6:08 《現在地》
さほど古くはないし、また全体的に荒れてもいないのに、路面は陥没した大穴だらけという、押し寄せる波の破壊力を垣間見たカスペトンネル旧道は、現トンネル名の由来となったカスペノ岬まで私を連れてきた。
約700mの旧道は約500mを終了した。
緩やかなカーブで岬の突端を回り込んでいくと、見慣れた鉄格子のバリケードが現われた。
なんか、かっこいいな。
雷電海岸での探索2日目にして、初めて目にする、ここが名の知れた観光地である証しは、鉄格子の向こうに見える巨大な観光ホテルだ。
このホテルを中心に、大小10を下らない旅館やホテルが、いままでは見えなかった小さな湾奥の山腹に林立し、地形図や道路地図にも必ず出ている「雷電温泉郷」を、形作っていた。
海と山と岬に閉ざされた、どことなく城塞都市のような温泉郷が、次に待ち受ける雷電海岸“最難の旧道”前の最終休息地として、鉄格子の向こうで私を待っていた。
このシチュエーションが、格好よかった。
私は、決して甘くされてはいない【脇】から、バリケードを抜けた。
ただし、現地の私は、最後までこのことを知らなかった。
――雷電温泉郷は、既に繁華の街ではない――
探索をおこなった2018年5月時点で、この温泉郷で営業を続けていた旅宿は1軒だけで、温泉郷のシンボルチックな観光ホテルは何年も前に廃業した後だった。
(その最後の一軒も2019年に休館し、これを書いている時点では、雷電温泉郷には営業中の宿泊施設も温泉施設も皆無である)
RPGならばラスダン前の最後の村。
そう書いた土地が、実はほとんど廃墟で、“旅のほこら”程度しかなかったというオチがついた。
私は、雄大な立地と風景の素晴らしさから、この地の繁盛を疑わなかったこともあって、一歩も立ち入らなかったので気付かなかった。
バリケードを抜けるとすぐ、海側にクルマを2〜3台止められる程度の小さな広場があった。
傍らに、掲げるべきものを失った木製の看板支柱が寂しく佇む。
この未舗装のロードサイドの小広場からは、カスペノ岬の突端部にある岩場を間近に見ることが出来る。
もっとも、奇岩怪石の宝庫である雷電海岸一帯にあって、カスペノ岬は特に目立つような地形ではない。
それでもこうして観光客が足を止めていたのは、ここから見る雷電岬(刀掛岩)が最も優れているからだろう。
雷電岬こそは、雷電観光のシンボルだが、地形の制約から、近づいて鑑賞するには海に出るよりになく、ここから遠く眺めるのがセオリーだった。
カスペノ岬から南西1.2kmの海上、雷電海岸の陸の果て、
まるで害意あるものとしか思えないような姿を見せる、刀掛岩。
何をどうすれば、岬の先端が、このような形に研ぎ澄まされて、それが幾百年も形を保つのか。
素直に空を突く尖塔ならば、まだいくらもあるが、わざわざ返しがついているのが凄い。
今日も海は穏やかで、小舟でもあれば、近くから安全に鑑賞出来そうだったが、
どこにも遊覧船なんて施設がないのも、都会から遠く離れたこの土地の風情である。
我らが旧道も、この怪異の聖域に、いたずらに近寄るような愚は冒さない。
それでも、現道より相当に踏み込んでみせるので、手強いはずだ。
これが、カスペノ岬から眺める雷電岬の全景だ。
かつてニシンを追って住みついた人びとがみた最果ての風景かもしれない。
大正6年の地形図には、わずかに2軒の建物が、今ホテルが見えるあたりに描かれていた。
しかし、その集落ともいえない規模の人の営みは、ニシンの衰退とともに断絶、一旦は無人となる。
再び開発されたのは、海岸国道が開通した昭和30年代、風光と温泉を活かした一大温泉郷として。
雷電岬は、まず一度ここから見らねなければ、その魅力を十分に堪能することはできない。
そんな気にさせるほどの眺めだが、トンネルばかりの現国道から、これを見ることは出来ない。
現国道は、カスペトンネルと刀掛トンネルの合間のたった300mだけ地上にあり、
車窓に注意しないと、少しも刀掛岩の怪異を見ることはない。
『国定公園雷電』(岩内町・岩内観光協会/昭和40年より)
この古ぼけたカラー写真は、昭和40(1965)年に岩内町と岩内観光協会が発行した、
『国定公園雷電』という観光パンフレットに掲載されたものだ。岩内町郷土館のご厚意により提供をいただいた。
カスペノ岬(カスペ岬)から見る刀掛岩(刀掛岬)の風景が、パンフレットの最も目立つ中央に、大きく掲載されていた。
広場に止まるレトロカーに時代を感じるが、岬の姿は今と少しも変わっていないように見える。
おそらくカメラを持つ全ての観光客が撮影しただろう、地名を書いた立派な木製看板が見えるが、
その支柱の一部分が今も残っている(3枚上の写真に写っている)。
他に巨大な石碑も見えるが、こちらはもう、この場所にはない(あとで出てくる)。
なお、海の向こうに見えるトンネルは、いま……
大勢の観光客がかつて立ち止まった広場は、閑散を通り越して、荒んでいた。
道の行く先を見ると、温泉郷で新旧国道が一瞬重なるが、すぐにまた別々のトンネルに入っていた。
否、旧道のトンネルは封鎖されていた。これは分かっていたことだ。
そこからさらに岬の方向へ、視線を動かしていくと……
無人の覆道が黙然と佇んでいる…!
