道路レポート 国道485号 五箇トンネル旧道 第3回

所在地 島根県隠岐の島町
探索日 2014.05.22
公開日 2023.09.19

 初代「中山隧道」(明治隧道)を発見!!!


2014/5/22 6:54 (逸脱9分後) 

マジで驚いた!

事前情報を持たない旧旧隧道を発見したが、その存在自体は「期待していた通り」なのであって、決して予想外の発見に驚いた訳ではない。そうではなく、見つかった隧道の姿が、私を驚愕させたのである。
それも、先に見た旧中山隧道とは全く違った方向の驚きだ。近い場所にある一世代違いの隧道なのに、外見の印象は180度違っていた。

旧旧隧道が発見された現場は、旧隧道の東口から150mほど沢沿いを遡った谷の中だ。
大正元年の地形図に隧道が描かれていた、まさにその場所である。
標高はおおよそ200mで、旧隧道より15mくらい高いだろうか。峠の鞍部の直下であり、おそらくあと20mも上がれば鞍部かと思うが、周囲に峠へ上っていく道は見当らない。というか、ここへ至る旧旧道自体が、ほとんど道のようには見えない、ただの谷地であったように思う。



振り返って見ると、こういう景色だ。

背にした隧道の存在により、ここが道であったことは間違いなくなった。
そう分かってから見れば、なるほど右の切り立った崖も直前までそう信じていた自然地形ではなく、切通しの法面だったのだろう。

そして、ここに旧旧隧道があった以上は、旧道と旧旧道の分岐地点はやはり旧隧道直前の【この辺】にあったはずなのだが旧道側からは全くそれと気付けない状況になっていたのである。旧版地形図で事前に旧旧隧道の存在を察知していなければ、現地で偶然見つけ出す可能性は皆無だったと思う。




早く隧道の内部を見せろという声が聞こえて来そうだが、待って欲しい。
この隧道の驚くべき部分は、内部にもあるかも知れないが、今いるこの隧道東口の線形ほどの驚きは、多分ないだろう。そんな予想が立てられるくらい、珍しい坑口前の線形である。それをいまから説明したい。

この写真は、隧道発見の数秒前の風景だ。
改めて確認すると、チェンジ後の画像に赤線で示したような深い掘り割りが、坑口に向けて伸びている。古い法面が水に磨かれてとても滑らかに削られているために、坑口を見るまでは完全な自然地形と信じていた。正面奥には木々の幹越しに少しだけ稜線の空が見えている。



で、ここから切通しの行き止まりまで進むと…!



直角
即、道!!!



切通しの奥の正面の壁ではなく、

右の壁に隧道が掘られている!

こんなむちゃくちゃな坑口前線形、見たことがない!!

切通しが最後に少しでも右へカーブしていれば、そこまで変な線形じゃないんだろうが……。



また、坑口周囲の壁の様子も、大変に独特で印象的だ。
いくら100年以上昔の明治時代生まれだと考えられる隧道とはいえ、
人工感を全く感じさせない壁の滑らかさは、まるで水のないナメ滝のよう。
坑口はさながら、滝壺の裏に口を開ける隠しダンジョンの入口だ。
スイッチとかで水の流れを止めたからアクセスできるようになったりするヤツだ…。

しかも、坑口前の路面が堆積した土砂によって少しだけ高くなっているために、
岩場の底にぽっかりと口を開ける坑口を見下ろすようになっていることも、
遠目に坑口が見えない原因であり、隠し通路を見つけたような驚きがあった。




動画だとこんな具合だ。

やべえだろ? 伝わってくるだろ? ここに辿りついちまった俺の興奮が。

あと、動画だとよく分かるが、

隧道をメッチャ風が吹き抜けてきている!

嬉し恥ずかし、まだ見ぬ洞内の貫通は確定だ! やったぜ!!



それでは、お待たせしました……。



6:58 入洞!

ほぼ半円形の丸っこい坑口だ。
壁を伝って少量の水が洞内へ流れ込んでいる。
そして案の定、貫通している! 入洞と同時に出口が見えた。



入った直後に振り返り。

坑口前の直角折れは、振り返ってもやっぱり異様だ。
外を見たときに、正面の岩壁しか見えないじゃんか!(苦笑)
また、外の地面が高くて坑口が低いことも、滝壺の隠し洞窟感を増している。
自動車が通らなかった明治時代は、こんな無理矢理な線形が許されたんだなぁ…。
さすがに現代では考えられないよ…。



入口から10mほど進んだ。洞床に水が流れた痕があり、土も滞積しているが、泥濘んではいない。
特に壁が割れたり崩れたりしている場所はなさそうで、全体的に保存状況は凄く良いと思う。

