道路レポート 国道229号須築トンネル旧道 最終回

所在地 北海道せたな町
探索日 2018.04.27
公開日 2018.10.20

道の突然な豹変に戸惑う終盤戦


2018/4/27 9:35 

荒海の向こうに見えた、須築集落の初眺望。

「現在地」は須築トンネル北口から200mほど離れており、依然として予断は許さぬ現状だ。
ここまで来た以上、引き返すことになるのは、時間的にも結構痛いから、どうにかあとは大きな難所がなく、素直に通じていて欲しいところだが…。

しかし、国道229号を走り慣れている人に伺いたいが、須築トンネルの北口付近で旧道との分岐のようなものを見たことがあるだろうか?
私は、この時点では車でたった一度通過しただけだったが、そんなものがある気配を全く感じていなかった。そこに、この道の先行きに関する、一抹の不安があった。

ちゃんと…、繋がっているんだろうか……。




なんですか急に! この行儀の悪い登り方は!

もう車道ではないのは分かっているので、勾配が半端ないことは、まあ良しとしよう。

だが、この崖の雑すぎる登り方は……、行くしか、ないんだろうけど…。




っしゃあっ!

手掛かり足掛かりが豊富な岩質のお陰で、意外に容易く突破は出来た。

もう雪の日のこととかは敢えて考えないことにしよう! 考えるだけ、無駄だ。

とりあえず、一気に斜面の高みに上がったことで、もう高波の心配はしないで済みそう。

その代わり、滑落死の心配事が始まったので、どっちが良いとも言えない気もするが…。



これは、危険だ。

油断すると、道を見失って迷走しそうなのだ。

いままでは、どう考えても一本道しかあり得ないような地形だったので、廃道であることに起因する難しさの一つが自動的にオフになっていた。だが地形に選択の幅が生まれたことで、オンになった。

当然のように、最近人が歩いたような気配は全くない。春先であることと、激風にさらされるため、下草が低く見通しは悪くないが、それでも油断すると容易く道形を見失いそうだ。そもそも、道形と呼べるほど確固たる道があったのかも疑問なのだが。

一気に高度を上げたことで、見える景色は様変わりした。
少し前まで隣にあった激浪の汀線は、もう他人顔だ。
正面の大きな入り江を挟んで立て板のように切り立っている岬は、2時間ドラマで犯人役が追い詰められるクライマックスシーンに使えそうだ。
そのさらに向こうで桁違いの高さを見せる、この視世界の果てにある稜線は、西蝦夷三険岬に数えられる茂津多岬。
そのすぐ下に、唯一の人工物として須築港の長い突堤が見えている。

改めて、須築集落の如何ともしがたい孤立の状況が伝わってくる眺めだった。



私がいる場所(道)のすぐ下は、崖である。

崖はそのまま波打ち際まで落ちていて、ギザギザの岩場が波との格闘に明け暮れていた。
これを見て、道が慌てて避難してきた理由が分かった。
小さな隧道をいくつも掘ってあの波打ち際を抜けるよりは、一気に崖の上へ出て高巻きしてしまおうという魂胆だろう。




この道ではいままで考えられなかった、生きた草花とのふれあい。
紫色のユリを小さくしたような花が沢山咲いていたが、「山行が」のご多分に漏れず、なんの花かとかは調べていない。
とにかく、険しい海崖と、可憐な花が、隣り合っている。




うむ〜ん。

道がよく分からず、悩ましい。
うっすらと、黄色い線のところにラインがある気がするので、そこが道だと思うが…。

そして、怖い!

波にさらわれるのは嫌だが、滑落死も同じくらい嫌だ。
ここで落ちたら、ダブルパンチだ。
滑落して、波にさらわれる。

ここは、“草の斜面”という言葉以上に危険な現場だ。
雪に圧されて地面にぴったり張り付いた枯れ草が、急斜面を高密度に覆っており、歩行すると地面にあまり足が届かず、枯れ草の上を歩くことになる。しかし枯れ草の向きが斜面の方向に揃っているため、これが滑り台のように滑る。

経験上、こういう斜面で滑落すると、一気に下まで行く可能性が大である。
春の山菜採りで遭難が起きるのも、しばしばこういう現場に入り込んで採取を試みるからだと思っている。
こういう春先の探索は、藪が浅いことは嬉しいのだが、枯れ草が滑りやすいというリスクも念じておかねばならない。
盛夏は視界を遮るほどの一面の草藪だろうが、滑落の危険はだいぶ減る。しかしそうなると道を見失う可能性が高いわけで…、悩ましい。

この廃道、終盤に至って突如、困難さの種類を 豹変 させた。

ヨッキれん、この困難を乗り越えられるか。

文字通り、草を掴むような必死の前進が行われ……、



9:47 《現在地》

約1時間ぶりとなる、国道との再開!

