道路レポート 旧特別国道30号 扇浦〜北袋沢 第3回

所在地 東京都小笠原村
探索日 2019.02.28
公開日 2022.08.05

 軍事国道の最たる道路風景


2019/2/28 12:42 《現在地》

谷底から築堤の脇の斜面を適当によじ登ると、築堤南詰の位置にある広場に達した。

本来ここは特30号の路上に過ぎないはずだが、向かって右の築堤側(隧道方向)は見るからに廃道状態で、都道と繋がっている左側にだけ新しい轍がある。そしてここには車が転回できる充分な広さがある。そのため広場にしか見えない状況になっていた。
探索の最終目標は隧道にあるが、特30号の未踏破部分は減らしたいので、まずは先に左側を攻略しよう。

チェンジ後の画像は、広場から左側の道を撮影。
カーブしていて、その先は切り通しになっている。こちら側にはガジュマルではない、シュロのような覆い被さる常緑植物が高く育っていて、やはり薄暗い。




前進開始、すぐさま切り通しへ。
内地ならば真夏としか見えないような鬱蒼とした深緑の切り通しだが、2月の風景である。
両側に土面が露出した素朴な切り通しだが、本来の道幅は2車線が確保できそうなくらいもある。中央部分にだけ軽トラ幅のダブルトラックが刻まれている状況だ。また路面に砂利は敷かれておらず、土道である。

道幅が狭くなっていることを除けば、特30号として活躍していた現役時代をかなり色濃く残している道路風景ではないかと思う。
しかし、残念ながら、とても短い。

12:44 《現在地》

広場からものの100mも進まぬうちに、都道の小港道路にぶつかった。
そして都道の進行方向にはトンネルが!
袋沢第一トンネルである。

都道にはこの先、北袋沢までの区間に、袋沢第一・第二という2本の短いトンネルが連続してある。
いずれも本土復帰直後に都道として整備された現代的なトンネルで、それぞれの竣工年は、昭和49(1974)年と昭和47年と記録されている。

(→)
だが、本土復帰直後に描かれた昭和43(1968)年版の地形図に、これらの隧道は既に描かれている!

顕峠隧道(仮称)は(なぜか)描かれていないが、本土復帰時点で既に存在していた袋沢第一・第二トンネルもまた、戦時中に特30号として建設された同胞と考えられる。なにせ、父島が過ごした戦後の長い空白期には、このようなトンネルを作る人も、理由も、なかったはずだから。
トンネルがある道が徒歩道として描かれていることも、戦前に作られた道路の大半が、本土復帰時点ではジャングル化していた実態を現わしているといえる。

ただ、現地探索の時点では、この昭和43年の地形図が未入手だったため、袋沢第一・第二トンネルについては、その外見や竣工年のデータから、素直に本土復帰後のトンネルと考えていた。
そのため、これらのトンネルに対応する特30号時代の旧道を探したが見つからなかった。このトンネルこそが「それ」を改良したものだったのだから、当然である。



ここで引き返し、改めて特30号を辿って、父島最長にして軍事国道全体の中でも最長が疑われる、
全長500m級を想定される顕峠隧道(仮称)の南口を目指すことにする。

といっても、先ほどの広場まで約100mで、そこから隧道擬定地までの距離が
さらに100mくらいであり、これは思いのほか短い探索になるだろう。



この写真に探索対象である旧道は写っていないが、顕峠隧道が越えんとした地形のイメージショットである。
現在の都道は、目前の長谷橋を皮切りに直線的な急坂の連続で峠を越えるのだが、軍事国道はこの急坂を嫌って、
500mもの隧道で地下を抜けようとした。そこには勾配忌避へ向けられた、現代以上の真剣さが感じられる。



先ほど通った切り通しを反対方向に通過する。
これを抜ければ、直ちに見覚えある広場である。
さっさと通り抜けるぞ。

バババババババッ!

