さて、今回こそ牛岳車道の“探索”をしたいと思う。
いま私がいるのは、道路3代(牛岳車道→小牧峠隧道→金屋トンネル)と鉄道1代(庄川水電専用線)が集中する通称「小牧峠」の険だ。
この小牧峠の険を、一番最初に越えたであろう道が、明治23年に開通した牛岳車道だ。
(その根拠は、金屋がスタート地点として記録されていることや藤橋(後述)を通行していたことであり、迂回路は考えられない)
それ以前近世まで利賀道は、右の地図の範囲からは外れるが、1.6kmほど南の杉谷峠を越えていたという。
また、現在の国道156号のもととなる、庄川沿いを五箇山や白川へ向かうルートは、大正時代以降に「庄川沿岸道路」と呼ばれて工事が進められたのであって、それ以前はせいぜい獣道程度であったと伝えられている(庄川町誌など)。
ようするに、今から立ち入ろうとしている小牧峠の旧々道は、牛岳車道由来であるとほぼ断定出来る。
そしてそこで目にするものは、この探索における最初の、牛岳車道のリアリティを持った姿と言うことになる。
2009/4/29 7:00
戦時中に建設された、異形と言うべき小牧峠隧道。
私には意外と思えたが、この隧道でさえ、これまで余りその存在が公に語られたことはなかったらしい(読者さんからのコメントより)。
物理的には現国道と極めて近接しているが、前回解明したとおり西側は寸断されており、また東側の国道接点は、夏になると見通せない藪になるとのこと。
なるほど、タッチの差で「隧道リスト」の選から漏れたこと(リストは昭和42年以前に廃止された隧道は除外してあるが、金屋トンネルの開通は昭和41年である)や、なぜか歴代地形図に記載されなかった(昭和27年版にも記載がない)ことから、今まで余り知られない存在だったらしい。
ということは、この先の旧々道は最大級に“謎めいて”いるのだろう。
現地でそこまで考えるゆとりはなかったが、今思うと相当興奮して良い事例だ。
そんな訳で、小牧峠隧道西口の脇から、若草の茂る狭い平場へと進む。
そこは降り積もった枯れ枝によって柔らかい踏み心地があり、既に路面や路面跡を思わせるものではない。
前方はなおさらで、雪解けからそう経っていないはずだが、既に背丈以上の草の勢いを感じる。
「庄川町誌」によれば、落石が多く年中危険で、特に冬場は交通途絶の原因になったという、この道。
いざ参ろう。
これが “牛岳車道” だ!
などと騒いでみても、牛岳車道自体が未だよく分かっていないので、特別な実感は湧かない。
とにかく、幅3mくらいの車道の姿が、現状からも想定しうる。
廃止から70年を経過している事と、周囲の地形の険しさを見る限り、こうして平場が続いているだけでも儲けものかも知れない。
ただし、険しい地形には間違いないが、もう崩落自体は止んでいるようだ。
そして、あらゆる険阻を緑が覆いつつある。
ここにある尖ったものは、所々のイバラの蔓や、うっかり触ると痛い“あいこ”(ミヤマイラクサ)くらいなものである。
廃道としては、すでに枯れているような印象を受けた。
向かいから朝日を浴び、黄金色に輝く牛岳車道。
左の写真は、お気に入りのワンシーンとなった。
右の写真は頭上の崖だが、実は自然のままではなく、全体がネットとモルタル吹き付けで覆われている。
その後は余り崩れていないようだが、いつ施工されたのかは分からない。
ただ、施工法が古く見えないので、直下の専用線をサイクリングロードとして再利用しようとした際に、改めて補強したのだろうか(その場合は平成に入ってからの工事と言うことになる)。
この道に由来した構造物と思われるものも、あるにはあった。
例えば、写真の右側に写っているコンクリートの擁壁だ。
