現在地は小牧から国道471号に入って3.5km進んだ海抜330mの地点で、砺波市(旧庄川町)と南砺市(旧利賀村)の境である。
今の地形図では特に名前のない地点だが、「利賀村誌」によると、明治23年にここが「牛岳車道」として開通した当時は、「二ツ屋峠」といったそうだ。
実際の地形も「峠」というよりは、ただ大きな尾根を回り込むだけで、登り坂の途中の地点に過ぎない。
また、利賀村には入っても、役場のある中心集落はまだまだ遠く、頭上の青看曰く「利賀15km」とのことである。
ところで、右の地形の等高線の描かれ方を見て欲しい。
地上をネリネリと造った神さまは、何か利賀村に恨みでもあったのだろうか。
そんな馬鹿なことを考えたくなるくらい、村境を境にして地形が険しくなっている。(等高線の密度が違いすぎる)
この先の栗当(くりとう)地内における難所ぶりが、地図を見ただけでよく分かる。
たとえ現役の国道とはいえ、侮れない。
二ツ屋峠付近から、いよいよ後方に離れ始めた小牧ダム(双竜)湖面を望む。
前回更新以降に皆様からお寄せいただいたコメントを読んでも本編を食ってしまう勢いを見せた「湖上の廃アーチ&吊り橋主塔」だが、前回も正直に書いたとおり、この日の探索では接近を断念した。
だが、他ならぬ誰よりも私が、この橋への接近を欲した。
見えない接近ルートを探して、飽きるほど橋の周りを覗き込んだ。
離れてしまい橋は見えなくなっても、なお利賀川の深い峡谷を覗き続けた。
恨めし気に。
そしてその飽くなき覗きの成果は、後に一本の“挑戦ルート”へ集約されることになる。
2009/4/29 8:02
地形の急激な“難化”は、すぐに道路上に変化をもたらした。
久々のスノーシェッドの出現。
そして、その連打だ。 連打連打!
「栗当1」が現れ、すぐにこの「栗当2」が現れた。
「1」とともにこの「2」も長くはないが、内部がちょっと変わっていた。
ちなみに、現地ではこの「栗当」の読みが分からず「くりあて」と脳内変換していただけに、シェッドの文字を見るたび“悪戯な小リス”がクリを投げつけてくるイメージが再生されて微笑ましかった。
しかし古くは「九里ヶ当」と書いたもので、読みも「くりとう」が正解である。
「ちょっと変わっていた」というのは、このことだ。
総延長100m弱の「栗当2」のうち、ほぼ中間部分の10mくらいだけが、コンクリート製だった。
しかも、この部分だけは前後に較べて道が狭まっていて、普通車同士でもすれ違いが難しい。
最初からこのように作る合理的な理由は乏しいので、この中央の狭い部分がより古く、最初はこれだけの短いシェッドであったと考えて良いだろう。
つまり道幅を含めて、より当初の「牛岳車道」に近いわけだ。
(だから?と言われると困るが)
すぐ次に現れたこの「栗当3」は今までよりもさらに短く、全長30mくらいしかないようだが、やはり中央部分にコンクリート製の狭窄部分を有している。
そのせいか、「高3.2m」の幅員制限がつけられていた。
間髪入れず「栗当4」が現れた。(向こうにさらにもう一本も)
この「栗当4」は、今までのものと微妙に形が違っている。
道幅が最初から狭く、屋根の傾斜も急だ。
「栗当4」は、明らかに雪崩の通り道と分かる凹んだ谷地形を通る、バナナカーブのシェッドだった。
このような場所では、短絡のために中途半端な橋を架けて渡るのは、逆に危険なのだろう。
現にこの道にはほとんど桟橋が見られず、明治由来と思える細かなカーブが連続している。
雪崩の起きる季節、こんな場所を最も安全に通過する方法は、平身低頭として素早く崖際を通ることだった。
それを可能な限り自動車交通へと適応させたのが、この車一台分しかない狭いスノーシェッドなのだろう。
そういえば、このシェッドの全長は短いが、コンクリート部分の長さはこれまでで最長だ。
昭和46年秋に初めて冬期の通行が可能になったというが、そのために設けられた“最低限度の設備”が、各スノーシェッドの中でもこのコンクリート製の部分だった。
金属製の部分については、たまに工事銘板が取り付けられているのだが、その記年は昭和50年代以降である。
コンクリートの部分だけでは不十分で、随時付け足されてきた事が分かる。
確かにこの地形だ、欲を言えば道全部を地下に持っていきたいくらいだろう。
私は、こんな怪しげな道幅のまま、冬期もガンガン通しているという国道を、他に知らない。
(これが許されるなら、秋田県の国道341号だって何とかなりそうなもんだ…)
さて、また指をくわえることにしようか。
利賀川左岸の道は、どこにあるのか…?
