道路レポート 長野県道55号大町麻績インター千曲線 差切峡 第4回

公開日 2015.10.03
探索日 2014.10.28
所在地 長野県麻績村〜筑北村〜生坂村

2号隧道脇での旧道捜索 再度の期待


2014/10/28 13:14 《現在地》

差切3号隧道脇の旧道では、遂に念願の廃隧道を発見した。
続いては、3号隧道のすぐ先に口を開ける2号隧道でも、同じように旧道を探してみることにする。

旧版地形図での描かれ方や、「大鑑」に掲載された隧道のデータ、そして地形の条件まで、3号隧道と2号隧道は、非常に似通っているように思う。
否が応でも、「再度の隧道発見」への期待は高まるのだが、往々にして、こういうフラグはへし折られるものだから、ここは期待しすぎて後で落胆しないよう、慎重に事を進めたい。

そもそもここから景色を見る限り(←)、2号隧道が穿たれた岩壁も、3号隧道のそれと同じくらい厳しく切り立っていて、脇に旧道があるようには見えないと思う。だがそれでも3号隧道には“有った”のだから、やはり近付いてみないと判断は難しいものなのだ。



差切2号隧道の東口である。

見ての通り、素掘にコンクリートを吹き付けただけの簡素な姿だが、隧道上部には3号隧道に勝るとも劣らない垂直に近い絶壁があり、落石を防ぐための金属製の庇が設けられている。
全体的に乳白色の液体が流れたような模様があるのは、吹き付けられたコンクリートの中に含まれるカルシウム分が雨中の酸によって解け出して流れた、いわゆるコンクリート鍾乳石だろう。
色が綺麗な白でなければ、…例えばもし赤かったりしたら、気持ち悪かったろう。

さて、この全長わずか25mしかない2号隧道の脇にも、旧道はあるだろうか。
そして、もしあったなら、今回も旧隧道の期待が持てる状況だ。
果たして辺りを見回すと、ここにも旧道らしき平場が発見された!
それも3号隧道の西口と全く同じように、現道の路面よりも1mほど高い位置だ。
自転車を残し、ガードレールの向こう側の平場へ向かう。




っしゃ!

今回は「キター!」などとは叫ばない、叫ばないが、無言で噛みしめるようにガッツポーズを決める。

奔放に崩れた落石現場の先には、またしても、岩壁の突端に穿たれた小ぶりな隧道が、待ち受けていた。

あと数歩進んだら、この隧道の全容が見えるだろう。そんな瞬間が、一番に楽しい。


キタァーーーッ ! ! !



…ス、スマン大声出して。

今回は叫ばないと言ったばかりだが、駄目だった。

だめだった。これはだめだった。

このずいどう、ちょっとかっこよすぎた。

あへへ えへへ…



坑口前の地形は、先ほどの隧道の東口によく似ている。
だが、こちらはさらに激しく切り立っており、視界を遮る植物も生えていない。
それだけでも十分怖ろしげなのに、坑口前の路面は崩れており、滑らかに谷へ傾斜している。
隧道へ入るには、これを横断しなければならない。
端の方へ近付かず、ただ横断するだけならばさほど危険はないのだが、足元のすぐ近くに切れ落ちた崖が見えているため、精神的にはかなりプレッシャーを感じる。

また、良く見ると、現在進行形で崩壊が進んでいる路肩には、石垣が築かれている事が分かる。
石垣の下は、おそらく4〜50mの断崖となって麻績川に落ちている。
中途半端に切り開かれた絶壁の縁に、石垣を埋め込んで、平らな路面を作り出す仕事。作業者は、どこにカラダを置いてこの仕事をしたのか。考えただけでも震えが来る。
しかも、安全帯とか命綱なんていうものを、ちゃんと利用した時代のものではないだろう…。



坑口の路面ど真ん中に立つ、何とも頼りなさげな木造の電信柱。
こいつにはシンボリックなものを感じた。この隧道の主と言いたくなる存在感。
今どきこんなやせっぽちの木造電柱なんぞ、見られるものでは無い。
路面の中央に立っているので、現役時代のものではあり得ず、昭和28年の廃止以降に立てられたのであろうが、それさえもとうに時代遅れとなり、今では支える電線もなく、その名残とみられる錆びた鉄線や、白い小さな碍子が、風に晒されている。

この電信柱をより強調しているのは、周辺の空虚さ、ある意味の“綺麗さ”である。
ここは廃道であるにも拘わらず、絶壁の正面にあって風雪が直撃するためか、周囲は一木一草が貴重である。
それゆえ木造の電信柱は、高い山の尾根で無情にも立ち枯れた老木のような佇まいだ。
孤高だが、物寂しい。

