2023/2/12 17:14 《現在地》
激狭の“石造暗渠”を合図に、再び未舗装へと堕ちた我らが県道254号線。
その行く手に1本のコンクリート橋を遠望したのも束の間、橋より先にちょっとした難所が転がり出た。
廃道歴戦の私の前では「ちょっとした難所」に過ぎないが、路肩と法面のW崩壊によって、車道としての道幅が著しく不足しており、復旧には本格的な護岸工事から必要になりそう。この区間が再び車道として甦る可能性は、この場所を何とかしない限りゼロだろう。
崩壊地を越えたところで、また小さな谷が流れ込んで来た。
道はコンクリート造りの暗渠で越えているように見えたが、レポート執筆のため道路台帳を確認したところ、台帳上では長さ2.3m、幅3.0mの「丸山谷橋」があることになっていた。
まあこの規模からして、現地では暗渠と区別が付かなかったとしても責められない。責められないよ。
また少し進むと、前方に先ほど遠望した橋があると思しき明るい空間が見えてきた。
そしてその直前の法面には小さな祠の残骸があった。
さっきのは石の祠だったが、これは木の祠なので倒壊寸前だ。
中にあっただろう肝心の石仏は、心ある人に救出されたと信じよう。
17:16 《現在地》
ラッキー橋を離れること約850m、遠望した橋に辿り着いた。
どう見ても地味で平凡なコンクリート橋に過ぎないが、こんな平凡ではない悪路の途中にあることで、この道にも自動車が通れる“普通の県道”であろうとした時期があったのだと感じて、グッときた。
なおここまで来たことで、目の前の橋の少し先に、穴吹川を跨ぐ大きな赤い橋も見え出した。
あれは丸山橋といい、天神橋、ラッキー橋に続く、第3の県道と国道を結ぶ私にとっては助けの橋、セーブポイントである。
依然として急がねばならない状況に変わりはないが、また一つ区間の攻略をほぼ確約されたこの場所で少しだけ足を止め、いぶし銀の老橋を堪能したい。
それに、橋には他の路上にはない饒舌な部分がある。そこから未だ謎の多い県道の素性に関する情報が得られるかもしれない。いまから、“聞き取り調査”だ。
それではさっそく語っていただきましょう。橋の語り部こと、銘板たちに。
本橋の銘板は、橋の大きさに見合う控え目な姿をした四隅の親柱に、御影石のものが埋め込まれていた。ラッキー橋にも見習わせたい質実な佇まい。
このうち、先に向き合った右岸側の左右親柱には、それぞれ「いわなりはし」と「丸山谷」と刻まれていた。
ここから読み取れる言外の情報がある。
まず、一般的な4枚の銘板の組み合わせは、「橋名」「竣工年」「河川名」「橋名の読み」というものだが、その配置には慣例がある。
あくまでも慣例であり絶対のルールではないが、路線全体の起点側に前者2枚を、終点側に後者2枚を置き、かつ橋名とその読みが橋に向かって左側になるように置く。
この慣例に従うならば、今いる右岸が終点側ということになり、これは県道田方穴吹線を穴吹から辿ってきた現状に合致するわけだ。
目測で橋の長さは10mほど。たった数歩で渡り終えてしまうが、その中央付近でこの全天球画像を撮影した。
今は、夜という概念が忍び寄ってくる時分だが、最後にどこからが夜かを決めるのは自分だ。
谷底で闇色に凝固しつつある水面にも、圧倒的な夜の質量を感じざるを得ないが、まだ探索を延長したい私は、いろいろと見て見ぬ振りを決め込んだ。
私が探索時に夜を認めるのは、もう観念したときだけ。
丸山谷、銘板にはそう書いてあった小川(地形図では無名)を跨いで、左岸へ。
橋の袂には車が転回できる広さの草生した広場があり、その山側の一角(矢印の位置)に、あまり背の高くない古そうな石碑が建っている。