そして同時に、この道の先行きが判明!

須築トンネルを越えたところで合流ではなく、このまま次の藻岩トンネルも高巻きでやり過ごすつもりのようだ。

見通しが良すぎて距離感が鈍ってしまうが、あの藻岩トンネルの上まで歩くとなると、これはかなり大変だぞ。すぐそこじゃない!

しかも、見通しが良すぎるせいで、途中に「なにもない」(トンネルとか橋とかが)ことがあからさまだ…。

地味にキツいぞ、こういうの。




9:50 《現在地》

この辺りから地形が幾分緩やかになり、滑落の危機から脱したことで、前進速度が改善。
初めて藻岩トンネルを目にした位置を出て3分後には、この写真のように、国道のほぼ直上へ到達した。

こうして上から見るとよく分かるが、須築と藻岩という2本のトンネルの間は、明り区間でありながら、地上ではないようだった。
道の両側に海と山から道を隔てる高い柵があるために、空間として隔絶されているのである。

それはまるで、私の途中離脱の訴えを受け入れないという、非情な意思表示のようである。
海岸線の隧道の連発というオブ的に美味しいところだけ味わっての途中離脱は許るさーん! …みたいな(苦笑)。


仕方ない。

須築トンネル北口に到達したら終わるつもりだったが、やるっきゃないか。




いやこれキツくねーか?! 特に前半部分。

これ、やりやがっただろ。国道のヤロウ…。

須築トンネルの坑口掘削によって、旧道であろうこの道の一部が削られて、崖と化している。

高巻きが可能かも知れないが、一面滑りやすい枯れ草の斜面であり、とても嫌な感じだ…。

旧道からの途中離脱を受け入れない態勢を築く一方で、そこを通行困難にしておくとは、やり口が…

ワルいな、こいつ!




えぇ…、 これは……

落石防止ネットによって、須築トンネル上部の斜面は相当高い位置まで覆われていた。

ただの急斜面でもキツいのに、このネットの上を這って横断しろというのかよ……。

オブローダーはスパイダーマンじゃねーぞ…。


怖えぇ……



9:51 《現在地》

ごめん、無理。

斜面どうこうじゃなくて、ネットだけでも無理だこれ。

ネットのせいで地面に足が届かないので、ネットの上を歩かねばならないのだが、
ネットの目が細かいので、トレッキングシューズでは全く歯が立たない。
タビとか、スパイクシューズならギリギリなんとかなるかも知れないが、無理。
しかも、この先はぶら下がるレベルで急斜面なのだ。無理すぎて無理。
一応高巻きできないかも【見てみた】が、ネットはずっと上まで張られていて、無理無理無理。




ズシャー!

…といったら命はないカモなので、慎重に草付きの急斜面を海岸まで下った。

国道の介入により旧道探索を強制的に打ち切られたわけで、これで本当に国道が私の受け入れを拒否したら悲しさマックスだったが、ギリッギリ入れるようになっていた。 ビビらせやがって…!




9:57 《現在地》

ふぅー、仕事したぜ! 67分ぶりに、国道へ戻ってきた。
いやぁー、地図にない廃道だったが、マジで凄い景色を見たな!!
いまだ興奮は醒めやらなかったが、呆けている時間も惜しかった。

辿りきることができなかったさっきの旧道の続きは、どうなっているのか。
確かに須築集落へ達しているのかを確認したかった。
とりあえず、すぐ先にある藻岩トンネルの向こう側がどうなっているか見に行ってみよう。




“陸の孤島”を脱して約半世紀が経過した須築集落


2018/4/27 9:58 《現在地》 

これは須築トンネルの須築側坑口だ。
全長596m先に浮かぶ光の中が、この旧道探索の始まりの場所だった。

そしてつい先ほど旧道の踏破を断念した地点が、坑口の上部斜面に見えるが……、こうして広い視座に立って眺めてみると、なんと無謀な格闘に挑んでいたのかと、震えが走った。
あれ以上あそこで足掻いたとしても、突破はどだい無理だった。それでも無理矢理突入していたら、結末はきっと…【…】

とても魅力的な一連の旧道であり廃道だったが、最後にこんな危険なワナが仕組まれていて、通り抜けできないようにされているとは……。
残念であるような気もするし、只者ではない感を増していて一層魅力的なような気もした。
ともかく、こういう状況もあって、これまであまり存在を知られてこなかったのだろう。
こちら側からアクセスするためには、私が無理矢理下ったエスケープルートの急斜面を強引によじ登るしかないのだ。