片洞門みたいに張り出した岩場の下部を埋め戻したように見えるが、流石に明治以来のものではないだろう。
明治23年から昭和18年までの現役期間は50年以上も有るし、大正9年には郡道に、同12年からは県道になっていた。
しかも、その頃から既に利賀青島線(現在の国道471号)と下梨青島線(現在の国道156号)の重複区間だったくらいだから、いろいろ手は加えられてはいたはず。
7:06 《現在地》
ゆっくり気味に歩いても6分。
わずか100mの小牧峠隧道に対応する旧々道は、せいぜい130mくらいの長さでしかなく、楽しいと感じ始めた頃には終わりが見えた。
右に見える大きなコンクリートの塊は、小牧峠隧道の東口である。
その向こうは旧道から現道へと、ひとまたぎの距離しかない。
とりあえず牛岳車道がその名の通りに車道的な道であったことだけは分かったが、個性を知る前に終わってしまった感じ。
我々のファーストデートは、これで終了した。
7:07 《現在地》
さて、仕切り直しだ。
小牧峠の探索中は金屋トンネル東口に停めていたチャリを回収して、すぐに利賀へと出発する。
これまでの事は全て“平野”での出来事であった。
少々険しくとも、あくまでもここまでは平野といっていい。利賀に較べれば。
思いがけずインパクトのある隧道を見せつけられたくらいで、主客が転倒してはならない。
この旅の目的は、利賀へ行くことにある。
だから、本当の意味での出発はここからだ。
国道471号が156号から分かれる、信号もないこの丁字路。
ここが始まりだ。
青看の示す 「南砺 (利賀)」へ左折する。
ドクンッ!
これまで、数多くのチャリ旅を体験してきたけれど、この一枚の青看は“来る”ものがあった。
19kmという距離は、チャリにとってはもちろん、自動車であっても近くはない。
それだけ先に村がある。
その孤立の状況について、地図で見る以上の事はまだ知らないけれど、国道のくせに一つしか行き先の無い青看と、そこにある19kmという数字を見て、震えた。
朝日に黒く切り取られた牛岳を背景に、目を細めて読む青看。
久しぶりに武者震いという言葉を、卑屈でも皮肉でも強がりでもなく使うことが出来る気がした。
そして、その“震える青看”の下の歩道に置かれていたのは、青看以上に衝撃的な内容をもった「通行止めご案内」だった。
とても走行中の車内からでは読み切れない大量の文字が並んでいるが、その内容は決して看過すべきものではなかった。
通行止めご案内
一般国道471号 砺波市二ツ屋南砺市栗当地内
規制期間
平成21年5月11日〜平成21年6月30日
(第1,3土曜日・日曜日は除く)
通行止め時間
8:20〜9:40.10:00〜11:20
12:20〜13:40.14:00〜15:00
15:20〜16:30
片側交互通行時間
16:30〜8:20
一般国道471号臨時交付金(雪害)栗当9スノーシェッド塗装、補修工事
一般国道471号道路災害防除法面工事その5,6工事
(以下略)
んまっ! 大胆!
利賀村へのたった2本しかない(まともな)道路のうちの1本で、現実的な迂回路なんてまるで無いのに、昼日中から堂々と5回も、それぞれ60〜80分ずつ通行止めをしているとのお達しだ。
こんな重要な内容なのに、この目立たない立て札一枚か…。
天下の国道だぞ……。
そして、最初の通行止めが始まるのは今から1時間10分後だ。
地図を見ると、工事箇所の「栗当」というのは、ここから4kmほど先である。
なんとしても今から80分以内に通り過ぎてしまわないと、今日の予定は大幅に遅れてしまう可能性がある。
あんま、寄り道をしている場合じゃなかったぜ!
