そして、トンネルを抜けるとこんな道。
クルマ一台分のぎりぎり舗装と、緩やかすぎるカーブと勾配…。
現国道もそろそろトンネルから抜け出た頃だが、かなり高低差が付いたようで、見上げても木々に阻まれて見えなかった。
…実はこれ、牛岳車道ではない。
そして、旧国道でもない。
というか、元は道路でさえなかった。
これは鉄道の廃線跡を転用した道だ。
詳細は「鉄道廃線跡を歩く9」に掲載されているが、ここにはかつて小牧堰堤建設のための資材運搬専用鉄道が敷かれていたのだ。
庄川水力電気専用鉄道は、加越鉄道(後の加越能鉄道加越線で昭和47年廃止)の青島駅と、小牧の堰堤建設地を結ぶ約7kmの鉄道で、大正11年着工、同15年完成、昭和5年の堰堤完成後は非公式ながら旅客相手に何となく存続していたが、日中開戦の昭和13年に廃止された。
平成になってから、廃線跡をサイクリングロードに再整備する計画が持ち上がり、それで現状のように再整備されたらしい。
なお、これを廃線跡と断定できたのは帰宅後だが、現地でもこれが“道路由来の道路ではない”と直感したので、牛岳車道なり旧国道なりは別にあるはずだと考えた。
今のところ何の手掛かりもヒントもないが、少し探してみようと思う。
6:45 《現在地》(←ぜひ見てね。ここから一旦進行方向が変わるので、ややこしくなります!)
旧道と専用線跡の道を辿った結果、国道471号の「藤橋」のたもとに出た。
ここでは探索当時、「新藤橋」の建設が進められていたが、もう完成しただろうか。
それはともかく、この国道471号を進めば利賀村へはほとんど一本道だ。
だが、前述したとおり、牛岳車道に関して何かやり残している気がする。
ここを右折して、国道156号へ一度戻ってみることにした。
6:47 《現在地》
これが、国道156号の現道にある金屋トンネルである。
国道471号との交差点については次回改めて紹介するので、今回は素通りして戻ってきた。
そして、この金屋トンネルも明治時代からあるような隧道には見えないが、
ここに驚くべき秘密が隠されていた。
秘密については“破線の中に見える物が全て”だが、まずは外濠を埋めなければ。
金屋トンネルの銘板チェックだ。
それによると、昭和41年竣功、全長145m。
ちなみにこれは例の隧道リストにも掲載されている。
さっきから、“ツタヤブ”の向こうにチラチラチラチラと、チラリズムで私を惑わす“闇”がある。
そこへ通じる部分はおおよそ道に見えないが、平場といえば確かに平場。
…探索前に一応、昭和27年版地形図を見てきたのだが、ここに隧道などは無かったはず。
だから、金屋トンネル(昭和41年竣功)以前の旧道が、山際に明かりで存在することは、ある程度予想&期待していた。
きっとこの平場が、その昭和41年以前の旧道なのだろう。
だが、この“チラチラ”はどう説明すればいい?
出やがッた。
想定外の廃隧道!
こいつはまた、
随分と個性的な断面形状…。
“欠円アーチ+垂直の側壁” は、かなりの幅員を稼ぐことに成功している。
ただいかんせん天井が低く、金屋トンネルの代替になり得ないのは明白。
これはもう、間違いなく旧国道の隧道だ!
先ほど通った専用線と目の前の廃隧道の位置関係は、上の2枚の画像(地図と写真)の通りだ。
両者は50mくらいしか離れていないのだが、その50mの内訳はほとんど高低差である。
相当急な…崖と言っても差し支えのない様な斜面で隔てられている。
…となると、この旧隧道はどこへ通じているのだろう。
貫通自体ははっきりしているが、出た先の土地はますます狭そうだ。
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(→)
いざ入洞の段になってまず目に付いたのは、洞内の急な下り勾配だ。
この隧道としては異例の勾配は、武骨で巨大なコンクリートな外観と相まって、鉱山の斜坑を連想させた。
もし貫通していなければ、本当にそう考えたかも知れない。
(↑)
変わっているのは、形や勾配だけではなかった。
アーチの上に掲げられているコンクリート製の大きな扁額には、やはり大きな文字で竣功年だけが刻まれていた。
(しかも珍しい陽刻で)
「昭和十八年三月竣功」 と読める。
なんとこの隧道、戦時中の完成だった!
さあ、入ってみよう!
こいつは変態だ!