これから、辿りきれなかった旧道の行き先を軽く確かめたいと思う。
とりあえず、藻岩トンネルの上を越えて行っているのは確かなので、トンネルを潜って向こう側へ行ってみよう。


須築トンネルとは完全な一直線上に連なっている、藻岩トンネル。
銘板に刻まれている昭和44(1969)年11月という竣工年、施工者、幅員(6.0m)などは須築トンネルと共通しているが、全長は71mしかなく、とても短い。
そして、坑門のデザインが大きく異なっている。

坑門としての面の部分がなく、坑道の覆工がそのまま地上に突出して断ち切られたラッパのようなデザインは、突出型ベルマウス式という。
新幹線の車体のようなスマートさがあり、雪崩避けとしての機能性もあるということで、北海道を中心とした雪国で一時期大いに持て囃されたのだが、平成8年の豊浜トンネル崩壊事故を契機に、突出部分の脆弱性が指摘され、最近は新設されることが少なくなった、“未来的なのにそうではない”デザインである。
須築トンネルのいかにも古々しい坑門と比較してみても、とても同年の開通とは思えないデザインだが、全然私よりも年上なのだ。
なお、この坑門デザインだと、扁額の設置位置が悩ましいようで、なかなか異色な位置に設置されていた。




10:00 《現在地》 

この写真は、同日の午後に撮影したもので、ちょっと空模様が変わってしまっているが、藻岩トンネル須築側坑口の遠望写真である。

微かな道形は、確かにこのトンネルの上を越えて、こちら側へ来ているようだ。
そこまでは道形が目に見えるので、間違いない。

だが、こちらへ来た道のその後は、もう分からない。
「分からない」というのは、一番残念な決着だと思うが、仕方がない。
道が貧弱だったせいだろうが、藪の浅いこの時期でも、目視できるラインは完全に消失してしまっていたのだ。

消失の最大の原因は、言うまでもなくこの国道だろう。
国道の切り立った法面によって斜面ごと切り取られてしまったと見るべきだと思う。
あんな猛烈な波の前でも形を留めていた旧道の、あっけない幕切れだった。




藻岩トンネルの須築側坑口を背にして、須築集落の方向を撮影した。

ここから集落の始まりまでは約1.3kmで、中間に弁天トンネルという、藻岩トンネルとそっくりの短いトンネルがあるが、総じて見ればこれまでのような大きな難所はない。

したがって旧道は、右の地図に点線で描いた想像ルートのように早い段階で海岸線へ下り、あとは国道と同じように磯伝いで集落へ達していたと思われる。

今回の旧道探索、次々と難関を突破して荒海のように威勢が良かった中盤までとは打って変わって、最後は藪と現道にことごとく邪魔されて少々玉虫色の決着となったのは悔しいが、私はここで引き返すことにした。

今の私は自転車も車もない状態で、このまま須築まで歩いて行くのは時間がかかるし大変だ。次の探索も手ぐすねを引いて待っている。
しかし、読者諸兄もこれだけ引っ張られて結局須築集落の景色を見ずに終わったのでは心残りだろうから、午後に車で行って撮影した時の写真を見てもらおうと思う。

これがかつて“陸の孤島”と呼ばれた須築の現在の姿だ! ↓




同日 12:09 《現在地》

藻岩岬の険を越えて海岸沿いに国道を約1.3km進むと、道路沿いに最初の民家が現われる。
これが須築集落の入口である。
家並みはここから約1kmにわたって道の両側に続いており、典型的な街村の形態をしている。おそらく30軒くらいあるだろうが、商店はなさそうだ。

写真奥に見えるひときわ鋭く高く切り立った崖が、檜山と後志の境をなす茂津多岬である。
あの崖の上には灯台があるとかで、その光源の海抜は日本一か二であるという話を本で読んだことがある。
灯台は昭和12年に建設されたらしく、この須築が厳然たる陸の孤島だった時代から灯台守やその家族が住んでいたというから、その隔絶した住環境は、国道が集落を貫通し林道が灯台まで延びている今日からは想像し難い。



集落のメーンストリートである国道から外れて、隣接する漁港へやってきた。写真の右奥にカラフルな屋根の列が見えるが、あそこが集落だ。
漁港には、大きな船揚場や船溜まりや作業場などが整備されており、漁船の数はあまり多くないようだが、立派な施設であった。