ということで漕ぎ足に力を込め、いざ国道471号へ。
意外にも、最初は下り坂から始まった。
目的地は遙か高いところにあるのだが、まずは庄川を渡らねばならないからだ。
この地の橋を「藤橋」というが、庄川が「雄神(おがみ)川」と呼ばれていた近世以来の橋場だそうだ。
「利賀村史」によれば、天保14年(1843年)頃には既に藤蔓に板を乗せた「藤橋」があり、明治に入ると鉄鎖の橋になったという。
牛岳車道開通2年後の明治25年には雪の重みで落橋したが、翌年に長さ59m、幅2.25mという木橋を架けた記録もある。
さらに明治40年には鉄と木の吊り橋となり、昭和8年にも架け替えられ、現在の橋は昭和31年にさらに架け替えられたものという。
そんな累代の重みを秘めた藤橋は、今また架け替えの時を迎えている。
昭和31年以来の上路ワーレントラス(→)のすぐ川下に、長さも幅も倍はあろうかというアーチ橋(↑)がほぼ出来上がっていた。
すぐ近くにあった工事紹介のパネルによれば、新しい橋の名前は新藤橋といい、上路式ローゼ形式で橋の長さは148m、工期は平成21年12月21日までになっていたから、今はもう開通しているかもしれない。
いずれにしても利賀の新しい顔となる橋だが、その折角のアーチの美しさを実感できる位置に架かる「旧」藤橋がどうなるのか。
それが気になる。
藤橋はぎりぎり2車線幅で、渡りきるとすぐ右折して登り始めた。
海抜130mの橋の上から、利賀への長い登り坂が始まるのだ。
そしてすぐに、最近はあまり見なくなった「ロールサイン」の道路情報板が現れた。
これは個人的な萌えアイテムで、これを見ると峠道を予感するというのは共感していただけると思う。
ちなみに、その表示内容は余りにも漠然としていて、例の時間帯通行止めの事は窺い知れない。
7:14 《現在地》
橋から約300m、思わぬ登り坂の厳しさに顎をしゃくって見上げた先に、信号機はないのに交差点名の標識がある丁字路が現れた。
「湯谷交差点」だ。
そしてここには、青看の代わりに雑多な行き先表示が沢山掲げられていた。
左方向(県道346号)の行き先案内が右に、右方向(国道471号)の行き先表示が左に置いてあるという、意味不明さ。
さらなる混乱を誘うかのように「新藤橋」の工事案内板や、先ほども見た栗当地区の時間通行止めを含む工事案内板なども、ここにに並べられている。
右折する。
湯谷交差点を過ぎると、すぐにセンターラインが消え失せ、道幅は2車線から1.5車線になった。
右側は庄川の深い峡谷が口を開けているが、よく覗き込むと道と川の間に建物の屋根が見えた。
いったいどうやってそこへ行けるのか分からないが、地図を見ると湯谷温泉ホテルがあるらしい。
やや直線的にグイグイ登っていくと、庄川の谷を塞ぐ巨大なコンクリートの壁が迫ってきた。
いよいよ小牧堰堤だな。
里から山への大きな景色の変容を予感させる展開に、心地よい緊張を覚えた。
7:19 《現在地》
海抜180mに位置する小牧堰堤(小牧ダム)に到着した。ちなみに地名のとしての小牧は「おまき」だが、ダムの名前は「こまき」と読むそうだ。
堤高80m、堤長300mという重力式コンクリートダムは、本格的な発電用ダムとしては日本最古級の昭和5年完成である。
現在も立派に稼働しており、推奨土木遺産、近代化産業遺産、国の登録有形文化財(河川用ダムとしては初)に指定されるなど、文化財としての高い評価を勝ち得ている。
完成当時は東洋一の巨大ダムと盛んに宣伝され、大勢の観光客を集めたが、当時はむしろ負の要素で語られることが多かったという。
それは当時の人々がまだほとんど経験したことの無かった土地や道路の水没や、河川を利用した輸送が困難になる事への補償に関わる様々な事件、対立が起きた事による。
なお、前回登場した「庄川水電専用線」の終点が、ちょうど対岸の青い屋根の建物の辺りにあった。
ダムが完成した後は、湖上を曳航輸送された木材が堰堤を越える特殊なベルトコンベア(撤去されて現存しない)でそこへ運ばれ、鉄道輸送が行われたそうだ。
ダムの完成と同時に専用線が廃止にならなかった理由がこれである。
堰堤上は歩道として解放されており、対岸は国道156号に繋がっている。
そこから冷たい風の吹き抜ける湖面を見通すと、向かって右手の水面すれすれを走る国道156号と、左手の山腹に遠くへ行くほど高くなる国道471号とを、同時に見ることが出来た。
