↑こんなところや あんなところ↑
にあれよあれよと連れて行かれて、観光地にある遊歩道以上に美的で多彩で、
本格的山岳地の登山道並に危機的で刺激的だった、今回の廃道。
探索を終えた私が、最も知りたかったことは――
これが本当に生活道路だったのか。
遊びで歩くのでもなければ、特定の専門家が仕事で歩くのでもない、
大人も子供も普通に使う、須築集落の生活道路だったのかどうか。
そこが一番の興味の的だった。
実際、読者さまのコメントを見ても、こういうような意見があった。
「この道は、現在の国道を建設するために作られた、作業用道路ではないか」。
なるほど、実は私も現地で同じ疑いを感じていたのである。
途中に隧道が出て来た時点で釣人道でないことは明らかで(釣り人は穴を掘るまい)、
なにか沿道に別の施設が現われなければ、生活道路か、あるいは国道の工事の目的で
測量や人員の輸送のために開鑿された工事用道路という可能性が、私の中に残ったのだ。
生活道路か、工事用道路か、答えは―。
@ 現在 | |
---|---|
A 昭和53(1978)年 | |
B 昭和32(1957)年 | |
C 大正6(1917)年 |
まずはいつものように、歴代地形図のチェックから。
探索前に入手していたのは「@現在」と「C大正6(1917)年」だけで、帰宅後に残りの「A昭和53(1978)年」と「B昭和32(1957)年」を入手した。
そして、改めてこの4枚の地形図を比較してみても、やはり今回歩いた海沿いの旧道は一度も描かれたことがない!
須築に国道が開通する以前の状況を描いた「B」は、既に国道229号が指定されていたはずだが、集落を通る徒歩道は国道として表現されておらず、従来の「C」と同じ点線の山越えで藻岩岬を越えていた。
歴代地形図は、今回歩いた道の正体を教えてはくれなかった。
「地形図に描かれたことがない」という事実がはっきりしただけで、だから道がなかったとは断定できないのが地図調査の難しいところである。
とはいえ、いろいろと収穫はあった。
たとえば、「B」には現在の藻岩トンネルがある辺りに短い隧道が描かれていた!
これはなかなか衝撃的で、藻岩トンネルが昭和44年に完成する12年も前にトンネルがあったとしたら、どこにあったのだろう。
国道から見る限り、【南側】にも【北側】にも、旧隧道の痕跡は感じられないうえ、実はこの探索の翌月にも目視による再調査をしたが、やはり痕跡は見つからなかった。
藻岩トンネルの旧隧道は現在の藻岩トンネルの位置にあって消滅したのか、はたまた国道からは見えないほどに高い位置にあったのか。この問題は未解決である。
消えた隧道といえば、ほかにも、「C」にのみ描かれている隧道が、須築集落のすぐ近くにあった。
この隧道は「B」では既に撤去されたのか、行方不明である。
現在の景色はこんな感じの場所だ。もしかしたら古い地図が不正確なだけで、【弁天トンネル】の位置にあったのかもしれないが…。
この隧道も消息不明である。
以上のような消えた隧道だけでなく、国道の開通前後で須築集落の家並みがだいぶ変化していることとか、「B」までは「横滝」にも集落らしいものがあったことととか、細かな発見がいろいろあった。
次に私は、旧瀬棚町が平成3年に刊行した『瀬棚町史』を入手した。
これはとても分厚い本で、須築集落や茂津多岬に関して書かれている箇所が20以上あった。
それらに比べると、藻岩岬に関する記述はずっと少なかったが、それでもいくつかの記述を見つけることができた。
例えば、江戸時代末期、安政3年(1856)年に探検家・松浦武四郎が瀬棚周辺の海岸を探検したときの記録「武四郎廻浦日記」には、瀬棚(セタナイ)から美谷(ビヤ)を経て須築(シッキ)に至る行程が次のように描かれていた。美谷から先(上の地図の範囲)を紹介する。(括弧内は私の補足)
○四月十八日、少し風波有る故風待する。
○四月十九日、ビヤより海岸平磯を行き岬を廻る。(横滝のある岬のことだろう)
●チャシウシ(横滝と藻岩岬の間で、今回の私の探索のスタート地点) 此処より道も何も無い、山の端へ二丁(約220m)ばかり草の根に足踏留めながら上る。青い波岸を打つ。二百間(約360m)ばかり横に進むとモユワの上に達する。この上を少し行って岸壁を伝わり下り、平磯に出て磯伝いに歩く。