道内のニシン漁の全盛期であった明治末頃までの須築は、ニシンを追って移動する漁民と、それが迎える人々が入り交じる、一大漁業基地として大いに栄えたらしい。このレポートの冒頭でも述べたが、明治35(1902)年当時は82戸482人が定住し、さらに漁期には2000人以上の入稼人(いりかせぎにん)が加わって、当時の瀬棚を上回るほどの「小都会」ぶりだったそうだ。

ニシン漁に根ざした沿岸集落のご多分に漏れず、ここも全盛期と比べれば相当に廃れてしまったと思うが、それでも一つの集落として存続できているのは、国道が開通して交通の開けた時期が遅すぎなかったおかげかもしれない。あと10年遅れていたら、一挙離村ということもあったのかも。

“陸の孤島”ということで、極めて険しい地形をイメージするが、この集落の周りだけを見ればむしろ恵まれているように見える。
ここは、上流人口ゼロで極上に清らかで豊富な水をもたらす須築川の河口沖積地であり、土地が広くおそらく地味も肥えている。しかし農業が営まれている様子はなく、今どき珍しい純漁村っぽいが、現代は国道を利用して外で働く住人も少なくないかもしれない。

しかし、ひとたび集落の周りの地形に目を向ければ、三方は山山山、残る一方が海という、典型的な“陸の孤島”である。
険しい地形の中に取り残された平穏な小平地、いわゆる隠れ里的なシチュエーションと言えば伝わりやすいだろうか。

集落の北にある茂津多岬と、東にある狩場山地。これまでの2枚の写真で、集落を取り囲む山の二方を見てもらったので、最後は残るもう一方、南にある藻岩岬を見てもらおう。



集落を一歩出れば即座に荒磯の海岸という立地だった。いまは国道が巨大な防波堤を従えて、海陸を厳密に隔てているが。
そしてその向こう、荒ぶる岩山群を前衛にひときわ高くそびえるのが、藻岩岬だ。
その上部には、古道が越えていたと思われる海抜240mの鞍部がぽっこり凹んで見える。村役場への所用ななんだでいちいちあそこを越えねばならない暮らしは、想像したくない。基本は船に頼るのが正解だろう。
今回私が探索した海べりの道を使えば、あそこまで上る手間は省けるが、まあ楽ではない。これはレポートを読んだ誰もが分かると思う。

この方角を隔てる山もまた、高く険しい印象しかない。それでも、三方の中ではもっとも優しいのだろう。
地形的に周囲のどの集落からも完全に孤立している須築が、茂津多岬の向こう側にある後志地方ではなく、藻岩岬の方にある檜山地方に属しているのも、この方向の交通(海上交通も含め)が最も有望だったからなのだろう。自動車交通に限ってみても、藻岩岬の貫通は昭和44(1969)年11月だが、茂津多岬の貫通は昭和51(1976)年と差がある。最後の狩場山地の貫通はいまだ果たされていないし、計画もなさそうだが。


以上、須築集落の現状をお伝えした。
あまり集落の中に立ち入った写真がないのは、取り立てて変わった風景ではなかったから、撮りそびれてしまったせいだ。
“陸の孤島”を脱して今年(2018年)で49年を経過した須築集落は、どこにでもありそうな落ち着いた、いたって普通の幹線国道沿いの集落なのである。
そのことに当然であること以上の幸福を感じる人々が、いまも住んでいるかは分からない。
そんな住人の誰かに、私が今回撮影した探索風景を見てもらって、感想を頂戴したい気分もあったが、そんな奇妙な自慢をしに扉を叩く勇気は出なかった。

現地レポート、終わり。




ミニ机上調査編 〜 私が歩いた旧道の正体 〜


↑こんなところや あんなところ↑

にあれよあれよと連れて行かれて、観光地にある遊歩道以上に美的で多彩で、

本格的山岳地の登山道並に危機的で刺激的だった、今回の廃道。

探索を終えた私が、最も知りたかったことは――


これが本当に生活道路だったのか。


遊びで歩くのでもなければ、特定の専門家が仕事で歩くのでもない、
大人も子供も普通に使う、須築集落の生活道路だったのかどうか。
そこが一番の興味の的だった。

実際、読者さまのコメントを見ても、こういうような意見があった。
「この道は、現在の国道を建設するために作られた、作業用道路ではないか」。
なるほど、実は私も現地で同じ疑いを感じていたのである。
途中に隧道が出て来た時点で釣人道でないことは明らかで(釣り人は穴を掘るまい)、
なにか沿道に別の施設が現われなければ、生活道路か、あるいは国道の工事の目的で
測量や人員の輸送のために開鑿された工事用道路という可能性が、私の中に残ったのだ。

生活道路か、工事用道路か、答えは―。






@
現在
A
昭和53(1978)年
B
昭和32(1957)年
C
大正6(1917)年

まずはいつものように、歴代地形図のチェックから。

探索前に入手していたのは「@現在」「C大正6(1917)年」だけで、帰宅後に残りの「A昭和53(1978)年」「B昭和32(1957)年」を入手した。
そして、改めてこの4枚の地形図を比較してみても、やはり今回歩いた海沿いの旧道は一度も描かれたことがない!