一つの湖の両岸に数キロに渡って別々の国道が並走する場面は、意外に珍しいと思いながら眺めた。
なお、右手に見える渡船場は、2時間サスペンスドラマロケの定番中の定番、越中最大の殺人多発現場(…おいおい)である大牧温泉への渡船場だ。
この小牧ダム湖(昔は「双竜湖」という愛称もあったが、最近の資料では見ない)の湖上ルートは、昭和5年以来ずっと使われてきた、ある意味国道より伝統のある“道”なのである。
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国道471号はダム沿いに駐車スペースもなく、クルマはほとんど速度を落とさずに通り過ぎていく。
私も例のタイムリミットが気になるので、先へ急ぐことにした。
直前まで80mあった谷底との高低差がダムによって一気にリセットされてゼロに。
これからまた稼がねばならない。
ただ、この先の勾配はしばらく緩やかで、馬車道由来であることを暗に示しているようであった。
そして、まもなくスノーシェッドが現れた。
オレンジに塗装された鋼鉄製のシェッドは、坑口に「湯谷1」と書かれている。
地形図にはこの先にも多数のシェッドが描かれているが、これがその一番目だ。
シェッド内の山側の擁壁に、トンネルと同じような工事銘板が埋め込まれていた。
注目すべきは一番上にある「主要地方道庄川河合線」の表記である。
これは平成5年に国道指定を受ける直前までの路線名である。
この時には、庄川から利賀までが国道に昇格し、その先が県道34号「利賀河合線」となって残ることになった。
ちなみに庄川河合線の前は「水無庄川線」といい、さらに前は当レポートに何度も名前の出ている「利賀青島線」である。
路線名が変わる度に起点終点や経路の一部が変更されているが、基本的に利賀と庄川を結ぶ道の意義に変化はなく、大正12年から平成5年までずっと県道の格付けであった。
うほっ!
綺麗なシェッド!
道幅はともかく、道のカタチは明治のままで、そこにシェッドを被せた感じがする。
こんな小刻みに曲がっているのは、あまり見ないぞ。
…長いし。
長い(約300m)シェッドを抜けると、すぐにヘアピンカーブ。
カーブの中央が橋になっていて、牛岳から流れ出てくる沢を渡る。
また、カーブの途中にはこの沢沿いに牛岳へ登っていく林道を分けている。
国道は道なりに進む。
そしてカーブが終わると、すぐにシェッド「湯谷2」に入る。
この途中から、再び勾配が少し加わっていく。
「湯谷2」を出ると暫くシェッドは途切れるが、雪への備えは抜け目ない。
この写真にあるスノーシェッドをコンパクトにしたような構造物は、スノーキーパーという。
路面の舗装は少しへたっていて、いかにも後発の3桁国道らしいのだが、防雪の装備だけはかなり頑張っている。
歴史的に見ると、この道の利賀までの区間は昭和46年秋から冬期間の通行が可能となった(通年除雪)。
だが、その後も随時設備の増強が続いているようだ。
工事用銘板の記年を見ると、昭和50年代から平成の現在まで、いろいろである。
「凍結スリップした時は、ご自由にお使い下さい。 富山県福野土木事務所」
その優しさは嬉しいが、出来れば凍結スリップしない道にして欲しいものである。(笑)
この道幅と勾配では、それこそ道の全てをシェッドで覆いでもしない限り、冬場は修羅場になるのだろうな…。
徐々に遠ざかっていく湖面と国道156号。
ここから見下ろすとよく分かるが、国道156号も雪崩への備えは凄まじいものがある。
というか、明らかにこっちよりも凄い。
なにせ、向こうは路面の露出しているのが、所々にある橋の上くらいなのである。
やはり、昭和29年国道昇格と、平成5年国道昇格とでは、整備度合にだいぶ違いがあるようだ。
ダムサイトから1kmを過ぎたあたりから、再びスノーシェッドが現れ始める。
標高も徐々に上がってきて、250mを過ぎた。
スノーシェッドの名前は、それぞれ「二ツ屋1」「二ツ屋2」「二ツ屋3」で、いずれも短い。
(写真は「二ツ屋2」)
そういえば、二ツ屋という地名は見覚えがあるぞ。
たしかこの二ツ屋から栗当にかけてが、時間帯通行止めの予告区間だったはず。
今のところ、通行止めになるような工事現場は見えないが…。
ナンダあれは?!