――GAME OVER―― ヨッキれんは蜂の巣にされた。

今が戦時中で、私が敵兵であったなら、ここであっという間に蜂の巣となっていただろう。
なにせ私は、この切り通しの出口近く、矢印の位置に隠れている“あるもの”に、極めて近づくまで気付かなかったから。しかも、一回目の通行では最後まで気付いていない。




そこに存在していたのは、地形や樹木およびそれ自身の色合いによって隠蔽された、一基のトーチカだった。

もし内地でこれを見たなら、コンクリート製の貯水槽か何かだと思ったろうが、この島ならばトーチカだ。あの小さな壕に守備兵が立てこもり、道路側に設けられた小さな穴(銃眼)から、敵兵を狙撃する。トーチカはそのような目的で作られた陸戦用の防衛施設である。

軍事国道、路傍のトーチカ、間近に存在するガジュマルの森。これら全てが密接に関わるものであった。

軍事的意義を主たる目的として認定された軍事国道という道が、戦前は日本中に点在していた。だが、その数多の跡地の中で、そこが戦場だったことを感じられる道路風景は、初めて見た。軍事国道は数あれど、ただの廃道でもない、戦地の雰囲気が残る跡地となると、極めて珍しいのではないだろうか。

父島に、これほど濃密な軍事国道の風景が残されている原因を考えてみる。
まず、実際にこの島には太平洋戦争の前線となる可能性があって、そのため軍事国道を含む様々な施設の備えが行われたことは、当然に重要な背景である。
だが、他の土地(本土や沖縄本島)との決定的な違いがあるとすれば、終戦直後から20年以上の長きにわたって、通常の開発とは無縁の時間を過ごしたことと、本土復帰の後にあっても、交通の不便さや自然環境優先のために、開発によって多くの戦跡が消失する機会を持たなかったこと、……つまり戦後の過ごし方にこそ、その主たる原因があったように思う。この部分にこそ、父島の圧倒的大きな特殊性がある。




12:47 《現在地》

“広場”へ戻ってきた。この先が、長谷川を横断する高い築堤だ。

この築堤、長さもさることながら、幅の広さが驚異的に大きい。
実際に道路として使われていた部分の両側に、十分過ぎるほどの余地があり、
そこにはガジュマル(右)やシュロのような樹木(左)が、道を空から隠す樹勢で育っていた。

ガジュマルが植樹されたものだという事実を知ればこそ、意図した広幅員だと考えるべきだろう。
道を植栽で隠すため、同時に、爆撃で容易く寸断されないがための広さだったのかもしれない。




広場の先、すなわち築堤の上から先は、藪道と化していた。
地理院地図だと道が描かれている場所だが、実際は廃道になっている。
閉塞している隧道に繋がるだけの道だろうから、当然と言えば当然だ。

道の右側は、呪われているかのような、ガジュマルの密林。
チェンジの画像は、正面から見た密林の状況だ。
向こう側は直ちに築堤の斜面を介して谷底だが、全く見通せない。
地形を察知することすら許さない、完璧な阻塞と化していた。



築堤上から見る、長谷川下流の眺め。

しかし樹木のせいで視界は悪く、重なり合う新旧長谷橋の両方が見える位置だが、スッキリ見渡すことは出来ない。
また、この場所は海抜が50mくらいあり、川の下流1.5kmの位置に海岸があるのだが、入り組んだ地形のために海も全く見通せない。

(→)
長さ30mくらいの築堤を渡りきると、今度は向かって左の谷側にトーチカが現われた。

しかし、このトーチカが存在する位置は、いささか不自然であった。
チェンジ後の画像の赤い線の下に銃眼、黄色い線の下に出入口があるのだが、銃眼が軍用道路を向いていないのである。
まるで、現都道や、それと同じ位置にあったはずの旧道(旧長谷橋と同じ世代の道)を警戒するような構造だが、そうする意図が読めない。


しかも、トーチカ自体の位置が、隣接する軍事国道の路面よりも不自然に低いために、その唯一の出入口が、基礎のように敷かれた厚いコンクリートの物体に妨げられて、このままでは絶対に出入り出来ない状態になっていた。