須築に国道が開通する以前の状況を描いた「B」は、既に国道229号が指定されていたはずだが、集落を通る徒歩道は国道として表現されておらず、従来の「C」と同じ点線の山越えで藻岩岬を越えていた。

歴代地形図は、今回歩いた道の正体を教えてはくれなかった。
「地形図に描かれたことがない」という事実がはっきりしただけで、だから道がなかったとは断定できないのが地図調査の難しいところである。

とはいえ、いろいろと収穫はあった。
たとえば、「B」には現在の藻岩トンネルがある辺りに短い隧道が描かれていた!
これはなかなか衝撃的で、藻岩トンネルが昭和44年に完成する12年も前にトンネルがあったとしたら、どこにあったのだろう。

国道から見る限り、【南側】にも【北側】にも、旧隧道の痕跡は感じられないうえ、実はこの探索の翌月にも目視による再調査をしたが、やはり痕跡は見つからなかった。
藻岩トンネルの旧隧道は現在の藻岩トンネルの位置にあって消滅したのか、はたまた国道からは見えないほどに高い位置にあったのか。この問題は未解決である。

消えた隧道といえば、ほかにも、「C」にのみ描かれている隧道が、須築集落のすぐ近くにあった。
この隧道は「B」では既に撤去されたのか、行方不明である。
現在の景色はこんな感じの場所だ。もしかしたら古い地図が不正確なだけで、【弁天トンネル】の位置にあったのかもしれないが…。
この隧道も消息不明である。

以上のような消えた隧道だけでなく、国道の開通前後で須築集落の家並みがだいぶ変化していることとか、「B」までは「横滝」にも集落らしいものがあったことととか、細かな発見がいろいろあった。





次に私は、旧瀬棚町が平成3年に刊行した『瀬棚町史』を入手した。
これはとても分厚い本で、須築集落や茂津多岬に関して書かれている箇所が20以上あった。
それらに比べると、藻岩岬に関する記述はずっと少なかったが、それでもいくつかの記述を見つけることができた。

例えば、江戸時代末期、安政3年(1856)年に探検家・松浦武四郎が瀬棚周辺の海岸を探検したときの記録「武四郎廻浦日記」には、瀬棚(セタナイ)から美谷(ビヤ)を経て須築(シッキ)に至る行程が次のように描かれていた。美谷から先(上の地図の範囲)を紹介する。(括弧内は私の補足)

●ビヤ平 岩浜で上は高い山、山腹に昔切り開いた道すじ有。下に番屋一軒有、此処で一泊する。
 ○四月十八日、少し風波有る故風待する。
 ○四月十九日、ビヤより海岸平磯を行き岬を廻る。(横滝のある岬のことだろう)
●チャシウシ(横滝と藻岩岬の間で、今回の私の探索のスタート地点) 此処より道も何も無い、山の端へ二丁(約220m)ばかり草の根に足踏留めながら上る。青い波岸を打つ。二百間(約360m)ばかり横に進むとモユワの上に達する。この上を少し行って岸壁を伝わり下り、平磯に出て磯伝いに歩く。
●シッキ番屋一棟、弁天社一宇、土人も十年前まで一軒有、「松前家臣浦田兵治、セタナイより此処まで新道切開き、馬を二疋二ヶ年程利用した由」。同行の脇乙名シイヘシが八才の時のことを右のように語った。
●シッキにつくとシマコマキより迎船二艘きていたので、トコマイ辺まで見分したい旨頼んだが、隊長を迎えに来たのでとことわられやむなくいま来た難所を引返し、セタナイへは夜六ツ過(18時過ぎ)に帰り着いた。
『瀬棚町史』より抜粋引用

なんともガチ(で行き当たりばったり)な探検の風景である。

これを見るに、当時から須築には集落があったが、美谷から先にはマジで陸路がなく、数十年前に松前藩が切り開いた別の道があった(これについては別の箇所に「シマウタ川有、昔シッキ迄の山道もあったが今は埋まってしまった」の記述があるので、島歌川を遡り狩場山地の尾根を縦走して須築に至る道のりであったかと想像するが、現在は登山道もない場所を延々15km、ヒグマの餌食にならずに歩ける可能性は低そうだ)らしいが、須築住人は完全に陸路の断たれた生活していた可能性が高い。