廃橋の、ヨカ〜ン。
まずは対岸だが…
かわいそ過ぎる隔離であります。
明らかにあれは吊り橋の主塔なんだが、橋自体は既に無い。
ぽつねんと佇む主塔も、かつてそこへ通じる道があったという事が信じられない状況。
ただ、国道156号のスノーシェッドの一部に、色合いの違う(新しげな)場所がある。
多分、あそこから橋へ繋がる道が伸びていたんだと想像できる。
これでもかなり可愛そうな状況だが、此岸の主塔はもっと酷かった。
ズッキュ〜ン!!
うおおおおお!!
アーチに吊り橋の組み合わせ?!
熱すぎるぞ……!
この廃吊り橋は、右図の位置に架かっていた。
このうち問題となったのは、右岸の主塔だ。
右岸の主塔は、庄川本流と利賀川に挟まれた細い半島の先端にある。
現在地から見ると、利賀川の対岸ということだ。
しかも、地形図にはそこへ行く道が描かれていない。
此岸からは湖畔へ下りる林道が有るようなのだが…。
主塔がアーチ橋の先端に建っている風景は今まで見たことが無く、心惹かれるものがあった。
行かねばならないという気持ちが、心に満ちた。
だが、現実はかくも厳しい。
いったいどうやればそこへ近付けるのか。
今の私には、ただ闇雲に近付くことしか考えられないが、そんなことで辿り着ける地形とは思えなかった。
この橋は牛岳車道とはまず無関係だろうし、完全に寄り道となってしまう。
時間通行止めの件もある。
心残りだが、今日は諦めることにしよう…。
これは、明日以降にまた改めて。
7:54 《現在地》
ここまでの上りが実を結ぶ形となって、風景に大きな変化が訪れた。
この次のカーブは、特別なカーブなのだ。
左の崖はこれまでで最も高く迫り上がり、右側には削り残された小さな岩山がある。
つまり、変則的な堀割の形をしている。
標高は300m少々に過ぎないが、空を透かした景色は既に高山然としつつある。
このカーブは、砺波市庄川町と南砺市利賀(旧利賀村)との境だ。
「利賀まで15km」
カーブの川側に削り残された小さな岩山には、一基の石仏が埋め込まれていた。
火焔を纏い憤怒の相を見せる姿は不動明王像のようであり(実際は猿田彦)、利賀村入口の守護として安置されたと分かる。
「利賀村史」によれば、この切り通しは牛岳車道以来のものであると、次のように証している。
それまで庄川町と利賀村の境あたりから上流部が切り立った岩壁であるため、ここを避けて二ツ屋まで上り、九里ヶ当(栗当)へと下る道が使われていたが、荷車の通れる勾配を確保するため、この難所が開削された。この道をつけた山本太右衛門という人は、当時水平器一つを頼りに現在の道の原形を造ったといわれ、その技術と努力は高く評されるべきであろう。
そしてこの市境のカーブは、
今後の道行きを占う第一級の展望地でもあった!
これが、利賀村への道!
なんという果てしなき道。
信じがたい孤立!
次回は、スノーシェッドが教えてくれた“村の歴史”を見る。