右図の通り、今回探索した県道55号の差切峡区間には、2本の素掘り廃隧道を含む多数の小規模廃道が、現道の各トンネルに対応して存在していた。
現道が整備された時期は、「大鑑」の記録から昭和28(1953)年頃と推測されており、したがってこれら旧道群は、昭和戦前、あるいは大正・明治時代まで遡れる可能性が高く、いわゆる「明治車道」(明治車道は、自動車が主流となる以前の馬車や荷車や人力車を想定した車道で、明治の文明開化の流れの中で各地に誕生した第一世代の車道のこと。代表的な道は、万世大路や清水国道)であることを期待させた。
旧道群の正体を含め、差切峡の道路回収の経緯を確かめるべく、帰宅後に机上調査を行った。
まず入手したのは、『生坂村誌 歴史・民俗編』(平成9年刊行)だ。
差切峡は、ほぼ中間地点を流れる支流「彼岸沢」を境に、生坂村と筑北村とに分かれているが、生坂村は西側半分(現道の3号隧道から西)である。
差切峡道路史(1) 近世の「川手道」は差切峡を避けていた
『生坂村誌』によって差切峡付近の交通の由緒を探ると、近世まで「川手道」と称されていた、松本平と麻績盆地の間を犀川および麻績川沿いに通っていた街道の存在に辿りつく。
左図の赤線はその大まかな位置である。
松本平と麻績盆地を結ぶ街道としては、江戸五街道である中山道を塩尻で別れ、松本城下、麻績宿を経由、篠ノ井で北国街道に合流して善光寺(長野市)へと達していた善光寺街道が、近世を通じて重要視されていた。善光寺参りの旅人や行商の人々がこの道を陸続として通った。その並行別路線として、川手道があった。
この道も松本藩の公道であり、善光寺街道や千国街道などと同様に(小規模ながら)一里塚も整備されていたというが、基本的には犀川沿いに点在する村々を結ぶ生活路という範疇を出るものではなかったようだ。
川手道のルートは、その名の通り、松本城下から生坂(いくさか)までずっと犀川に沿っており、現在の国道19号のベースである。しかし生坂からは犀川を離れて山を越え、麻績宿で善光寺街道と合流した。この後半部分の生坂〜麻績間が現在の県道55号のベースである。
しかし、生坂〜麻績間のルートは、今のように差切峡を通るものではなかったらしい。
『生坂村誌』にはこう書かれている。
犀川と麻績川が合流する一帯を山清路といい、令和の現在も国道の改良工事が続けられているほどの嶮難な地形である。
そして麻績川の差切峡の険しさは、本編で述べたとおりである。
これら山清路と差切峡に道を作る事は容易なことではなく、いずれも大きく山の上へ迂回していたのであった。
難所の開削が企てられるのは、車道としての低平な道路が必要とされた、明治以降であったわけだ。
差切峡道路史(2-A) 明治の「差切新道」が峡谷に挑んだ
右図は、本編で繰り返し使用した昭和27年版地形図よりもさらに古い、明治43(1910)年版地形図である。
注目すべきは、この図にも既に(昭和27年版と同じ位置に)3本の隧道が描かれていることだ。
そして、今回の現地調査によって、このうち西寄りの2本は立派に現存していることが確かめられた。
(残る1本は、「大鑑」に「5号隧道」として記録されている位置にあったようだが、現在は現道の切り通しになってしまった模様)
この明治の地形図上に青と赤で着色したラインは何かというと、青は近世の川手道、赤が明治時代に開鑿された新道である。
(川手道については、「村誌」に書かれた地名を結ぶと、このルートであったろうと考えられる)
明治の新道は山清路や差切峡の谷沿いに開通しており、従来の山越えの道は、この後に廃止されていくことになる。
同時に、山清路には犀川を渡る橋が初めて架けられ、犀川の下流に向かって長野市へ通じる道が切り開かれていったのも、明治時代からだった。
左図は、明治35(1902)年時点での、麻績盆地周辺の主要な交通路を示したものである。