また、広場の川側の縁にあたる部分を橋の上から覗くと(チェンジ後の画像)、コンクリートの土台の上に隙間の少ない緻密な石垣が積まれていた。
下のコンクリートは後年の補強とみられ、元来は石垣が護岸の役割も果たしていたのだろう。
形も大小も様々な石材を隙間なくツライチに積みあげる石垣造りの高度な技法は、切り込み接(は)ぎといい、日本古来のものとされる。
広場の石碑は後回しにして、橋からの“聞き取り調査”の続きをする。振り返って左岸橋頭。
写真右端に錆色の金属柱が2本並んでいるが、その見慣れた太さや僅かに残る白い塗装から、道路標識柱とみて間違いがなさそうだ。
2本でいわゆる“白看”と呼ばれるような古い案内標識を支えていたのかもしれないし、2本の標識柱にそれぞれ最大重量と最大幅とかが取り付けられていたのかもしれない。
残念ながら肝心の標識板が見当らないが、この県道上ではじめて道路標識に注目した場面となった。
また、一見して古い老朽橋と感じられる本橋だが、一箇所だけ見るからに新しい部分がある。
それは高欄の一部、写真でも白くとても目立っている所だ。
後年の補修であることは間違いないが、スマートな従来の支柱の形を踏襲せず、無様に肉太りした直方体となっている。
外見を繕う手間を完全に惜しんだ感が露骨であるところに、補修当時における本橋の利用度が透けて見えたようで悲しかった。まあ、壊れたまま放置されるよりはよほどマシだが。
向かって左側の親柱には、「岩成橋」の橋名が刻まれていた。
県道としては起点側にあたる向かって左側の親柱に橋名。親柱と銘板のセオリー通りである。
そして加えて、これは珍しいケースなのだが、同じ親柱の右側面に、もう1枚の銘板が収まっていた。
このような“エクストラ銘板”は、各年代の橋でたま〜に見られるが、前述したような銘板によく記される4つの内容以外の事柄、例えば施工者名であったり橋の技術的データ(これは青森県の橋では頻繁に)が記されるケースが多い。
本橋の場合は……(↓)
うむぅ〜〜〜。
これが超絶読み取りにくくて参った。
材質が良くないのか表面に小さな凹みがたくさんある御影石に、まるで罫書きしたような細い線でたくさんの文字が刻まれている。自然光のもとでは1文字さえ読み取れず、解読のきっかけさえ得られなかった。そこで読みづらい碑文解読の常套手段である強烈光を斜めから照射する方法によって、薄い文字の陰影を強調した写真を撮影し、なんとか読み取れる可能性を持ち帰ったが、現地ではとても時間がかかりそうだったから解読を放棄していた。
で、帰宅後に撮影した数枚の写真を検討したのであるが……、
橋長一一,〇米
巾員三,五米
型式鉄筋コンクリート■■■■
……上記のような内容が、盤面の上半分に書かれていることを読み取るので精一杯だった。
(なお、この橋長と幅員の数字は、現行の道路台帳に記されているものとも一致した)
下半分の文字はさらに繊細で、解読困難。ただ、「施工」という文字が数ヶ所に見えるので、施工した会社名などが書かれている可能性が高いと思う。
全体としては、本橋の技術的情報をまとめたエクストラ銘板ということが出来ると思う。
他の橋にあまりないエクストラ銘板の存在は、工事関係者の生真面目さと共に、橋に宿った格式の高さも感じる。
個人的には、こんな小さな橋にこれだけ手厚い銘板があることを、さすが県道橋という風に受け取った。特に昔になるほど県道自体が稀少な存在だったわけで。
そしてこの後、最後にチェックした左岸右側の銘板も、予想外の内容だった!!
セオリー的には、竣工年が刻まれていることを期待したのだが……。
「徳島へ四四粁」
キターーー!!
個人的には、県道確定演出だ!
