道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯 第6回

公開日 2016.7.27
探索日 2008.7.02
所在地 長野県松本市

優雅なるコンクリートアーチ、旧坂巻橋


国道158号沢渡〜中ノ湯間の旧道探索も、残すは2つのステージだけとなり、これらのステージを越えた存在(いわばExステージ)として我々の最終攻略目標となっていた“釜トン”が、いよいよ近付いてきた。

終盤の第4、第5ステージは、いずれも1km以上あった過去3つのステージよりもだいぶ短く、それぞれ現道の新坂巻トンネル(昭和53(1978)年竣工、全長294m)と赤怒谷トンネル(昭和59(1984)年竣工、全長396m)に対応した500m前後の旧道である。

一連の旧道では既に十分過ぎるほどの危険を体験してきた我々にとって、この段階でも油断などというものはなかったと思うが、ただ、私の中に「完全踏破が出来そうだ」という気分は生まれていた。根底にあるのは、ここまで二人で越えてきた自負である。

だが、そんな気分を私が持ったことを今になって振り返れば、少しだけ可笑しくなる。
なにせ、私達は二人とも子猫のように知らなかった。
第4ステージの、地図からは計り知れない状”を!

一度も旧道の下調べをしていない我々にとっては、知らないのは無理のないことだった。
特に第4ステージのこちら側、坂巻温泉側の入口は、険しさとは真逆のむしろ“優美さ”の舞台であったから、勘違いも容易く起きた。



ステージ4の開幕を告げるのは、この驚くべき細身の橋 !!

この旧橋の存在は、隣にある現道の坂巻橋からもよく見える。この写真もそこから撮影したのである。
だが、見え易いかと問われれば、答えは微妙だ。
徒歩や自転車で坂巻橋を使えば確実に目にするはずだが、自動車だと気付かないことの方が多そうだ。
旧橋は現橋より少し低い位置に有るため、ある程度車高がある車で、かつ上り線(松本方面へ進行)の助手席側でないと見えにくいと思われる。
それに、トンネルとトンネルの間の橋の上でほぼ真横を向かないと見えないだろう。

基本的に一連の旧道群の遺構は、現道から見えにくいものが多いのだが、特に存在感が大きなこの橋でさえも、恵まれているとは言えない。

にしても、本当にスリムな橋だ。強度は大丈夫なのかと思ってしまうが、上高地にマイカー規制が敷かれる以前の「想像を絶するほどに激しかった」とされる観光シーズンの交通量を捌いていたのだから、決して弱くはないのだろう。



この橋の形式は、言わずと知れた、コンクリートアーチである。
だがこれ以上の事は、いち早くこの橋の存在に勘付き、ソワソワして落ち着かなくなっていたnagajis橋マニヤ先生に、ご講評を頂くとしよう。

ライズ比(※アーチの高さとスパンの比)が小さくて華奢になりがちなところですが、空隙の少ない欄干と充填スパンドレル(※アーチの側面に空洞が無いということ)が必要十分な安定感を補っていますね。お陰でこの怒濤も安心して渡れます。華麗なフォルムの中にも力学的な合理を秘めた、まさに構造美の結晶です。

さすがは上手くまとめてくれた。彼も橋もワンダホーである。

そして、私の興味は早くもこの橋の向こうへ先走りつつあったが、この橋はもう少し考究が必要である。
実は、見た目の他は分からない事が多いのだ。この橋。

まず、橋の正式な名前が分からない。
そして、竣工年も分からない。
これは現地で判明しなかっただけでなく、後日の机上調査を経ても未解明であるだけに、だいぶ根が深い。


これまでに行ったが本橋の由来を解明することが出来なかった机上調査の内容は、主に以下のようなものだ。

1.昭和23(1948)年の航空写真
昭和23(1948)年に米軍が撮影した航空写真に本橋が写っているかを確かめたが、WEBで公開されているものは画像不鮮明のため確認不可能だった。
2.歴代の旧版地形図
昭和5(1930)年や昭和43(1968)年の旧版地形図を比較検討したが、描写に正確性を欠き、確認出来なかった(詳しくは後述)。
3.橋梁史年表
土木学会が公開している「橋梁史年表」で、「梓川 and 安曇村」のキーワードを検索したが、本橋に該当すると思われるデータはなし。
4.文献調査
『峠の道路史』『安曇村誌』『釜トンネル 上高地の昭和史』『上高地開発史』などを調べたが、本橋に関する記述はなかった。

