2018/4/26 8:26 《現在地》
ここで、レポートは時間も場所も、少し飛ぶ。
“今”は、前回最後のシーンから2時間35分後、場所は、弁慶トンネル南口脇の旧道分岐地点である。
さっきまで北口から探索していた弁慶トンネル旧道の反対側入口に来ているのである。
なぜレポートが飛んだかといえば、前回最後のシーンの直後、検討の結果、私はバリケードを突破せず大人しく引き返したからだ。
そしていま、改めてやり残しとなったこの区間を、やっつけに来た。
自転車での突破を、反対方向から狙う。
上の写真の奥に見えているバリケードへやってきた。
幸い、こっちはユルユルだ。山側に隙間があって、簡単にすり抜けられた。
また、こちら側には遊歩道らしさがまるでない。
これからはっきりするだろうが、旧道化後に遊歩道として整備されたのは、北口の駐車場から傘岩までだけだったのかもしれない。
ゲートイン!
ゲートを越えると、漁具やら流木やらが路肩にいくつもの山となって積み上げられていた。
旧道はゆる〜い物置き場として使われているようで、ますます遊歩道なんてありそうにない。
そんな道を200mほど進むと、コンクリートブロックが道を中途半端に塞いでいた。
ブロックの数からして、一度は完全に塞いだものを、あとからいくつか退かして通れるようにしたようだった。
何のために? それは分からない。
第2のバリケードを過ぎると、今度こそ、ただの廃道になった。
平成19年というかなり最近まで、北海道西海岸の幹線道路として多くの車が行き交っていた国道も、いまは神妙に静まりかえっていて、しかも廃止直前はあまり路面の手入れが念入りではなかったのか、消えかけたセンターラインが侘しさに拍車をかけていた。
これまで見た他の区間の旧道は、ガードレールの支柱も取り払われていたと思うが、ここにはそのまま残っていて、これまで各地で見飽きるほど見てきた平凡な海岸の旧道と変わらなかった。
だがこの景色には、一つだけ、珍妙なものが写っている。
お気づきかな?
まだ少し遠いのだが、自転車の力を借りれば、あっという間に近づいた。
ちょこなん。
こいつの名前、当ててやろうか。
傘岩だろ。
絶対に傘岩だ。うん。
8:31 《現在地》
旧道の南口から約700mの地点に、この奇妙な形の岩はあった。
キノコのような形の石。柄があって、傘があって、“きのこの山”みたいな形である。
旧道は山裾と礫浜の境目を通っていて、道より海側に、道より高いものはない。
ただ一つの例外が、この細い岩だ。孤立してちょこんと立っているので、300mも手前から見えていた。
岩質としては、この辺りでは多くみるゴツゴツとした礫混じりの火山岩だが、一つだけ起立しているのは奇妙だ。
立地だけ見れば、旧道を作る時に、切り通しによって山から切り離されてた離れ小島的なものにも見えるが、
岩の山側も普通に風化しているようだし、そもそもそんな由来のものなら、少々変わった形であっても、
わざわざ遊歩道や案内板が設置されるような“名所”たり得まい。
奇妙な岩を通り過ぎたすぐ先に、へし折れた案内標識が倒れていた。
「傘岩」
やっぱりこいつが傘岩だった。
出発時に見た案内板に、傘岩の名前の由来は、昔の旅人が雨宿りをしたからだと書いていたが、基本的にこういうのは眉唾か、形ありきの牽強付会の説だろうと疑っていた。
だが、こうして岩がポツンと佇んでいる海岸線を広く眺めてみると、風雨を遮るものが何もないこんなゴロタの浜で、突然の時雨に遭遇した旅人が岩の根に寄り添うことは、不自然ではないと思った。