実は、徳島県の少し古い年代の国道や県道の橋の銘板では、前述した4つの内容の組み合わせが全国的なセオリーと異なり、「橋名」「徳島県庁までの距離」「河川名」「橋名の読み」であるケースが多く発見されている。(個人的研究に属する内容であるが、相当数を見つけている)
橋の銘板の内容における地域差は他の県にもあって、例えば新潟県ではしばしば「路線名」が記されるが、県庁所在地に直接繋がる路線でなくても県庁までの距離を記すのは、今のところ徳島県でしか見たことのない銘板だ。現代だったら中央集権的と思われそうな内容だからか、さすがに最近の橋では見られない。
ともかく、岩成橋に「徳島へ44km」の銘板があることは、架設当初よりここが県道であったことを強く示唆している!
(実際に地図上で距離を測ってみると、本橋から県道を辿って穴吹終点まで約6.2km、そこから国道192号で徳島県庁前まで約38kmあり、合計約44kmは正しかった)
のだが、では肝心の竣工年となると、現地では不明に終わる。
なぜなら、竣工年を記した銘板がないから。
竣工年は、帰宅後に判明した。
平成27(2015)年にまとめられた「【徳島県】橋梁点検結果」という資料に、本橋の点検結果が記されており、そこの架設年次の欄に1958とある。すなわち、昭和33(1958)年架設である。
昭和33年架設だと…………、
県道田方穴吹線の認定時期は、昭和34(1959)年1月31日(wikiより)だという。
したがって、非常に微妙ではあるが、現在の県道田方穴吹線の認定前年に本橋が架設された時点で、既に県道の認定を受けていた可能性を示唆しているな。
つまりは、旧道路法時代から県道であった可能性……大か?
「県道確定演出」を高らかに謳った後でとても恥ずかしいのだが、前言撤回である。
まだちょっと徳島の道の経験値が足りてなかった。憶測で断定をしてしまった。
読者様が見つけてくれたのだが、なんとこの県道沿いにある2本の市道上の橋「天神橋」と「穴吹橋」の銘板にも「徳島」までの距離が記されているという。
ストリートビューで確認してみたところ……
↑ 「徳島市へ四十一粁」の表記あり!
↑ 「徳島へ四十六粁」の表記あり!
……マジだった。
これらの橋は、いずれも昭和40年代以降の橋であり、本県道が認定された後に、当初より市町村道の橋として建設されたものである。
具体的には、天神橋(市道穴吹24号線)は昭和45年、丸山橋(市道穴吹30号線)は昭和47年の架設。
したがって、県庁所在地である徳島市までの距離を記してあるから県道以上だという判断は、間違っていた。
素直に誤りを認めるが、しかしこれ、特別な事情があって市道の橋にまで距離表示があるのか、それとも普通に全県的なことなのか。もし後者なら、徳島県内にはもの凄い数の距離表示があることになる。いちばん遠いのはどこかとか、地味に気になる。もし県内在住の読者さんがおられたら、ちょっと注目してみて欲しい。
ちなみに、岩成橋と丸山橋は300mも離れていないが、表示されている距離は2kmも離れている。
したがって、これらは別のルートを想定している可能性が高い。
というか、岩成橋は県道経由の距離、丸山橋は国道経由の距離だろう。実際2kmも違わないと思うけれど、まあ誤差の範囲か。
というわけで、私の県道橋確定演出、なんと、ガセる……orz
17:22
橋からの“聞き取り”が終わったので、続いては橋の袂の広場の隅にある古びた石碑だ。
日陰っぽいところにあるため、苔や地衣類の侵食を受けており、この碑も現地では表題にあたる部分しか解読が出来なかった。
上部に二つある凹んだ所が題額で、歴史を感じさせる右書きで上から順に「猿飼山」「林道開設記念碑」の文字が読み取れた。
!!!道の記念碑だ!!!
と、色めきだったのは当然で、本碑こそが岩成橋を含む県道の由来を記すものだと確信した!