橋頭には、現道開通以降に生じたであろう微妙な段差とバリケードがあり、橋そのものは十分に利用に耐えそうな姿をしているにも拘わらず、全く通路としては利用されていない。

この美しさである。坂巻温泉のシンボルくらいにはなっていても良さそうだが、上高地へ行く人達にとっては上高地だけが“神”であり、そこへ行く道を支えてきたこの橋や先代の“釜トン”などには、興味がないのだろうか。
そんな愚痴が脳裏に浮かぶも、おそらくそんなことはなく、単に道路を管理する側が興味を持たせるための努力を怠ってきたか、それどころではないという結果だろう。(ここは現道でさえ頻繁に自然災害に見舞われる危険地帯だから、後者っぽいな)

ともかく、こんな風に橋頭を弄られてしまった結果なのかは分からないが、この左岸側には親柱が残っていない。
そのため橋名や竣工年を知る最大の手掛かりである銘板も存在しないのである。




2008/7/2 15:25〜15:40 《現在地》

我々は各々の愛車を担ぎ上げると、現道からは窺い知れなかった旧橋の路盤へと進入した。

橋の周囲は、梓川の“逆巻”く渓声が一瞬の隙間も無く鳴っている。
それだけでなく、狭い谷には常に強い風が通っていて、谷の冷気を集めたその風は、7月の午後にしてはとても涼しいものだった。
これまでの戦いで存分に体を火照らせた我々が、橋上でひと休みを過ごすのも必然であった。

我々はここで15分間の長休憩をとりつつ、橋の各部を観察したり、橋からの眺めなどを堪能した。
そして、名前も生年も分からない旧橋が語る言葉に、耳を傾けようとした。



全く存在しない左岸の親柱に対して、右岸の2本は、一応存在するといえばする。
だが、どういうワケかこちらも完全ではない。見ての通り、親柱の上部が(ちょうど欄干の高さで)取り払われたようになっていて、銘板はどこに取り付けられていたかさえ定かでない。
両側の親柱がこの有様だった。
結局、本橋には1枚も銘板が残っていない。

こうなると、状況証拠から橋の由来を考えることになるのだが、まず、コンクリートアーチというのは、昭和前半の特徴的な構造物である。
nagajis氏のお墨付きもある、これはまず間違いない事実であるが、昭和前半と言っても30年くらいの幅があり、さすがにこれだけで「分かった」とするのは悲しい。
(さらに踏み込めば、コンクリートアーチは昭和前半の中でも、昭和初期、昭和10年代が建造のピークだったようだ。)

となるとこの橋は、梓川渓谷に初めて機械力が投入され、初の車道が開削された、大正13(1924)年から昭和3(1928)年頃まで存在していた「発電工事用軌道」のものなのだろうか?

どうやら、そうでは無さそうだ。
というのも、これまた裏付けがある話ではないのだが、工事用軌道時代の“旧々道”ではないかと思われる遺構が、この旧橋の右岸橋頭に発見されたのである。
右写真の小さな片洞門が、「そうではないか」と私が考えているものである。



ここで予期せぬ旧々道を発見したとなれば、猛烈に興奮しながら我先に飛び込んでいきそうなものだし、実際にそうしたと思うのだが、踏み込んだ先の写真が1枚もない。

その理由は、踏み込んだところで、現道の巨大な橋台によって余りにあっけなく出鼻を挫かれてしまい、それ以上先へ進めなかったことと、おそらくは大正末期の数年を使われたに過ぎないだろう旧々道は、あまりに原形を失いすぎており、片洞門らしきものの他に撮影しても分かりそうな物がなかったせいである。

だが、実踏に代わっての目視ではあるが、その先のルートもだいたい判明した。
右の写真をご覧頂きたい。

現橋より下流の右岸に、石垣が残っていた!

