道路レポート 国道485号 五箇トンネル旧道 第1回

所在地 島根県隠岐の島町
探索日 2014.05.22
公開日 2023.09.15


島根半島から北へ40kmから80km離れた日本海上の広い範囲に点在する180あまりの島々よりなる隠岐諸島の主島、島後(どうご)は、日本の離島で14番目に広い(沖縄本島を除外した順位。また、北方領土に属する島々を除いた場合は11位となる)大きな島だ。出入りの多い海岸線に囲まれているが、大略すれば円形の島で、平均の直径は18km内外である。島内は非常に起伏に富んでおり、平野部はごく少ない。また島の全域が島根県隠岐郡隠岐の島町に属し、人口は約13000人を数える。

島後を南北に貫通する形で一般国道485号(隠岐の島町〜松江市)が指定されている。島後は数少ない国道を有する離島である。
島後における国道485号のうち、島の中心市街地であり役場やフェリーターミナルもある西郷(さいごう)から、中央分水嶺を越えて北部の中心地である北方(きたがた)付近の郡(こおり)に至る区間は、明治期以前からの長い歴史を有する島の大動脈である。

この伝統ある峠の名を中山越というが、現在の地図にその名を知る手掛かりはなく、全長699mの五箇トンネルが峠の下を貫いている。
五箇という名は、平成16(2004)年に合併して隠岐の島町になるまで峠の北側を占めた五箇村(ごかむら)に由来している。

今回、隠岐での“島行が”レポート第2弾として(第1弾はこれ取り上げるのは、国道485号五箇トンネルの旧道にあたる、中山越の道である。
ただし、旧道に国道485号だった時期はない。



@
地理院地図(現在)
A
昭和47(1972)年
B
大正元(1912)年

探索に先駆けて隠岐諸島全域の旧版地形図を入手し、地図に描かれた道路の変遷を確認した。
その成果として、中山越ではこれまで少なくとも2度のルート変更があったことが読み取れた。

@は最新の地理院地図である。
峠部分は五箇トンネルによって結ばれていて、北側には一部旧道らしい道形があるが、南側には見当らない。

Aは昭和47(1972)年版で、「中山トンネル」の注記を持つ短いトンネルで峠を貫いていることが分かる。このトンネルは@には影も形も消えており、廃隧道と化している可能性が高い。探索のターゲットである。

だが、探索の対象はこれではない。
次に現地を描いた最も古い地形図を紹介する。

Bは大正元(1912)年版である。
峠がちょうど2枚の地形図の境界にあたっていて、画像のように切り出して繋ぎ合わせないと非常に見辛いが、Aよりもさらに短い隧道が頑張っている! これは明らかにAとは異なる隧道と思われた。

というわけで、歴代の地形図のチェックから、この場所(中山越)では、少なくとも3世代のトンネルが活躍している。
現在のトンネルは「五箇トンネル」、先代は「中山トンネル」。ここまでは地図の注記から分かるが、Bにある先々代とみられるトンネルには注記がないので、「初代・中山隧道」と仮称したい。

このように3世代以上のトンネルが掘られた峠は、全国的に見ても、それほどありふれた存在ではない。
離島という本土に比べて何かと制約が多い立地であることも考えれば、この島における中山越の伝統的な重要性の高さが窺い知れるというものだ。


資料名(データ年)隧道名路線名竣功年全長高さ
平成16年度道路施設現況調査
(2004年)
五箇トンネル一般国道485号昭和59(1984)年699m7.5m4.5m
道路トンネル大鑑
(1967年)
中山隧道(主)西郷五箇中村線明治35(1902)年151.2m3.5m3.5m

続いて、これまたお馴染みの手順として、『道路トンネル大鑑』と『平成16年度道路施設現況調査』という新旧2世代の「トンネルリスト」をチェックしてみたところ、右図のようなデータが明らかとなった。

これにより、現在の五箇トンネルが昭和59(1984)年に竣工していることがまず分かる。なお、国道485号は平成5年の指定なので、開通時点ではまだ国道ではない。

そして、先代の中山隧道とみられる『大鑑』のデータには、驚きがあった。
竣工年、なんと、明治35(1902)年?!