肝心要の碑文(本文にあたる部分)の解読が急がれたが、これまた刻字の細さや碑面の傷みから容易には読み取ることが出来ず、現地ではやはり撮影だけを行って、帰宅後の解読に賭けたのだった。
次に掲載する画像が、碑文を撮影した写真の一部だ。(光の角度や当てる位置を変えながら6枚撮影した)
頑張って解読した文章も一緒に掲載する。
口山村長山田庄市字丸山岩谷ヲ起点トシ猿飼山ニ通ズル林
道ヲ昭和八年昭和九年両年度ニ於テ総工費金貳千五百貳拾圓■
提案ス満場一致議決ヲ経タリ其林道タルヤ延長千六百五十米幅■
■請負ヲ為シ昭和八年拾貳月貳拾貳日工ヲ起シ昭和拾年■■貳拾
■■尚ホ関係部落■■議員喜多■■■大久保彦一両氏ハ■■■
■分ノ一受益者負担■■■■■工事委員■■■
受益者負担寄附芳名 工事委員
(人名略) (人名略)
残念ながら文字の摩滅や撮影の限界から解読しきれない部分が結構あったが、要約すると、昭和10(1935)年に口山村は丸山岩谷(おそらく現在地)より猿飼山へ至る全長1650mの林道を整備したということだろう。
これを地図上に照らしてみると――(↓)
これはどうやら、現在の県道の開通ではなく、そこから分岐して猿飼方面に通じた林道の記念碑と考えられる。
昭和44(1969)年の地形図には描かれている点線の道(画像に薄緑で着色した線)が怪しいと思う。距離的にも近いものがある。
県道の由来を記した碑ではなかったようだが、この附近で県道(ただし当時から県道だったかは現時点では不明)から分岐する新設の林道をおそらく車道の規格で整備しているわけで、昭和10年当時、既に県道が車道として通じていたことを示唆している。当時、対岸の道がどのような状況であったかも碑文からは読み取れないが、この右岸の道に現在と比較にならない利用度があったことは容易に想像できるのである。やはり苦労して解読した甲斐のある碑であった。
17:22
実際に橋の周りにいた時間は、正味5分ほど。
さあ、本当に暗くなる前に先を急ごう。
17:23 《現在地》
ラッキー橋から約1kmにて、第3の助けの橋、国道脱出のセーブポイントたる丸山橋が目前と迫った。
県道全体で見ると、スタート地点(終点)から約6.4kmの地点であり、計算上はゴール(起点)までの残り約1.5kmである。
だが、この丸山橋から次の知野(ちの)集落に架かる第4の橋「知野橋」までの約700mは、最新の地理院地図で完全に道の表記が途切れる本県道の2度目の“分断区間”であり、難所を懸念されていた。
事実、区間の始まりにあたるこの丸山橋からして、探索者を欺く狡猾な“罠”が仕掛けられていて……。
2023/2/12 17:23
現在地は丸山橋の直前だ。
丸山橋は、丸山集落と国道を結ぶ市道穴吹30号線に属しており、同集落の生命線といえる存在だ。
最新の地理院地図によると、県道は丸山橋の袂で市道と合流すると一度途絶え、約700m先の知野集落に架かる知野橋の袂から甦る。
これは一見、不通県道らしい“未開通区間”(道が造られていない区間)のようだが、今回の探索のために予め用意した昭和44(1969)年版の地形図では、この間にも道が描かれていた。
そのため、ここにも一度は県道が開通した可能性が高いと考えていた。
ところで、前回の最後、この丸山橋には県道探索者を欺く狡猾な“罠”が仕掛けられていると煽ったが、それはどういうことかというと、ここはよほど注意しないと自然に県道から外れてしまうようなイジワルな造りになっているのである。
この場面、微かな轍の果てにやっと辿り着いた舗装の頼もしさには、決して身を委ねてはならない。
それをすると、まんまと丸山橋を渡る市道に絡め取られて、県道の旅が終わってしまうことになる。
しかも、このミスルートが地理院地図に描かれた県道の末端と一致しているため、正しいルートの存在に気付きづらい質の悪さだ。
正しく県道を辿るには、舗装されたスロープを無視し、スロープの盛土によって狭められた右側の“草むら”を行く必要がある。
ここはもはや分岐の体をなしておらず、スロープの一本道に限りなく近い状況だが、敢えてそこから外れるように動く必要がある。
残念ながら、四輪車だとここを辿れないと思う。無理に通ろうとすれば、盛土のため車体が斜めになって、そのまま崖に転げ落ちる危険性がある。
さすがは地理院地図から抹消されただけあって、この場所での県道の存在感は、これまでのどこよりも乏しく感じる。