もちろん、周囲の路面も(落石や崩落を除けば)現役のように綺麗である。
この位置から見通せる隧道内は、そこだけを見れば現役と見紛うばかりで、今にもカーブの向こうから、古き旅装に身を包んだ人物が、ひょっこり現れそうな気さえする。
廃道の魅力を強く感じるシチュエーションには様々なものがあるが、周辺から取り残された孤独の立地にあって、まるでそこだけ時が止まったように道が温存されているというシチュエーションは、そのうちの有力なひとつに数えられる。ここがまさにそうだった。



(←)坑口に立ち、来た道を振り返る。
足元が今歩いてきた旧道で、だいぶ崩壊が進んでいるのが分かるだろう。
電柱が立っている位置も、あまり安定はしていない。
右端の崖の縁には、まだ辛うじてへばり付いている石垣の一部が見えるが、もう完全崩落までは時間の問題だろう。
これが落ちたときに、歩ける部分がどのくらい狭くなってしまうのか、今後の変化に注意だ。

(→)正面に向かって空中へ延びる電線の先には、3号隧道脇の廃隧道が待っている。
今は樹木に隠されて(ほとんど)穴は見えないが、冬場になれば、互いに見通せるかも知れない。

このように、3号隧道と2号隧道にそれぞれ存在する旧隧道は、どちらも電線の通路としては現役である。仮にこのような転用が行われなかったとしても、さほど風景は変わらなかったと思うが、、こうした旧道探しを専門とするオブローダーさえ知らないような旧道を、全く畑違いの電線会社がとっくに知って、しかも有効に利用していたわけだから、(こういうケースは少なくないが)面白いと思う。



異常と言っても良いくらい綺麗な隧道内部。
電線会社がここを小まめに掃除をしているはずもなく、昭和28年以降はほぼ放置状態だと思うのだが、この有り様である。
そもそも天井や内壁といった周囲の岩盤に、全くといっていいほど崩れた様子がないので、極めて安定した堅牢な岩盤に、この空間は守られているのだろう。

仮に今から数十年の後、隧道前後の路盤が崩壊で完全に失われたとしても、この一枚岩の岩壁の突端に、誰も辿り着けなくなった隧道だけは残り続けるだろう。
既にこの隧道は、人工のものの儚さから解放され、悠久の年月を静かに過ごす天然の景観の中に安定している。そんな印象を受ける。

なお、隧道の内部も完全な素掘で、古い隧道(机上調査で詳しく述べるが明治隧道である)にしては珍しく線形が(掘削の未熟さによるものではない)滑らかなカーブになっている。
また長さは短く、おおよそ10mである。もっとも、全長25mの隧道に対する旧隧道だから、この長さでも短すぎるとは思わない。



洞内はあまりに綺麗すぎて、孤高な第一印象を上回るほどの感動はない。
また、西口から外に望む光景も、いささか電信柱が存在感を持ちすぎている。東口には遠く及ばない。
だが、昭和28年以前の道がどのようであったかを知る手掛かりとしては、これほど綺麗に残っている隧道は、貴重な存在である。



西口から振り返る洞内。綺麗な曲線を描いてカーブしているのが分かるだろう。
天井は少し低いが、今でも自動車が通るのに差し支えはなさそうだ。
また、洞内の壁にも、現在は使われていない碍子が取り付けられている。




電柱は少しばかり邪魔だが、岩盤を堂々と貫いている力強さが好ましい、西側坑口。
決して規模の大きな隧道ではないのだが、岩場に対する確固たる存在感が見て取れる。

なお、この隧道も正式名不明だが、とりあえず旧差切第二隧道としておこう。



坑口前は、やや藪の濃い廃道になっているが、
すぐに現道の2号隧道脇に出られるので、探索は容易である。
こうして短い旧道探索が、またひとつ終わりを迎えた。



自転車を回収するべく、差切2号隧道を潜り直す。
そしてその洞内から、3号隧道と、その脇にある旧道の“片洞門”を望見する。

この2号と3号隧道が連なる一枚岩の岩盤こそ、差切峡の最大の難所であり、また名所であった。
この難関を通過するのには、どうしても隧道を避けられなかったということなのか、
昭和の道も、明治の道も、仲良く並んで2本の短い隧道を貫いていた。

ここを終えた今、差切峡の探索もピークを過ぎて、あとは集落という平穏への下り道。
しかし、3号、2号ときたからには、最後の1号隧道にも期待したくなるのが、人情だ。
果たして、「二度あることは三度ある」となるのか否か、 次回、