写真は、この位置から眺めた法面上の風景だ。
絶壁の険しさはないが、相変わらず威圧的な高度感で、雷電山道を頂く稜線を峻立させていた。
こんな雄大なものが周囲にいくらでも溢れているのに、他愛もない岩に与えられた名前が、集落の名を差し置いてまで残っている。
確かに変わった形はしているが、こんな形の岩、その辺の岩陰にも無数に隠れているだろう。
人の等身大の親しみと、彼らが実際に助けられたという経験が、小さな地名を強固にさせて、今に残ったかと思う。
もっとも、今のような荒涼と寂寞がそのまま風景になったような状況は、海岸道が盛んに“歩かれていた”(走られていた、ではないことに注意)時代には、違っていた可能性が高い。
この辺りの海岸線、前後を挟み込んでいるビンノ岬や刀掛岬と比べれば遙かに穏やかとはいえ、ほとんど後背の平地を持たない、もし人が住みつくとしても、波飛沫を避けるだけでも大変と思うような地形なのだが、ニシン漁繁栄の末期に近い大正6(1917)年の地形図を見る限り、ここにはウエントマリの集落が、1km以上にわたって細長く海岸に連なっており、傘岩も集落の家並みの中にあったようなのだ。
当時の繁栄を知る人にとっては、この浜にポツンと佇む傘岩は、やはり寂しさの象徴といえるかもしれない。
雷電海岸の絵葉書より
今回、岩内町郷土館よりご提供いただいた絵葉書の公開許可が得られたので掲載したい。
発行年は分からないが、雷電道路(=旧国道)の開通間もない頃、雷電海岸が新名所として盛んに売り出されていた当時のものである。
雷電海岸を描いた絵葉書の1枚に、この傘岩を題材にしたものがあった。
半世紀は昔であるはずだが、現状と比較しても、岩の形は驚くほど変わっていない。
見た目の印象以上に、風化には強い性質を持っているようだ。
端っこに写っている道路の様子も、既に舗装されており、今とさほど変わっていないように見えるが、残念ながら、これからはどんどん変わってしまうだろう。
傘岩が人目を支えにしてきたなどというのは非科学的だが、大勢の目に晒されなくなった名所が、とたんに張合いを失って損なわれることが、現実にあると私は思うし、心配だ。
しんみりしたのに、傘岩を離れた途端に変なものを見せられた。
唐突に現われた、3回目のバリケード。
扉のない、再開通の意思を感じさせない、閉ざされたフェンスだ。
その点で、これまで見たバリケードよりも厳重。造り自体は厳重ではないが。
面白いのは、バリケードの先の道がセパレートされていること。
2車線幅のセンターライン辺りに、思いっきり頑丈そうな落石防止柵が増設されて、道が二分されていた。
二分された海側には新たな路面が施工され、それはまさしく、見覚えのある遊歩道の姿だった。
一方の山側は、放置されていた。旧国道の法面を残したまま。
私は思った。
遊歩道が、傘岩へ辿り着けずに終わっていたことの虚しさを。
あと50m延長できれば傘岩だったのに。
なぜそれをせず、整備を中止し、フェンスを閉ざしたか。
海側と、山側、どちらをワルするか。
フェンスの高さや作りはどっちも変わらないのだが、後のことを考えると、ここは山側一択だった。
というか、ここで山側を選ばないと、一旦引き返した決断の意味がなくなる。
このアングルで見ると、遊歩道としての整備が本当に唐突に終わっているのが、路面の状態からもよく分かる。
ガードロープだけは、旧道時代のまま何も変わっていないが…。
ほんと、なんでここで……?