これは県が公表している道路台帳の図面の一部だが、私が黄色く塗った部分が県道だ。
県道は、「現在地」にある分岐で右の道を進み、その先では丸山橋を潜るように続いていることが分かる。
道路同士の立体交差といえば、高規格さの象徴のようなものであるが、ここには廃道同然の県道と現役の市道の立体交差が存在する。
上述のスロープは、立体交差のランプウェイなのである。
読者様の情報により、丸山橋から県道へ下りるスロープの入口に、「トレッキングコース順路」と書かれた看板があることが判明した。
↑ 確かにそのような看板があるほか、「この先、車輌通行不能のため車輌の通行は出来ません。」と、本県道の状況を思えば当然の内容が記された看板も設置されていることが分かった。
私みたいに県道を外れることを拒否し、県道上だけで探索を完結させようとすると、これらの看板は見ることが出来ないものであった。
丸山橋側にも散策路の看板が見つかったことから、ラッキー橋から丸山橋までの一連の県道が散策路として利用されたことが分かる。
現状では、仮にどちらから進入した場合でも、ほぼ中間地点の“石造暗渠”の所にある【折り返し】の案内を見て折り返す羽目になるが。だって、「折り返せ」って指示なんだもん。
で、この散策路の正体だが、徳島県庁サイト内の「歩いてみませんか!〜四国のみずべ八十八カ所〜」にPDFが掲載されている小冊子「歩いてなんぼじゃわ〜」に、このコースが取り上げられていることも分かった。
小冊子は、国土交通省四国地方整備局が平成15(2003)年に一般より公募のうえ選定した「四国のみずべ八十八カ所」のうち、徳島県内にある21ヶ所の散策コースのガイドブックで、その第13番目のコースとして「穴吹川(来てみて分かる 四国一)」が紹介されていた。
内容は各自でPDFを確認していただきたいが、今回探索したラッキー橋から丸山橋までの区間で間違いない。
ただ、小冊子の地図だと、コース上のラッキー橋や【竜】の位置関係が実際とは少し違う気がする。別ルートの存在や竜の移転が行われたようには思えないが…。
それはともかく、小冊子の奥付を見ると、平成19(2007)年初版発行、平成26(2014)年修正発行というかなり最近のものであった。
現在もコースが廃止されたような修正はされていないが、実際に歩くと序盤から【こんな】だからね……、それは覚悟してね(苦笑)。
あと重要なポイントとして、ここが県道である事への言及は皆無だった!
17:24
ぬーん…。
なんとも言えない不穏さのある道だ。
道は確かにある。これがまさしく県道の続きなのである。台帳の通り、丸山橋の下を潜ってもいる。
両側はしっかりとしたコンクリートの擁壁で、道幅も意外と広い。
ここも一度は車の通る道として整備されたのは間違いないだろう。
しかし、目前の風景からは先行きへの不安が拭えず、自転車を持ち込むかどうかの決断が特に難しかった。
結局は、足を止めて熟考する時間が惜しかったのと、たった700m頑張れば次の集落(事実上のゴールと認識していた)という距離の近さに期待を込める形で、これまで通り、自転車同伴での突入を決行したが…。
丸山橋のガード下を通過する。
余り高さに余裕はないが、特に高さ制限などは標示されていない。
ちなみに、丸山橋の竣工は昭和47年である。
昭和44年の地形図にも既に橋が描かれていたが、それは旧橋だったのだろう。
旧橋は今の橋よりも短く描かれており、県道と同じ高さに地続きで架かっていたようであるが、遺構らしいものは見当らなかった。
17:25
橋を潜ると県道は直ちに鬱蒼とした森に入るが、路肩だけは切り立った峡谷に臨んでいる。
道幅は1車線としては十分だが、未舗装路面の荒れた状況が廃道を物語っていた。
前の区間よりも明らかに荒れており、同様に地理院地図から抹消されていた二つ前の区間(仕出原〜ラッキー橋)の状況に近そうだ。
チェンジ後の画像は、対岸の岩壁にへばり付くように建ち並ぶ弓立集落の家並みだ。
右端に丸山橋が見えるほか、背後の高台にかつて【口山中学校】があった。
家々は県道よりも少し高い国道や丸山橋と同じレベルに建っているが、基礎によって相当の嵩上げが行われているのが分かる。
丸山橋の嵩上げも、集落の嵩上げも、根っこは同じ所にあるに違いない。穴吹川の洪水対策、それ以外にあるまい。
逆に言うと、独り低位置から抜け出していないのは県道だけという現実は、ちょっとだけ重い……。(わーん! 俺なんてもうどうなっても良いんだ!)
