2009/4/29 9:30 脇谷
利賀村の高岳にあった通称“石灰山”で採掘された石灰石を、荷車を使って庄川下流の青島まで搬出するため、明治23年に地元有志の手によって賃取道路として開設されたのが、牛岳車道である。
そして、牛岳車道を由来とする旧道はいま、佳境へ差し掛かろうとしている。
現在地は旧利賀村の大字栗当(くりとう)字脇谷で、次の大字が高沼だ。
牛岳車道としての終点が近いのだ。
ただし、“石灰山”は操業を止めて久しいようで、地形図にそれらしい記載はない。
実際ここまで上ってくる途中の道でも、石灰運搬道路にありがちな白い石灰片の散乱は見られなかった。
ともかく、この目の前に大きく開いている谷が、脇谷という地名の由来だろうか。
脇谷は、地形図の上で旧道が切断されている唯一の場所であり、警戒すべき地点として出発前からインプットされていた。
谷を見渡す尾根で出会った分岐を左に採り、いよいよ脇谷横断の区間が始まる。
少し進むと、ガードレールも何もない路肩から、キモチイイくらいに谷底が見通せるようになった。
大きな切り返し一つで登ってくる「県道59号」の存在感の無さと、「国道471号」が架け渡した「脇谷大橋
」の、少々浮いたような存在感の対比が面白い。
な ん な ん だ?
と、当然思った。
この橋は何なんだ。
見たところ橋の下に口を空けている谷は、そんなに険しいわけでもないし、あんな大きなアーチ橋をかけなくても容易に渡れそうである。
実際に、橋の脇にも旧道敷きらしきものがぼんやり見ているし…。
まさかとは思うが、“山と空に映える村のシンボル〜”的に架けてみたのだろうか?
ちょうどすぐ先には、尾根を大きく切り取って「道の駅利賀」の施設が見えている。
これまで、観光的なムードを感じさせなかった利賀の寒村的イメージとは相反する、道の駅と、違和感ありありの橋。
この“たいして険しく見えない脇谷”を、私の足元にある道は、徒手空拳で渡ろうとしている。
なんとなく、不気味な感じがした。
先の展開が、読めない。
そしてもうひとつ、
気付かぬうちに私の手許を離れていった道がある。
なんか、前回の最後にひょっこり出て来た感のある「県道59号富山庄川線」である。
この道は、スタート直後(終点だが)からいきなり「自動車交通不能区間」という香ばしい道だが、当初左の図のようなルートを想定していた。
だが、帰宅後に改めて「道路台帳」を見てみると、実は牛岳車道とはほとんど重複しないルートであったことが分かった。
眼力不足を悔いるより無いが、現地ではこの「破線の道」に気付かなかった。
探していなかったから気付けなかったと思いたいが、果たしてそんな道があったかどうか?
…この件については、平成22年内に決着を付けたいと思っている。
等高線の登り方を見る限り、間違いなく「登山道“険”道」かと思われるが、主要地方道として路線指定はされているので気になって仕方ない。
それにしても、牛岳車道は交友関係が広い。
小牧ダムに架かる巨大吊り橋廃橋、対岸の西岸林道の大崩落、そして鼻先を掠めて山へと消えた険道59号。
牛岳車道の交友録を洗っていけば、それだけで「富山さ行がねが」が出来そうである。(←それをいいたかっただけじゃねーのか?)
さて、気付けば県道も居なくなり、また元の一人に戻ってしまった牛岳車道くん。
轍は途切れ途切れに続いているが、それを隠す勢いで緑が吹き始めている。
夏場はあんまり良い状態じゃ無さそうだ。
そして前方に現れたのは、再びの広場的風景。
その先がちょっと気になるのだが…、とりあえず広場。
なんじゃこりゃ!
9:39 《現在地》
隧道じゃないよな…。
坑道か?
坑道っぽい。
鉱山があったっぽい。
石の櫓(やぐら)のような半ば崩れた建造物の基部に、かつてはぽっかり口を空けていただろう木組みの四角い坑道は、無残に内側から崩壊し、閉塞していた。
写真の位置よりもっと近づいて顔を突っ込んでも見たが、まったく空気の流れもなく、なにより地下に繋がっていそうな冷気を感じなかった。
手許にある明治末と昭和20年代の地形図、そして利賀村誌のコピー。
いずれも、この鉱山について明確な答えはくれない。
もちろん現地では、牛岳の麓にあるこの鉱山こそが、牛岳車道の由緒に関わる“石灰山”なのではないかということも考えた。
しかし、石灰鉱山は通常は露天掘りで事足りる。
まして明治期以前から操業していたとなれば、露天である可能性が限りなく高いはず。
この、石の櫓に掘られた坑口。
その正体について、かなり可能性の高い情報が後日判明した。
“石灰山”で採掘した石灰石を焼成(火入れ)して、肥料の原料となる生石灰(製品)を作った跡だという。
(当地域産出の石灰は、近世〜明治にかけて肥料の原料として主に用いられた。
コンクリート原料など工業用途で用いられるようになるのは、主に戦後である。)
昭和29年の「富山県利賀村地方石灰岩調査報告」の中に次のように書かれている。
脇谷近くに旧時稼行焼成した窯跡がある。輸送上最も便利な位置にあるが、県道に面するため稼行に難点が予想される。
この窯は昭和29年当時既に「窯跡」という状況だったらしいので、牛岳車道が活躍した明治期の稼行によるものと私は考えている。
…ちょっと崩れ方は激しいが、これって相当貴重な文化財なのかも?!