断面の形も入口からは変化し、側壁は垂直で、天井付近が緩やかな欠円アーチ型だ。
全長は目測で50〜60mと見え、断面のサイズは幅3m×高さ3m程度だろうか。
小断面だが、明治時代の隧道としては良くあるスケール感だと思う。

そして、軽く耳鳴りがするほどの強い風がぶつかってくる。まるで風洞のよう。
この風の強さは、それだけ峠の頂上に近い隧道ということもあると思うが、
白く妙に明るく見える向こうの出口がどんな場所にあるのか、とても気になる。
なんというか、しばらく内陸にいて忘れていたが、海風のような迫力を感じる風だった。



そんな強い風に吹かれ続けているせいではないと思うが、天井が何というか、砂に描かれた風紋を思わせるような、独特の紋様と凹凸を顕わしていた。
触れると、さらさらとした手応えだが、砂岩よりは遙かに硬質で、黒い粒状のものが混じっている。そして色が青みを帯びている。その表面に微妙な波のような模様がある。

私も過去に訪れた素掘り隧道の壁を正確に記憶しているわけではないが、あまり見覚えのない風合だ。

素掘り隧道の壁は、地球内部の岩相に他ならない。
当然そこには、その土地の形成に関わる情報が、地表以上の純度で含まれている。
素掘り隧道を好んで調査している地理学者の話は聞かないが、きっと私のような素人は素通りする多数の発見があると思う。




私が洞内で目にした、あまり見覚えのない印象を持つ地層だが、もしかしたらそれは、いままでの私の活動範囲では目にすることがない、特殊な環境で形成されたものかも知れない。

右図は、この前日に島内の路上で見た案内看板から抜き出した島後の地質図だ。
この図に照らすと、今いる場所は、「約2000〜1800万年前の湖の地層と溶岩」という区分になっている。
島後は古い時期に活動した火山島だと聞いたことがあるので、「溶岩」は分かるとしても、「湖の地層」は何かと不思議に思ったのだが……、隠岐ユネスコ世界ジオパークのサイトにある隠岐の大地の成り立ちを見て納得した。

この「湖」というのは、日本列島がユーラシア大陸から分離する前段階に、いまの日本海が巨大な湖だった時代(2600万年前〜600万年前=第三紀後半)の湖底を指していたのだ。
日本海のような大きさの巨大な湖の深い湖底で作られた堆積岩が、600万年前くらい前に隆起を始め、さらに激しい火山活動によって島となって海上へ浮上してきた。そうして初めて人目に触れるようになった岩石を、私はこの明治の隧道で肌に感じたのかもしれない。

本州で良く目にする素掘り隧道の多くは、もっと遙かに新しい時代(第四紀)に、近海の浅い海底で堆積した砂岩や凝灰岩に掘ってある。それは、大概見慣れた風合だ。
一方で、漠然と見慣れなさを感じたこの隧道は、隠岐の地上や街角の風景よりも、島の成り立ちを含む地中の風景は、はるかに異国的であることを現わしていたのかも知れない。(なお、隠岐の地質的特徴は、日本列島よりも朝鮮半島に近いともいわれている)




とはいえ、最も触れやすい両側の側壁には、見慣れ過ぎた人類の手業が、これでもかと明瞭に刻まれている。ここが人類の誇らしい遺跡であることは隠されていない。

太古の地層に、現代の人間が噛みついた痕だ。(明治も「現代」としか言いようがないだろう。このスケールでは)
隧道そのものだって、ほんの少し大きな噛みつき痕に他ならない。
ここへ来るまでの旧旧道の道中や、滝壺のような坑口には、ほとんど人工の香りを感じなかったが、洞内はそうではなかった。刻まれた鑿(のみ)の痕の一つ一つが、人の作為をアピールしていた。




全長の中間付近に到達した。
隧道全体が、東口から西口へ向けて緩やかな下り勾配であるようで、水が通り抜けた痕の溝が出来ていた。洞床を埋める土砂の堆積はみな、東口からもたらされたものだろう。

一方で、天井や壁には崩れたような痕は全くなく、明治隧道としては稀に見る奇跡的な保存状態にある。地表から浅いのに、地下水が染みこんだ様子もなく、非常に緻密で堅牢な岩石であることが伺える。掘るときには堅くて苦労したと思うが、一度完成した隧道を保管するには最良に近い地質かも知れない。

チェンジ後の画像は、ひっかき傷のような縦のノミ痕が無数に刻まれた内壁の右側面から天井の様子。
地質は完全に均一ではなく、団塊(ノジュール)らしき茶色いものの断面が方々に見える。化石もあるかもな……。短い洞内だが、岩質は前半と後半で少し違うように思う。




さあ……、あっという間に、西口だ。




坑口が地上へ突出しているような印象を受ける外の眺めだ。

ここから、ビュウビュウと風が吹き込んでいる。

東口の“谷底感”満載の眺めとは、180度正反対の印象と言って良い。

雑然と緑が濃いので、こちら側も“廃”世界の住人なのは間違いないと思うが…。



脱出!