17:27
道を通せんぼする太い倒木を跨いだ先では、仕出原〜ラッキー橋の区間で何度も目にしたコンクリートの標柱と再開した。
災害復旧工事の工事標で、「昭63.11竣工」「(有)久保田組」などの文字が読み取れた。
昭和63年か……。
ちょっと話が脱線するが、私が生まれたのは昭和52年であり、そんな私の感覚だと、二つ前の元号は明治であって、それはもう自分なんかが全然知らない大昔という感覚だった。
で、現代の令和から見れば、二つ前の元号が昭和なんだけど、やっぱり令和生まれの人にとっては、昭和というだけで大昔〜!って感じなんだろうか。
いや、本当に脱線してしまった。
ただ、昭和63年というのは昭和の中ではほとんど平成寄りであり、さすがに幹線と言われるような道路の整備水準は今と大差ないくらい高くなっていた。そんな時代にこの県道を災害復旧で直していたようだが、当時としてもこの県道は“険道”そのものだったと思う。昭和ならこんな県道は珍しくなかったと言ってしまうのは、昭和の長さを考えると少し乱暴。昭和63年なら、この県道は相当ヤバかったと思う。それが言いたかった。
17:28
地形図から抹消されてしまった区間ではあるが、思いのほかしっかりとした道づくりがなされていた形跡がある。
現状全く使われている様子がないので全てを“形跡”と表現しなければならないのは悲しいが、この写真の中だけでも実に様々な構造物(大雑把に区分すれば擁壁や暗渠)が、ひとつの道を形作るために働いていた。
これより遙かに荒れ果てていても、地形図にはしぶとく表記され続けている道は極めて多い。
にもかかわらず、この県道が早々と抹消されたのは、どんな理由があるのか少し気になる。例えば、関係者からの働きかけがあったとか?
この道は法的に現役(供用中)の県道であり、かつ通行も規制されていない。道路台帳においても確かに県道としての記録がなされている。
そして現地には明確な道形も現存している。
だが、地形図からは消えている。
17:29 《現在地》
丸山橋から300mほど進んだところには、対岸の国道と川を挟んで間近に対峙する場面があった。
谷がかつてなく狭まっており、その分だけ両岸は切り立っている。
谷底の深淵はどこぞの地底湖みたく透き通っていて、夕暮れに見るものではなかった。
対岸の国道は、珍しく県道と同じ高さに見えたから、つい比較してしまう。
だが、向こうにあってこっちにはないものばかりで、両者に等しくあるのは道路台帳くらいだと気付いた。
徳島県道254号、心強くなければ勤まらぬ道である。
路上に枝振りのしっかりした高木が育ちはじめているのを見た。
30年は車通りが絶えていると思う。
17:30
再びの災害復旧工事の痕跡。
工事標に刻まれていた竣工年は……
昭和64年2月!
