道路レポート 広島県道25号三原東城線 神龍湖旧道 第4回

所在地 広島県神石高原町〜庄原市
探索日 2020.12.23
公開日 2021.01.08

仮称「旧々2号隧道」を探索する


2020/12/23 12:57 《現在地》

この発見、目論見が見事に決まって、最高に気分が良かった。
前話の公開後、読者諸賢からもたくさんお褒めいただき満足です。

旧県道上からは、ガードレールから身を乗り出してもこの坑門は見えないだけに、例えばここに隧道を描いた古地図のような事前情報があって、それを頼りに辺りを探し回るということでもなければ、今回私が行ったように旧県道上に露出する南側坑門の一部にヒントを得て探すほか、この北側坑門発見へ至る術はなかったように思う。
(後日に歴代地形図を全て確認したが、ここに隧道を描いた版はなかった)

自賛の愉しみはこのくらいにして、発見された隧道の観察と探索を進めよう。
まず、この隧道の素性だが、現道から見た旧々道だ。
先に剣橋周辺で目にした旧々道と世代を同じくする道であると思われるが、外見は剣で見た素掘りの隧道とは全く違っていた。

旧々道は既に神龍湖の底へ消えたと思っていたが、どうやらそうではなく、旧道の10mほど下の湖畔を並走していた可能性が高くなった。少なくともこの隧道は、満水位よりも上にあった。



来た道(?)を振り返った。

しかし、道は20mほど先で、斜面と笹藪に呑まれて鮮明ではなくなっていた。
おそらくだが、すぐ上を並走する旧道の建設によって上書きされる形となったものだろう。
旧々道は旧道とトレードオフで廃止されたと思われる状況である。

左は湖面で、この日の水面とは15m以上の落差があった。
満水位との比較だと、10m程度と思われた。

右上には旧道の切通し北口に立つカーブミラーが僅かに見えるが、仮にカーブミラーによじ登っても隧道そのものは見えない。
私は道なき斜面を桃色の線のように下降してやってきた。行程自体は容易だが、動機がなければ絶対にやらなかった。
隧道前の旧々道は、このように旧道と湖に挟まれて、そのどちらからも隔絶した小空間だった。




坑門(北口)近影。
第一印象は、変わった断面の形だなぁ……であったが、これについては後述。

私をここへと誘った“笠石”というのは、坑門上部にある少し出っ張った部分のことである。
地表水が坑門を流れ落ちることを防ぎ、坑門の汚れを防止する美観的な意味合いが強いパーツだが、坑門の上端部を補強し、また坑門のルックス全体に締まりを与える効果もある。

改めてこの笠石を、先ほど旧道上で撮影した“謎のコンクリート壁”の写真と比較してみたが、間違いなく同一形状であり、あれが南口の残骸だったと確信できた。
ただし、南口の笠石は向かって左側(川側)の半分程度しか残っていない。残りは旧道の邪魔になるので撤去されたようだ。

なお、この隧道には扁額や銘板が存在しないため、名称その他いかなる文字情報も得られなかった。
しかし、旧々道上で見つけた2本目の隧道であり、何か適当な仮称を与えないとややこしい。
そこで改めてこれまで旧々道で見つけた2本の隧道について、発見した順に、「旧々1号隧道」「旧々2号隧道」と名付けたい。したがってこの隧道は「旧々2号隧道」と仮称する。
旧道に「一号隧道」「二号隧道」「三号隧道」があった(『大鑑』)ので、頭に「旧々」を付け、さらにアラビア数字を用いて区別しよう。

それでは、洞内へ。

僅かな距離で確実に閉塞しているであろうが。



第一印象として先ほど述べたとおり、変わった形の断面である。
側壁が垂直で高く、アーチ型の天井は半円に満たない欠円アーチ(下心アーチ)である。そして、側壁とアーチが接する起拱線(スプリングライン)が連続した曲線になっておらず、明瞭に角度が付けられている点に大きな特徴がある。

全体として四角形に近いため、四角形の車両を想定して作る建築限界と比較して余計に掘る部分が少なく経済的といえるが、アーチ構造が持つ地圧に対する対抗力は限定的で、そもそも素掘りでも大丈夫なくらい地山が安定していなければ危険な断面だろう。