そしてこの決死の探検行が行われた年(安政3年)、江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の商人長坂庄兵衛が相謀り、箱館奉行にある工事の請願をしていた。
それが、現在のせたな町と島牧村の海岸線に沿う新道、太田山道と狩場山道だった。
二つの町村だけと聞くと大した規模とは思わないかも知れないが、その範囲は右の地図の青線の通り、長大である。距離にして実に36里余(約144km)もの新道を、この2人の商人は作り出そうとしていた。

商人であるから、その最終の目的は商売の繁盛にあったと思われるが、おそらく全国的に見ても個人でこれほど長大な新道を開通させようとした例は、後の自動車交通時代を加えても、ほかにないかも知れない。彼らは工事の請願をしたわけではなく、自らの財産と計画でやりたいと訴えていたのだから。

間もなく函館奉行はこんな文面で許可を与えている。
自分入用を以て新道切開相願ひ、出来の上は、先々スッツ(寿都)迄も切開相願ふ段、奇特の事に候。右場所は海上の通路のみにて陸路これなく、往来の諸人難儀におよぶ所、此度願う所の道筋、出来いたす上は、往来の便利のみならず、永久の利用莫大なるべし。

奇特(感心なおこない)だと驚くのも道理であったろう。
そのうえで、この区間には陸路がなく不便であるから、完成すれば永久の財産になると絶賛している。

そして彼らの計画は、この時代ならばありえそうな荒唐無稽や誇大妄想の狂言……ではなかった。
奉行の許可を得ると同時に2人は津軽で人夫の募集をはじめ、翌安政4年の春に鈴鹿甚右衛門が死去すると、6代目の甚兵衛が遺志を継いだ。そしてすぐに起点である関内(八雲町)で鍬入れが始まり、まずは尾花岬の険阻を越える太田山道(12里、約48km)の建設がスタートした。

太田山道は私が北海道からお伝えした一番最初のレポートにも登場している。
あの尾花岬を歴史上初めて攻略する大工事は、同年閏5月中には早くも完成し、すぐさま瀬棚を起点に須築、茂津多岬の険を越えて島牧へと至る約24里(約96km)の狩場山道に着手したという。

狩場山道も降雪前の同年10月中に完成し、全長36里の新道は僅か1年内で全線開通。
新道は総体として道幅2間、橋は長さ2間から20間のものが合計20箇所。これにより、全線を通して人馬の通行が可能になったという。
いくら車道ではないとしてもあまりに神速であり、俄に信じがたいものがあるが、実際に2人は奉行から報償を受けている。

そして、この新道は明治以降にちゃんと受け継がれ、大正6年の地形図に描かれていた藻岩岬を越える徒歩道の正体は、狩場山道だったようなのだ。
2人の新道は、箱館奉行が期待した成果を上げたといえるだろう。




う〜〜〜ん! 江戸時代にまで遡る濃ゆい男たちの道路史に、もうお腹いっぱいかぁ?


否! 肝心のものがでてきていないのである!

私が歩いたあの道は、ナンだったんだよ?!


安政4(1857)年から、昭和44(1969)年の国道229号が須築へ通じた日まで。この二つの時を隔てる100余年の空白は、地形図では埋められなかった。
この期間の情報としては、レポートの冒頭で紹介した明治35(1902)年の【例の記述】実ニ巍峨(ぎが)タル山脈重畳(ちょうじょう)、其(その)険侵ス可カラズ。一歩ヲ誤ラバ渓谷ニ生命ヲ害(そこな)フニ至ル。如何ニ巨萬ノ費ヲ投ジテ開鑿スルモ到底車馬ノ通行ハ無想ダモ視ル不能(あたわず)。旅人ハ僅カニ渉歩スルニ不過。為メニ道路ハ人跡ヲ踏マザルノ結果、鬱叢(うっそう)タル雑草、繁茂セル篠竹等ノ密生シ、自然道路ヲ閉塞シ、漸一(ようやく?)、二尺ノ道路形ヲ存スルノミ くらいしか見当たらず、空白はひたすらに大きかった。

私はさらなる新情報の出現に期待を込め、町史の読破を進めたのだが、1000ページを過ぎてもそれは現われず…。


『瀬棚町史』より転載

いや、だいぶ近いところまで来ていると思われる情報はあったのだ。
たとえば、美谷には明治22年に入植が行われ、このときに瀬棚から美谷までの陸路が開鑿されて、多数の隧道が掘られたという記述があった。
この瀬棚〜美谷間の海岸道路は早くから整備が進められ、大正時代には荷車が入り、昭和25年には路線バスの運行も始まったそうだ。
明治隧道がいくつもあったというのは興奮できるエピソードなのだが、残念ながら私が歩いた場所ではない!