まあ、橋が車道だったとすれば考え得る位置は一つしかないわけだけど、その場所にこれと言って道らしきモノが見えないのは、ショックだった。
ダムの水位がもっと低ければね…利賀川を徒渉して接近とか出来たんだろうけど…。
はい、“おしゃぶり”タイム終了。
これ以降は振り返っても橋は見えなくなり、しかも徐々に目の前の風景の方へ没頭していくことになったからだ。
続いて現れたスノーシェッドには、コンクリート部分が見られなかった。
そこからいくと、「1」と「これ」は完全に後発のシェッドということになるのだろう。
ちなみに「これ」のネーミングは奮っていて、
「栗当4−2」というものだった。
後発の悲哀が溢れ出るネーミングだ。
(よく“山行が”を書くときにも、追加画像のファイルネームに悩む(追加した画像は94_1.jpg)とかになるので、変に共感してしまった。)
8:18 《現在地》
「二ツ屋峠」から進むこと約800m、海抜350mに達した道は、大きな広場を現出した。
その一角には小屋を被った「六地蔵」が安置され、また谷底へ下る道が分かっている。
ちょうど一台の軽トラがそこから出て来た場面だ。
詳細は上の《現在地》のリンクを開いて地図を見て貰いたいが、ここから分かれる砂利道は大きな九十九折りを描いて利賀川の谷へ下り、橋を渡って左岸(西岸)へ向かっている。
西岸にもかつては「仙野原」などの集落があり(大字は現存)、その連絡道路となっていたようだが、今は川原一帯が砂利の採取場になっており、利賀川砂利株式会社の管理私道となっている(立入禁止、立ち入った場合は自己責任の看板があり、ゲートはない)。
…例の廃橋へ行くためには、この道を使うしかないだろう。
地形の険しさも、それに付随するシェッドの連発も、まだ続いている。
栗当は通過するには本当に険しい場所で、「九里ヶ当」という古名も、「六十里峠」みたいな“誇大延長系”のネーミングセンスによる“難場地名”だったのではないかと思えてくる。
すなわち、「9里=36km」にも感じられる(当)ような難所であるという具合に。
或いは、「トウ=峠」であろうか。
ともかく、またしても二つ同時にシェッドが出現。
コンクリート部分のないライトイメージの「栗当5」と、逆に薄暗そうな「栗当6」だ。
遠目にも薄暗く見えた「栗当6」だが、こいつは久々に中央部がコンクリート製になっている“古物件”だった。
しかもカーブが激しく、見通しの悪さも薄暗さに繋がっている。
だが、何よりも私が驚いたというか、声にもせず「うん」と頷いてしまったのは…
そこに、彫りだした地蔵が安置されていたことである。
ちょうど鉄骨部とコンクリート部の僅かな隙間に挟まるように。
車も停められないような場所なのに新しい花が供えられているのも、なんか重かった。
シェッドの中から見下ろすと、青い湖面と橋の代わりに緑の山が広がっていた。
そして、その中腹をうねりうねりと横切る一本の未舗装道路があった。
「利賀村誌」が「西岸林道」としている道である。
実は、この道も当初は探索の候補になっていた。
地形図で見ると、この道の上流部は破線で描かれているが、最終的には利賀村へ辿り着き国道と合流することになる。
「破線だが、本当は廃林道かも知れない」。
そう考えていたルートなのだ。
そして現に今見える範囲については、“廃”ではないが、林道のようだった。
少しだけ空けて、次なるシェッドが見えてきた。
そしてこの僅かの明かり区間に、ちょっと忘れかけていたモノがあった。
例の、「時間帯通行止め」の案内板だ。
どうやら、問題のエリアにたどり着いたようだ。
そして現在時刻だが…
え?
あれ…ウソ……
現在時刻は 8:31 だった!
ちなみに本日「2009年4月29日」の曜日は、「水曜日」だ。
……。
ま、ままま
まさか俺、
間に合わなかったの?