近世において特に重要であった善光寺街道や北国街道には、この時点では並行して鉄道の開業を見ている。(もちろん道も存続していたが、主要な交通機能は鉄道に置き換わったとみて、図では鉄道のみを目立たせている)
今回探索した差切峡に切り開かれた最初の道は、この明治35年時点で既に存在していた。
郡道差切街道というのが、当時の記録に残る路線名である。
同じように、図中の川手街道や山清路街道なども、それぞれ東筑摩郡の郡道の格付けにあった。
対して、旧善光寺街道は格上の仮定県道西街道、旧千国街道も仮定県道糸魚川街道とそれぞれ呼ばれた。(一般に「郡道」という道路の種類は、大正8年に制定された旧道路法により認定されたものだが、長野県では明治33年から、里道の一部に郡費の補助を与えて整備を行っており、これを独自に「郡道」と呼称していた(他の県での「郡費支弁里道」と呼ばれるものと同じ)。また、「仮定県道」とは、長野県が指定し国が正式に認定するはずが、実際には(全国的に)国による県道認定が行われなかったので、当時の県道は全て「仮定」県道というのが正式である)
主要街道沿いの鉄道の開業や、道路に国道・県道・里道(郡道もその一部)などの格付けが生まれたことは明治に入ってからの大きな変化だが、もちろん名前だけでなく、道路網自体にも大きな変化があった。後の国道19号である犀川沿いに松本と長野を結ぶ道(川手街道&山清路街道)は、この時代に本格的に開鑿されたものだ。
そして、我らが差切街道は、この犀川沿いの新道と切り離せない密接な関係があった。
『生坂村誌』には、「郡道差切街道」の開鑿に関して次のような記述がある。
最初に差切峡に道を通したのは明治11(1878)年のことで、犀川から麻績川筋へ入って最初の集落である生坂村込地、そして差切峡を越えた反対側の坂北村仁熊(にゅうま)、さらに山清路から金熊川を少し遡った所にある広津村宇留賀といった集落の有志達によって、「掛け橋を造って開通させた」とある。特に宇留賀の戸長である牛込久瑳(きゅうさ)という人物が中心的な役割を果たしたようである。
だが、この工事だけで差切峡の通り抜けが可能になったわけではないようで、さらに久瑳は明治20年から東筑摩郡会に働きかけ、明治24(1891)年についに差切新道という新道を開削したという。
明治11年と24年の工事が、それぞれどの地点で行われたのかははっきりしない。
そして、最後の部分に出てくる、明治24年の差切新道開削後に「トンネルを3ヶ所開けた」という記述が、大きな謎を作っている。
今回探索した旧隧道たちは、明治24年の時点ではまだ出来上がっていなかったのか。
しかし、明治43年の地形図にははっきり描かれているので、それから20年も経たないうちに掘られたことは確かなようだ。
『生坂村誌 歴史・民俗編』より
そしてさらにこの『生坂村誌』の記述の謎を深くしているのが、一緒に掲載されている(←)写真とキャプションとの矛盾だ。
これは明らかに今回探索した旧道の二つの場面だが、ここには「明治24年開削の差切新道」と書かれていて、隧道は明治24年にはまだなかったという本文と矛盾している。
そもそも、この隧道がある地点というのは、右写真のような、ほとんど迂回のしようがないような地形なのである。
確かに、車道ということに拘らないならば、崖に桟橋を架けて迂回することも、無理ではないかも知れないが、ここに岩場を迂回するような桟橋を作るのは、隧道を掘る以上に難しいように思える地形だ。
他の隧道も、同様の迂回困難な難所であった。
そうなると、明治24年の時点ではまだ新道は完成しておらず、部分的整備(未開通)に留まっていたのではないかということも、考えられねばならないだろう。
隧道が完成し、全線が開通したのはいつだったのか。
これは、『生坂村誌』の読後に残った大きな疑問点だった。