………おそらくだけど、これって初代のデータと、2代目のデータが、ごっちゃになっていると思う。
この『大鑑』のデータは、基本的には先ほどの地形図Aに登場していた2代目隧道のものだと思う。特に長さとか、路線名とかは、間違いないだろう。
一方、地形図Bに描かれていた初代の隧道は確かに明治生まれだと思うが、それが明治35(1902)年生まれなのかもしれない。

『大鑑』のデータに違和感はあったが、この資料には誤りも良くあるので、とりあえず現地探索へ行ってみよう。
どうせ私が島後へ行けば、この峠を越えないという選択肢はないのである。
“山行が”でも珍しい、離島の国道探索へ、いざ出発!!


隠岐……明治35年………………

最近山行がに登場した、明治36年に八丈島島司へと転任した人物は、たしか隠岐島司からの転任だったような……。 まさか……。




 島後を貫く国道をゆく


2014/5/22 5:14 《現在地》

おはようございます。
まだ早朝だが、1時間ほど前に西郷市街地内の秘密の寝床で目覚めた私は、カップ麺を食ってすぐに自転車へ跨がった。今日は隠岐での探索2日目で、明日から島前へ移動する予定なので、島後は今日が最後となる。

そんな今日の一発目のターゲットが、島の中央にある国道485号中山越の旧道探索だった。
日本の道路網における「東京日本橋」の立ち位置にある西郷の街を外れ、「国道1号」に相当する国道485号を、島の中央分水嶺である中山越の麓まで行くのがいまの行程だ。

写真は、島の内陸部における主要道路のツートップである国道485号と県道316号の交差点で撮影した。何の変哲もない青看であり、表示内容にも違和感はないが、離島には青看自体が見当らないような小島も多く、ましてや国道の“おにぎり”があるというのは非常に希少である。それらを噛みしめたいと思うくらい、新鮮な気持ちで昨日出会ったばかりの“隠岐の国道”に臨んでいる。



離島国道。
そんな単語からは、本土以上に山がちで険悪で狭隘な“酷道”をイメージする人もいるかも知れないが、国道485号にそのような劣った現道は存在しない。
また、全体に山がちで数字以上の広さを感じさせる島後にあって、国道485号の西郷〜五箇間は、例外的に穏やかな川べりをゆく省エネルートである。唯一の険阻だった峠部分が五箇トンネルによって短絡されたことで、いよいよ快走路として完成の域に達している。

中山越へ向けて真杉川沿いの沖積地を行くこの国道の風景は、たかだか直径20kmに満たない孤島にいることを忘れさせるような“里山感”に満ちている。
同じくらいの大きさの島であっても、もっとシンプルに最高峰が中央に聳えて周囲が裾野だけの地形であったなら、こういう奥行きは感じられない。島後や佐渡、あるいは淡路島などは、単純に島が大きいということはもちろんであるが、それ以上に地形の複雑さや多彩さから、本土にいるような感覚を受ける島々だと思う。あとこれらの島々は、気候的な面からもなじみ深い平凡な里山風景を共有している。



5:55 《現在地》

西郷の港町から9kmばかり国道を北上すると、さすがに周りは山ばかりの景色となり、自転車の漕ぎ足に負荷を感じられるくらいの上り勾配がダラダラ続くようになる。傍らの真杉川もすっかり渓流の色を帯びている。
ここからが峠道だという明確な境界を意識させないまま、気付けば中山越は始まっていた。
そして、峠の向こう側を指し示す「五箇 6km」の青看が現れるのと同時に、本日最初のトンネルが見えてきた。

このトンネルは「日の津トンネル」という名前で、平成9(1997)年に完成した。全長は226m。国道昇格後に作られたトンネルである。
というわけで、当然ここには――




――旧道がある。

この旧道、出入口に簡単なバリケードが置かれているが、自転車なら乗車のまま立ち入れてしまう。
軽い前哨戦の気分で突入した。


旧道に入ると間もなく真杉川を渡る橋を渡る。
高欄はガードレールだが四隅に親柱があり、白御影石の銘板が取り付けられていた。
曰く、「日の津橋」であり、「昭和四十一年三月竣工」だそうだ。

