まずは、いつもの歴代地形図チェック!
| �@ SMD26 (現在) |
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|---|---|
| �A 大正13(1924)年 | |
| �B 昭和28(1953)年 | |
| �C 昭和45(1970)年 | |
| �D 昭和54(1979)年 | |
| �E 平成7(1995)年 |
�@は本編でも使用した最近のスーパーマップルデジタルの地図で、3世代の道が一堂に描かれている(歴代地形図には、このような地図はない)。実際に現地を歩いてみると、旧道と旧旧道は既に封鎖されており、旧道の北見側に至っては2ヶ所の橋が撤去されているなど完全に廃止済みであった。なので、この地図は現状の正しい表現とは言えないが、過去と比較する基準として分かりやすいので最初に提示した。
�A大正13(1924)年版は、ルクシ峠に“道”が描かれている一番古い地図である。これより古い明治中期の5万図には描かれていない。
峠名の注記などは一切ない、「小径」として表現された破線の道が、細々と現在の旧旧道と同じ鞍部を越えている。しかし前後の道は旧旧道と異なる、沢筋と鞍部を最短距離で結び付けたような、勾配を無視したいかにも徒歩道らしい道筋だ。敢えて世代を付けるなら、旧旧旧道世代である。
�B昭和28(1953)年版になると、なんと佐呂間側の道が消失している。
まだ旧旧道の影も形もなく、ルクシ峠が車道へ発展した時期は、戦前ではないことが分かる。
�C昭和45(1970)年版で、ようやく旧旧道が出現する。しかし、峠名の注記はない。�Bと�Cの間が少し開いているので、この最初の車道である旧旧道の開通時期の想定範囲は広いが、航空写真もチェックしてみたところ、昭和40(1965)年では明らかに建設中で、46年版で完成していたので、初代車道(旧旧道)は昭和40年代中頃の開通と判断できる。
このことは、私が旧旧道を走って感じた、「あまり古い道には見えない」という感想にも合致する。
�D昭和54(1979)年版になると、峠道の位置や形は変わらないが、国道を示す色に変わり、「333」の注記がある。
旭川市と北見市を結ぶ国道333号の制定は昭和50(1975)年であるから、この時に国道へ昇格したのである。
�Cの時点では県道だったのだが、路線名については後述する。
�E平成7(1995)年版で、遅ればせながら、ようやく旧道のお出ましだ。
前説でも述べている通り、旧道がルクシ峠を貫くサロマトンネル(全長1651m)は昭和63(1988)年の完成で、同年内に開通している。
そして、この版で初めて「ルクシ峠」という注記が現れる。
最初から峠の頂上ではなく、佐呂間側の【モニュメント】
がある位置にされている。
そして、改めて�@に戻ると、サロマトンネルは早くも旧道になっている。
これも本編で再三述べているが、旧道が国道として現役だった期間は、昭和63(1988)年から平成21(2009)年の新佐呂間トンネル開通まで、たった21年しかなかった。
以下、文献や資料を基に、改めてルクシ峠を巡る道路整備の変遷を俯瞰してみるとしよう。
第1章 ルクシの名が示す忘れられた古道から、北網交通のメインルートへ
歴代地形図を見る限り、ルクシ峠が、古くから重要な交通路であったようには見えなかった。
初めて車道が通じたのは昭和40年代のことで、しかも当初はルクシ峠という名前の注記もなかった。
現在の旧道にあたるサロマトンネルの道が昭和63年に開通した際に、初めて峠名が地形図に示されるようになった(峠の頂上ではなく、モニュメントの位置に)。
実際、国立国会図書館デジタルコレクションを「ルクシ峠」というキーワードで検索しても、ヒットの大半は昭和50年代以降の文献で、古いものはほとんど見当たらない。
なので、この峠名は現代に生まれたばかりの新しいものなのではないかと考えそうになったが……、一個だけ、とびきりに古いだけでなく、北海道の地名考察において超重要なオーソリティとされる人物の文献に、この峠の名が登場しているのを発見した。
それは、松浦武四郎その人である。
彼が江戸時代末期に蝦夷地を探検して残した膨大な文献のうち、稿本のまま松浦家が代々所蔵していた未刊行部分などを元にして、昭和63(1988)年に北海道出版企画センターが『武四郎蝦夷地紀行』を刊行している。