なお、差切新道と接続している山清路の川手街道が開通したのは明治34(1901)年であり、これにより長野と松本を結ぶ犀川沿いの道が完成した。
また、鉄道の篠ノ井線も同じ年に信越線分岐駅の篠ノ井駅から麻績盆地南端の西条駅まで開業し、翌年には松本駅まで開業している。
こうして、明治35年頃に東筑摩郡の交通網は旧態から一新されたのであるが、この頃の差切新道には次のような活躍が見られたという。
この記述から、差切新道を馬が引く荷車が通っていたことが分かる。
また、「山清路で荷上げされた」とあるのは、犀川通船のことであり、山清路には川港があった。犀川通船は江戸時代の末期(天保年間)から始まり、昭和10年頃まで存続した。
つまり、この時期の差切新道は、犀川中流域における水運と鉄道の連絡路という、とても重要な機能を担っていたのである。
『東筑摩郡誌』(大正8年発行)(以下「郡誌」とする)に、郡内の県道や里道の変遷がまとめられており、その中から当地と関係のあるものを抜き出して時系列順に並べると、次のようになる。
明治9(1876)年頃 | 川手街道が3等県道に指定される。 |
明治19(1886)年 | 川手街道の県道指定解除。 |
明治23(1890)年 | 川手街道が仮定県道に指定される。 |
明治26(1893)年 | 川手街道や差切街道が郡内枢要の里道に認められ、東筑摩郡会の5箇年間2分の1の補助金醵出による改修が行われる。 |
明治32(1899)年 | 川手街道が再び県道指定解除される。 |
明治33(1900)年 | 川手街道や差切街道、山清路街道などが、東筑摩郡の郡道に指定される。 |
明治41(1908)年 | 川手街道の南半区間が明科街道、北半が生坂街道に分割される。 |
明治45(1912)年 | 東筑摩郡内の郡道が甲号18路線と乙号15路線に区分され、差切新道(街道ではなく新道と書かれているが、改名されたのか誤記かは不明)、明科街道、山清路街道などは甲号に、生坂街道は乙号に指定される。 |
大正6(1917)年 | 郡道の呼称を郡費支弁里道に改めるとともに、路線名を従来の○○街道から○○線に改訂。また、路線網も整理される。このとき、従来の郡道明科街道、郡道生坂街道、郡道差切街道が一本化し、郡費支弁里道川手線へ改称される。 |
このように目まぐるしい制度と路線名の変遷があった。
差切峡道路史(2-B) 「差切新道」と坂北村
令和2(2020)年5月、筑北村坂北長田にある旧坂北村役場跡にて、近所からの移設とみられる左写真の道標を発見した。(発見時の模様はこちらのレポート)
正面向かって右側に「郡道差切新道」、左側に「縣道西街道」と陰刻された、記年を持たない花崗岩製の道標で、内容からみて明治期のものと推定される。
この立派な道標の存在は、旧坂北村も----------------------------------生坂村と同様に差切新道の“当事者”であったことを窺わせる記念物であり、その思いがけない発見は、長らく確認をサボっていた坂北村の村誌『村誌さかきた下巻(歴史編・近現代篇)』(平成9(1997)年刊行)の確認を促すという効果があった。
そしてその結果、今回のこの机上調査編の大幅増補に結びついた。
さっそく、『村誌さかきた』にある差切新道関係の記述を拾ってみよう。
抜粋だが、かなりの量がある。
明治26(1893)年里道補助規則及び里道改修の補助方法を定め、以後5ヶ年の継続費をもって郡内枢要の里道に対し改修の補助を出すことになり、その中に差切街道も入っていた。
これにより差切新道を里道として開くため、坂北村及び生坂村両村において組合を設立する動きがあり、同26年12月15日両村は(中略)両村長名で東筑摩郡長に対し組合設立の許可を申請し、同年12月23日付けで許可された。