山側旧道の末端から振り返ると、傘岩が50mほど先に見えた。
この“遊歩道”、【入口の案内板】に「 ↑遊歩道 徒歩450m先
」なんて書いてあったのだが、実際には400mくらいのところで、目の前のフェンスに閉ざされていた。
だから遊歩者は、50mの遠望によって傘岩を眺めることをゴールとしなければならなかったのである。 なんとも虚しいではないか。
……というならば、まだしもなのだ。
現状はさらに悪くて、全く傘岩なんて見えもしない位置に、遊歩道は唐突の終わりを迎えているのである。
そのことを、私はこの探索の前半で【見せつけ】られている。
旧道になった時点でお役御免と思われたのに、傘岩のおかげで、遊歩道としての余生を授かったと思いきや、
何のトラブルがあったのか、結局こうして形だけ作られて、使われていない遊歩道の虚しいことよ。
目に見えて災害が起きているとかならば納得できるのだが、そんな様子も全くない。綺麗なものだ。
新旧の落石防止ネットに挟まれた、動物園の檻の中みたいな旧道敷きは、
この奇妙な出来事の目撃者だったはずだが、何も語ってはくれなかった。
8:37 《現在地》
細長い檻の中を150mほど進むと、呆気なく見覚えのある場所が見えてきた。
この1km強の旧道にある4度目の封鎖であり、一度引き換えした場所……。
8:40
前半に書いたとおり、このフェンスはかなり手強い。
正面から、自転車同伴で無理矢理突破しようとすると、高過ぎるフェンスはバランスが悪くて危険だ。そのうえ、フェンスをぶち壊してしまいかねない恐れもあった。
そのために、こうして反対側から、しかもセパレートされた山側の旧道から、再挑戦したのだ。
このことのメリットは、地形を活用できる点であって……、それでも自転車を分解する必要があったし、手間取ったが……、というかそもそも、そこまでして突破しなくても良いんじゃないかという合理的な考え方もあったわけだが、今回は完全踏破を目指したい気持ちから策を弄して、逆方向からの探索を決行した。
ともかくこれで、簡単そうに見えたのに自然以外の理由から意外に手こずった、弁慶トンネル旧道約1100m、完全踏破達成!
次に紹介するのは、『北海道新聞』平成20(2008)年3月18日朝刊に掲載された、弁慶トンネルの開通を伝える記事だが、傘岩へ通じる遊歩道のことが出ていた(下線部)。
弁慶トンネルあす開通*傘岩観賞*来春までお預け*岩内
小樽開建が町内敷島内の国道229号で建設を進めてきた「弁慶トンネル」が十九日午前十一時に開通する。切り替えに伴い現在の国道の一部は閉鎖されるが、沿岸には観光名所の奇岩「傘岩」がある。
町は閉鎖される国道の一部を傘岩まで通じる遊歩道にする方針だが、町への移管は来年春の見込みで、それまで傘岩観賞はお預けになる。傘岩は巨大なキノコ型で、急な雨の時に通行人が雨宿りしたことから名前が付いたと言われている。(中略)
弁慶トンネルは長さ千四十八メートル、幅八・五メートル。総事業費は約四十九億円。小樽開建は一九九六年の豊浜トンネルの崩落事故を受け、危険トンネルや覆道を内陸側に迂回させる防災対策事業を行ってきた。弁慶トンネルは岩内地区最後のトンネルで、二〇〇五年十月に着工した。閉鎖される国道は延長千三百五十メートル。
町はこのうち岩内市街地側から、傘岩の手前約六十メートルまでの計約三百メートル区間を遊歩道にする考えだ。小樽開建と協議を続けているが、国道は道路標識の撤去や落石対策工事に約一年かかるため、町に移管されるのは来年春になる見込み。町企画産業課は「傘岩を一年間見られないのは町の観光に打撃だが、安全が第一。遊歩道整備後は安心してゆっくり歩いて見てもらいたい」と話している。
『北海道新聞』平成20(2008)年3月18日朝刊より
弁慶トンネル開通に伴って封鎖される旧国道敷きの移管を待ってから、町で傘岩までの遊歩道を整備すると出ている。
そしてその遊歩道は、傘岩の60m手前までの予定とあるから、現状整備されている範囲で、一応は完成していたことが分かる。
あんな中途半端な位置を終点にした理由は、分からない。落石の危険だろうか?
いずれ、この記事通りになっていれば、平成21(2009)年春以降に遊歩道は開通したはずだが、以降の記事は見当たらない。
また、旅行情報サイトにある傘岩の口コミには、平成21(2009)年6月の情報として、「通行止めで車の通らない広々とした道路を行くと、道路脇に不安定な岩の塊が見えてきます。
」とあるので、この段階では今のような封鎖は(遊歩道も)なかったようだ。
その後、一旦は町が意図した区間に遊歩道が完成したようだが、現在封鎖されているのは何故だろうか。
情報は見当たらない。
一番考えられるのは、落石の危険云々といったところだろうが、遊歩道に石が落ちている様子は全くないので、封鎖は勿体ない気もする。
なお、現役末期の傘岩の道路風景は、『孝遊子のブログ』のこちらの記事で見ることが出来た。