この部分の旧道は左岸であり、ちょうど坂巻温泉の対岸辺りということになるが、梓川の水量が多すぎ、渡渉では近付く事は出来なさそうだ。
かといって、前後の岩壁沿いも著しく崩壊しており、歩くことはまず不可能だろう。
強いて言えば、右岸から河原沿いに石垣の下辺りまで行けそうだが、時間の都合もあって、この日もそれ以降も行っていない。


ぶっちゃけ、前後が崩れすぎていて、探索の実りが少なそうなんだよなー

リスクの割に……(苦笑)。



でも、もう少しだけこの「旧々道かもしれないもの」にお付き合いいただきたい。

推定される旧々道のルートは右図の通りである。
そしてこのルートを仮定するとき、懸案となっている旧坂巻橋の竣工年は、前回紹介した旧道の坂巻トンネルと同じ、昭和13(1938)年ではないかという説が浮上するのだ。

前回紹介した坂巻トンネル脇の吊橋を思い出して貰いたい。
あの橋の橋台は、吊橋よりも遙かに古そうな石垣だった。(→画像
また、吊橋を渡った先から見た坂巻トンネルは絶壁を穿っており、それを介さずに左岸を通行する事は出来そうにない。(→画像
そしてさらに、『道路トンネル大鑑』における坂巻トンネルの竣工年は、昭和13(1938)年である。
対して、同じ旧道にある山吹トンネルが昭和2年竣工だが、これは工事用軌道の廃止と同時に道路として認定され、そのタイミングで竣工年が記録された結果と推測される。
その理論なら、坂巻トンネルも同じ昭和2年竣工になりそうだが、そうなっていないということは、工事用軌道時代には坂巻トンネルが存在しなかったと考えられるのである。
(同じく工事用軌道に由来し、昭和2年に道路となった釜トンネルも昭和12年竣工と記録されているが、これは同年に車道としての大規模な改良工事が完成したためである。)

だいぶウダウダと書いてしまったが、以上の推論より、私は旧坂巻橋の完成時期は、昭和13(1938)年と考える。
しかもこの年は安房峠越えの車道が初めて開通し、当時の県道松本船津線の全線が開通した記念すべき年でもある。それに合わせて危険箇所を改良したのは、十分にありそうだと思う。



これで終われば、我ながら一本筋が通った仮説で文句ないところだったが、昭和5(1930)年の地形図にも既に坂巻トンネルらしきトンネルが描かれていることが判明してしまった!(困)

ただし、この昭和5年版地形図の地形の描写は、かなり大雑把である。
昭和43(1968)年の地形図にある坂巻温泉や隧道の位置が、実際に近い。
それゆえ、昭和5年の図で隧道の西に描かれている2本の橋が、現在の旧坂巻橋なのか別の橋なのかの区別がつかないという問題がある。
さらに言えば、昭和43年版も本来の位置に旧坂巻橋を描いておらず、だいぶ誤っている。

地形が険しい弊害なのか、当地の旧版地形図の正確性は総じて心許なく、これらをもって旧坂巻橋の竣工年を判断する材料とはしないでおこう。
ただ、坂巻トンネルが昭和13年以前から何らかの姿で存在した可能性は高い。

以上、この地の橋や隧道には謎が多いと言うことで勘弁な!収集がつかないので先へ進みます!!(誰か坂巻温泉に宿泊して聞き取りを願います)





大きな岩のある橋


15:40

旧坂巻橋を出発。
まずは右に梓川を感じながら、垂直に切り取られた法面下の道である。
旧道化から探索時点でちょうど30年が経過していたが、法面のコンクリート吹き付けが機能しており、落石はほとんど無い。
その一方で緑の侵蝕は如何ともしがたいようで、当初はぎりぎり2車線幅だっただろう道幅も、軽トラ1台分の鋪装を残すだけになっていた。
足元からは盛んな渓声、頭上からは緑が滴る、なんともマイナスイオンに満ちた道だ。

まずは、順調な滑り出しと言えた。




が、敢えなく“廃道然”としたものに、行く手を遮られた。

左からの落石と、右からの欠壊が同時に道を襲っている。
より深刻そうなのは、右の梓川による路盤略奪の方で、増水の度に壊されるようになると、路盤が完全に断絶してしまうのは遠くないかも知れない。
しかしとりあえずこの時点では、自転車を押すくらいで簡単に突破出来た。
まだまだ、このくらいは覚悟の上の序の口である。
どんと来いだ!