刀掛岩がある岬の突端から、約300mの位置にあるあの構造物が、
私の一連の探索の「最終目的地」である。
旧国道は、あの覆道を最後に、雷電岬の向こう側へいく。
おそらく全てのトンネルが封鎖されている状況で、どうやってあそこへ行くか。
山越えか、波打ち際か、選択肢はこれしかないが、まだ後者の方が希望は持てそうに思える。
どちらのルートを選ぶか、事前の計画では決められておらず、現地を見て決めるつもりだった。
これは、探索の成否はむろん、生死さえ左右しかねない重大な判断になる。
地形図に照らしてみると、ここから見えたのは、旧道の2個目のトンネルの先だった。
手前の1個目と2個目のトンネルの間にも、湯内川を渡る短い明り区間があるはずなのだが、
岩山が邪魔をしていて、ここからは見えない。
湯内川には橋が架かっている可能性が高いが、どんな橋なのだろう……。
雷電岬を眺める、かつて華やかだった特等席が、荒廃に帰していた原因は、これだった。
岬の突端から150mほど進んだところで再び現われた、コンクリートブロックと車止めが織りなすバリケード。
誰でも越えられる簡単な造りではあったが、それでも人を遠ざけるには十分すぎる存在だった。
左に見えるのは、カスペトンネルの南口である。
新旧道の合流地点も、もうすぐだ。
6:13 《現在地》
このバリケードを越えると、ようやく、生きている観光地に入る。
合流地点付近は再整備され、緩やかなスロープが歩行者を受け入れている。
そのかつては旧道の歩道でしかなかった位置に、立派な石碑が建っていた。
古い観光パンフレットではカスペノ岬に置かれていた石碑に間違いない。
この碑は、有島武郎文学碑。
雷電海岸の一帯を観光地として解放したのは、海岸国道の開通であったが、それ以前に、この地の優れた風光を宣伝することに成功した人がいたとしたら、それは紀行家でも探検家でもなく、優れた文学者たちであった。
有島武郎はその代表的な人物で、彼の代表作の一つで大正7(1918)年に発表された「生まれ出ずる悩み」は、岩内町を重要な舞台として描かれたものである。作中に雷電海岸の風景も描かれている。
ニシン漁をする海上からの描写であるため、陸路を探し求めた私の机上調査には活躍しなかったが。
彼がこの地の奇景を表現した有名な一節(碑に刻まれている内容でもある)を、以下に転載する。
物すさまじい朝焼けだ。
過って海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現はしてゐる。
その肩のような雷電峠の絶顛を 撫でたり敲いたりして
叢たち急ぐ嵐雲は、炉に投げ入れられた 紫のやうな光に燃えて、山懐ろの雪までも透明な藤色に染めてしまふ。
この碑は昭和37年に、雷電海岸の風光を世に広めた彼の功績を称える岩内町、観光協会、商工会の手により、カスペノ岬の中心に建立されたものだが、旧道化にともなって現在地に移転された。
6:14
カスペトンネル旧道、攻略完了。
前哨戦が全て終わり――
次から、本戦へ突入!