7:01

なんだここは。

空が近いのに、緑が非常に濃い。薄暗いのは天気が怪しいせいだ。
正面に立ち木が見えないので、すぐ先が崖なんだろうな。
そして、道はこの坑口前で90度右へ折れているらしい。
こっちも90度カーブかよッ!
て、これはツッコんで良いところだ。はっきり言ってヒドい線形である。



あ、きたきた。GPSの測位来た。

(←)現在地は、ここだ。

いままで敢えて言及しなかったが、最新の地理院地図には、隧道西口付近を通過する1本の道路が描かれている。
その正体は今のところ不明だが、隧道西口はその道路の同一平面上にあって、丁字路で接続している可能性があると、事前には考えていた。

まあその場合、隧道は容易く発見・報告されていそうなので、そうなっていないことは不思議だったが、どうやら、道路と隧道には落差があるようだ。そのために道路からは隧道は見えないのだろう。藪も濃いようだし。

現に現地の私も今のところ、まだその道路というものを見ることが出来ていない。地形図にはっきり描かれている道路だから、目立つと思うのだが…。




多分この先は崖だろうなというところにあるヤブの向こう側は、ヤブが高すぎて見通せない。
ただ、数キロ先に低い山並みが横たわっているのがわずかに見える。
今いる場所は、島の中央分水嶺の中では最も低い鞍部だが、それでも200mほどの高さがあり、それなりに見晴らしは効くはずだ。ヤブさえなければ、島の周りの海を見通せるはずだった。

あとはこの目前の激藪をどうにかして、地形図ではすぐ間近に描かれている道路へ“着陸”する(多分ここより下にあるはずなので)ことを目指したいが、その前に忘れず……

振り返らねが!





格好いいなオイ!

【隠しキャラみたいな東口】とは一転して、堂々たる岩門の威容を持っている。

短い隧道と低い峠だけど、両側の坑口の印象の違いが物凄い! まるで別世界。



東口が円であり柔であるなら、この西口は角であり剛だ。

想像を遙かに超えて険しい地形だ。垂直に切り立つ岩の壁に隧道は口を開けている。
(地形図は確かに険しい地形を描いているが、それは道路の法面だと思っていた)

本当はもっと引いたアングルで全体を撮りたいが、地形とヤブが許さない。これ以上は引けないのである。




それはそうとして……

なんか違和感がある。

みんなも感じない? 違和感。



(←)たとえばここ。

坑門に向かって左側の岩壁の一画に、何か手を加えた痕がある。

岩の表面に垂直な線が引いてあったり、さらにその線で区切られた一画が、まるで試すように少しだけ掘られていたりする。

最初は、扁額のような何かの痕跡はないか。岩の表面に文字が刻まれているのではないかと思ったが、どうもそんな感じではないのである。


そしてここも(→)。

これは坑門向かって右側の岩壁だが、なんというか、不自然な壊れ方をしている気がする。

非常に密な鑿の痕で覆われているのは内壁だが、坑門前面の岩壁と内壁面が接する“岩角”の部分が、全て欠けているのである。

自然に破損したということは考えられるが、前述した左側の壁のように何らかの加工を施そうとした名残りではないかという疑いを持った。

そして、この坑門の左右の壁に感じた違和感は、次の写真に写るものを見た時に、決定的に、ある一つの、果たされなかった仕事へと収斂した。




これは坑門上部の岩面を撮影した。

謎の削孔が、直線上…… いや、
絶妙なアーチ曲線上に並んでいる!

…………間違いねぇ…

“これら”が意味することは……





未完に終わった、隧道の拡張工事跡だろう!

残念ながら確証はないものの、確度が高い説として、未成拡張工事説を推したい。

明治時代に誕生したこの初代中山隧道だが、2代目の隧道が昭和初期に建設されるまでのどこかの時点で、
断面をひとまわり拡幅することが計画され、この東口では実際に拡張分の掘削に取りかかったのではないだろうか。
だが、どのような事情からか、その工事は着工から間もなく中止されたとみられるのだ。

未成隧道とは異なるが、明治や大正時代の古い隧道の未成に終わった工事の跡が、
こうして明確な形をもって確認出来るのは、非常に珍しいケースと思う。
それも、こんなはじめの一歩目くらいのところで頓挫しているのは、
地質によっては全く気付けない程度の跡しか残さないと思うが、
ここの地質が良く、些細や歴史の“機微”を、永久に保存してしまったのである。

たのしいなぁ!