同組合は12月26日に組合会を開いて@差切新道開鑿方法、A差切新道開鑿費収入支出法予算を決定した。その内容は差切新道開鑿は明治27年度より向こう3ヶ年をもって竣工させ、開鑿費は両村の税負担のほか本郡よりの補助金、関係部落の有志金、道敷、潰地とも所有者の寄附を受けるものとし、開鑿費総額6047円63銭2厘(工費総額5327円、測量費120円、監督費200円、雑費150円、予備費250円)、27・28年度を第一工事とし、坂北村字畦岩(現差切峡入口)から生坂村字重二本松に至る間を開鑿する。29年度を第二工事として残りの工事、縣道麻績西条線から字畦岩(日向山〜竹場間を除く)を行うなどとするものであった。
組合ではこの決定をもって翌27日に郡長宛に「差切新道開鑿願」を出し、途中工費の変更(工費総額5300円43銭2厘、うち第一期工事費4194円20銭、第二期工事費1106円23銭3厘)等もあって一年後の明治27年12月24日付けで聞き届けられた。
旧坂北村の村史には、ちょうど生坂村誌の記述の後を引き継ぐかのように、明治26(1893)年以降になされた改修計画について、かなり詳細に述べられている。
だが、なぜかそれ以前の改修については触れられておらず、生坂村誌に書かれていた明治11年や24年改修など無かったかのように取れる。
右図は、上記の坂北生坂両村による差切新道開鑿計画を明治43年の地図上に再現したもので、第一期工事は畦岩〜重間、第二期工事は県道麻績西条線から畦岩(ただし日向山〜竹場を除く)であったという。前者の方が遙かに短距離だが、工費は4倍以上を見込んでおり、隧道3本の開鑿を含む難工事が予測されていたことが分かる。
こうして地図上で見ると、生坂村内の工事区間が、村境から重集落までと非常に短いことに気付く。
これは私の推測だが、山清路橋〜重間は、生坂村誌に述べられていた明治24年の差切新道開鑿工事によってなされていたのだろう。これで、同書の「その後トンネルを3ケ所開けた」という記述も解釈出来る。
また、差切新道の坂北側の起点の位置が、「縣道麻績西条線」との分岐地点だったことが判明した。
ただし、当時の県道の路線名は「仮定県道西街道」が正しく、県道麻績西条線は大正9(1920)年に改名された後のものである。
この起点の具体的な位置は、現在の筑北村坂北長田で、先ほど紹介した旧坂北村役場前で発見された「郡道差切新道」の道標は、当初この分岐に置かれていたと考えられる。
右図は、明治43年の地形図の坂北村中心部付近を拡大したもので、「長田」の注記の隣に「役場」記号があり、すぐ近くに西へ分かれる「里道」があるが、これが「差切新道」である。
興味深いのは、「中島橋」〜「長田」間で、従来の差切街道とは異なるルートを切り開いていることだ。
当初の差切街道は、中島橋から北東に向かい、日向村和合を経て麻績村立石で仮定県道西街道と合流していたのだが、差切新道はこれを改め、中島橋から南東へ向かい、坂北村長田で仮定県道西街道と合流していた。
この径路変更が行われた理由は、計画の当事者が麻績村や日向村ではなく、坂北村であったからに他なるまい。
このルートでなければ、坂北村にとって差切新道の旨味はだいぶ減じてしまったであろう。
百年をひとつの欠けなく耐えてきた立派な道標石には、この村の熱意が込められているように感じる。
なお、西街道の青柳付近には近世以来の険しい坂道と狭い切通しがあるために、戦後にルートの変更が行われ、現在の国道403号と同じく中島橋を通るようになった。
すなわち、現在の国道403号は、明治時代の差切新道や差切街道を再利用していたことになる。
あまりこうした内容に興味を持つ方は多くないと思うが、敢えて省略せずに当時の工事の裏側の大変さを紹介した。こういう段階を踏んで道が出来ていたからこそ、昔は“わが道”意識が一般に強く、道路の掃除ばかりか修繕までもその多くが沿道住民によってなされていた。
