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道路レポート 和歌山県道45号那智勝浦本宮線 畝畑地区 後編

所在地 和歌山県新宮市
探索日 2024.12.15
公開日 2026.03.09

 出た! 久方ぶりの“階段県道”だ!!!


2024/12/15 13:23  《現在地》

畝畑地区内に、全く目立っていない“分岐”を発見した。
ここで分かれる右の道は、地理院地図にもスーパーマップルにも描かれておらず、事前にハルニチ氏の情報を得ていなければ、まさかこの道が県道45号であるとは、絶対に気付かなかっただろう。

前回冒頭の地点から1.6km、県道229号と45号は重複したが、再びここで別ルートとなる。
とはいえこの別離は一時的であり、車道である前者ベースで約900m、最短距離で進む後者ベースで約350mの後、再び出会うのである。
もちろん私は、県道45号をチョイスして進む。



これは紛れもない、“階段県道”のお出ましだ。

階段国道”があまりにも有名だが、県道にも階段が路線として指定されている道が稀にある。
当サイトで取上げたものとしては、島根県道23号斐川一畑大社線とかがそうだった。

車が通れないことを前提とした階段という構造物と、基本的に車が通れる道であることを前提として認定される都道府県道(道路局長通達『都道府県同路線の路線認定基準等について』)は、根本的に相性が悪いので、不通県道多しといえども露骨に階段が県道として認定されることは稀なのである。
(それでも皆無でないのは、前記の“基準”が昔は今と異なっていたことや、車道に改築する計画があれば非車道でも認定され得たことなどが原因)。

地理院地図には描かれていないこの階段だが、入口に見慣れたピンクテープが垂れていた。
誰が設置したのかは分からないが、道路管理者が県道の認識を持って垂らしたものだったらいいなぁ。



自転車で階段へ突入!

初っ端が急な階段なので、いきなりチャリは足手まといだが、残したチャリを取りに戻ってくるのが面倒なので、区間の距離が短いことを頼りに、このままチャリ同伴で突破を目指すことにした。

階段は苔生してはいるがしっかりしたコンクリート製で、幅は1mくらいある。
ただ、山側からシダ植物が覆い被さってきているから、もっと狭く見える。



13:24

階段は最初だけで、30段くらい一気に登ると同じ幅の地道になった。左に見下ろしているのが県道229号の路面で、既に10mほどの落差がある。
状況からすると、県道229号の前身である林道和田川線を整備した際に、道を摺り合わせるために階段を整備したのではないかと思う。
林道開通以前はこちらの道しかなかったはずで、それであれば階段は不要だろう。

チェンジ後の画像は、階段区間を振り返って撮影した。
急ではあるが、一息の距離である。



13:25 

最初の階段を越えると、道は案の定、つい20分前まで半日近くも歩き続けた馴染みのある山道になった。
非車道だが、いわゆる登山道や造林作業道のような子どもの足を無視した過酷さではない、老若男女が日常的に歩いて通ることで地に深く刻まれたと思える、いかにも古びた道だった。

鬱蒼としたスギの森の地面を覆う南国らしい濃い下草に、あっぷあっぷしながらも、辛うじて路面が維持されているのは、おそらく電線(電話線?)の通り道にもなっているからだろう。
人家が近いだけあって、この電線は現役である。



13:29

濃い陰影の森を、自転車を押し進むこと数分。
ずっと登り坂であった道が、電光形に一度だけ切り返して向きを変えると、その先に控え目な空が見えた。
早くも川沿いの県道229号から見て40mほど高い位置にある無名の峠に迫っているのである。
距離は、階段の入口から150mほどだった。



13:30 《現在地》

峠の頂上へ。

両側の比高が40mくらいしかない、ごく小さな峠であり、地形図などに記録された名前もないが、頂上には浅い掘り割りがあった。
和田川の谷の高い所を流れる風がとても涼しく感じられ、傍らに聳える大木が古い往来を見守っていた。

この写真を撮影した到達直前の時点では、浅い掘り割りと大木のほかに何もない峠だと思ったが、数秒後には一転して、実に賑やかな峠であることを知った。
賑やかすぎて、どこから撮影してか分からないほどだった。



まず、この峠は分岐地点であった。

私が来た峠の上り道と、私が往く峠の下り道のほかに、尾根沿いにも2本の道が分かれていた。



さらに、沿道にはたくさんの祠があった。
この写真の二つ並んだ石の小祠は、峠に立った瞬間に目に飛び込んできた。
一帯は全国有数の多雨地帯であるから、路傍の仏さまも出来るだけ雨ざらしにしない心配りか。石積みの祠の中にジャストサイズの石仏が収まっている。



@の祠には、「子安観音」の刻字がなされた舟形光背の石仏が収まっていた。「明治廿七年三月」の文字も刻まれており、建立年(明治27(1894)年)であろう。
県道45号の認定は昭和58(1983)年だが、これはその90年も昔に安置されており、道自体も同様に古いことを物語っていた。

Aの祠には、刻字のない建立年不明の石仏が収まっていたが、剣や法輪を掲げた忿怒相の姿から不動明王像だと思う。空海が広めた密教に由来するメジャーな石仏である。



いま紹介した石仏@Aをはじめとして、この小さな峠の周辺には、全部で6つの祠が集まっていた。
図はその配置を示したものだ。
ここが寺院の境内というのならばともかく、そういう感じでもない峠の頂上に、かくも多くの祠が集まっていることが印象的だった。
さすれば当然、「なぜか」という疑問が生まれるが、そこで自然に連想されるのは、やはり信仰の道という要素だろう。

