2020/8/18 8:30 《現在地》
東港線バイパス残り400mの地点に差し掛かると、左車線に再び「車線数減少」の警戒標識が出現した。
高架に入ってすぐに左側の通行帯が障害物によって切り詰められていたので既に1車線しか残っていないのだが、今度は右側の通行帯が減少する表現が行われている。
そして道路の実態としては、道路標示やガードレールなどの障害物によって1車線の通行帯が路肩がある左側へシフトしていく(車線数減少は嘘である)。
また、中央分離帯の向こう側にある“反対車線”(車は同じ方向に流れているが)についても、同様に外側への車線シフトが行われている。
ここまでは中央分離帯の両側で、極めて線対称的な道路運用が行われている。
しかし、この美しい対称性は、間もなく崩れようとしている。
ちょうど「現在地」の真下を横断する市道がある。
写真は2012年の探索時に撮影したものだが、手前は国道113号(東港線)の竜ヶ島交差点で、奥が今いる高架の東港線バイパスだ。その下を潜る市道が写っている。
市道の位置には、遅くとも高架開通後の昭和50年代までは、沼垂駅から埠頭へ延びる線路が敷設されていて、交差点の代わりに踏切が存在していた。
沼垂駅が廃止された今は、駅の跡地に開校した明鏡高校や万代高校へ通じる市道になっている。
平成21(2009)年と昭和50(1975)年の航空写真を比較すると、鉄道の消失に伴う土地利用の大きな変化が見て取れる。
地図から道路は一つも消えなかったが、鉄道は全部消えた。そんな言葉に集約できる。
ところで、昭和50年とは東港線バイパスが現在の形で開通した翌年だ。だからここにはまだ、ピカピカの新道だった姿が写っている。しかし橋の上の車の姿はずいぶんと疎らである。
当時の詳しい事情の解説は机上調査編を待って欲しいが、この当時、開通したばかりの高架道路を間近に見た市民の多くは、もう数年も経てば高架の続きが立派に完成するものと思っていただろう。
だが、それから実に40年以上も固定化されたままになっている未成高架の末端を、私は間もなく目の当たりにする。
「この先終点」
高速道路の最後の出口手前でよく見る上記のような文字を見せもせず、
しれっ と高架から退場していく、左車線。
左車線は高架に入る前の【青看】で『新潟駅』などが行き先表示となっていたが、ここで高架を下ろされる。
一方で、『県庁』などが行き先表示になっていた右車線は、まだ高架の上にいることを許される。
(なおこれ以降、2012年と2020年の写真を断りなく混在させている。)
8:31 《現在地》
左側に現れたランプウェイから強制退場していく車たちを尻目に、私の自転車は障害物の隙間から、まだ続いている本線高架上へ躍り出た。
(ランプを下った先については後述する)
ここから先… といってもさほど長くはないのだが、中央分離帯より左側の本線高架上は、まさにオブローダーの独擅場となる。
車にほとんど踏まれていない綺麗なままの路面が、これまでの本線と同様の立派な幅で、緩やかなS字のカーブを描きながら、次第にビル群が目立つようになってきた前方へ伸びている。
この景色、タマラナイものがあった。
こんなに高規格な道路を、中央分離帯のこちら側だけとはいえ独り占めにしてしまうことの背徳感。そして、同じ高架の上で、中央分離帯の右側の狭い1車線に車がぎゅうぎゅう押し込められて渋滞しているのを脇目に、こんな広い場所を独り占めにしていることの優越感。
まっこと、未成道探索者冥利に尽きる場面であった。
だがこの先、喜びよりも大きな“謎”が、頭を支配するようになる。
まずはこれ。
現地探索での大きな謎。
本線高架の中央分離帯より左側の車線が、なぜか唐突に半減するという謎だ。
切り欠きのような外見から判断して、未成道用語でいうところのいわゆる“イカの耳”だと思う。おそらくは、この本線の高架から分岐する別の高架を将来接続するための準備構造だ。
この東港線バイパスという未成道が、簡単には謎を解かせない秘密めいた魅力を纏っているのは、この構造の所以である。もしシンプルに4車線の高架が途切れているだけなら、こんなに私を惹きつける魅力を持ち得なかったろう。
ここは通常ならば走行する車両が出入りしない部分だから問題はないが、高架が途切れる末端部にはコンクリートの高欄がなく、代わりに錆びたフェンスが置いてある。もしここに暴走車が突っ込んだなら、速やかに天の旅を提供できることだろう。
8:32 《現在地》
そしてこの分岐準備と思われる切り欠きの先端から先を見ると――