久々に見た、“実在しない刻”を刻んだ道路構造物。
説明は不要だと思うが、昭和64(1989)年は、天皇の崩御によって1月7日までしか存在しない。
したがって、昭和64年2月は平成元年2月であったが、標柱はこの出来事を観測する以前に発注・製造されたのだろう。
それを設置することが不敬罪に問われるような時代ではもちろんなかったから、そのまま建てられた。
かなりレアな遺構であるが、だからといって、わざわざここまで見に来たいと思う人はいないだろう。
この区間に入ってから、道路管理者による最近の手入れは全く見ないが、昭和末頃までは間違いなく維持されていたようで、当時造られた本格的な擁壁が多くあるお陰だろう。ここまで決定的な崩壊はなく、自転車にも8割以上乗車して進むことが出来ている。順調であった。
17:36 《現在地》
危うし!!
GPSの画面上では知野集落入口まで200mの至近に迫っているが、路上からはまだ気配が感じられない。
それどころか、逆にである。
逆に、久々に進路を窮する危険を感じるほどの大きな路体の欠壊が起っていた。
古びた空積みの石垣が道幅の4分の3を道連れに大崩壊しており、残された幅50cmに満たない撫で肩傾斜の危うい路面を、自転車を押しながら恐る恐る通行した。
難所を通過し終えて、いつものように振り返ると……
Oh! お地蔵がピンチだ!!
やはりここは古くからの難所だったのだろう。これまでの例に漏れず、お地蔵さまが安置されていた。
その姿は、懸命に山側に身を傾けて、迫り来る崖に落ちまいとしているようだった。
また、お地蔵さま(赤矢印)の台石の前に、別の小さな石碑(黄矢印)が置かれているのに気付いた。
もう周りは本当に薄暗くて、時間がないのだが、捨て置けない。
急ぎ足元に跪き、観察と記録を実行する。
お地蔵さまは、よく昔話に登場するあのまんまの、ザ・お地蔵さまといったルックスだった。
左の目立つ所に刻まれた文字列は、以下の通り。
「明治卅天三月廿四日」 (「天」は「年」の代わりに使われる)
……え? マジでか?!
偶然とは思えない一致を察し、ちょっとゾクッとした。
明治30(1897)年3月24日に建立されたお地蔵さまを、前にも見ている。
この回の17:06に出会っている。
同じ年の同じ日に、同じ道の別の場所に、少なくとも2体のお地蔵さまが建立されている。
この事実は何を意味しているのだろうか……? (明治30年3月24日が、この道の誕生日だったり?)
こちらは、お地蔵さまの足元に立つ小さな石柱。
見慣れた工事標ではなさそうだ。見るからに古い。
一見何の文字も刻まれていないが、正面は苔に覆われていた。
チェンジ後の画像は、その苔を手当たり次第に剥ぎ取った後の様子だ。
はっきりと文字が刻まれていた。
「九丁」と大書きされており、その下に建立者とみられる3人の名が小さく刻まれていた。何れも知野の人である。
建立年は不明だが、これは明らかに丁石である。
道に沿ってほぼ1丁(109m)ごとに立てられた道標で、現代でいえば道路上のキロポストだ。
単位が丁(町と同じ)であるから近世以前のイメージが強いが、社寺参道においては(メートル表記が味気ないからか)年代をあまり問わず丁石は使われた。とはいえ最近のものではないだろうが。
丁石は社寺参道に特に多く見られ、場所柄いわゆる四国八十八箇所に関わるものかとも思ったが、附近に対象の霊場はない。
丁石が移動している可能性はあるが、いずれにしても建立地から9丁(約980m)の所にあった社寺に関わる丁石で、この道に“信仰の道”という側面が少なからずあったことを窺わせる新発見だった。
17:40
燃えさかる炎のような不気味なうねりを見せる大岩盤が、お地蔵さまが背にするこの難所の主であり、それ自体が磐座として信仰されたかも知れないモノであった。
さっきまでの落ちぶれた昭和後年の廃道風景から、一瞬で表情を変えたように思う。
この県道の百面相ぶりは、相当なものがある。
ハッとする。
もはや私でも言い逃れが難しいほど、周りは濃い夜の闇に覆われていた。
これが最後と信じたい難所から、逃げるように立ち去った。
次回、さいしゅうかい。
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