「問」
2017/6/17 16:43 《現在地》
自転車と一緒に、ここ(道幅10cm未満)を越えるためには、どうすれば良いか?
↓↓
自転車を―
片手で持って宙づりにして通る。
……という、あまりにもシンプルで工夫の入る余地のない方法でもって――
――自転車と一緒に、崩壊現場を越えることに成功した。
側溝さん、ありがとう!
対岸で自転車を“構えて”から渡り終えるまでの実質の所要時間は1分も掛かっていない。
これを「無謀!」と思う方がいるかも知れないが、最近の私のレポートを多く読んで貰えば、私自身が無茶と思うような真似をネタとして行っていないことが分かって貰えると思う。
これは無理は何もしていない、自然に行けると感じたことを行動に移しただけである。
今回はたまたま「巾10cm」とか、「下がすっぱり切れている」とかの状況のクリティカルさが分かりやすく目立つ場面であったというだけで、これまでいろいろな廃道を自転車同伴で突破してきた中では、こんなふうに「自転車を片手で持ってバランスを保ちながら狭いところを通る」動作は珍しいことではなく、慣れた動作だったといえる。
それでも一つだけ怖いと思ったのは、「片手で持って宙づりにして通る」の写真を撮影しようという悪戯心が出てしまい、右手でカメラを構えファインダーをのぞき込んでいた最中だった。その瞬間も当然自転車は左手だけで空中に支えられていたわけだが、ファインダーを覗く行為をしていると、視界が極端に狭いせいか、身体のバランスがどこにあるのか実感しづらかったのである。
16:45 《現在地》
ともかくこんな感じでギリのギリに残された道幅を2往復することで、この区間を廃道に変えてしまった致命的崩壊現場を自転車と全ての荷物を持って突破し終え、このまま先へ進める出来る状況を手にした。この先がどうなっているのかは不明であり、最悪、この先の当目隧道の状況次第では引き返す羽目になるかも知れないが、そのときはそのときだ。
ということで、ここから廃道区間の焼津側状況をお伝えしていく。
写真は崩壊現場を振り返って撮した。
なんとなく雑然としているが、道路の崩壊が起きてから行われた復旧工事(実際には新道を作るという復旧になったが)に関係する物が、ほとんど撤去されないままに残っている。設置された赤色灯が物々しい。
もっとも、探索時は新道の開通からまだ3ヶ月しか経っておらず、これから機材の撤去が行われるのかも知れない。雑草などの生え具合を見る限り、ここ数ヶ月の間はまるきり放置されているようだが。
キターー………。
先ほどまで崩壊現場越しに見ていた黒色の穴、見るからに生気を感じさせない当目隧道の姿が、物々しい二重バリケードの向こう側に近づいている。
この景色に違和感があるのは、普段よく目にするバリケードは隧道を塞ぐ目的で設置されているため、隧道に向かってバリケードの表面が向いていることが多いのに、これは逆向きだからだろうか。
それにしても、二重のバリケードの裏側を見るのは、入ってはいけないところから外界を見ることの背徳感が強くあった。
既に通過した静岡側の封鎖地点には固定設置されたフェンスゲートがあったが、焼津側の封鎖は、このいかにも工事現場らしい仮設のバリケードで行われているのだろうか。
それとも、さらに当目隧道の先にも封鎖があるのか。
ここから見る限り隧道は消灯しており、既に封鎖された存在のように見えるが…。
そしてこのダブルバリケードと隧道間のわずか100mほどの路傍にあるのが、これまた先程から隧道とは別種の存在感を醸していた廃墟だ。
上の写真の手前左側に見えている人工地盤部分は、これら廃墟と化した建物が使用していた駐車場であったのだと思う。
相当高い絶壁上にRC構造の地盤が設置されている。
ちなみに、前回訪れた平成20(2008)年2月の時点で既に隣の建物は廃墟状態で、駐車場も使われていなかった記憶がある。
左の写真は、この人工地盤上から振り返った大崩海岸の風景だ。
本来は空中であるだけに、その見晴らしは抜群である。
今回のレポートのスタート地点「たけのこ岩」は、奥の方の海上にそそり立っているのが見える。あの少し手前辺りからこちら側が全て廃道になったのだ。
また一つ日本の誇るべき美しい海岸道路風景が生を失ったのだと思うと残念だ。
これほどの険阻な海岸線を幹線道路としての長い歴史を持つ道路が通過している風景は珍しかっただけに、なおさらそう思う。特に海岸線が単調な場所が多い東海道筋においては唯一のものであったろう。