私はこれまでこの断面の隧道を各地で目にしている(例1例2)が、体験した隧道の総数から見れば、おそらく1000本に1本レベルのSRぶりだと思う。
(統計的にも、昭和30年代から40年代初頭に作られた全国の代表的な250本の隧道を図面付きで紹介する『道路トンネル大鑑』や、大正末から昭和15年頃までに作られた全国の代表的な代表的な96本の隧道を図面付きで紹介する『本邦道路隧道輯覽』にも、この断面の隧道は掲載がなかった)

この珍しい断面の隧道に、建設時期や立地について傾向性があるかどうか、ツイッターでフォロアーさんの協力を得て調べてみたが、一言でまとめられるほど単純ではなかった。
ただ、いずれも場所打ちコンクリート隧道であるため、概ね昭和初期以降であり、かつ新しい(昭和50年代以降)のものが見られないことや、地山の良さに頼り、美観を重視せず、経済性を最大限に優先した断面であるために、どちらかというと事業目的で作られた隧道、具体的には鉱山坑道やダム関連道路などに多く見られる傾向が確かめられた。



隧道内部は、思いのほか強く曲がっていた。
このカーブの有様は、地上に並行している旧道とそっくりで、隧道の道形をそのまま地上へ置き換えたのが旧道ではないかと思えるほどだ。
しかし、カーブがカクカクとしておらず、スムースに曲がっている点は、自動車による交通を前提としているように感じられた。明治時代の馬車道とかにある隧道とは根本的に違う。

断面のサイズは、既に見た旧道の一号・二号隧道(幅4.7m高さ4m)と較べても小さく見え、幅・高さとも3.5m程度だ。オート三輪ならまだしも、四輪自動車のすれ違いは不可能である。

もう一点、この隧道が見せる意外に現代的な要素として、コンクリートで仕切られた両側の排水溝の存在が挙げられる。
隧道内に排水溝を設けることは明治以前から必要視されていたが、曲線隧道に沿わせてコンクリートで綺麗に施工されていた。
また路面は未舗装ながら泥濘んでおらず、良く突き固められた土面であり、タイヤパターンはさすがに消えていたが、まるで現役のようだった。

先に、美観よりも経済性を配慮した坑門や断面形状だと感じた一方、この排水溝や路面の出来の良さからは、山峡の景勝地に自動車交通を導引する役割をもって立派に修築された、そんな記念碑的な公園道路の姿をイメージした。



入洞時点で既に奥にうっすら見えていたが、閉塞壁である。
一応私はヘッドライトも点灯させているが、その必要がないほど外光の届く閉塞壁だった。

北口からおおよそ40mの地点であり、壁は明らかに人為的に積まれた土砂であった。土砂の質感が独特で、よく石灰石の採掘場で目にする白い石灰岩の岩石片そのものだった。それをある程度平面的な斜面になるように整えて積んだ形跡があり、既に見た南口を旧道路面に埋め戻す作業の丁寧さが窺えた。




一応、閉塞壁によじ登って、空洞の末端を確認した。
そこには、天井のアーチの先端が破壊されない綺麗な形のまま残っていた。その向こう側は完全な土砂の壁。ここが間違いなく南口だ。
旧道と引き換えに廃止された旧々道、旧々隧道であったことがよく分かる光景だった。



閉塞壁から振り返った旧々2号隧道のほぼ全長だ。

扁額すら持たない化粧っ気のない坑門や、地山の良さに頼って経済性を最優先した食パン型の断面を持つ一方で、公園道路的な丁寧さを感じさせる排水溝や路面の造りの良さもあった。
そして全体的に非常に良い保存状態であり、外の道がこれほど分明ではない状況で、同じ時代のものであるはずの隧道がこれほど綺麗に残っていることが、秘密の発見めいていて楽しかった。




僅かな時間で地上へ戻ってきた。

カーブした洞内からそのまま急な右カーブが続く北口から見る外の眺めは、キャンバス全てを塗りつぶすような白い石灰岩の対岸絶壁であり、観光地の第一条件である車窓の意外性に満ちていた。
いったいどのような時代に、どのような車がこの窓を眺めていたのか。
旧々1号隧道の発見と同時に生まれていたこの疑問が、ますます大きくなっていた。



地上へ戻った私は、次に自転車を残してある旧道への復帰を考えたが、降りてきた径路を戻るのではなく、少し悪戯心を持って隧道直上から南口へ山越えをしてみることにした。
全長わずか40m(目測)ほどの隧道であるし、ここから既にその土被りの小さなことが見えているので、容易に実現可能に思われた。


