取水口の見回りにあたっていた。(中略) 上松さんは雪崩でこすられ、ますます傾斜を増した固い雪面に、トラバース用に五〇センチくらいの間隔で棒を差し込み、大正池取り入れ口勤務の同輩や、数少ない登山者のために、安全を図っていた。そのご当人が巻き込まれてしまった。この遭難は(中略)高橋保さんが目撃し、救助に当たったが、自らも雪崩にあって川に流された。そこで、中ノ湯に駐在していた約二十人の朝鮮人労働者の手を借り、約四時間後に上松さんを救出したが手遅れだったという。


昭和30(1955)年といえば、世間では高度経済成長がスタートした雪解けの時代だが、怖ろしい雪崩の巣である梓川の国道は冬毎に閉鎖され、流域の発電所で働く僅かな人々や、さらに僅かな冬山登山者だけが出入りする、真の秘境であった。
そんな中で坂巻温泉のご主人を襲った悲劇を、この旧国道は雪の下で見ていたのだ。
このシェッドは、まだ存在しなかった可能性が高いだろうが。また、雪崩が多発していたという事情を踏まえれば、これはロックシェッドではなく、スノーシェッドなのかもしれない。

それにしても、上記引用文中の「通行する回数の多い人ほど犠牲になる確率は高い」は、全オブローダーや酷道を好んで走る人が肝に銘じておくべき至言だ。
私も、シェッドの中から振り返って見たこの写真(←)の場所で、思いがけぬ危機に遭ったばかりだから、余計にそう思う。
うっかりあそこから滑り落ちかけたのだ…。写真を見ただけで今も胸がきりきりする。




足元から湧き上がってくる天然開渠の瀑音と冷風を感じながら、シェッドの出口を塞ぎかけている瓦礫の山をよじ登る。
もちろん、自転車同伴だ。

その時に振り返って撮影したのが、この写真である。
普段は見ないような高さからシェッド内を見下ろしている。
シェッドの全長はおおよそ15mほどで、入口側の3分の1は旺盛な緑に、出口側の3分の1は外から流入した大量の瓦礫にそれぞれ埋もれており、本来の路面が存在するのは中央の僅かな部分だけである。

路肩の外は即座に天然開渠直下の深い瀞(とろ)に落ちていて、道は本当に狭い所を通り抜けている。それとて最初から用意されていた土地ではなく、大正末に工事用軌道として初めて開鑿されてから、徐々に拡幅を繰り返し、どうにかここまで育てたものだろう。



地形図を見ると、シェッドの出口付近を小さな沢が横切っているのだが、どうやらこの大規模な“ワルさ”をやらかした犯人が、その沢だ。
見ての通り、瓦礫と一緒に大量の水がシェッドの屋根から垂れている。その一部は天井を突き破っで流れ込んでさえいるのである。

下は天然開渠、上は奔放なる沢の水。
このように上と下を流れる水に挟まれた道は、生まれた時から徹底的に壊される定めにあったといえる。
人も鋼鉄のシェッドを設けて抗いはしたが、やがて放棄されてしまえば、再び自然の猛威は本領を発揮して牙を剥いた。




隙間から外へ出た。そして再び振り返る。 そこにあったのは――

道路の酷い虐待現場。

もしもゲームのように、“道路の一生”に難易度設定があるとしたら、この道は間違いなく「Hardest」な生涯だった。

ここは、日本列島の中でも有数の険しさを誇る北アルプスを真っ正面から横断する、極めて例の少ない道路だ。
それゆえに、険しくとも大きな潜在的需要が存在しており、平成の今日では中部縦断自動車道という高規格道路さえ計画されている経路である。
いかに険しい地形に挑むとも、それに見合った交通量を支えるだけの登山道なら、通行するのは難しくとも、道の一生としては平凡である。
険しい地形を克服して、大きな交通を支える必要がある時にこそ、道の一生は、とても大きな痛みを伴うものとなるのである。

余りに酷い光景にうっかり忘れてしまいそうになるが、この場面は昭和53(1978)年という年まで、歴とした国道158号だったのである。
このレポートを目にしている人の中にも、案外に多くの通行体験者がいるのではないだろうか。




ステージ4最終関門 “天然開渠”


2008/7/2 15:55 《現在地》

先ほどから数枚の写真の進行方向上にちらちらと現れながら、敢えてレポートでは触れてこなかったが、天然開渠の先に架かっている橋は、現国道である。
すなわち、この厳しいステージ4のゴールである。

シェッドの地点でゴールまで残り150mに迫っており、そこを突破した今となっては、もう120〜30mばかりであった。

だが、しかし!