個人的にこの大崩海岸は北陸の親不知海岸と双璧をなす海の道路風景だと思う。親不知海岸の場合も立ち止まって観光するような場所はほとんどないが、車窓の良さや道路としての変化の面白さにおいて勝るとも劣らない、人気のドライブコースになっている。(そしてオブスポットにも…)
そしてこれが同じ人工地盤上から見る、大崩海岸の廃墟群だ。斜面にへばり付くように建っている建物が二つあり、手前のものはその名も「絶景館」という。
私は廃墟マニアではないが、廃道と一緒にあるそれを見るのは大好きだし、廃墟や廃村は廃道の歴史と存在に説得力を与える名脇役だと思っている。
そして今回の場合もそれに近い要素がある。
どちらの建物も道路に面する部分を最上階として、以下の斜面に階段状に建っている。非常に急傾斜な斜面によく建てたものだと思うが、明らかに自然の集落が立地するような土地ではない。
ここからは手前の「絶景館」についての説明だが、廃墟化した時期は不明である。だが既に述べたとおり、県道が現役だった平成20(2008)年当時も無人であったと思う。
建設時期については歴代の空中写真を調べてみたが、昭和37(1962)年版には存在していた(その前の昭和21年版にはない)ので、決して短くない歴史がある。
昭和30年代から40年代のはじめ頃は、この道が最も栄えていた時期だと思う。
当時この道は国道150号として静岡と焼津方面を連絡する主要道路であっただけでなく、東名高速の開通前で交通量がパンク状態だった国道1号のサブとしても、かなりの交通量を受け持っていたようだ。
そんな交通量の多さと風景の良さに目を付けた経営者がいて、この絶壁を切り開いて宿泊施設を建設したものと思われる。
どのくらい繁盛したのかは知る由もないが、昭和44年の東名高速全線開通、46年の石部洞門の崩壊から翌年の石部海上橋開通まで続いた通行止め、さらに53年の国道150号のバイパスである新日本坂トンネルの開通などがあり、段階を踏んで大崩海岸の交通量は減少したことだろう。
国道が県道に降格するのは平成16年と最近のことだが、一部の建物の荒れ方を見る限り、それより前の段階で営業を終了していたのではないかと思う。
もっとも、営業終了後も一部が住居として利用されていたようなことはあるかも知れない。建物の荒れ方は全体に均一ではない。
特に荒れ方が目立つのは、道路から離れた(すなわち、より海に近い)低い位置にある建物だ。
壁も屋根もボロボロで、はたして床もまともにあるのかどうか。海上に迫り出して建っている部分などは、見るだけでも壮絶な状況になっている。
また、火災に遭ったわけでもないだろうに至る所の壁が剥けているのは、苛烈な海風に晒される環境のせいだろう。
二重のバリケードを突破して振り返った。
こちらがバリケードの正面であり、部外者である我々一般人の多くが普段目にしている側である。裏面にはない模様や看板が取り付けられている。
しかし、この二重バリケードを突破しても、閉鎖区間外に出たという感じがしなかった。
人気がないというのもそう感じた理由だが、もっと感覚的なものでもある。
この様子だと、当目隧道も廃隧道化していそうだ。
当目隧道の先に現在の封鎖ゲートが別にあると思う。
そうなると、当目隧道の南口に建ち並ぶこれらの廃墟群は、大崩壊と封鎖された隧道に挟まれた、真に孤立した土地にあることになる。
オブローダー的には美味しいが、この土地の開発に長い時間を掛けていた関係者の心中を思うと、なかなかに重いものがある。
仮に立ち入りが自由であったとしても、道が通り抜け出来なくなっている時点で、繁盛を取り戻すのは絶望的かもしれないが…。
沿道に2軒の建物があるが、静岡側にあるのが「絶景館」である。
この名前は、玄関口に取り付けられた看板から判明した。
「絶景館 旅館入口」と書いてあるので、旅館であったことも同時に分かった。
玄関口にあたる沿道の建物もかなり荒廃しており、窓も扉もなくなっている。
そのため道路から内部が筒抜けなのだが、そこには「絶景館」の名に恥じない絶景を納めた窓が、廃墟に飾られた名画のような存在感を醸していたのである。
茫洋たる駿河湾越しに伊豆半島の高嶺が望まれる、そんな絶景だ。
同じものは路上の車窓からも見えたであろうが、ゆっくりと車を止められるような交通事情ではなかったがゆえに、それを腰掛けて眺める贅沢が商品として成立したのであろう。