ガシガシと落葉の斜面をよじ登ると、すぐに北口の直上に至った。
写真はそこに立って見下ろした北口続きの旧々道だが、眼下のカーブの先は前述の通り笹藪と斜面と同化して明瞭を欠いていた。

この見下ろした北口の位置と、直前に歩いたカーブした隧道の形状を脳内の立体地図に投影したまま、隧道直上をなぞるように尾根上を埋める腰丈の笹藪を掻き分けていくと……



13:04 《現在地》

このように簡単に見覚えのある地点に到達した。
ここは旧道の切通し南口であり、ちょうど足元の数メートル下に笠石が埋まっていた。
ほぼ同じ高さから、北口を見下ろしたこの上の写真と比較してみると、確かに旧道と旧々道が、坑門程度の小さな比高を介して、並走していたことが分かる。




これは少し前の行程中に、旧道が切通し南口に近づく手前で撮影していた写真だが、切通しの直下にある旧々2号隧道の南口が特定されたことで、そこへ続く旧々道の位置も改めて推定されることとなった。

しかし、はっきりとした道形は残っておらず、旧道の長年にわたる整備と活躍の中で、直下の旧々道は斜面と同化して消え去ったものらしい。
またさらに100m弱南下すると、先に紹介した【湖岸に石垣が露出】した箇所があるが、旧々道時代の路肩擁壁の可能性がある。




……しかしである、こうして見れば見るほど、奇妙ではないか。

なぜ旧道は、こんなに近くにあった旧々道を拡幅改良せず、少しだけ高い位置に新たに道を作り直す必要があったのだろう?

この疑問は、事前調査をほとんどしていなかった私には難問であったが、少し観念し、探索中にリアルタイムで読んだウィキペディアの帝釈川ダムの項に次のように書かれていたことが、突破口となった。


帝釈川ダムは、大正13(1924)年に完成して湛水したが、僅か7年後の昭和6(1931)年に5.7m嵩上げされていた。

始めて目にした情報。
こんなに古いダムが、完成からたった数年で嵩上げされていたという、驚くべき事実。
しかし、ここまで積み重ねっていたいろいろな疑問が、一瞬で氷解していくのを感じた。
これはもしかすると――

旧々道は、帝釈川ダムが大正13年に高さ56.9mで竣功した初代の付替道路。
旧道は、昭和6年に5.7m嵩上げされた時に付け替えられた2代目の付替道路。

そう考えると、旧々道と旧道が、微妙な高度差を付けて並走しているのはなぜか。
旧々道が未だに完全に湖底に没せず、河床から微妙に高い位置を通っているのはなぜか。
旧々2号隧道が、ダム付け替えによって作り出された隧道にありがちな形状をしているのはなぜか……
といった数々の疑問が解決する。


だが、そこには一つ、克服すべき大きな矛盾があった。  それは――


『道路トンネル大鑑』が、既に見てきた2本を含む旧道上の3本の隧道(一号・二号・三号隧道)を、大正15(1926)年竣功としていることだ。
そこに併記された長さや幅、高さといったデータは、明らかに旧道上の隧道のものであり、旧々道の隧道ではない。

『大鑑』のデータを徹頭徹尾に信用するなら、ダムの嵩上げとは無関係に、当初から現在の旧道が付替道路として整備されたとしか考えられないことになる。

しかし、それはやはり不自然である。
例えば、一号隧道と二号隧道に挟まれた位置にある【剣橋】の親柱に昭和5(1930)年竣功と大書されていたのは、どういうことか。
普通に考えれば、前後の隧道とも昭和5(1930)年の竣功であるはずなのだ。

削岩機を用いて掘られた形跡があり、付近にコンクリートの橋脚や転落防止柵を有していた旧々1号隧道。
明らかに場所打ちコンクリートで建設された旧々2号隧道。
いずれも、大正13年に完成した帝釈川ダムの付替道路として見れば矛盾を感じないものである。

大正15年という『大鑑』記載の竣功年は、もともと旧々道隧道のものではないのか。
しかし、僅か数年でダムが嵩上げされ、旧々道は呆気なく役目を終えることになった。代わりに昭和5年に旧道が開通した。
このとき何かの事務的な手違いから、『大鑑』のもととになった道路管理者が持つ隧道データのうち、竣功年の更新がなされなかった。
そうした事情から、『大鑑』に誤記が生じたのだと私は結論づけている。