ちょうど『大鑑』に中山隧道のデータが採録された時期の竣工であるために、当時の路線名は「主要地方道西郷五箇中村線」と推測出来る。
いまは国道を持っている離島も、昔はそうではなかった。佐渡や隠岐は戦後に初めて国道を手にした島々だ。中でも隠岐はこれまでのところ最も遅く平成になって国道を手に入れた離島である。
というわけで、国道になる以前の隠岐の幹線道路がどのようなものであったかを見られることも、今回の旧道探索のポイントだ。



うおぉおお…… なんか綺麗だ。

周りは植林されたスギ林で、変わった景色ではない。
その中を道路は直線的に上っていく。
舗装はされているが、路面全体に満遍なく均一に落葉がトッピングされており、それが独特の印象を生んでいる。掃き清められてはいないが、清浄な参道を思わせる神々しさがある。
なお、道幅はぎりぎり2車線分くらいあるが、センターラインが見当らないので、1.5車線運用をされていたようである。




旧道は650mほどの長さがあるが、自転車を降りなければ通れないような荒れはまだなく、最後また簡単なバリケードを越えて現道へ合流した。
前哨戦というほど戦いでもない、足慣らし程度の気軽な旧道だった。

チェンジ後の画像は、現道へ戻って前進を再開した直後の道路風景。
直線的な登りの先に、峠の稜線が見えてきている。
傍らには、平成生まれにしてはずいぶんと傷んでしまった風合の“おにぎり”だ。




6:05 《現在地》

来た。

思わず衿を正したくなる、シャンとした峠前の空気だ。

最新の地理院地図から完全に抹消されているはずの旧道が、

なぜか封鎖もされず、堂々と口を開けている。


隠岐の道路の深い処を、見にいこう。




 地理院地図から抹消された旧道


2014/5/22 6:16 《現在地》

島の玄関口西郷港から、国道485号を真杉川沿いに北上すること約9.3km、海抜130mの地で、五箇トンネルの南口が現れた。
国道はここをピークに下りへ転じる。下りながら、峠のトンネルを潜るのである。

五箇トンネルの全長は699mで、昭和59(1984)年の完成当時は隠岐で最も長いトンネルだった。先代のトンネルより70m低い位置に掘られた本トンネルの完成によって、島を南北に二分してきた中山越(なかやまごし)の険難は除去され、先代のトンネルには冠されていた中山という峠の名を新トンネルは継承しなかったため、歴史ある峠の名は急速に存在感を失いつつある。




そんな峠を愛惜するオブローダーが進むべき旧道は、ここにある。

最新の地理院地図からはすっかり抹消されている旧道だが、意外なことに封鎖や通行止は、予告も含めて見当らない。
大手を振ってお進みなされという管理者からのメッセージと捉えたが、しかし路上は初っ端から草と落葉の色に染まっており、さっそく覚悟を試されているかのようだ。

中山越の旧道探索、スタート!



舗装があるのに、めっちゃ緑だ。

隠岐諸島の年間降水量は日本の全国平均と同程度だが、対馬暖流が近くを流れているために同程度の緯度を持つ福井市あたりと比べてもかなり温暖であるらしく、相対的に植物が育ちやすい環境なのかも知れない。舗装された路面の全体にここまで草が根付いているのは、交通量が少ないことは当然としても、環境の影響も大きいと思う。

だが、ずっと緑の道が続くかと思えば、そうはならず……




6:18 《現在地》

激しい緑の侵略に立ち向かう、舗装の残るコンクリート橋が現れた。
橋のような構造物があると、本来の道幅がよく分かる。センターラインはないが、ギリギリ2車線分の幅があったようだ。
渡っているのは真杉川の源流と思われるが、橋名や竣工年を調べるべく、親柱を隠してしまった草を手で退かして銘板にありつく。
そこには、少しばかり予想外な、 ドキッ とさせられる橋名があった。




地獄谷橋。


しれっと、強烈な名前をお出しされた。

地獄谷って……、好んで名付けるような地名ではないので、何かがあったんだろう。

ただ、それを知る手掛かりが周囲に全く見当らないので余計に不気味だ。

(山行がで地獄が付く地名と言えば、忘れがたいのが「地獄峠」。あの道はマジで地獄の責め苦だったな。)



少なくとも風景の中には「地獄」を感じさせる要素のない、地獄谷橋の眺め。
地獄が付く地名に良く見られるのは温泉だが、そういった感じもしないし、全く別の由来があるのだろうか。