決壊地点以降は路上の緑がますます元気になったが、障害物はそれだけではなかった。

何か沢水を集めて溜めておく水槽のようなものが、路上に設けられていた。
もちろん、旧道化後に設置されたものだろうが、ここまでの路上をのたくっていたゴムのホースと関係がありそうだ。
坂巻温泉の引水施設だろうか。
いずれにせよ、もう今は使われていないようだ。

そしてその先、緑の奥に見えてきたのは……、橋だ!

橋があるぞ〜! 地形図で分かっていたこととはいえ、いったい今度はどんな橋だ?!




15:45 《現在地》

普通の橋でした〜!(笑)

前のようなアーチ橋ではなく、普通のコンクリート桁橋である。
だが、周囲の地形は相変わらず険しいものがあり、この橋の場所を少しでもずらして架けることは、相当大規模な工事をしないと出来そうにない。
逆に言えば、周囲にそのような痕跡がないこの橋は、昔からこの場所にあったものと推測出来た。

そしてこの橋には、待望の、親柱と銘板がちゃんと残っていた。
曰く、橋名は「上坂巻橋(かみさかまきはし)」。
これにより、先ほどの名称不明な旧橋の名は坂巻橋、ないし下坂巻橋であった可能性が極めて高くなった。

また竣工年は、「昭和参拾貳年参月竣工」(昭和32(1957)年3月)とあり、先ほどの旧坂巻橋と同年代とは思えない新しさだった。
欄干の造りなどから見ても、この橋と旧坂巻橋との間には、それなりの時間差がありそうだ。



左の写真は、橋の上から来た道を振り返って撮影したもの。
右の写真は、橋の上から眺めた、すぐ上流の対岸に聳える大岩である。これは何か命名されていても不思議ではない大岩盤だ。
そして、現在の国道が新坂巻トンネルで潜っているのは、この岩の中である。

このように梓川の両岸は決定的に垂直に切り立っていて、この道以外に道が存在した形跡はない。
あったとしたら、先ほどの旧旧道の石垣のように、何らかの痕跡があって然るべきでもある。

ということは、昭和32年に旧橋を廃止し、同一地点に現在の橋を架け替えた可能性が高いということだ。
旧橋は木造だったかもしれない。架け替え工事中は完全に通行止めになっただろうが、当時のこの道にとって、数ヶ月の閉鎖など珍しいことでは無かっただろう。



なんだこのデカい岩は!

いったいどこから現れたのか、一つで道を半分以上塞いでいやがる。
しかも、道の山側ではなく谷側を塞いでいるところが、お茶目じゃないか。
路上に達してからも、ごろりと一回転したんだろうか。
割れたり亀裂も入ってない、綺麗な一塊の大岩だった。
自分たちの上に降ってくるのはゴメンだが、そうでない限りは笑って許せる、愛嬌がある感じだ。

そんな見解で一致した私とnagajisさんは、既にちょっとヘンになり始めていたのかも。




上坂巻橋を渡って道は再び定位置と呼べる左岸へ。
基本的に現道も旧道も梓川の左岸にいることが多いのは、おそらく左岸が南向きの斜面なので、雪崩や残雪の事を考えて左岸に優先して道が付けられたものだろう。

今は自転車に跨がって進めるくらいまで路面の状況は改善しており、その保存状態の良さに呼応するように、久々の道路標識が現れた。
まず現れたのは、「注意幅員狭い」というヤツで、これを知っているかどうかで長野県の経験値が測れそうな代物だ。

というのも、私は厳密に確かめたわけではないが、この標識は長野県内で良く見る割に、他県ではまったく見たことがない。
ということは、道路交通法に定められた正式な標識ではないオリジナルの警戒標識なのだが、全県的に山がちで交通量に見合った道路の整備が遅れがちだった長野県にとって、どうしても追加で必要な標識だったのだと理解している。さすがに最近新たに建てられているのは見ない。
ちなみに、標識柱に「72長野県」と書かれているのは、1972(昭和47)年に設置されたことを示している。

これに続いて現れたのは、見馴れた最高速度の規制標識。
「時速30km」規制というのは、道路交通法に定められた中では最低の数字である。
それ自体が珍しいわけではないが、現役当時の厳しい道路事情を物語っていた。