道路に関する記述は、いつだって美谷で終わり、美谷と須築の間の藻岩岬の道については、なかなか触れてくれなかった。
そして結局、この区間についての江戸時代以来の記述は、昭和35(1960)年に美谷を起点として着工した国道229号が、藻岩岬の難工事を成し遂げて、昭和44年11月に9年ぶりに須築まで開通したというものだった。(右の写真はその後も工事が進められ、昭和51年に茂津多岬を貫く区間が完成し、島牧村まで全線開通した際のもの)


最後まで町史には、私が歩いた海べりの旧道に関係する記述はなかったのである。





『北海道道路史』や『後志の国道』といった他の大型資料にも目を通した。
西蝦夷三険岬として著名で、実際ものすごい難工事であった茂津多岬の道路建設については、しつこいくらいいっぱい書かれているのに、その前衛的存在に過ぎない藻岩岬は、「須築トンネル(全長596m)昭和44年11月完成」のひとことで片付けられてしまい、ここを越える道の変遷については、誰も触れてくれないようだった。

私が実在しない道を歩いたわけはないのだが、資料のうえでは、ほとんどそれに近かった。
藻岩岬には江戸時代に切り開かれた狩場山道があり、そこを日常的に越えるのはあまりに大変だから、もっぱら船が須築の人々の足であったし、国道の開通を心より期待していたというのが、“大著たち”の言いたいことであるようだった。




公的な資料ではない、もっと個人的な紀行文にこそ、江戸時代や明治よりも新しい、国道開通直前の須築の交通事情が載っているのではないか。

その可能性に賭けて新たな検索をスタートさせた私は、昭和53(1978)年に北海道出版企画センターが出版した『北海道ひとり旅』という本に、「茂津多岬への道」という紀行が掲載されている事実に辿り着いた。
藁にもすがる思いで、この本を国会図書館のデジタル送信サービスを使って閲覧した私に………、天使が下りてきた。

この本の著者である紀行者は佐々木逸郎氏という人物で、奥付によると、NHKの脚本家を務めた放送作家であり、詩人でもあったようだ。
彼の「茂津多岬への道」という紀行は、こんな書き出しで始まっていた。

十月中旬、建築関係の仕事をしている旧制中学時代の同級生から電話をもらった。
「午後から北桧山町へ出かける。仕事は現場の責任者との打合せだからすぐに終る。お前さんいつか茂津多岬へ行ってみたいといってたろう。十一月に茂津多の国道が正式に開通するんだが、工事関係者に知り合いがいて、通してもらえるそうだ。北桧山までつきあえよ。帰りは茂津多岬へつきあってやる」

佐々木氏は二つ返事でこれに応え、開通直前の国道をゆくという、稀な旅が幕を開けるのだった。
ちなみに茂津多岬の国道が正式に開通したのは昭和51年11月だから、この紀行は同年10月の出来事である。
既に瀬棚(北桧山)側の国道は須築まで開通しており、集落は陸の孤島を脱して片側にのみ開けた状態だった。開通前国道のドライブは、この須築から島牧村の栄浜までの8.3kmの区間の話である。
が、このドライブについてさほどの多くの文字は綴られていない。「開通後は釣り人の絶好の目標となるだろう。現に友人も釣り場の下見を兼ねて私を誘ったのだった」などと書いていて、素っ気ないくらいである。

彼がこの紀行で多くの文を割いたのは、彼が長年訪れてみたいと思っていた茂津多岬とその灯台の情景についてであり、須築集落についてであり、そしてもう一つ、彼がこのドライブのさらに約20年前に須築を訪れようとしたときの回顧談であった!