この出入口を遮っているものが本当に基礎だとすれば、何らかの外的な力で、この基礎の上にあったトーチカが谷側へ押し落とされたような状況かも知れない。
その際に向きまで変わったのかどうかなど、不明な点は多いが、とにかく築堤を挟んだ特30号の両側にトーチカが存在したことは確かそうである。

特30号の終点とされていた父島南東部の海岸(西海岸)方面へ上陸して、扇浦大村方向に進撃してくる敵を想定し、ここで迎え撃つことを考えていたのだろうか。




築堤を過ぎても道は直線で、右山左谷の緩やかな上り坂となる。
山側は素掘りの法面が高く、荒々しい。
谷側も案外深く切れており、ちょうど谷を挟んだ対岸を並走する都道がよく見えた。

最初は都道の方が低い位置にあるが、勾配の差からあっという間に追い越され、もはや軍事国道の進路の先には、隧道以外の選択肢がないことを感じさせる展開だ。

問題は、隧道が開口しているかどうかである。

読者諸兄は既にこの反対側の北側坑口の状況を見て知っているはずだが、実際の探索の流れとしてはこの南側の探索が先であり、この瞬間こそが、顕峠隧道(仮称)への最初のアプローチであった。





来るか?!

いよいよ地形的な猶予の無さが極まってきた。

右山左谷のまま山が高くなって、道へ折れろと圧迫をしてくるが、

動じる気配がなく直進を続けている。もう覚悟は決まっているようだ。




黒い部分が見える!!!




顕峠あらわれとうげ隧道(仮称)
南口の開口を確認!

この島で初めて見た、素掘りの坑口だ!




東京都最南端の道路用隧道へ、
いざ突入!




……この先で目にした光景を、私は、絶対に忘れることはないだろう……。




 顕峠隧道(仮称) 南口より内部へ突撃!


2019/2/28 12:55 《現在地》

父島で初めて目にする、素掘りの坑門だった。

そして、これはこの時点の私がまだ知らない事実だったが(皆様はご存知)、
この隧道の【反対側の坑口】や、さらにその先にある【連珠トンネル】は、
いずれもコンクリート製の頑丈な坑門工を有しているのである。にも関わらず、

この坑門だけが・・・、素掘りであった。




まるで、巨大な石の門。物語の世界に登場する洞窟のような入口だと思った。

迫力はあるが、素朴さがあった。島の大地によく調和した姿だと思えた。

現代の父島にはない500mもの闇を抱えた隧道の口にしては、純朴そうな姿だった。

失われた国道の最も長き闇へと、オブローダーの突撃を開始する。 吶喊!




こんもりとなった崩土で、本来の路面から1mほど高くなった入口から、洞内を覗く。そこに光は見えず、風の流れも感じられなかった。音も聞こえない。
見える範囲の内壁は、ボロボロのコンクリートみたいな色をしているが、紛れもなく天然の岩盤だろう。
全体の印象として、不気味な廃隧道ではあるものの、十分に大きな断面があるため、入りがたいような圧迫感は少ない。

さっそく、一つの特徴に気付いた。
この隧道、入ったところから直ちに下り坂だ。
それも、肉眼で見てはっきり「下っている」と分かるくらいの下り方。目測だが勾配5%はありそう。
このことは、隧道が置かれた峠越えという立地条件や、長大さを考えれば、珍しい特徴といえるだろう。

この先の洞内の勾配変化はまだ見ていないが、常識的に、ここから逆転することはないだろう。このまま北口まで下り続けることになりそう。
したがって、国道特30号顕峠越えの最高地点は、この場所(隧道南口)ということになる。

【振り返る】と、いま来た地上の道も下り坂に見えていて、確かにこの場所がサミットなのだと分かる。
そしてその海抜は、地形図読みで、55m±5mだ。
これは並行する現在の都道の頂上より30mほど低い
たった30m高度を下げるために、500mもの隧道を掘ったということになるのか。この時代の(私が考える)常識に照らしてとても(非常識に)贅沢に思われた。