ここには武四郎が現在の網走地方を旅した内容が含まれており、次のような記述があるのだ。
ニコロ(中略)この川すじ少し上り(中略)ルクウシニコロ 昔これよりサルマへ越えたる跡なりといえり
武四郎本人は越えていないが、アイヌの案内人の説明を聞きながら、ルクシニコロ川の奥に佐呂間へ越える道跡があったと述べている。これが後のルクシ峠であるのに違いなく、江戸時代末期には既に廃れていて、もっと昔に使われていた道だったように書いている。
そもそも、アイヌ語の「ルクシ」という地名についてだが、武四郎は別の刊(釧路地方を旅した『久摺日誌』)で、釧路という地名の語源を、「クシは越える、ルは路なり、当所より諸方へ路ありと言う義」と述べており、「ルクシ」は「越える道=峠」の意味だと解釈している。だからルクシ峠だと「峠・峠」の意味になる。
ルクシニコロ川という川名からして、それが峠道に関係するものであることを如実に物語っていたのである。
したがって、ルクシ峠が歩かれていた歴史は大変に古いと言えるのだが、しかし武四郎の時代からしばらく後までは、あまり使われず、半ば忘れられたようになっていたようだ。
右図は、北海道庁が明治23年から順次発行した北海道実測切図の大正9(1920)年印刷版を切り出したものだが(道路については概ね明治中頃の状況を反映している)、ルクシ峠を越える道は描かれておらず、当然、峠名も見られない。
その一方で、以前の北見峠のレポートで紹介した中央道路(別名“囚人道路”旭川〜網走)が近くを通っており、こちらが明治以降は旭川地方と網走地方を繋ぐ最も重要な道路になった。
もしも、ルクシ峠を中央道路が通っていたら、活躍の歴史はだいぶ違っていただろう。
ルクシ峠がなぜ中央道路に選ばれなかったかということに言及した資料は見当たらないが、開拓の都合上、単に旭川と網走を最短距離で結ぶことよりも、広大な原野が展開する北見を通ることが重要視されていたのかもしれない。
このように、明治期には整備の大きなチャンスを逃したように見えるルクシ峠は、このことが尾を引いたのかは不明だが、その後はなかなか目に見える整備が行われず、昭和40年代になってようやく最初の車道が整備されることになる。
次はこの道(旧旧道)が整備された経過を紹介しよう。
昭和41(1966)年に刊行された『佐呂間町史』に、次のような記述がある。
昭和34年より開削工事に着手している若佐、端野間産業開発道路がある。
この道路の開削については、大正12年から地元部落住民の強い要望があり、北海道庁においては仁頃・佐呂間間道路開削費の予算を決定したが、毛当別・栃木間、下仁頃・武士間、上仁頃・朝日間等数路線が競合しついに実施路線の決定にいたらず、おしくも実現を見なかった。しかしその後も住民は強力な要望を続け、昭和13年などには野付牛営林区署長に対し森林山道開削請願書として、次のような請願がなされている。
(中略)
このようにして古くから関係住民が各関係機関に強い要望と、請願陳情をなし、また町も数度にわたる運動を行った甲斐あって、前記の通り着手されたものである。この道路は近く完成の見込みであるが、完成の暁は佐呂間、北見間の距離は約15kmが短縮され産業の開発に大きな役割をはたすものと期待されている。
このように、若佐端野間産業開発道路の整備が昭和34年に着手されていて(町史刊行時点では未完成)、それ以前から整備に向けた様々な請願や陳情が行われていたことが書いてある。特に大正末頃には、北海道庁が整備費を計上するところまで進んだにもかかわらず、周辺でいくつかの路線が競合して決定できなかったため計画が流れたこともあったという。それで整備が先延ばしになってしまったらしい。
別の資料によると、この道路の道路法における名前は、佐呂間町道若佐端野線ならびに北見市道若佐端野線である。
そして、ルクシ峠を境に分割されたこれらの町道と市道は、昭和34(1959)年4月1日付けで、建設大臣による開発道路の指定を受けている。
開発道路とは、道路法施行令第32条により、道道および北海道の区域内の市町村道で、建設大臣が開発のために特に必要と認めて指定した道路を、国(開発局)が直轄で新設、改築などを行う北海道の特例制度で、極めて後発性が高かった道内の道路整備を強力に推し進める重要な役割を果たしたが、平成後期に終了し、現在は行われていない。