●シッキ番屋一棟、弁天社一宇、土人も十年前まで一軒有、「松前家臣浦田兵治、セタナイより此処まで新道切開き、馬を二疋二ヶ年程利用した由」。同行の脇乙名シイヘシが八才の時のことを右のように語った。
●シッキにつくとシマコマキより迎船二艘きていたので、トコマイ辺まで見分したい旨頼んだが、隊長を迎えに来たのでとことわられやむなくいま来た難所を引返し、セタナイへは夜六ツ過(18時過ぎ)に帰り着いた。
なんともガチ(で行き当たりばったり)な探検の風景である。
これを見るに、当時から須築には集落があったが、美谷から先にはマジで陸路がなく、数十年前に松前藩が切り開いた別の道があった(これについては別の箇所に「シマウタ川有、昔シッキ迄の山道もあったが今は埋まってしまった」の記述があるので、島歌川を遡り狩場山地の尾根を縦走して須築に至る道のりであったかと想像するが、現在は登山道もない場所を延々15km、ヒグマの餌食にならずに歩ける可能性は低そうだ)らしいが、須築住人は完全に陸路の断たれた生活していた可能性が高い。
そしてこの決死の探検行が行われた年(安政3年)、江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の商人長坂庄兵衛が相謀り、箱館奉行にある工事の請願をしていた。
それが、現在のせたな町と島牧村の海岸線に沿う新道、太田山道と狩場山道だった。
二つの町村だけと聞くと大した規模とは思わないかも知れないが、その範囲は右の地図の青線の通り、長大である。距離にして実に36里余(約144km)もの新道を、この2人の商人は作り出そうとしていた。
商人であるから、その最終の目的は商売の繁盛にあったと思われるが、おそらく全国的に見ても個人でこれほど長大な新道を開通させようとした例は、後の自動車交通時代を加えても、ほかにないかも知れない。彼らは工事の請願をしたわけではなく、自らの財産と計画でやりたいと訴えていたのだから。
間もなく函館奉行はこんな文面で許可を与えている。
「自分入用を以て新道切開相願ひ、出来の上は、先々スッツ(寿都)迄も切開相願ふ段、奇特の事に候。右場所は海上の通路のみにて陸路これなく、往来の諸人難儀におよぶ所、此度願う所の道筋、出来いたす上は、往来の便利のみならず、永久の利用莫大なるべし。
」
奇特(感心なおこない)だと驚くのも道理であったろう。
そのうえで、この区間には陸路がなく不便であるから、完成すれば永久の財産になると絶賛している。
そして彼らの計画は、この時代ならばありえそうな荒唐無稽や誇大妄想の狂言……ではなかった。
奉行の許可を得ると同時に2人は津軽で人夫の募集をはじめ、翌安政4年の春に鈴鹿甚右衛門が死去すると、6代目の甚兵衛が遺志を継いだ。そしてすぐに起点である関内(八雲町)で鍬入れが始まり、まずは尾花岬の険阻を越える太田山道(12里、約48km)の建設がスタートした。
太田山道は私が北海道からお伝えした一番最初のレポートにも登場している。
あの尾花岬を歴史上初めて攻略する大工事は、同年閏5月中には早くも完成し、すぐさま瀬棚を起点に須築、茂津多岬の険を越えて島牧へと至る約24里(約96km)の狩場山道に着手したという。
狩場山道も降雪前の同年10月中に完成し、全長36里の新道は僅か1年内で全線開通。
新道は総体として道幅2間、橋は長さ2間から20間のものが合計20箇所。これにより、全線を通して人馬の通行が可能になったという。
いくら車道ではないとしてもあまりに神速であり、俄に信じがたいものがあるが、実際に2人は奉行から報償を受けている。
そして、この新道は明治以降にちゃんと受け継がれ、大正6年の地形図に描かれていた藻岩岬を越える徒歩道の正体は、狩場山道だったようなのだ。
2人の新道は、箱館奉行が期待した成果を上げたといえるだろう。
う〜〜〜ん! 江戸時代にまで遡る濃ゆい男たちの道路史に、もうお腹いっぱいかぁ?
否! 肝心のものがでてきていないのである!
私が歩いたあの道は、ナンだったんだよ?!