さて、そんな洞内には、さっそくの“落とし物”があった。 まず二つ。



落とし物、その1(赤枠内)は――

レトロデザインなジョウロ(如雨露)。

このデザインの如雨露の実物を見るのは初めてかも知れない。材質は金属で、たぶんブリキじゃないかな。現在でも、レトロ如雨露みたいな品名で新品が作られているアイテムだが、たぶんこれはそういうレトロ風の品ではなくて、ガチの古品だと思う。

廃道で如雨露を見るのは初めてだし、隧道との関わりは特にはなさそうだが、通行の邪魔になりそうな道路の中央に置かれている。ゴミとして捨てたにしても、周囲に他のゴミはないし、けっこう謎だ。

カテゴリとしては農具なので、島の農業の話を少し。
この島には昔から水田はなく、現代ではパッションフルーツが特産の農産品となっているが、ビニルハウス栽培が存在しなかった戦前は、この島で作られた様々な早摘み野菜が東京市場で高値で取引されていて、一大農産地と見做されていたこともあるという。
そんな時代の如雨露だったら凄いけど、さすがに違うよね。



落とし物、その2(黄枠内)は――

謎の骨。

これはちょっと落とし物としてはヘビーだが、何かの獣の骨だろう。
廃隧道に獣の骨って、たまに見るけど、いい気はしない。

ちなみに、小笠原の島々にはもともと大きな陸生の哺乳動物はおらず、大抵は人間が持ち込んだものだそうだ。島で一番大きな野生動物は家畜から野生化したノヤギで、肉食動物となると、ペットから野生化したノネコくらいらしいぞ。
この骨はノヤギだろうか? 小動物ではない気がする。
人里に近いので、死んだ家畜の骨が持ち込まれた可能性もあり得るか。




入洞直後の洞内は直線で、入口の光で50mくらい奥まで見通せている。だがそこにかなり大きな落盤があるようで、高い土砂の山がうっすらと見えた。

昨日目にした「案内板」には、この洞内は「落盤により通行できない」と書いてあったが、いま見えている落盤のことだろうか。
もしそうだったら、頑張れば通り抜けられる可能性もあるかもしれない。
だったら嬉しいなと、少なからず期待感を持った。

また、写真だと分かりづらいと思うが、奥へ向かって一定勾配の下り坂が続いている。まるで底知れぬ斜坑みたいで気持ちが悪い。

洞床は未舗装で、小さな瓦礫が散らばっている。
勾配に従って水が流れた形跡はあったが、見える範囲は乾ききっていて、壁や天井にも水滴一つ見当らなかった。

それと、轍らしいものが見当らないと思った。
水が流れた形跡があるので洗い流されただけかもしれないが、並行する現都道の小港道路が、本土復帰から5年後の昭和48年くらいには開通しているので、この隧道は終戦後ほとんど使われていない可能性もある。
もしそうならば、轍が残ってなくても不思議ではない。



振り返れば、まだすぐ近くにある入口。
この写真でも微妙に仰ぐ感じで外が見えている。それだけの勾配がある。

また、こちら側から見ると分かるのだが、坑口の手前に、高さ1mほどの不思議な段差がある。それは坑口に積み上がっている崩土とは別の経過で生じた段差のように見える。色合いも違っている。

もし人為的に積まれた段差だとすれば、せっかく造った隧道を塞ごうとしたのか、それとも、防衛のために土塁を築こうとでもしたのか。
いずれにしても想像の域を出ないが、この段差が戦時中に作られたものだとすれば、戦後にこの隧道を車道として利用できた可能性は皆無だろう。

一方、廃止後に出来た自然地形の可能性もある。現状からは容易く想像できないことだが、この段差は砂礫の水辺に自然形成される地形に似ている。長期間、ここが地底湖の縁があったのならば、こういう段差ができるかも知れない。




12:57 (入洞2分後)