右図に示した若佐と端野の位置を見て貰うと、若佐端野線が間違いなくルクシ峠越えの道であると分かるだろう。
そしてこの開発道路の開通年だが、昭和60(1985)年に刊行された『わかさの人々 若佐郷土史』の年表に、「昭和44年 若佐〜端野間産業開発道路全線開通」の記述があり、昭和44(1969)年開通で間違いなさそうだ。
これは冒頭紹介した歴代地形図�Cに初めて旧旧道が登場していることとも合致する。
そして、開通と同時期に、この道は道道へ昇格している。
北海道開発協会が昭和62(1987)年に発行した『あばしり 北海道開発局開局35周年記念誌』によると、昭和44(1969)年9月5日付けで町道・市道若佐端野線が廃止され、一般道道若狭北見線が認定されているのである。同時に開発道路にも再指定されたが、こちらは昭和46年度に解除された。整備が完了したからだろう。
しかし、この道道若佐北見線はとても短命に終わった。
昭和47(1972)年に道道若佐北見線は廃止され、新たに道道北見生田原線が認定されている。ここで一般道道から主要地方道へまた一つ昇格した。
さらに、昭和50(1975)年4月1日に一般国道333号が指定されると、ルクシ峠はその一部となっている。
歴代地形図�Dに描かれていたのが、この国道昇格後の姿である。
まとめると、最初は町道や市道であったルクシ峠だが、昭和34年に開発道路へ指定されたことを契機に整備が進み、昭和44年に初代車道が開通。そこから一般県道、主要地方道、国道へ上り詰めるまで、わずか6年しか掛かっていない。
これは、ルクシ峠の価値が、ローカルからリージョナルへと拡張されたことを物語っている。
開通した初代車道の現役当時の風景やその整備水準は、本編の探索からおおよそ推し量ることが可能だが、やはり最後まで未舗装(かつ冬季閉鎖)であったらしい。
前掲の『あばしり』には、網走開発建設部の国道の整備状況について、次の記述がある。
路線別にみると、昭和60年度現在、舗装率が100%に達しているのは、一般国道39号、238号、239号、240号、242号、243号、334号、391号の9路線である。また、273号は91.7%であるが、昭和62年度には、全線舗装を完了する予定である。残された唯一の路線の一般国道333号は、ルクシ峠、端野峠の改良工事が残っており、鋪装完成に向け工事中である。
昭和60年代ともなれば、全国的にも未舗装国道は相当少なくなっており、「酷道」が珍しい趣味として語られ始めた時期でもある。
とはいえ、ルクシ峠はここで満足はしなかった。後発性を脱するための次世代道路の建設が、峠の地下で着々と進められていたのである。それが現在は旧道となったサロマトンネルだ。
次の世代へ、行ってみよう!

『あばしり 北海道開発局開局35周年記念誌』より
一般国道333号は旭川市を起点として上川町、遠軽町、北見市を経由して端野町を終点とする実延長112kmの道路であり、北網生活圏における極めて重要な幹線道路である。
しかしながら、佐呂間町中園から北見市北陽に至る通称ルクシ峠の前後11.20km区間は未改良の砂利道であり、最急縦断勾配7%、最小曲線半径30mと非常に線形が悪く視距も小さいために車両走行上常に危険を感ずる箇所も多く、冬期間は交通止めとなるなど幹線道路としての機能を十分に果たすことが出来ない状況にある。
このため昭和50年4月の国道昇格を契機としてルクシ峠の難所解消のため道路改良が検討・調査され、山岳地帯特有の峠直下をトンネル(ルクシトンネル L=1625.0m W=8.5m)で進み、トンネル前後に橋長100mを越える橋梁4橋(望郷橋、陽光橋、ルクシ橋、北陽橋)を配置する総延長9.04kmの新道の計画がなされ、昭和53年12月1日にルート承認となった。
国道昇格を契機に新道の建設が計画され、昭和53年にルートが決定された。
この時点では、峠のトンネルはルクシトンネルの名称で、全長も26m短い。
次に紹介するのは、開通を伝える新聞記事だ。

『広報さろま 昭和63年12月号』より