安政4(1857)年から、昭和44(1969)年の国道229号が須築へ通じた日まで。この二つの時を隔てる100余年の空白は、地形図では埋められなかった。
この期間の情報としては、レポートの冒頭で紹介した明治35(1902)年の【例の記述】実ニ巍峨(ぎが)タル山脈重畳(ちょうじょう)、其(その)険侵ス可カラズ。一歩ヲ誤ラバ渓谷ニ生命ヲ害(そこな)フニ至ル。如何ニ巨萬ノ費ヲ投ジテ開鑿スルモ到底車馬ノ通行ハ無想ダモ視ル不能(あたわず)。旅人ハ僅カニ渉歩スルニ不過。為メニ道路ハ人跡ヲ踏マザルノ結果、鬱叢(うっそう)タル雑草、繁茂セル篠竹等ノ密生シ、自然道路ヲ閉塞シ、漸一(ようやく?)、二尺ノ道路形ヲ存スルノミ
くらいしか見当たらず、空白はひたすらに大きかった。
私はさらなる新情報の出現に期待を込め、町史の読破を進めたのだが、1000ページを過ぎてもそれは現われず…。
『瀬棚町史』より転載
いや、だいぶ近いところまで来ていると思われる情報はあったのだ。
たとえば、美谷には明治22年に入植が行われ、このときに瀬棚から美谷までの陸路が開鑿されて、多数の隧道が掘られたという記述があった。
この瀬棚〜美谷間の海岸道路は早くから整備が進められ、大正時代には荷車が入り、昭和25年には路線バスの運行も始まったそうだ。
明治隧道がいくつもあったというのは興奮できるエピソードなのだが、残念ながら私が歩いた場所ではない!
道路に関する記述は、いつだって美谷で終わり、美谷と須築の間の藻岩岬の道については、なかなか触れてくれなかった。
そして結局、この区間についての江戸時代以来の記述は、昭和35(1960)年に美谷を起点として着工した国道229号が、藻岩岬の難工事を成し遂げて、昭和44年11月に9年ぶりに須築まで開通したというものだった。(右の写真はその後も工事が進められ、昭和51年に茂津多岬を貫く区間が完成し、島牧村まで全線開通した際のもの)
最後まで町史には、私が歩いた海べりの旧道に関係する記述はなかったのである。
『北海道道路史』や『後志の国道』といった他の大型資料にも目を通した。
西蝦夷三険岬として著名で、実際ものすごい難工事であった茂津多岬の道路建設については、しつこいくらいいっぱい書かれているのに、その前衛的存在に過ぎない藻岩岬は、「須築トンネル(全長596m)昭和44年11月完成」のひとことで片付けられてしまい、ここを越える道の変遷については、誰も触れてくれないようだった。
私が実在しない道を歩いたわけはないのだが、資料のうえでは、ほとんどそれに近かった。
藻岩岬には江戸時代に切り開かれた狩場山道があり、そこを日常的に越えるのはあまりに大変だから、もっぱら船が須築の人々の足であったし、国道の開通を心より期待していたというのが、“大著たち”の言いたいことであるようだった。
公的な資料ではない、もっと個人的な紀行文にこそ、江戸時代や明治よりも新しい、国道開通直前の須築の交通事情が載っているのではないか。
その可能性に賭けて新たな検索をスタートさせた私は、昭和53(1978)年に北海道出版企画センターが出版した『北海道ひとり旅』という本に、「茂津多岬への道」という紀行が掲載されている事実に辿り着いた。
藁にもすがる思いで、この本を国会図書館のデジタル送信サービスを使って閲覧した私に………、天使が下りてきた。
この本の著者である紀行者は佐々木逸郎氏という人物で、奥付によると、NHKの脚本家を務めた放送作家であり、詩人でもあったようだ。
彼の「茂津多岬への道」という紀行は、こんな書き出しで始まっていた。
十月中旬、建築関係の仕事をしている旧制中学時代の同級生から電話をもらった。
「午後から北桧山町へ出かける。仕事は現場の責任者との打合せだからすぐに終る。お前さんいつか茂津多岬へ行ってみたいといってたろう。十一月に茂津多の国道が正式に開通するんだが、工事関係者に知り合いがいて、通してもらえるそうだ。北桧山までつきあえよ。帰りは茂津多岬へつきあってやる」
佐々木氏は二つ返事でこれに応え、開通直前の国道をゆくという、稀な旅が幕を開けるのだった。
ちなみに茂津多岬の国道が正式に開通したのは昭和51年11月だから、この紀行は同年10月の出来事である。
既に瀬棚(北桧山)側の国道は須築まで開通しており、集落は陸の孤島を脱して片側にのみ開けた状態だった。開通前国道のドライブは、この須築から島牧村の栄浜までの8.3kmの区間の話である。
が、このドライブについてさほどの多くの文字は綴られていない。「開通後は釣り人の絶好の目標となるだろう。現に友人も釣り場の下見を兼ねて私を誘ったのだった
」などと書いていて、素っ気ないくらいである。
彼がこの紀行で多くの文を割いたのは、彼が長年訪れてみたいと思っていた茂津多岬とその灯台の情景についてであり、須築集落についてであり、そしてもう一つ、彼がこのドライブのさらに約20年前に須築を訪れようとしたときの回顧談であった!