入口から50mほどの地点にある、大きな落盤。

崩れた分だけ天井に空洞が出来ていて、小ホールのようになっている。

背丈よりも高い崩土の山を乗り越えることで、初めて、外光届かぬ……




洞奥が顕われる。

崩壊続きという感じではなさそうで少し安心したが、まだ全長の十分の一を終えたに過ぎない。

そして、これは私の錯覚だった可能性も棄てきれないが、
隧道の断面が一回り小さくなったように感じた。
写真だとピンとこないが、ボイスメモにこのことを吹き込んでいた。
幅も高さも、どちらも少しだけ小さくなったように感じていた。



穏やかさを取り戻したかに見える洞内。
しかし、解放的だった入口付近と比べると、闇が濃いのは当然として、明らかに天井が近くなった気がする。

そして相も変わらず、底の見えない地の底への下り坂だ。
洞床には少し湿り気が出て来た。
比較的最近まで水が流れた形跡もある。この勾配だから、大雨の日などは地表水が流れ込んでいるのだろう。

洞床や周囲の壁が全体的に白っぽい。
石灰分だろうか。まだ鍾乳石らしいものは見当らないが、造られても不思議はなさそうだ。

チェンジ後の画像は、振り返る入口。
巨大な落盤の山を越えたことで、急に遠くなった感じがする。
見上げなければいけない俯角も強くなった。



12:58 (入洞3分後)

入口から70mくらい進んだだろう。
小さな落盤の跡が所々にあった。
そして、なんかまた断面が少し縮小してないか…? 狭まった気がする。

……感覚的なものなのか。
断面変化の分かり易い境目がないので、未だに確固たる判断を出来ずにいるが、天井の高さも幅も、なんか安定していない気がする。
明治期の隧道とかなら、珍しくもないことなのだが…。

そしてここでまた、“落とし物”を発見!




落とし物、その3は――

謎のケーブル×2。

洞床に、緑色のケーブルが2本並んで落ちていた。
気付いたのは今で、さっきまでは見えなかったが、洞床に埋れているだけかも。線を前後に辿ってみると、入口側はすぐ瓦礫の下になって追跡できなかった。一方、洞奥方向へは、見える限りずっと続いている。

緑色であることから、最初は被覆された電線かと思ったが、よく見ると緑に見えたのは金属自体から吹き出した錆の色であり、本来は銅か何かの裸線らしい。
正体は古い電線だろう。洞内に電線が敷設されていた。
かつては照明があったのか。それとも単純に通過する送電線や通信線だったのか。



12:59 (入洞4分後)

入口から推定80m付近。
相変わらず洞床の右端に電線が落ちている。
そしてさらに、“落とし物”を発見! 今度のは小さいぞ。

(チェンジ後の画像) 落とし物、その4は――謎の金属物体unidentified metal object

手にした直後、一瞬遅れて手榴弾を連想し、無造作に拾った自分を呪ったが、さすがに違うよね。軍事国道跡の廃隧道だからってさすがにそれはないだろう。
でも、なんだろうこれ?
形状的には、現代のライターを大きくしたような印象。外装は全て金属で、上部だけ複雑かつ特徴的な形状をしている。そこがライターっぽく見えた理由だ。何か大きな機械のパーツだったら、さすがに判別不能だろうが…。

物体の正体に心当たりのある方は、ご一報ください。



13:00 (入洞5分後)

入口から推定90m付近。
またなんか落ちている。
今度のは大きい。何か棒状のものだ。
今度は何だ?




?!

  


?!?!?!




レール、
敷かれてますけど…?!



落とし物、その5――

レール(敷設跡)

……なぜ、軍事国道の隧道に、レールが?

え? え? え??

まさかの、未成隧道ってこと?




 レールが敷設されていた軍事国道隧道?!