俺って、遅速&屈辱すぎる。
景色が良いからって、キョロキョロノロノロしすぎた…。
案内板と時計を交互に見たあと、少しだけ考えてから猛然と漕ぎ始めた私だった。
もしここで1時間以上も足止めを食らうようならば、計画を変更して、例の橋へ行ってみるのもありかも知れない。
或いは、眼下の「西岸林道」へ、いちかばちか迂回してみるか…。
とりあえず、「200m先」にあるという現場へ行ってみよう。
今のところはまだ、停まっている車のテールも、旗を振る警備員も見えないし。
8:32 《現在地》
200m先に現れたのは、実質的には10番目の“栗当”になる「栗当8」だった。
そして、逆光で写真写りが悪いが、道の両側にまた看板が立っていた。
右側に…恐れていた「工事中」が、シェッドに入ってすぐの左側に「50m先工事中」、反対には…(カーソルオン)「通行制限」が並んでいた…。
やばそうだ…。
うおおお…。
今度のシェッドは長いぞ…。
それも、後から増設した痕跡が、とても鮮明に残っている。
(シェッドの断面が変わるところの“坑口”にも「栗当8」の文字が…)
そしてこの見通す限り延々と続いているシェッドだが、…静かだ。
静かすぎる。
ひとっこひとり見あたらない。
―― 工事なんて、してなくないかい?
「栗当9」 出現!
「栗当9」こそ、予告されていた“現場”だ!
現場だけど… ヤッタネ
休工中だぜ!!!!
助かった〜。
なんで平日の今日が休工日だったのかは分からないが、GW中だったからかも知れない。
多分そうだろう、それ以外考えられない。
ほんと救われたぜ…!
って、どうやら私は本当に“ぬけて”いたらしい。
探索日は4月29日、そして案内板に書かれた工事期間は「5月11日〜」なので、この日は工事開始前。
現地での探索中はもちろんのこと、長時間に亘るレポート執筆中もずっと勘違いし続けていた私って…。
読者様よりご指摘
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うおおぉッ!!
もし西岸林道へ迂回していたら、今ごろ放心状態で立ち尽くしていたことだろう…。
これまでの険しさとは明らかに異質な大崩壊現場が、対岸の林道を完膚無きまでに寸断、分断、壊滅させていた!
「松の木峠」なんてレベルじゃねー!
仮に接近できても、まず踏破を考えるレベルではないだろう。
これはあれだ、
西岸林道は、死道だ!!
もう…この利賀は、どんだけ“廃道天国”なんだよ……。
このシェッド、終わらねーぞ!
って言うのは少し大袈裟で、次のカーブの先に終わりは見えていた。
だが、それでも「栗当シリーズ」では一番長い300m近いシェッドとなった。
しかもそれは最初から一本だったのではなく、「栗当8」「栗当9」「栗当10」が接続していた。
特にこの最後に控える「栗当10」は、(現地ではそれと気づきはしなかったが)利賀村にとっては重大なエポックを秘めたシェッドだったのだ。
確かに、これまでのシェッドとは、ちょっとだけだけど違いがある。
「栗当10」の入口の道幅の狭まりや、傍らに置かれた「高さ制限3.8m」(「この先20m」予告付き)や「急カーブ注意!」の看板が、前兆だった。
「栗当10」の前半は、例によって鉄骨製である。
ここに工事銘板が取り付けられているのが目に付いた。
注目は、「1971年」(昭和46年)という竣功年と、「利賀村栗当7号」という名称だ。
「7」→「10」がシェッドの増加を端的に示しているし、竣功年はちょうど、冬期通行が可能になった年である。
ちょうど一台のダンプカーが、道幅も天井も目一杯に使ってくぐってきた。
「栗当10」の中間に位置する、コンクリート製の部分である。
構造自体はこれまで見てきたものと大差ないが、直角に近いカーブであるため、特に大型車には鬼門であろう。
事実、柱状に張り出している部分の角は、相当に破壊されていた。
そしてこのスノーシェッドこそ、この道の記念すべき最初のスノーシェッドであった。
「利賀村誌」によると、
かつてここは「トンネル谷」と呼ばれていた。
ここは大変な雪崩の通り道で、毎年巨大な雪渓が初夏まで残った。
そのため、春にここを通る村人たちは、各々スコップやツルハシを使って雪渓に穴(トンネル)を掘って抜けたのだという。
それが「トンネル谷」の由来である。
春にブルドーザーで除雪するようになっても、ここの開通には数日を要していたので、村では早くからこの地点に防雪工事の施工を実現しようと猛運動を展開し、昭和31年12月5日に竣功した。
完成後、大規模な雪崩にもよく耐えて威力を発揮し、村民の期待に応えている。
その後、現在までに雪崩の多発箇所に次々とスノーシェッドが設置されたが、そのきっかけとなった記念碑的な第一号スノーシェッドである。
「昭和31年」竣功といえば、冬期の除雪が実際に開始されるようになる15年も前のことだ。
だからこのコンクリートの小さなスノーシェッドは、下積み時代の名残りといえるものだ。
冬期交通確保へ向けた、村の長い戦いの歴史が偲ばれるようだ。
約1.7kmの間に10を超えるシェッドが連なった難所も、
この「トンネル谷」を抜けたところで終了する。
そして、そこにもまた新しい場面展開が待っていた。