国道333号線のルクシ峠を貫通する「サロマトンネル」(北見北陽−網走管内佐呂間町中園間)が完成した。10日に開通式を行って一般車両の通行を開始した。延長は1651mで、道路トンネルとしては道内で5番目の長さ。
ルクシ峠は未舗装で急カーブが続き、冬季間は閉鎖されるなど国道333号線の交通のネックだった。網走開発建設部は56年にトンネルの本体工事と前後の道路改良工事に着手。これまでに北見側の一部の道路舗装を除いて工事が終了した。総工費は約90億円。トンネルの開通で通年通行が実現して北見とサロマ湖が直結され、観光や経済面での波及効果が期待される。
この日は小雪が舞う中、佐呂間側のトンネル入り口前で午前11時から開通式を挙行。網走開建の中村部長、北川網走支庁長、地元の北見市と佐呂間町関係者ら約300人が出席した。テープカットを行い、くす玉を割った後、10台の車両を連ねて通り初めをした。
サロマトンネルの道路は、昭和63(1988)年11月10日に開通式が行われ、開通した。
昭和56年の着工から7年で開通まで漕ぎ着けたことになる。
そしてこれに続く平成5(1993)年の端野トンネル開通により、国道333号から未舗装と冬季閉鎖が解消された。
開発道路の指定から29年目にして、ルクシ峠は通年通行可能な安全で安心な峠道になった。
幾つもの峠を繋いで旭川と網走を最短で結ぶ国道333号の整備も、端野トンネル開通によって一次改良が完成したのであったが、その背後では早くも、今日の現道である新佐呂間トンネルへと繋がる次世代の道路計画が始動していた……。

「令和8年度 北海道における高規格道路ネットワーク」より
本編探索でみたように、国道333号のルクシ峠における現道は、全長4110mの新佐呂間トンネルである。
そしてこのトンネルは、一般道路でありながら、遠軽北見道路という高規格道路にも指定されている。
右図は北海道の高規格道路ネットワークから、旭川市と網走市を繋ぐエリアを抜き出したもので、旭川から旭川紋別自動車道(国道450号)で遠軽へ出て、そこから国道333号の一部である遠軽北見道路を経由するのが、網走までの最短最速ルートになっている。
これは明治期の「中央道路」の現代版といえるもので、ルクシ峠はここに来て遂に全道ならび全国のスケール感を持った交通ネットワークまで上り詰めた!! これには武四郎もびっくりだろう。
遠軽北見道路は、遠軽町と北見市を結ぶ約60kmの地域高規格道路として、平成6(1994)年12月16日に計画路線に指定された。
この時点で国道333号が完全な並行路線なので、経路にルクシ峠が組み込まれる公算は高かったが、ルートの設計はまだ進んでおらず、当然、新佐呂間トンネルの計画も具体化していなかった。

「遠軽北見道路(一般国道333号)生田原道路 再評価原案準備書説明資料」より
令和6年度に北海道開発局が作成した資料(→)によると、遠軽北見道路の現在までの整備状況は、2つの区間が供用中で、1つの区間が事業中である。
最初に開通したのが�@の旭峠道路で、全長3.5kmが平成14(2002)年に暫定2車線の自専道として供用済である。
次いで、�Aが北陽防災・佐呂間防災として、それぞれ1.8km、5.7kmが、平成15(2003)年と平成21(2009)年に完成2車線の一般道として供用済。
�Bは平成19年度に事業化した全長5.7kmの生田原道路で、完成2車線の自専道として令和6年時点で進捗率62%という。
これらの合計16.7kmを除く43.3kmは、事業化に至っていない。
�@と�Bが自専道として建設されているのに、ルクシ峠に関わる�Aが一般道であることが目を引く。
とはいえ、地域高規格道路や、それを継承した高規格道路は、必ずしも自専道とすることが明文化されているワケではなく、「時速60km以上の定時性の高い高速走行サービスを提供すること」が定められているのみなので、現在の新佐呂間トンネルの状況はこれと矛盾しない。、ここのように歩車分離もないのは珍しいが…。
とはいえ、とはいえである。
そもそも、「佐呂間防災」や「北陽防災」という事業名からして、他の「○○道路」とは明らかに異質であるし、背景にはやはり、サロマトンネルがわずか21年で廃止される原因となったイレギュラーがあったと思う。具体的には、平成13(2001)年10月4日に北陽地区で発生し、通行中の2名が犠牲となった北陽岩盤崩落事故である。