計画が出来、郡長の許可も得られ、そして予算もどうにか集まり、いよいよ差切新道開鑿計画は実行段階へ。
上記により、差切新道の全線開通は、明治29(1896)年8月頃と判明した。
また、私が現地で目にした2本の素掘り隧道は、いずれも明治28年9月に開通した第一工事に属していたものであろう。隧道の竣工年、これでやっとはっきりした。
こうして、生坂村と旧坂北村の村史を両方確かめたことで、差切新道開鑿工事の全貌が分かった。
生坂村が工事を先行させ、明治24年に重〜山清路橋間を完成させ、次に坂北村と組合を作って、長田〜重間を完成させたのである。
最後に、明治期に書かれた別の資料も見てみたい。
明治43(1910)年に教倫堂という出版社が出した『探検探勝日本アルプスと山麓の景勝』というガイド本があるのだが、そこに「山清路、磋咨切新道遊覧順路」という記事がある。(この記事ではなぜか「差切」が「磋咨切」と書かれている。ちなみにこれを逆にした「咨嗟」には溜息をつくという意味がある)
この一部を引用してみよう。
抑(そ)も此新道は明治四年坂北村仁熊と広津村会及生坂村字込地の有志相謀りて僅かに犬の通ふが如き径路を開き後十一年中改修し同二十四年以来郡の補助と有志の義捐とに依りて人馬の通すべき郡道となしたるものなり
最も早くは明治4年から新道工事が始められ、11年に改修し、さらに24年から大規模な改修が行われたとあり、生坂村誌の内容に近い。
差切峡道路史(3) 昭和の再改修
差切新道が開通して後の明治30年代後半は、犀川流域の村々と鉄道を結ぶ重要路線として頻繁に馬車が通るなど、華やかな活躍がみられた(生坂村誌より)が、犀川流域住民の興味は次第に、この山間の道よりも、犀川沿いに松本と長野を最短で結ぶ県道長野飯田線(後の国道19号)を自動車道として整備することに傾注されていくようになる。
差切の道に対して高い熱量を保ち続けたのは、麻績盆地一帯、筑北地域の人達であった。
『村誌さかきた下巻』によると、大正6年に郡道差切街道は郡道生坂街道および明科街道と一本化され、郡道川手線に改称された。これは近世の川手道の再現だった。
だが、大正8年に初めて道路法が制定され道路制度が一新されたことで、大正9年4月1日、差切新道の区間は新しい国道・府県道・郡道・市道・町村道という5階級の3番目にあたる「郡道山清路麻績線
」に認定された。(路線名から察せられるように、この路線はやはり筑北村中心部を通らず、中島橋から麻績村へ向かうルートであった)
だが、この路線名も短命で、郡制廃止にともなう郡道消滅のため、大正12年4月1日に「県道大町麻績線」に昇格・認定され、以後この路線名で長く過ごす。
郡道山清路麻績線は麻績村〜生坂村の短距離だったが、県道大町麻績線は、これに生坂村〜大町間が追加され、かつての川手道の南北道路的性格から変化して、現在の県道55号に通じる東西道路的性格が明確になった。南北道路の役割は、改修の進みつつあった犀川沿い県道長野飯田線へ譲ったのである。
この時期からの県道大町麻績線の役割について、坂北村誌は――
――と述べている。ここに指定県道という言葉が初めて出ているが、これは現在の主要地方道にあたる制度で、通常の県道よりも国庫補助率などの面で格上だった。
近世までは沿岸に道らしい道がなかった犀川下流(生坂〜長野)が、押しも押されもしない一級国道19号として飛躍する前段階に、川手道という助走の時代があり、その一端を差切新道が担った。
しかし、差切新道は(言葉は悪いが)切り捨てられ、今度は地方交通色が濃い道として、時流に則した改修を待ったのである。
組合では県の道路改修工事費に対する地元寄付金に充てるため昭和17年に7000円、19年に1万円、26年に100万円、27、28年に200万円と長期債を借入し、これをそれぞれ10年間に組合各村の分賦金その他で償還しながら改修工事を進め、28年度工事をもってようやく全線開通となった。