須築。 須築川の川口にひらけた二十戸足らずの漁村。背後には山が迫っている。にしんを追って海を北上してきた人びとが住みついた村である。かつて、茂津多岬にはばまれて陸の孤島だったこの村も、十年の歳月を費やして開通した茂津多トンネルによって、島牧村栄浜と結ばれている。狩場山系の直下をつらぬくトンネルの長さは一九七四米。自動車道としては全道一のトンネルである。
『北海道ひとり旅』より引用

陸の孤島を脱した須築集落の昭和51年当時の状況を、彼はこのように述べている。
そして彼は、前にも一度須築を訪れようとしたことを告白している。

十年ほど前に、私は、北海道医師会会長で道内の医事史を調査されていた故松本剛太郎氏の「荻野吟子伝」をもとに「イマヌエルの女」というラジオドラマを書いたことがある。(中略)
はじめに瀬棚を訪れたのはさらに十年ほど前である。このときは更科源蔵さんと一緒であった。更科さんと瀬棚へ寄ったのは、茂津多岬の手前にある行き止まりの村須築へ行ってみたかったからだ。
『北海道ひとり旅』より引用

昭和51年の10年ほど前のさらに10年ほど前というから、昭和30年頃の話なのだろう。
当時の佐々木氏は20代後半で、同行した更科源蔵氏は50才くらいであったろう。 わくわく わくわく。


瀬棚から途中の美谷まではバスが通じていた。瀬棚から美谷までの海岸線は、三本杉岩、ろーそく岩、窓岩、獅子岩と奇岩が続く景勝の地である。美谷から先きは断崖の間を縫う細道だ。しゃがんで通り抜ける人道用トンネルを抜けると、断崖にワイヤー・ロープが打込まれ、それにすがって二十糎ほどの幅の足場を、蟹の横這いで進むという緊張の連続である。眼下は日本海の荒波が岩を噛み、目もくらむ。この道を通るのは郵便配達さんと、海が荒れたときに村人が利用するだけで、普通須築の人たちは船で瀬棚へ出るのだということだった。汗びっしょりで途中まで進んだ更科さんと私は、ついにあきらめて美谷へ引き返したものだった。いま、その道はトンネルによって難なく須築へ抜けられる。
『北海道ひとり旅』より引用

結論。

生活道路です!! 工事用道路じゃないです!


佐々木氏が描写したこの道の様子は、どう考えても藻岩岬の上を越える道ではない。
私が辿った、この道だ!

しゃがんで通り抜ける人道用トンネル」というのは、隧道の小さいことを少しオーバーに書いたのか、彼らの背が大きいのか、それとも当時はいまよりさらに小さな断面だったのか。これも十分あり得そうな話である。

断崖にワイヤー・ロープが打込まれ、それにすがって二十糎(センチ)ほどの幅の足場を、蟹の横這いで進む」の後段は、現状もそうであるから確かにそうだったろうし、前段のワイヤーロープのくだりは、なるほどそういう方法があったか。確かにロープが張られていたら、道が狭くてもだいぶ安心して通れるだろう。

この話を聞いて思い出したのが、読者さんが教えてくれた『昭和33年 あの道、この道』というタイトルの記録映画だ。全編を通して興味深いシーンが続発するのだが、1分13秒あたりに登場する北海道釧路地方の“道路風景”が、まさにロープに頼って海岸線を歩くものであり、往時の須築の光景を彷彿とさせた。

そして、「この道を通るのは郵便配達さんと、海が荒れたときに村人が利用するだけ」とあるが、ここに限らず、“陸の孤島”の話にしばしば出てくる郵便配達さんの苦闘ぶりには、本当に頭が下がる。わざわざこの道を歩いて配達とは。なにか船で配達できない事情があったのだろうか。また、村人は海が荒れたときに限ってこの道を使ったともあるが、海が荒れた日はこの道もヤバいでしょ…。

もう、いろいろツッコみたいが、国道の工事が開始されたのは昭和35年であり、それより前からこの道があったことは確かそうなので、これは生活道路だったのだと断定したい。

出来ればさらにもう一歩踏み込んで、この道が作られた時期や経緯、それと、この道が国道229号の旧道なのかについても知りたいところだが、今後新たな情報が寄せられることに期待したい。


故佐々木氏は、私にとって本当に貴重な証言となってくれたこの紀行の最後を、こう締めている。

それにしても、昔ワイヤー・ロープにすがって通ったあの道はいまどうなっているだろう。

はい。 2018年現在は、こんなふうになっていました。


北の大地の“陸の孤島”は、やはり一筋縄ではない、かくも恐ろしいものだった。

しかしそれでも、この地の住人は、陸路による交通を諦めてはいなかったようだ。
ほぼ住人しか通えぬような険路をこしらえて、“孤島”を外の世界へと紹介してくれるかも知れない、稀な旅人を待っていたのだ。
その時代に訪れ得た人は、きわめて幸運な体験であったと思う。

私は時代には間に合わなかったが、それでも幸運を感じることが出来たのは、オブローダーとしてこの道の凄みに触れることが出来たからだ。
これは日本の生活道路の一つの極致だ。同じ方向性の道としては、牛岳車道に匹敵する衝撃を受けた。