2019/2/28 13:00 (入洞5分後)

南口から推定90m付近の洞内で、洞床に並べられた2本のレールを発見した!
これは全くの予想外で、衝撃的な遭遇だった。

よく見ると、洞床の中央付近に枕木を剥がした跡らしき凹みが点々と残っており、2本のレールは、そこから取り外されて、洞床左端付近へ雑に寄せられたように見えた。

したがってこれらのレールは、敷設されたまま・・・・・・・にあるのではなく、路盤からは外されたが、運び出されはしなかったという、中途半端な状況のようだ。
枕木はどこにも見当らなかった。普通は枕木よりもレールの方が高価であり、より熱心に回収されると思う。もし戦時中の出来事であればなおのこと。

しかしこの状況で最も気になるのは、なぜ道路用のトンネルにレールが敷かれているのかということだ。
隧道は軍事国道の一部として建設されたものである。
だが実はこの情報自体が間違っていて、本当は鉄道用の隧道だったとか、併用軌道だったなんてことは、……可能性ゼロとまではいわないが、考えにくい。

一般的に、経験的に、鉄道用以外の隧道でレールが敷かれている可能性が高いのは、建設中の隧道だ。
いわゆる工事用軌道である。隧道の掘削に当たっては、切羽などで生じる掘削残土(ズリ)を外へ運び出す目的で、簡易な軌道が使われることが、明治から昭和40年頃まで極めて普通に行われていた。
もっとも、このことは知識としては持っていたが、実際に隧道工事に使われた工事用軌道跡のレールを見た経験は、これまでなかった。



戸倉未成隧道 写真1

戸倉未成隧道 写真2

これまで、戦時中に建設された未成隧道を何本か探索したことがある。
中でも道路用隧道として最も印象的なのは、兵庫県と鳥取県の境の戸倉峠にあるもので、ここの探索は、2014年にDVD作品『廃墟賛歌 廃道レガシイ』として発表済みだ。

同隧道は、軍事的な目的から大戦中に陰陽連絡道路として突貫工事が進められたものだが、完成しないまま放棄された完全な未成隧道であり、掘削途中だった洞内の断面は多彩に変化し(写真1)、最後は行き止まりになって未貫通である。やはり軌道によるズリ出しが行われていたらしく、坑口付近に枕木が敷設されたままになっている(写真2)。
ただしレールは残っていなかった。



母島の地下壕のレール

もちろん、“未成隧道説”以外にも、隧道内のレールの正体として考えられそうな説は存在する。
地下の空洞とレールの組み合わせで想像するものとしては、鉱山が最たるものであるが、さすがにここで鉱石の採取が行われたとは考えにくいので除外する。

父島らしい想像は、やはり軍事施設だろう。
これは全国各地で発見の例があるが、地下軍事工場や地下壕でも、洞内の輸送にトロッコを用いることがよくあった。
父島においても、“レール壕”と通称されるレール敷設状態の地下壕が夜明山の山中に現存しているし、この探索の翌日に訪れた母島でも、私は偶然に、レールが敷かれたままの地下壕と遭遇している。

私としては、未成隧道説と地下壕説の二つを、ここで発見したレールの正体として提唱する。
このどちらが正解に近いかは、洞内の探索を進めることで明らかになることを期待したい。
前進を継続する!
レールの出現は大事だが、隧道の全貌の把握は、もっと大事である。



とはいえ、もうレールから決して目が離せなくなってしまったことをお許し願いたい。これからの探索報告は、レールに関することが中心となってしまいそう。それくらい私はレールが好きなのだ。敷かれたままのレール好き!大好き!!大大大好きぃー!!!

……しかしこのレール、いつの時代のものだろう…?
枕木から外されて置かれたときに、ごろんと横向きになったままのレールが多くあり、おかげでレールの“高さ”を手元のメジャーですぐに計測できたが、実測値は5cm少し足らずで、錆びて“ちびた”ことを考えれば、これは軽レールとして規格化されたものでは最も軽い6kg/mレールとみられる。

ついでにレールのフランジ部分に、製造年や製造所を記した刻印刻字を見つけられれば最高だったが、さすがに状態が悪く見つけられず。
外へ持ち出して1本ずつ検査でもしたら、たぶん見つけられると思うが…。

そんなこんなで、レールと語らいながら進んでいくと、凄い勢いで洞床の水気が増してきた。
泥濘と、小さな水溜まりが、断続的に現われ出す。
とても、とて〜〜も、いやな兆候だ…。



13:01 (入洞6分後)