平成8(1996)年の豊浜トンネル事故からわずか5年後に発生した傷ましい同種の事故は、おそらくまだ構想中だった「佐呂間道路(仮称)」を極端な早産へ導き、旧道に早急な引導を渡したのだと思う。
次章ではこの推論をベースに、新佐呂間トンネルの建設や、それと引き換えに廃止された旧道が辿る末路について、文献による調査を進めよう。
第2章 “防災事業”という道路整備特急券の利用と、その小さな代償
北陽岩盤崩落事故は、平成13(2001)年10月4日午前9時40分頃に北見市北陽の【この場所】
で発生した。
大雨で緩んだ岩盤が突如崩壊し、国道333号を走行中の乗用車1台が巻き込まれた。目撃者の証言を元に救助活動が行われたが、掘り出された車内から男女2名の遺体が発見された。発災当時通行規制は敷かれておらず、道路の管理責任が裁判で争われたが、予見困難であったとして後に訴えは棄却されている。
以下は災害とその後の道路整備の年表である。
災害の発生から短期間で北陽防災と佐呂間防災という2つの道路事業が竣工していることが分かる。
| 平成13(2001)年10月4日 | 北陽岩盤崩落事故発生(以後、全面通行止) |
| 平成14(2002)年4月中旬 | 現場の対岸に迂回路が開通。昼間のみ片側交互通行解放。 |
| 平成15(2003)年12月12日 | 北陽防災(L=1.8km)竣工。全面復旧。 |
| 平成21(2009)年3月14日 | 佐呂間防災(L=5.7km)竣工。 |
このうち北陽防災は、発災現場を直接迂回するバイパスを建設するもので、『北海道開発局関係事業概要 平成14年度』には次のように事業の目的が記されていた。
当該区間は、平成13年10月4日に発生した北陽土砂崩落により交通が分断されており、地域住民はもとより、広域交通に著しく支障をきたしている。(中略)このため、早期復旧により、幹線道路機能回復と交通の円滑性及び安全性を確保する必要がある。
北陽防災は、土砂崩落災害箇所の回避による対策工を実施する事により、安全で円滑な道路交通を確保する延長1.8kmの防災事業である。
全体事業費は37億円で、平成15(2003)年12月12日に全長1.8kmが供用を開始している。
だが、工事はこれで終わらなかった。
翌平成16年度に、隣接する佐呂間防災が事業化されたのである。
北見市と遠紋圏を結ぶ国道333号で難所とされるルクシ峠を迂回する新しい道路建設に網走開発建設部が本年度、着手する。延長3.9kmの「新佐呂間トンネル」(仮称)を新設し2001年10月の崩落事故を受けて切り替えた道路につなぐルートで、安全性の向上と時間短縮効果が期待される。同開建が「佐呂間防災」工事(佐呂間町栃木−北見市北陽、延長5.7km)として実施する。現国道は、急カーブが続く峠道。沿道のがけは、崩落現場と同じもろい玄武岩のため、同開建の調査では「長期的に見て同様の事故が起きる危険性がある」と判断された。
道路幅は現在より1.5m広い11m。ポールによる簡易中央分離帯を設ける。総事業費は193億円。用地買収完了後、秋にもトンネル掘削に取り掛かる。開通は2008年度の予定。新道路では、現国道に28カ所あるカーブが3カ所に減り、最大で5.5%の急こう配を解消。所要時間は現在の10分から5分に短縮される。崩落現場周辺では昨年12月、仁頃トンネル(延長910m)が開通、冬場でも1日3800台の通行量がある。
この記事にあるように、佐呂間防災は、北陽の崩落事故現場と同様の地質条件にある道路に対して、将来の事故を予防する目的で実施された。
全国的に見れば、同じ様な悪条件を持ちながら、予防的、抜本的な改築には至っていない幹線道路が沢山あるだろう。
そんな中で、佐呂間防災は災害予防の観点からいち早く事業化され、全長4kmを越える全国的にみても長いトンネルが整備された。
このスピード感の影にはやはり、地域高規格道路としての遠軽北見道路計画の存在があったと私は考えている。
北海道新聞のバックナンバーを検索して、これを裏づけうる1本の記事を見つけた。
北陽の災害が発生する前年の平成12(2000)年12月の記事である。
20日内示された2001年度道開発予算の大蔵原案で、網走管内では、地域高規格道路の遠軽北見道路(国道333号、遠軽町−北見市間)のうち、佐呂間町若佐−北見市北陽間(延長約15キロ)が、ルート選定などを行う新規調査区間に昇格した。