なおこちらの標識は、支柱が折れて法面に寄りかかっていたのをわざわざ助け出して確認した。元に戻して置いたので、今もちゃんと残っていると思う。

といったところで、当ステージも入口から250mほど進行し、中間地点を通過したかと思われる。ここまではとても順調だ。



――などという素直な感想を抱くこと自体が、“フラグ”だったとでも言うのだろうか。


あああ…、白い。 世界が白い。(遠い目)

もう今まで何度このような展開を目にしてきただろう。
ご存知の通り、「白い」は廃道では悪。「黒い」の方がよほど優しい。


「…nagajisさん、ちょっと前方がヤバそうじゃないすかね…?」


「ウヒョヒョ」


「……。」




急死の危機


15:50 《現在地》

来やがった…!!

ステージ1の難関“雷岩”の再来っ?!

すっごいぞ、これ。

先の方の尋常でなく高い、コンクリートが吹き付けられた法面も凄いが、とりあえず目の前の瓦礫の山ッ!

まずはこれを越えないと!!



うわ、こいつ、

もう踏み込みやがった!!

ちょっと頭のねじがどっかぶっとんでんじゃねーか。
こいつも、この道を作ったヤツも…。
もちろん、私も続くぞ!!



踏み跡なんてありゃしない! 完全フリールートのガレ場斜面。中央を滝のように水が流れ落ちていた。

ここでも例によって自転車を担いだnagajis氏は、かなりの高巻きルートをとったが、自転車を担ぎ慣れない私は、
低いトラバースを選択した。(当時私が使っていた自転車は、フレームの形状とその重さから、とても担ぎにくかったのだ。)

私が選んだ低いトラバースは、足元のかなり近い位置に路肩があった。
路肩とは当然ながら道の“端”であり、その下は垂直に近い擁壁が約10m下の水面に直接落ちていた。
雷岩の時よりも、高さも流れの激しさも強い。当然ながら、滑り落ちたら洒落にならない。
自転車を小脇に挟み、前輪を地面から浮かせるようにしながら、慎重に歩みを進めた。
現在進行形で崩壊が進んでいる斜面のようで、転石がとても多いのが怖ろしかった。



カーブした流れの先、まだ現道は見えない! その代わり、 うわ〜…

雷岩以来となる金属製ロックシェッドが見えたッ!!


このステージ4は短いかも知れないが、めっちゃ濃厚だ!

これは、いよいよ全体のクライマックス的展開が来たっぽい!




15:52 (このガレ場に突入して2分後)

本来の路盤に折り重なっていた瓦礫の厚みが、だいぶ少なくなってきた。
盛り上がったガレ場の中央部を通過し、路盤の高さに下って行く段階に入っている。
次なる探索の地平…路盤が…、数メートル先に見えている。

下って行く、

…あと、数メートル。

……あと、


ぐらり あっ!!!




ザッパーーン!!

ゴーーーーーー…

ゴーーーーーー…

ゴーーーーーー…


耳に届く水音は、状況の理解が進むにつれて、もとの平常に戻った。

咄嗟に私は何も出来ていなかった。
ただ、その場で尻餅をついていた。
私の体は、なおも路肩より上、生あるものの世界にあった。
取り落とした自転車も、ひっくり返ってはいたが、まだ私の世界にあった。

この瞬間に起きた出来事とは、私が足を乗せていた巨大な岩(両足を揃えて乗っていられるくらいの大岩だ)が、次の一歩のために体重を移動させ始めたタイミングで突如動き始め、私がその場に尻餅をついたと同時に、岩は10m下の水面に墜落した。

そう頻繁にあってはならない、いや、オブローダーとして繰り返していたら命が無いレベルの“大失敗”であった。

難所の核心を越えたところで、草も茂っていたので、転石に対する少しの気の緩みがあった。
また、めんどくさがって高巻きを省いたことも、転倒時に私が出来る行動と生存可能性を減らしていた。
今回、私が大岩と共に10m下へ転落しなかったのは、たぶん、ただの運(Luck)だった。
尻餅をついた場所次第では、私か自転車、或いはその両方を、失うことになっていただろう。



……精進せねば。 (この出来事の後、より軽量で担ぎやすい形状の自転車を模索し、現在の愛車に至る)