『道路トンネル大鑑』には、右のように差切1〜6号隧道と込地隧道という7本の隧道が、一般県道中島大町線に記録されている。
竣工年はいずれも昭和28年で統一されており、村誌の記述を裏付けている。
こうして、昭和28(1953)年度をもって、差切峡を自動車が通れるようになった。
そして現状を見る限り、これ以降は大規模な拡幅はあまり行われなかったようで、防災工事主体となっていったようである。
昭和27年に道路法が全面改正された後、昭和34年8月1日に県道大町麻績線は一般県道中島大町線に改称された。
この中島というのは、現在の国道403号と県道55号が分岐している中島橋の地点である。
さらに、昭和45年10月29日には一般県道新田坂北停車場線に変更され、大町側区間が短縮されたが、初めて終点が坂北村内となった。
そして、昭和57年9月に主要地方道大町麻績インター戸倉線に指定されて、再び大町まで延伸されると同時に、また終点は坂北村内ではなくなり、麻績村から東へ四十八曲峠を越えて上田盆地まで通じる、筑北地方の長大な東西貫通路線になった。
最後は、平成15年9月1日に町村合併に伴う路線名の変更があり、主要地方道大町麻績インター千曲線へ改称されて、現在に至る。
差切街道の交通路としての黄金期は、麻績盆地に篠ノ井線が開通した明治34年から大正時代までであった。
昭和以降の改修は、昭和28年に自動車が通れるようになったものの、相対的にはあまり進まず、狭いトンネルや見通しの悪い線形などがふんだんに残り、現在ではいわゆる“険道”と呼べる道路状況になっている。
それでも、この道にはただのマイナー路線ではない強みがある。
かつて、天険に挑んで困難な開削を成し遂げた功名とも言うべきものだ。
差切峡という偉大な景勝地に迫る唯一の道として、勝景道路としての魅力がある。
生坂村と旧坂北村のどちらの村誌も、差切峡の景勝を賞賛とともに紹介している。
また『生坂村誌下巻』によれば、本編に登場した村境彼岸沢の生坂側にそそり立つ右写真の大岩には、「天狗岩」という名前があるという。現道の差切3号隧道と、明治の隧道の1本が、この大岩を貫いており、明治隧道には、天狗岩隧道の名が相応しかろう。
また、この村境にかつては差切鉱泉藤屋旅館があって、昭和5年から営業していたが、同34年の災害で流失したという。現道の冷水橋に昭和35年竣工という銘板があったが、おそらくこのときの災害で先代橋が流失したのだろう。近くの【旧道上にある民家】も、流失した旅館と関係があるのかもしれない。
この地は明治以来、景勝地として知られていた。
絵葉書通販サイト「ポケットブックス」で「差切」をキーワードに検索してみると良い。素晴らしい絵葉書画像をいくつも見ることが出来た。
サンプル画像への直リンクは控えるが、「長野 差切の景 その1」と名付けられた画像は特に一見の価値がある。ばっちり明治隧道が写っていた! 差切2号隧道脇の旧隧道と思われる。
他に、「長野 阪北村 差切の奇勝」と名付けられた画像には、見覚えがない隧道が見えるが、これは切り通しになって失われた旧差切5号隧道と思われる。全体的に、昔の差切峡の風景は今よりスケールが大きく感じられる。樹木が今のように育っておらず、峡谷内の見通しが良かったためだろうか。
長野県出身の俳人加藤犀水は、昭和初期にここを訪れて、
“天工の差切る岩や秋の水”
と詠んだ。
鳥立鉱泉前の沿道には、この句碑を含め、昭和3年から44年の年号を持つ4基の文学碑が仲良く並んでいる。
私に俳諧を嗜む風流はないが、“天工”が道を遮るから、“人工”がそれに挑む。
そして成功したり失敗したりを繰り返してきたのが、歴史である。
差切峡には、人が早くから通ってきたこその味がある。険しさは、人に観察されるまでは、風流でもなんでもない。
こういう古くから見られてきた景色にこそ、私は最も価値と愛着を感じる。