遠軽北見道路の新規調査は、地形分布や物流などの基礎的な調査を行う。着工前の段階で必要な作業で、このあとさらに環境影響評価などが必要だが、着工に向け一歩前進となる。同道路はすでに旭峠道路(生田原町−佐呂間町間)が着工しており、現在、新旭トンネル(1.49km)の工事を進めている。
網走開建の石塚宗司道路第一課長は「遠軽北見道路が開通すれば、遠紋地区と北見・網走間の連絡が良くなる。さらに、拠点病院の北見赤十字病院に冬でも患者を安全に早く搬送できるようになる」と、開通のメリットを強調している。
来たる平成13(2001)年度に、遠軽北見道路のうち佐呂間町若佐〜北見市北陽間15kmを新規調査区間に昇格することが内定したという記事である。
この時点では、旭峠道路だけが事業化されていたが、これに次ぐ事業化区間として、ルクシ峠の区間がピックアップされていたのである。
後に事業化される生田原道路は、まだ頭角を現していない。
また、新規調査区間は15kmとされており、実際に北陽防災・佐呂間防災として建設された区間の長さ(1.8+5.7=7.5km)の倍もある。
なので、新規調査区間の一部が、北陽防災・佐呂間防災区間として日の目を見たのではないかと疑われる。
記事にもあるように、大規模な道路の整備を普通に道路事業として進めようとすると、事業化の前にも、着工の後にも、環境影響評価や事業再評価など色々なハードルがある。例えば生田原道路(5.7km)の場合、平成19年度に事業化され、21年度に工事着手がなされたが、令和6年時点で未だ完成しておらず、この間の平成23年度、26年度、29年度、令和3年度に事業再評価を受けている。
事業再評価とは、着手後(または採択後)に一定期間を経過した事業を改めて見直し、継続・計画見直し・中止を判断する仕組みのことで、そこで重要視されるのが費用便益比(B/C)という数字である。これが現代の道路事業における最大の縛りと言っても過言ではない。そのため、B/Cをどうやって1.0を上回らせるかという計算に世の中の道路関係者は血道を上げ続けている。それはもう痛々しいほどに!!
暇なら見てよこの生田原道路の事業再評価資料を! 内容の大半が、事業の必要性の訴えに充てられている!
だが、防災を主目的とする事業(防災事業)については、基本的に環境影響評価も事業再評価も不要である。
一般的に規模が小さいからということもあるし、早急に完成させなければ、災害を蒙るリスクがあると言うことで、人命重視の観点から、B/Cを条件とせずに事業が採択されている。
もちろん、妥当性に対する何らかの審査はあるだろうが、これについても補助事業ではなく国直轄で行った北陽防災や佐呂間防災に関して言えば、部外の目が審査する機会はなかったといえる。
これは、私がそう思っているだけで、そうだったと書いている文献はないが――(多分これを大臣が言明したら更迭される)
佐呂間防災とは、北陽土砂災害に対する防災事業という機会に便乗した(通常の道路事業のハードルをショートカットして速成された)、実質的な遠軽北見道路の新規整備であったと思う。
頭のいい人たちが、この方法を編み出し、上手く実行したものと思う。
おかげで、4kmを越える長大トンネルを含む新道であったにも関わらず、6年足らずで開通まで漕ぎ着け、遠軽北見間の所要時間を約5分短縮させただけでなく、将来発生しうる土砂災害の危険から無辜の命を守るという大義も果たしたのだ。これは頭が良いと言わざるを得ない。
ちなみに、先ほどの記事以来、若佐〜北陽間の新規調査が進められた記事も記録も見当たらないのは、防災事業で建設された道路によって本来の整備事業は棚上げされたからだと推測する。
しかし、この“代用”による弊害も、わずかながらあった。
それは、新たに整備された道路を自専道にすることができなかったことだろう。
従来の道路が一般道なのに、防災工事で建設した道路を自専道とすることは道理が合わない。
しかも、新道を自専道とするなら、旧道は歩行者のために解放され続けなければならず、それは歩行者を土砂災害に対して見殺しにするという意味になってしまう。