廃坑の目の前は広場で、車も取り回せるようになっていたようだ。
しかし、その他には鉱山住宅であるとか、そういった建屋の痕跡はない。
相当古い時期に廃坑になったのかも知れない。(それこそ、明治以前かも)
崩れた廃坑が口を空ける目の前を、三十数年前までは平然と県道が通り、利賀村に用のある人々はみな廃坑を目にしていたのだと思うと、なんだか面白い。
…ここまでは良し。
問題は、この先だな。
広場というのは、廃道にとって大いに鬼門なのだよ。
やっぱりだよ…。
広場は鬼門だった。
広場みたいな“切りの良い”展開というのは、廃道を廃道たらしめる覚悟のようなものの現れであることが多い。
なんとなく「やぶ〜」みたいな入り方の方が、よほど安心できる。
これはいったい、この先どうなっちゃってるんだ?
地形図にこの先の道“だけ”が描かれていなかった時点で、「これは何かある」とは思っていたが、やっぱりだよ…。
なお、明治23年に有料の私道(馬車道)として建設された「牛岳車道」は、この地点が終点であった可能性が高くなっています。
当初は「高沼付近」と考えていましたが、これを修正します。
その事情については、当レポート第6回追記をご覧下さい。
ここが「牛岳車道」の終点であった場合、この先利賀までの旧道は、大正8年に郡道として開通した(大正11年県道昇格)馬車道に由来します。
眼下に架かる巨大なアーチ橋を見ても、
「何を大袈裟な…」
なんて、笑ってられなくなってきた現状がある。
とりあえず脇谷大橋
を透けて、遙か対岸谷底を通る「西岸林道」が鮮明に見えていた。
車1台ぎりぎりの道幅で、崖にへばり付くように走っているようだが、路面の色合いは元気そうだ。
道が
無い!
一面、キレーな斜面である。
取り立てて険しいということもなく、現在進行形で崩れている様子もない。
まずは一応安堵した。
これならば、道なき道を行くことは出来そうだぞと。
この「道の無さ」というのは、あまり見ないタイプの「道の無さ」である。
なんか全然、「道があったのに崩れてしまったよ〜」というような悲痛さが感じられない。
ちょうど道のない区間の前後が“切りの良い”状態になっているため、元もと道がなかったといっても、全然不思議じゃない状態になっているせいだ。
加えて、見た目はそんなひどい絶壁というわけでもないので、「道が崩れちゃって」という言葉に説得力が薄い気がする。
はっきり言って、道があった頃の地形図でも見せない限り、ここに道が有ったと言っても信じてもらえなさそう。
もちろん、私は道があったと確信しているから、ためらいなく緑の斜面にチャリを担ぎ込んだわけだが。
地形図は、この道の無さを正確に描いていた。
2〜300mにわたって、本当に道は完全消失していた。
どうしてこんな事になったのか。
奥に進むにつれ思った以上に増してきた傾斜と、背負った自転車の重さとのあいだで、悪戦苦闘しながら考えた。
答えを知っている今から見れば、私の考えた内容はチャンチャラおかしなものだった。
私は、「下に新道の橋を架けるために治山工事をしたから、旧道がすっかり消えてしまったのだろう」と考えた。
だが実際には、まず山が崩れて旧道も新道も完全に消失した状態から始まっていて、辛うじて橋を架けることで復旧したというのが現状だったのだ。
重力に任せておけば、おおよそ崩れそうもないような落ち着いた山が、時と場合によっては、想像できないほど大きな崩壊を起こす。
そういう現象があるということを、すっかり忘れていた。
まさに、山が動いた のである。
写真の場所は、山体崩壊現場のちょうど中ほど。
わずかに、法面と思われる素堀の崖と、道幅の名残と見える平場が残っており、道の跡だったろうと思わせるのだが、前後は完全に路盤を失っていてどこにも通じていない。
「治山工事にしては、ぜんぜん人手の入ったような構造物が無いなぁ。」
…そんな、狐に鼻先をつままれたような勘違いをしながら、とにかく進む。
10:00
なにやらよく分からないまま、平均斜度30度ほどの山腹トラバースをすること15分。
徒歩だったらこの3分の1の時間で抜けられたと思うが、いかんせんチャリが邪魔になった。
まだ突破には至ってないものの、向こう側からのお迎えの踏み跡が出て来たので一安心といったところ。
ここも本来は右側の平場が路面だったと思われるのだが、この先でゴッソリ消失していて、杉の若い植林地へと高巻く踏み跡が迂回路となっていたのだ。
道自体も山肌と一緒に流れてきたものか、随所で水平と連続の両方を失っていた。
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