あと、親柱は4本あり、うち2本の銘板に「地獄谷橋」、残り2本の銘板には、「昭和37年3月」という竣工年が漢数字で書かれていた。
年代的に、これが初代の橋ではないことは明らかだ。




これが、おそらく地獄谷と呼ばれている、橋の下を流れる川の様子。
険しいという感じもないし、地獄感はない。
こんなにおどろおどろしい要素がないのに、へらっと地獄谷橋を名乗ってくるところが、逆に都市伝説めいた理不尽さがあって不気味な気もする。
まあ、オカルトというよりは、「どうして?」っていう困惑だ。

そして、やはりあった。
先代の「地獄谷橋」のものと見られる一対の橋台跡が。
すぐ上流の両岸に、苔生した空積みの石壁が残っていた。注意して見ないと地形と見分けが付かないほど、風化が進んでいる。

チェンジ後の画像は、向かって右側、すなわち左岸側の橋台石垣だ。
この橋台、自動車が通行出来るか疑わしい狭さだが、いまの橋の先代ではなく2世代以上前のものという可能性もある。なんとなく、明治ぐらい古いもののような気がした。



「地獄谷」を渡ったが、幸いにして生前の世界にまだいる。

まあ、道の方はもうすっかり身罷っておられる様子だが……。
舗装はよく見えるものの、明らかに最序盤より廃道感が強まった道は、峠の稜線を正面に見据える広い空間へと飛び出した。
ガードレールの向こうには大きな凹地の存在が伺える。

覗き込んでみると……




現国道の巨大な掘り割りと、大口を開ける五箇トンネルがあった。

現道は、トンネルへ入る前から向こう側に向けて下り始めている。これから峠へ向けて上っていかねばならない旧道との対比が強い。
この地点を最後に、行き交う車の音も聞こえなくなり、未知の離島の山の中で道といよいよ二人きり。




廃道だー!!!

今さら遅い現状把握だ。

結局のところ、封鎖や通行規制に関する一切を見ないまま、道は自然とこうなった。

この管理のユルさが、離島っぽい。

圧倒的に地元民の利用者が多い離島では、旧道なんてわざわざ塞がなくても、間違って入ってしまう心配はないんだろう。たぶん。




6:25 《現在地》

完全廃道だ。

猫の顔より見た、廃道風景。

最初のうちは雑草が五月蠅いだけだったが、多数の倒木が行く手を遮る状況となって、自転車が急に面倒くさくなってきた。
まあそれでも、この旧道自体が大した距離はないはずなので、障害物の都度、自転車を持ち上げたり、担ぎ上げたりして、前進を続けた。

ただ心配なのは、峠の旧トンネルが通り抜けられるか分からないことだ。
もし抜けられないと、自転車は最終的に、「邪魔でしたね」という不幸な扱いで終わるだろう。
まあ、それも含めて、よくある展開なんだけど……。



ごめん。
ちょっと写真が下手でした。
路肩が大きく崩壊しているところを見て欲しくて撮影したのだが、ピントがめっちゃ自転車だ(苦笑)。自転車どれだけアピールするんだよ。山行が黎明期かよ。

倒木があるくらいなら、重機で退かせば元通りの気楽さがあるが、このように路体が喪失しているとなると、もう簡単には直せない。
こうなると、地理院地図から道の表記が抹消されているのも、行政側が既に正式に廃道の手続きを終えているためだと考えるのが妥当だろう。
(それでも封鎖されていないのが愉快だが)




舗装があるのに、めっちゃ緑だ。 Part 2.

マジで完全舗装だから!!

嘘じゃないから!

でもこのフカフカ路面は、はっきり言ってかなり邪魔だ。
高級な絨毯の上を走っているみたい(想像)にタイヤが取られるし、結構な上り坂であることと合わせて、ペダルが重くて仕方がない。
気温は涼しいんだけど、汗がダラダラ垂れてきた。押した方が楽なのは分かってるけど、なんか悔しいじゃん……。

それからまた、倒木を潜ったり、跨いだり、藻掻いたりして、

――5分後。




覚悟は出来たか?




6:35 《現在地》

うふォっ

ゾクゾクゾクゾクッ…




なにこれメッチャ幸せ空間。

中山隧道、すごい妖艶な美人さんだった…。