まさに、高架道路をこちらへ伸ばして下さいと言わんばかりの空間が、しばらく先まで続いていることが、一目瞭然であった。
探索当時、この分岐の準備施設が何のために存在していて、どのような完成形を想定したものだったのかを、私は知らなかった。(それを知ることがこの探索の最終目標だった)
知らなかったけれども、感覚的に、この場所には、高架道路同士が分岐する、いわゆるジャンクションと呼ぶべき大規模構造が構想されていたことを、容易に察した。
それだけ大きな導入空間の気配が濃厚に漂っていた。消せない未成道の腐臭…。
なお、少し前に本線から強制的に下ろされて行った元・左車線の交通は、この切り欠きのすぐ下にある交差点へ導かれていた。
交差点では、東港線バイパスが市道南1-53号線という片側1車線の道路と平面交差しており、バイパスは市道を右に折れながら突っ切る形で、バイパス終点である万国橋交差点へ向かう。もうそこには、高架道路を走っていた面影はない。
既に私は、“ジャンプ台”に片足を突っ込んでいる。
言うなれば、“第1ジャンプ台”を見たというところか。
そしてこの先、この直後、最後の一番大きな
“第2ジャンプ台”が、待っている。
まずは動画で、ご覧いただこう。
動画の最後で、私は本線高架の最終末端に接触して終わっている。
そこまでの流れとしては、まずは直前に紹介した切り欠きで、左車線が1車線になる。
そして、左車線が1車線、右車線が2車線という、変則的な幅の本線高架が、緩く右にカーブしながら続く。
最後は中央分離帯がなくなってから、本線高架は空中で途切れるように唐突な終わりを迎える。
ただし、途切れたところには、1車線分だけの下りランプが接続していて、
最後まで本線高架上を導かれてきた右車線の車が、このランプから下界へ下りていく。
この末端部の状況を一言でまとめるならば、
先細りの果てに、1車線だけが生還したといったところだろう。
8:33 《現在地》
本線高架の末端より、来た道を振り返った。
片側2車線合計4車線幅の高架橋が、最後だけ変則的3車線になっていることが分かる。
こうした特殊な構造には、当然ながら明確な理由があったはずだ。
もし“将来計画”がはっきりしていないのなら、末端はこういう形にならないだろう。
その“将来計画”を理解することが、この探索の最終目的であった。
それにしても、こんなに広い橋の上で使われている部分が1車線だけなのは、
未成道の悲哀を象徴していて悲しい。しかも長らくこの状況なんだろう?
全く使われていない橋よりは、まだマシなんだろうか……。
全天球画像。
見回して、見渡して、新潟の明るい街が広がっている。
この広がりの中に、本線高架の見果てぬ夢のカケラが、ひっそりと散らばっているのだろう。
もしも、当初計画が全て順調に終わっていたら、この景色はどう変わっていたろうか。
私はこの探索の果てに、形として描き出すことが、出来るだろうか。
本線高架の末端は再び頼りないフェンス壁になっていて、そこからまたしても高架の進行方向を展望することが出来た。
幅員からして、おそらく本線の高架橋がこの先に伸びるはずだったと思うが、そこには集合住宅や立体駐車場を持つ大型パチンコ店などの建物が建ち並んでいて、奥に新潟駅周辺のビル街が見えているが、まっすぐ高架を延伸させるような用地確保が行われているようには見えなかった。
ならば本線も直進ではなく、ランプウェイ同様に右方向へ緩く曲がっていくイメージだろうか。
右のランプウェイが向かう先には、本バイパスの終点である万国橋交差点がある。まだ見通せないが…。
そして、眼下には一足先に高架から下ろされていた元・左車線の車たちも、地べたへ移った1車線一方通行路に長い信号待ちを作っている。
右車線のランプウェイが行き着く先も、眼下の元・左車線が行き着く先も、同じ万国橋交差点なのである。
え?
じゃあなんで【入口】で行き先を選ばされたの?
そんな疑問を持つのは当然だが、一応選ばされた意味はあった。その説明は実際に交差点を見てからしよう。
東港線バイパスの始まりである紡績角交差点からここまで約1050m(うち高架橋は850mほど)である。
東港線バイパス自体の全長は1180mだから、終点までは残りは130m前後ということ。
しかし高架橋はここで終わりなので、あとはこの右のランプウェイを、渋滞している車に混ざって進んでいこう。
次回、
大迫力の“ジャンプ台”を下から観察しよう!
現地探索編、最終回へ。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|