旧道の早急な廃止(少なくとも国道としては使い続けられない)は、防災事業の体裁上から必至の結末だったのではないかと思う。
これが、わずか21年にして、旧道が完全に封鎖されるに至った背景ではないかと考えている。
その道路自体に原因がなかったわけではない(崩れうる地質)とはいえ、もし自分がサロマトンネルの立場だったら、不満を言いたくなる扱いだとは思う。結構悲劇的ではないか。
そして、わざわざ大きなコストを費やしてまで、壊れてもいない旧道上の橋を2本も撤去したのは、旧道の廃止を物理的に確実とする口実……というには流石に乱暴だと思ったので、何か理由を探してみたのだが、正直これと言った事由が見当たらない。
道路法において、供用を廃止した道路の扱いは第92条〜第95条で定められているが、廃道敷を元の地形に原形復旧することは求められていない。これは橋やトンネルといった構造物についても同様で、だからこそ廃道探索は楽しい。
実際には法的義務はないものの、必要に応じて、橋の解体などの跡地処理が行われている。
例えば、廃橋を放置することで洪水を助長する畏れがあるとか、単純に見栄えが悪いとか、危険であるとか、跡地利用の妨げになるとか、ケースバイケースだ。
だから、大河に架かる、あるいは市街地にある廃橋は、大抵すぐに撤去されている。
一方、今回探索の旧道にあった北陽橋やルクシ橋が早急に撤去された事情は、全く不明である。
北見市議会の会議録を検索してみたところ、平成26(2014)年9月22日の議事録に次のようなやり取りがあった。
それと、もう一つ、佐呂間トンネルの有効活用につきましてですけれども、(中略)国道333号の佐呂間トンネルを廃道にするに当たって市道として受ける受けられないという話を国としまして、やはり市道の維持管理といったことの負担が非常に大きいので、市道として受けるのは無理ですというところまでは私どもで北見道路事務所に回答しています。その後北見道路事務所と民間の研究団体で試験的に利用しているというのは聞いていますけれども、どのようにそれが使われているかというところまでは把握してございません。
これが、旧道上にあるサロマトンネルへ至る橋を撤去された北見市側の認識である。
どうやら国は新佐呂間トンネルが開通した後で、旧道を市道として引き受けるかどうか、北見市に打診したらしい。
これを北見市が断ったことで、廃道化することに決し、橋の撤去というアクションを行ったと見える。(撤去の必要性は相変わらず不明だが)
ちなみにGoogle Earthで過去の航空写真を確認したところ、平成24(2012)年7月時点で、既に北陽橋とルクシ橋は失われていた。
つまり、旧道化から遅くとも3年以内には、橋の撤去が行われていたのである。
この速度感はなかなか凄い。
そして先ほどの答弁には、サロマトンネルの跡地利用への言及がある。
これについても検索すると情報があり、「平成26年度共同研究成果報告概要」という報告書が公開されていた。副題は、「廃トンネル内雪室の冷熱エネルギーを利用した農作物の貯蔵に関する研究」とあり、これが答弁にあった「北見道路事務所と民間の研究団体で試験的に利用」の実態だろう。
具体的内容は上記リンク先を見て貰いたいが、今のところは研究や試験の場所として短期間(平成26年度のみ?)利用されただけで、正式な跡地利用には至っていない様子。
おそらくサロマトンネルの両坑口に見られる“悪の研究所”然とした立派な門構えや銘板は、この研究のために拵えられたと思われるだけに、正式化しなかったのは残念である。
現代であれば、データセンター利用とかどうでしょうね?
旧道の佐呂間町側にある望郷橋や陽光橋は撤去を免れているが、これがサロマトンネルに活用の可能性があったからだとすれば、今後も活用の目途が立たない場合、撤去されることになるのかもしれない。
もちろん、佐呂間町が管理するなど、回避する方策はあるだろうが。
机上調査は以上である。
サロマトンネルの旧道は、道路の世界で、力尽きるまで戦うことが許されなかった道だと思う。
それが幸せなことなのか、そうではないのかは、難しい問題だ。
もちろん、人が巻き込まれる顛末は避けなければならないが……、もしもここが遠軽北見道路のコース上になければ、サロマトンネルはリスクを抱えながら、今も現役で活躍出来ていたと思うと、ちょっとだけ可哀想になるのである。