陸の孤島を脱した須築集落の昭和51年当時の状況を、彼はこのように述べている。
そして彼は、前にも一度須築を訪れようとしたことを告白している。
はじめに瀬棚を訪れたのはさらに十年ほど前である。このときは更科源蔵さんと一緒であった。更科さんと瀬棚へ寄ったのは、茂津多岬の手前にある行き止まりの村須築へ行ってみたかったからだ。
昭和51年の10年ほど前のさらに10年ほど前というから、昭和30年頃の話なのだろう。
当時の佐々木氏は20代後半で、同行した更科源蔵氏は50才くらいであったろう。 わくわく わくわく。
結論。
生活道路です!! 工事用道路じゃないです!
佐々木氏が描写したこの道の様子は、どう考えても藻岩岬の上を越える道ではない。
私が辿った、この道だ!
「しゃがんで通り抜ける人道用トンネル
」というのは、隧道の小さいことを少しオーバーに書いたのか、彼らの背が大きいのか、それとも当時はいまよりさらに小さな断面だったのか。これも十分あり得そうな話である。
「断崖にワイヤー・ロープが打込まれ、それにすがって二十糎(センチ)ほどの幅の足場を、蟹の横這いで進む
」の後段は、現状もそうであるから確かにそうだったろうし、前段のワイヤーロープのくだりは、なるほどそういう方法があったか。確かにロープが張られていたら、道が狭くてもだいぶ安心して通れるだろう。
この話を聞いて思い出したのが、読者さんが教えてくれた『昭和33年 あの道、この道』というタイトルの記録映画だ。全編を通して興味深いシーンが続発するのだが、1分13秒あたりに登場する北海道釧路地方の“道路風景”が、まさにロープに頼って海岸線を歩くものであり、往時の須築の光景を彷彿とさせた。
そして、「この道を通るのは郵便配達さんと、海が荒れたときに村人が利用するだけ
」とあるが、ここに限らず、“陸の孤島”の話にしばしば出てくる郵便配達さんの苦闘ぶりには、本当に頭が下がる。わざわざこの道を歩いて配達とは。なにか船で配達できない事情があったのだろうか。また、村人は海が荒れたときに限ってこの道を使ったともあるが、海が荒れた日はこの道もヤバいでしょ…。
もう、いろいろツッコみたいが、国道の工事が開始されたのは昭和35年であり、それより前からこの道があったことは確かそうなので、これは生活道路だったのだと断定したい。
出来ればさらにもう一歩踏み込んで、この道が作られた時期や経緯、それと、この道が国道229号の旧道なのかについても知りたいところだが、今後新たな情報が寄せられることに期待したい。
故佐々木氏は、私にとって本当に貴重な証言となってくれたこの紀行の最後を、こう締めている。
はい。 2018年現在は、こんなふうになっていました。
北の大地の“陸の孤島”は、やはり一筋縄ではない、かくも恐ろしいものだった。
しかしそれでも、この地の住人は、陸路による交通を諦めてはいなかったようだ。
ほぼ住人しか通えぬような険路をこしらえて、“孤島”を外の世界へと紹介してくれるかも知れない、稀な旅人を待っていたのだ。
その時代に訪れ得た人は、きわめて幸運な体験であったと思う。
私は時代には間に合わなかったが、それでも幸運を感じることが出来たのは、オブローダーとしてこの道の凄みに触れることが出来たからだ。
これは日本の生活道路の一つの極致だ。同じ方向性の道としては、牛岳車道に匹敵する衝撃を受けた。