平成16(2004)年に「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコ世界文化遺産に登録されたことをきっかけに、「熊野古道」が全国的にメジャーな存在として“再発見”されたが、今いる場所は、「熊野古道」のモデルコースの一つとして有名な「中辺路(大雲取・小雲取越)」から、西へ谷を一つ二つ隔てた無名の並行路線である。現代の観光資源としての狭義の熊野古道には含まれないが、古代から中世にかけて熊野三山を参拝するために全国各地からの人々が歩いた道の総称としての広義の熊野古道には、おそらく収まる道であろうと思っている。

おそらく、そうした浅からぬ歴史的背景を踏まえた上で、その現代への(道路としての)復権を目指した人々の政治的な働きかけがあって、このように長大な非車道区間を抱える県道45号の県道認定がなされたものと予想している。逆説的ではあるが、もし歴史的に取るに足らない道であったなら、こんなに長い不通区間を県道に昇格させることは、無理筋ではないかと思う。



祠BCDは、県道から脇道に逸れた尾根の南側にこのように行儀良く並んでいた。

チェンジ後の画像はBの近景である。
石積の櫓に木の柱とトタンの波板で屋根を掛け、内部に小さな木製の社を安置するという、相当に手の込んだ造りである。
全体的な造りや素材には、多分に炭焼き窯の技法が流用されていそうである。
祀られているのは、「稲荷大明神」であることが、祠の左側に安置された石仏の文字が教えてくれた。合わせて白磁のキツネ像もお供えされていた。



B以上に規模の大きな建築物となっていたのが、このCDのセットである。
参拝者はもうほとんど絶えていると思われる立地だが、手の込んだ屋根掛けのおかげで、倒壊せずに形を留めている。

Cは「住吉」と刻まれた碑が祠の隣に安置されており、船乗りを中心に信仰を集め、商売繁盛、家内安全などのご利益も広く信じられた、住吉大社であろう。
Dは、「愛宕山大権現」の碑が隣に安置されており、こちらは火伏せや商売繁盛、恋愛、コンピュータなどのご利益が広く信じられている、愛宕神社であろう。

面白いのが、B〜Dのいずれも、木製の祠の隣に文字だけの(おそらく年代の異なる)石仏(稲荷大明神、住吉、愛宕山大権現)が安置されていることで、おそらくそれらがより古いご神体で、後に櫓や社を用意して念入りに安置したのではないかと思われる。
そこには単なる信仰心だけではない、経済力の裏付けがあったことを物語っている。



県道45号へ戻って、最後の石仏Eは、峠の切り通しの北口側にある。
ここは分かれ道の角にもなっている。

@〜Dは全てご本尊が安置されていたが、このEだけはなぜか、台石のみの安置である。
主のない台石には、象形文字のような独特の字体で「法界」の2文字が刻まれており、私はここで初めて見たのだが、ネットを検索すると、この台座の上に「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石塔が安置されたりするようである。

注目すべきは、台石に刻まれた年号の古いことで、「明和四」「三月日」と左右にそれぞれ刻まれているのだが、明和4年は西暦1767年(江戸時代中期)である。
ますます、古道としての息の長さを感じさせる、石仏だった。



石仏Eの角地を右に折れて進む、尾根伝いの道。
この道は、最新の地理院地図にも徒歩道として描かれている、大倉畑山の峰を越えて小口村役場があった小口集落へ片道10kmで達する、ひどく長い山道である。少なくとも入口の辺りは山仕事道として管理されていそうだったが、奥はどうなっていることやらだ。

和田川林道の開通までは、これが畝畑と外界を繋ぐ生命線で、村を訪れる、あるいは出る必要のある人の多くが頼った道である。
したがって、石仏が立ち並ぶこの場所は、今でこそ山中の無名の土地だが、かつては畝畑の玄関口であったといえる。
『角川日本地名辞典』によると、明治6年の畝畑村の戸数は55、人口は男122、女97と記録されており、戸数2の現在からは想像できないくらい栄えていた。地区の人口が消失に瀕するレベルまで激減したのは、林道の開通後である。こうした現象は日本中の奥山に見られた。



無人だが、人間の息遣いは色濃く感じられる。
そんな不思議な感覚になる峠を、県道45号“だけ”が、無用故に取り残されたのだろうと推測される状況で、通じていた。

県道229号がほんの少しの遠回りで車道として足元に開通している今、敢て県道45号を別ルートとしてここに残す合理的理由はなさそうに思える。
複数の路線が重複して認定されている道路が改築された場合、通常は、重複した路線全てが一緒に改築後の道路へ移動する原則だ。
だが、県道45号はこの場所でそうならなかった。なぜなのか考えてみても、答えは分からない。もしかしたら、今の道路管理者を含め誰も分からないのかもしれない。県道45号の全体的な存在感の薄さを見ていると、なんとなくそんな気がしてくる。
意識的にそうしたわけではなく、単に忘れられていただけなのではないかと。

この県道が、「熊野古道」のように古道であることを“推し”として整備されているならばいざ知らず、そのような投資が行われた様子もない。
県道45号が長い間整備の対象として優先順位が低いところに忘れ去られているが故に、県道229号が通じて随分と時間がたつのに、未だに古い道路に置き去りになっているのではないか。
そしてそんな勘ぐり受けるほどに、古道のまま忘れられている姿というのが、私が知る県道45号那智勝浦本宮線“最大のアイデンティティ”である。
これは(私にとっては)魅力と言って差し支えない。

道がない不通区間は、いくら長くても、そこまで魅力的とは思えない。
現道があるのに、色々な理由で通られていない道が、私の好みだ。



13:33

十分に、この場所を堪能した。

県道に従って、峠を下りよう。

先のことは分からないが、なんとなくまだなにかありそうな気がする。そんな期待があった。






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