この窓だけは最後まで死守すべきという、そんな何者かの強い意志でも働いているかのように、雑然の中に凜としている姿が印象的だった。
平成20年の時点では、道路に面していた建物についてはさほど荒れておらず、低い位置の建物が廃墟然としている程度だったので、青海に望む白亜の望楼の優雅さを留めていたのであるが、現状では全ての建物が荒廃しており、瓦解へ近づいているのが分かる。印象的だった白色の壁も、まるで屍肉に群がる蟻のような緑のツタによっておびただしく浸食され、外観の終末感を極限に高めている。
……以上が、「絶景館」の現状である。
続いて、路傍に建つもう一軒の建物である。
当目隧道の南口に面して建つこの建物には、とても目立つアラビアンムーン風のタイルアートがあるが、屋号は不明である。
そして、絶景館と同じく平成20年当時で既に営業していなかったと思うが、住居として使用されていたのではないだろうか。
当時の写真には住人のものと思われる駐車車両が写っている。
建物もまだしっかりしているように見える。
(読者様コメント25947によると、2011年までは居住者がおられたようだ)
だが、こちらの建物も道路沿いから離れた部分は完全に廃墟化している。
今回の災害とは関係ないと思うが、前回からの9年の間に一部の建物は倒壊し、大量の廃材を斜面に散乱させるままになっていた。
壁も屋根もなくなった床にバスタブだけがぽつんと残っている場所があって、それが今にも縁から零れ落ちそうになっているために、おおよそ考えつく限りでは極限立地の露天風呂になっていた。
それにしても、普通の建物の4階5階分にも相当する人工地盤は、まるで高層ビルの廃墟のようだ。
大変な難工事であったろうが、それでも開業させたいと思うくらいは繁盛が期待されたのだろう。
東海道筋にあって稀な山岳的海岸風景を見せる大崩海岸とは、地学的に見れば南アルプス山脈の南端が太平洋へ落ち込む部分であるらしい。標高こそ違えども、有名な赤石岳や北岳のような3000m級の高峰と地続きの存在なのだ。
それら高峰の随所に刻まれた渓谷がどれほどものであるかを知るならば(千頭林鉄…)、全ての渓と河川の親玉である海に接する地形が険阻であるのも頷けるし、その海崖の中腹に建物を置く破天荒さも分かろうというものだ。
太平洋から日本列島にぶつかってくる数多の烈風のいくつかは、列島の誰より早くにここへ浴びせられるだろう。
素人目にもそんな海陸の鬩ぎ合いの中にあって、絶対的に安堵し得ない立地に見えるが、利便の道が隣にあったからこそ、活計を求める人がいたのだ。
これで、廃墟群の紹介を終える。
次は、懐かしの当目隧道だ。果たして通り抜けは出来るのか?
16:53 《現在地》
当目隧道の貫通を確認!
しかも、一部の照明が点灯していた!
この隧道が被災したわけではないから、隧道そのものが残っているのは予想通りだが、内部の照明が点灯していることは予想外だった。
現役時代に比べれば遙かに点灯数は少ないが、廃隧道でないことの証明としては十分だ。
坑門の様子も現役時代との違いは特に感じられない。
この9年で大きく荒廃が進んでいた廃墟群とは異なり、昭和9年より存続している堅牢なコンクリート隧道にとって、この程度の年月の経過は外見を変えるような影響力を持たなかったようである。
ただ、行き交う人と車だけが消えていた。
昭和9(1934)年竣工、全長144m、幅員5.7m、高さ4.6m。
以上のようなスペックを持つ当目隧道は、現役時代に一通り紹介をしているので、今回は通過するだけのつもりだったが、内部に意外な変化が起きていた。
一部の照明が点灯している隧道内に、ぽつんと1台の自動車が駐まっていたのである。しかもよく見ると、向かって左側の車線上には駐車スペースを示す白線が敷かれており、ここが世にも珍しい、道路トンネルをそのまま利用した駐車場になっていることを示していた。
ご存知通り、道路交通法によって道路トンネル内での駐車は禁止されているのであり、ここが既に道路法の道路からははみ出した存在であることを如実に示す光景だった。
そしてさらに視線を先に向けると、案の定というべきか、出口にフェンスゲートがあった。廃道区間の静岡側入口で見たものと同じである。フェンスの向こうには、これまでの絶海風景から一変して、焼津の市街地が見えていた。