南口から110mくらい来ただろうか。
小規模な崩落が起きていた。
それ自体は問題になるほどの障害ではなかったが、奥へ向かってずっと下り続ける勾配が、厄介を起こしはじめていた。

洞床を流れる水が、この小さな崩土の山に堰きとめられて、手前10mほどを泥濘地帯に変えていたのだ。
レールもここでは埋没していて、見えなくなっている。

そのまま足を踏み入れると、最初の一歩は踝まで、三歩目にはトレッキングシューズが浸水するほどの深さがあった。でも足が濡れるくらいは覚悟の上だ。進めない深さでなければ許してやる。
こんな気色の悪い泥沼だが、周りには思いのほかたくさんの足跡があった。軍靴だったらおっかないが、私のように冒険心を発露させた者達の足跡だろう。さすが父島まで来るような奴らは貪欲だと、心強く思った。


(→)
泥濘みの茶色の中に、白い固形物がたくさん混ざっていることに気付いた。

近くで見ると、巻き貝の殻だった(中味なし)。
これまでの隧道探索では様々な生き物と出会っているが、貝類は珍しい。こんな巻き貝を見たのは初めてだ。

そしてこれは予習範囲内にあった知識だが、父島にはアフリカマイマイという、戦時中にジャワ島から持ち込まれた外来の陸生巻貝が棲息しているという。戦後の一時期大量発生し、道路を埋め尽くすほどにもなったそうだが、平成元(1989)年を境に(原因不明の)激減があって、現在は少数が棲息しているのみだという。この巻貝は、かつて島を席巻した奴らの名残かもしれない。写真を見る限り、姿が似ている感じがする。



振り返る。

泥濘みが水平に近いおかげで、そこまでの洞内がずっと下りであったことがよく分かる写真が撮れた。

こんな勾配のキツい下り坂の隧道に水が流れていて、そのうえ落盤があるというのは、

もう、ほとんど詰んでいる…って分かるよ。

なにせ、本格的に水没が始まったら、水深の増大はこの勾配で起こるわけだからね……。

(読者諸兄は先に反対側を見てしまったから、結末を知っているわけだけど、この時の私はまだ希望を持っていたんだが…)




よし! 小崩落を超えると平穏が戻ってきた。まだ行ける!

そしてレールも復活した! それも前より断然、“いい位置”に!




軌間≒50cm

但しこの数字は、これが敷かれたままの位置にあるレールと仮定した場合のもの。
仮に50cm軌間だとすると、いわゆる工事用軌道としては、よく使われていた数字である。

さきほどまで、レールは明らかに取り外されてから隅に置かれた様子であったが、泥濘みと小崩落によって10m以上姿が見えなくなって、再び現われたときには、路盤の中央に堂々と我が物顔で、二条が綺麗に平行して置かれていた。

進むほど…、奥へ行くほど……、何かの答えに近づいる。
そんな期待を持たされる展開ではあるが、下り続けることには、大きな不安が常に付きまとっている。

(→)
どこまでも続く泥の坂道と、敷かれた錆色のレール。
傍らに、久々の落とし物を発見。
何の変哲もない、群青色の一升瓶だ。上部が欠けている。刻印等は見当らず、由来を全く語ってくれない。

路盤の中央に、おおよそ一定の幅で2本のレールが並んでいる以上、これは敷設されたままであるように見えるが、相変わらずレールを固定する枕木は見当らず、固定手段が分からない。
圧着力が強い泥面に、ただ置かれているだけのように見える。
非常に簡易な土運びトロッコとかなら、こんな雑な普請もあり得るかもしれない…?

ほんと、何のために敷かれていたんだ、このレール……。
隧道が未貫通と判断できれば、正体は工事用軌道だと断定して良いと思うが、入口から約130〜150mほど進んで来て、まだ終わりが―――




終わりが―――


地底湖じゃないかあれ…。




13:03 (入洞8分後)

地底湖…。

入口から推定150m付近だ。

まだ、想定される全長の3分の1を終えたに過ぎないが、

幻の軍事国道跡に眠る隧道は、由来不明のレールを抱いたまま……


沈んだ。

沈んでしまったよ!