なお、この私の『大鑑』というオブローダー垂涎の名著・雄編・バイブルに楯突くような推論は、まだ許されるはずだ。
この本の巻末リストはとても優れた唯一無二のものだが、誤りも多いことでも知られているのだから。
しかし、より罪深いと思えるのは、『大鑑』のもとになっただろう、道路管理者が持っていて、道路行政の根本となっているデータ(例えばおそらく道路台帳)の内容に対しても楯突くことになる点だ。


『トンネル長寿命化修繕計画』(神石高原町)より

例えば、神石高原町が令和元(2019)年12月に公表した「トンネル長寿命化修繕計画(PDF)」には、右図のような記載がある。

ここに出ている「1号トンネル」と「2号トンネル」は、『大鑑』の「一号隧道」と「二号隧道」に対応している。(その根拠として、『平成16年度道路施設現況調査』があるが説明を省く)

そしてこれらの隧道の建設年を1926(大正15)年としているが、これは誤りである……と私は思う。
このように、誤ったデータをもとに道路行政が進められようとしている。(ただしこの差は大勢に影響を及ぼさない模様…苦笑)



ミニ机上調査編 〜2世代の付替道路〜

この地の道路の遍歴を語るうえで、もっとも興味深く、もっとも核心的な要素であるのが、ダムの建設および嵩上げに関係する二度の付替工事である。
これについては、この先の探索においても重大な関係を有するので、現地探索中の私の理解度をいささか超えることにはなるが、帰宅後の机上調査編の内容を少しだけ前倒しして紹介したい。



『帝釈峡十二勝』より

右の写真は、昭和3(1928)年3月に発行された『帝釈峡十二勝』という、帝釈峡における最初期のガイドブックに掲載されたものである。年代的に、帝釈川ダムの完成直後で嵩上げ前だ。
写真の右上に「 上 剱 」と題字がある通り、これは剣橋の下で見た旧々1号隧道の在りし日の姿である。
本文には次のような解説がある。

上剱嶽

下剱橋より上ること約二丁、川の屈曲する先端に屹立せり。その嶮峻、下剱に超え、尖頭には怪岩乱立し、間隙には緑樹点綴す。蒼闊奇古、尤も観るべし、曩(さき)に道路を開鑿するに当り、其の下腹を穿ちて竇道(とうどう)を設けたるより更に其の奇を加えたるを覚ゆ。

『帝釈峡十二勝』より

このように、隧道(竇道と表現されている)のことが出ている。
残念ながら竣功年は書かれていないが、大正8年にダムが着工し、13年に竣功した経過の中で開削されたものであろう。
この本自体は、大正12年に内務省による名勝地指定を受けたことを景気として発行されたものである。

『大鑑』の記載が誤りでなければ、この『十二勝』の風雅な写真が撮影された時点で、既にフレーム外の左側に並行する「一号隧道」が存在したことになるが、そのようなことは到底信じがたい。


絵葉書(広島県立文書館公開分)より

左も同じ隧道を写した古写真で、広島県立文書館が公開している戦前絵葉書の1枚である。

撮影時期がはっきりしないが、発行者は「神石ホテル」で、「上剱」と題が付いている。
そして、左上の尾根が低くなっている位置に、「一号隧道」がまだ出現していないことに注目して欲しい。


絵葉書(広島県立文書館公開分)より

しかし、やはり撮影年は不詳だが、同じ神石ホテルが発行した「剱橋」という絵葉書もあり、こちらには旧県道の剣橋が写っていて、橋下がすっかりと湖面化し、屋形船まで浮かんでいる。

今回の探索時よりも明らかに水位が高く、嵩上げ後の満水位とみられる。
この写真では、剣橋直下の旧々道は水没してしまっていて、全く見えない。

こうしたことをまとめると、ダムの嵩上げ以前は旧々道が使われていたが、嵩上げを契機に旧道へと切り替えられたと判断できる。


……机上調査前の現地探索中の私は、この時点ではまだいくらか半信半疑ではあったが、探索の進展によって、いよいよ2世代の付替道路があったことを確信することになる。
まだ探索は、中盤戦に入ったばかりである。
次回は、湖畔の唯一の足休めの地、犬瀬へイクゼ!