一体誰が一般の車両の出入りできない当目隧道を駐車場として活用しているかだが、トンネルの真上にあるホテルの従業員たちではないかというのが私の想像だ。
16:58 《現在地》
大崩海岸の廃れた道で採れた活きの良いワルにゃーが、「にゃー!」と、隧道から飛び出してきた。
今度こそ現代の人通りに面している正式な閉鎖地点であるようで、間近に聞こえる現道の喧噪と一緒に、「全面通行止」や「この先静岡市へは行けません」といった看板が現れた。
フェンスゲートはしっかりと坑門に密着しており、脇に甘さは感じられない。
坑門自体はこちらも全く手を加えられた様子はなく、道路トンネルとしての役目は終えてしまったが、昭和初期らしい装飾要素の多いコンクリート坑門として鑑賞に堪えるプロポーションを維持している。
坑口から現道合流地点までの50mほどある旧道上にもチェーンが設置されており、トンネル内に車を駐める際の手間の多さがキツそうだ。
また、現役時代には坑口右側に設置されていた道路情報板が、消滅していた。
この道路情報板は電光掲示板タイプではなく昔ながらのシートタイプだったので、その長寿な活躍ぶりを密かに愛していたのだが…、残念だ。
現道との合流地点である。
かつてここは国道と、山上にあるホテルへの道が分かれる丁字路だった。
今もその状況に変わりはないが、国道は新たな道に置き換えられており、私がいる道はのけ者になっていた。
途切れたオレンジ色のセンターラインが、奪われた進路を物語っているようでもの悲しい。
それでも私は、この旧道に未だ車両通行の可能な一縷のラインがあることを確認したので、意気消沈ということはなかった。
そして最後にもう一つ、嬉しい誤算があった。
なんと、先ほど撤去されてしまったと思った旧南口前のシートタイプ道路情報板が、新道の坑口前に移動して、今度は新道を相手に立派に役目を果たし続けていたのである!
(しかもなぜか、旧道時代にはシートタイプのさらに手前にあった電光掲示板タイプの道路情報板を押しのけての抜擢だ。新旧写真に写っている電光掲示板タイプの道路情報板の位置(赤い矢印)は変化していないと思う。こちらはもう点灯する日は来ないだろう。)
そこに以前は常に表示されていたと思う「通行注意 落石」の表示はなく、まっさらなホワイトシートを提示しているだけだったが、それも道がより安全に生まれ変わった証しと思えば、また誇らしい。
以上をもって、廃止後わずか3ヶ月後に訪れた浜当目トンネル旧道の紹介を終わる。
右図は今回のレポートを作成するにあたって自身の復習のために用意した、大崩海岸道路の簡易年表である。
何度も災害によって破壊されながらも、その都度新たな道路構造物をひっさげて復活してくるこの道の波瀾万丈な生き様を感じて貰いたい。異常気象時の通行規制に伴う短期間の通行止めは、このほかにも数え切れないくらいあると思うが。
また、これまでいただいた読者諸兄のコメントの中には、国道150号の旧道に過ぎないこの道を、果たして今さら巨額を投じて復旧させる意義があったのかという疑問を呈する人もいた。
確かにこのような議論は復旧に当たって実際になされたものと思う。
既に並行路線として、この道より遙かに高規格な国道1号(4車線)、国道150号新日本坂トンネル(4車線)、新東名高速(4〜6車線)、東名高速(4車線)が存在している。
それでも今回は長大なトンネルによる復旧が行われた理由は、まず第一にこの道が大崩海岸の途中にある焼津市小浜集落にとって、静岡市を経由せずに焼津市中心部へ出る唯一の道であるために、通学その他の住民サービスおよび、防災上の観点から必要な道であると考えられたことが大きいだろう。
また別の理由としては、この道が歩行者および自転車に解放されていることが重視されたと思われる。
前述した並行路線のうち国道1号以外は全て歩行者の通行が禁止されており、特に新日本坂トンネルは一般道路でありながら歩行者通行禁止であるため、焼津と静岡という隣り合う二市の間を歩行者(もちろん自転車も)は、わざわざ内陸の国道1号へ大きく迂回しなければならないという不自然な状況になっていた。大崩海岸を経路としていた大規模自転車道である太平洋岸自転車道も同様である。
行政としては、自動車や鉄道だけに依らない多様な旅行のスタイルを実現していくために、交通量の多い東海道筋には国道1号以外にも歩行者の通れる道が必要だと考えたのだと思う。
ゆえにこの道は、今後もよほどのことがない限りは維持され続けるものと思う。