道が無ぇ!!





草色が目立つ廃道とは裏腹に、現在地の足元は、まさに“天然開渠”の核心!!
その水勢が最大となる回廊状峡谷の直上であった!
しゃれにならない。
一度は振り払った事故の恐怖が甦る。
一帯は、“さっき”と同じような、草によって転石が非常に見えにくくなった斜面である。
恐 い。
恐いのは恐いが、戻るのだってさほど楽ではないのだし、なにより「技術不足」でなく、恐怖心に遮られて進路を閉ざすというのは、私の本意じゃない!

しかも、相方は行く気のようだ。
既に突破してきた難所群と比較すれば、確かにまだ諦めるレベルの障害ではないだろう。(先がどうなっているのか、実際に行ってみないと分からない…)



距離的に考えて、これがステージ最後の関門となるはずだ。

さらばだ、名も知れぬ小さなシェッドよ! 我々は先に行くぞ。



先ほどの教訓と恐怖心のために、私はあまり路肩に近寄らないように、
この崩土の山の上に草が生えた起伏を進んでいたのだが、
それでも危険の方から積極的に魔手を伸ばしてきた。

草に隠されて見えにくい位置に、大きな穴が空いていた。
穴を覗くと、白い世界。 これは、

“天然開渠”直行の穴!

恐すぎる……!

まだだ! もっと高巻きしないと、安全じゃない!!

慌ててさらに高い所に上った後が、右の写真だ。

しかし、これだけ登っても油断はならない。
周囲は乾いたススキの枯葉と、見えない転石という、転倒罠のフルセット地帯だった。



もう嫌だな〜〜これ…。

この先、草が生えている所よりも不安定で流動性が高いとみられるガレ場を横断しなければならない。
幅は僅か3歩分くらいなのだが、渡った先もちょっと触れただけでガラガラと崩れだしそうな大岩が乱雑に折り重なっていて、先ほど私を殺しかけた転石を思い出させた。
もちろん、これを踏むなんていう馬鹿げたマネはしないが、その周囲を通過しなければならない。
ちょっとした振動でこれが動き出したら、どういう事が起こるか、完全には予想がつかなかった。
しかも、我々は二人とも自転車という、重くて体の自由を著しく奪う大荷物を抱えている状態だ。
咄嗟の動作が難しいのである。

ここばかりは教訓を棄てて、“下巻き”を考えもしたが……(→)

そこはツルツルの濡れた一枚岩が露出しているという、むしろ、露出していてくれて助かったレベルの“大罠”だった。 あの一枚岩が砂利にカムフラージュされていたら、先行した私は、容赦なく天然開渠に呑まれていた可能性があっただろう…。(地味にヤバかった)



難所横断中の相方を撮影。

この状況で、カメラを向けられてはにかむ余裕がある辺り…、

やはりこいつはただ者ではない!


そして、こんな写真を撮っている私と撮られている私である。当然ここを無事にクリアしたのである。

結局、一連の崩壊地はシェッドの先から間断なく50m以上続き、この間の道は写真のように、
完全に埋没して斜面の一部と化していた。踏破の難度は百間長屋付近に準じるものがあり、
加えて転落時のリスクは段違いである。大袈裟でなく、ほぼ死亡することになるだろうと思う。




突破 !!

したらば



16:25 《現在地》

即座に現道合流地点が待っていた!

これで、ステージ4も完全攻略達成である。(私は残機を1機失いかけた気もするが)
並んで現道に再び現れることが出来た我々の2台の愛車も、どこかホッとしている感じがした。

現道側から振り返る分岐地点は、もはや全く分岐の体を成していなかった。
そこに1.5〜2車線の国道があったとは、知ってる人でなければ思うまい。
そんな有様だから、通行止めのバリケードさえ無かったのである。

ちなみに、合流地点の脇にある現道の橋の名前も、上坂巻橋である。旧道の中間付近にあった橋と同じ名前だ。
そして橋の向こうに見えているのは、ありがたいありがたい、新坂巻トンネルだ。
(昭和53年から平成元年まで、国道は新坂巻トンネル→坂巻トンネルの順に通行するルートだった。名前の上で新旧の関係にあるトンネルを連続で潜る経路は珍しかっただろう)



このステージの最後の振り返りとして、

現道の上坂巻橋の上から眺めた、天然開渠と旧国道を撮した動画&写真をご覧頂こう。





……ここを、二人は仲良く自転車で超えた(笑)。


さあ、次は最後のステージだ。