外見も相当変わっていたが、洞内も凄い変わり種…。
両側の側壁が、“サンドイッチ”になっている。
コンクリートの柱は約3mに1本ずつで、
それ以外の部分は素堀(右側の壁)か、
モルタル石壁(左側の壁の大部分)になっているのだ。
洞床は未舗装だが、いちおう2車線の幅が確保されている。
しかし、中央に向かってすり鉢状に凹んでいるのは、水が流れたせいなのか、現役当時からなのか…。
それに、何度見てもこの急勾配は、斜坑じみている…。
写真では角度が分かりにくい分、目測での勾配パーセントを口にする事が許されるなら、「8%」といったところか。
一応現在の道路法下では、トンネル内に10%までの勾配が許されるているが、実際にそんなのはごく僅かだ。
8%だって相当珍しいはず。
(計ってみたわけではないので、実際には10%以上あるかもしれないしね)
ひったすら変な隧道だ…。
目測でも全長100mを優に超える隧道だが、照明は見あたらない…
と思いきや、あった。
照明があった。
片側の側壁に沿って一本だけ電線が通され、所々に裸電球が吊されている。
しかしこれは本当に隧道の照明か?
電球の汚れ方などを見る限り、最近のものでないのは確かだが…。
さて、出口だぞ…。
外はどうなってるんだ?
道はまだ続いていそうだが…。
6:53 《現在地》
旧金屋隧道の南口は、春の緑の一角に口を開けていた。
隧道以外、とりあえず目に留まるものはない。
現道の金屋トンネルも、まだ地下にあるようだ。
そして、銘板の通り昭和18年完成が事実であれば、美観を無視した継ぎ接ぎ施工や、道幅ばかりを優先した扁平な断面形も、工期と資材の節約という言葉で簡単に説明できそうだ。
忘れてはいけないのが、この東側坑口の佇まいだ。
意匠などと呼べるものはない。
イメージの中の昭和18年を、そのままカタチにしたような坑口だ。
しかし濃淡のある緑は、少しだけファンタジックな美を添えている。
先に意匠はないと書いたが、扁額だけはある。
その名にゾクッと来た。
小牧峠隧道。
小牧峠なんていう地名は、地図にない。
そもそもここは、峠と呼べるような地形ではないのだが、
「金屋トンネル」の旧道は「旧金屋隧道」ではなく、
「小牧峠隧道」だった。
はっきり言って、金屋トンネルよりもカッコイイ。
金屋トンネルよりも、ありがたみがある。
金屋トンネルよりも、難工事に報いる感じがする。
ちなみに扁額は、時代先取りの左書きだった。
「ここには一足早く戦後が来ていた」などというのはちょっと大袈裟だが、
たとえ泥沼の戦中といえども、一般道路上の土木構造物を作るにあっては、
平和裡の利用をイメージしていたに違いない。
そのような意味でも、「時代を先取りしていた」という表現は真であろう。
隧道内は相当の急勾配で下ったが、外に出ても余韻のように緩く下る。
そして、急速に眼下の「専用線跡」が近付いてくる。
このまま行けば、接着することになりそうだが…
さっき専用線を通ったときには、そんな分岐も合流も気付かなかったぞ。
しかも、上方からも現国道の騒音が近付いてきた。
これはきっと板挟みになるぞ。
嫌な予感が…。
嫌な予感は見事的中!
右下の専用線跡と、左上の国道に挟まれて、進路がなくなってしまった。
しかしよく考えると、これってちょっと変っだよね。
今顕在している3つの道と牛岳車道の推定タイムスケールは、次の通りだ。
@現国道 | = | 昭和41年〜現在
|
A旧国道(現在地) | = | 昭和18年〜41年
|
B専用線(鉄道) | = | 大正14年〜昭和13年
|
C牛岳車道 | = | 明治23年〜昭和18年(推定) |
C→A→@ は、時代として連続している。
だが、Bだけは鉄道で、道路との併用軌道でもなかった。
それなのに、なぜここでA(旧国道)はB(専用線)に進路を阻害されてしまったのだろう。
地図で見ると、こんな感じになる。
赤で描いた道はひと繋がりだが、小牧発電所より西側は間違いなく「牛岳車道」由来なのに、東側は「専用線跡」である。
これがシームレスに繋がっているのが、不自然なのだ。
分岐合流が疑われる「A地点」を、もう一度精査してみた。
【A地点】
ここには、鉄道としてはいかにも不自然な急坂があった。
いろいろゴチャゴチャしているが、ようは(画像にカーソルオン→)こんな風になっていたのだと想像できる。
この場所が、旧国道&牛岳車道と専用線跡の道が、「急坂の連絡路(紫のライン)」によって接続されている現場なのだ。
再びこれを地図にすると…
専用線は、小牧発電所の構内を通っていたと考えれば辻褄があう。
その物的証拠は無いが、専用線が現役だった当時は「小牧発電所」というたったひとつの途中駅(非公式)があったそうなので、その可能性は高い。
また、「鉄道廃線跡を歩く9」のレポートも、「小牧発電所付近では庄川に寄りそってレールが敷かれていた。(中略)大規模な土砂崩れがあったため、様相は一変してしまった。廃線跡は小牧発電所の建物のすぐ脇をすり抜けて唯一のトンネルに入っていく
」とあった。
やはりこの地図のようになっていたと考えて間違いないだろう。
さて、次回はいよいよ牛岳車道の話をしよう。
牛岳車道は、小牧峠隧道の外にあったはずだ。
そうでなければ、小牧峠隧道は明治隧道ということになってしまう。