和歌山県道213号 白浜久木線 第5回

公開日 2017.01.23
探索日 2016.01.09
所在地 和歌山県白浜町

“破線区間”へ突入! 古き車道の真価を探して。


2016/1/9 9:19 《現在地》

ここは県道起点の庄川口から7.8km地点にある、ひとつの終着地だ。
道は峠を越えてなおも1.2kmを“車道”として頑張ったが、終点久木まで2.3kmを残したここで、遂に行き止まりとなった。

もっとも、ここを「行き止まり」や「終着地」と捉えるのは、あくまで自動車目線での話しである。
世間一般では、自動車が通れる道が「開通」した道であり、そうでないものは「未開通」の扱いを受けることが多いが、それは現代の道路の利用方法が自動車をデフォルトに据えているからだ。
私のような歩行者や自転車にとって、道は変化して続いていた。

車道末端の進行方向には、高さ2mほどの斜面を介して、地図に「破線」で描かれているものであろう1本の道が、明瞭に存在していた。
相変わらず、「通行止め」も「立入禁止」も、その他のあらゆる示唆も指示もない。
ただ、己の判断を問うだけの道があった。

…お世話になるとしましょう……。



意外な展開である。
道は車道としての“終点”を迎えたはずだったが、細い踏み跡の両側には、なおも草に隠された軽トラ幅の路盤が続いていたのである。

車道終点の直前200mほどの区間は、どういう訳か高規格な整備を受けていたが、峠からその“高規格区間”に至るまでは、規格の低い道だった。
そして今いる部分も、それと同程度のように見えた。
ようは、「元に戻った」という感じだ。
直前に通りすぎた“終点”の段差さえなければ、ここまでは軽自動車が入ってくる事が出来そうな道幅や線形である。

また、この道の両側の広い範囲(幅10m程度)に、ほとんど木が生えていないのも不自然である。
そこだけ植林をしなかったのだとしても、それ以前に一度は伐採したのでなければならない。
なぜ、道幅より広い範囲を伐採したのだろう。



9:20 《現在地》

“車道終点”から150mほど道なりにまっすぐ進んだのが、写真の地点だ。
向かって左側に、大量のシダ植物で覆われた平場があるようなのだが、とにかくシダの背が高いことと、その密度が半端ないので、どういう地形かはよく分からない。

ただ、今まで道を中心に両側にあった、木の生えていない帯状の領域が、ここで左へ向きを変えているようにも見える。
対して、踏み跡(道?)はなおもまっすぐ進み、間もなく鬱蒼とした杉林の中へ入り込むようだ。
植林地にはしばしば防火目的で帯状の無立木帯があったりするが、これもそうだろうか?

…そんなことを思いはしたものの、現地ではこれ以上深く考えず次へ進んだが、このレポートを執筆する段階で歴代の航空写真を見たところ、興味深いことが分かった。



左図は、平成25(2013)年に撮影された航空写真で、峠から現在地附近までが写っている。

探索から3年以内に撮影されたものだけあって、峠から広場を経て荒れた細い道が続き、最後だけ高規格になって唐突に終わるところまで、探索で見た景色をよく反映しているのだが、これを良く見ると、「車道終点」から「現在地」までも、まるで高規格な道がそのまま続いているのではないかと思える程にはっきりとしたラインが見て取れるばかりか、そのラインは「現在地」でも終わらず、ここで北西方向に反転してから100mほど続いたところで、やっと終わっていたのである。




さらに、平成9(1997)年の写真を見てみると、「車道終点」から伸びるラインは、今と同じようにはっきりと写っていた。

だが、平成4(1992)年まで遡ると、白浜側から伸びてきた道は道は峠の頂上までしか出来ておらず、「現在地」の周辺には全く道は見えない。
現状から推定するに、当時この一面には若い杉の植林地が広がっていたであろう。それから平成9年までの5年の間に、現在の車道は建設されたようである。



つまりこれは、現在の「車道終点」から先に、左図に赤線で示したような道が計画されたことがあり、それに沿って伐採が途中まで行われたのではなかったろうか。

実際に道形(というか路盤)があるのは「現在地」までだが、計画ルートはここで地形図の徒歩道から離れ、北西方向になおも続くものと思われる。
しかし、平成9年以前の時点で工事は中断され、以後長らく新たな延伸工事は行われていない模様である。

こうした末端部の奇妙な高規格部分や、その先に伸びる伐採のラインは、色々と中途半端に工事が中断していることを感じさせる“遺物”である。
そこには、“関係者”の悲願が未だ満たされていない複雑な状況が、おそらく潜んでいるのだろう。

といったところで、探索の続きへと戻る。




変化した!!

今度こそ、道は決定的な変化を見せた。
道形は幅2m弱へ狭まりはしたが、杉林の緩やかな斜面に、なおも明瞭さを持って続いている。
これは単なる歩道では無いと即座に感じた。

“明治馬車道”…であるかは分からないが、私の中では“明治馬車道”によって代表される、いわゆる 近代車道 ではないだろうか。
(近代車道とは、現代車道が自動車交通のための車道であるのに対し、主に近代に用いられた荷車・人力車・馬車などの車両を対象とした車道の総称である。)

レポートの冒頭では述べなかったが、私は今回のこの不通県道がそんな古い車道(近代車道)をベースにしていることを期待していた。
期待の根拠は、地図上に描かれた道が全体的に等高線に従順で車道的なことや、旧版地形図での描かれ方などで、明確な根拠ではなかったが。

そして、これまでは“関係者”ほかの尽力のせいもあってか、古い時代の遺物は見出せなかったのだが、遂にこの終盤、破線区間へ入ったことで、状況が変わったのである。
ここが期待したような元車道であったとなれば、私が自転車(という車両)を通す根拠も、それに伴うモチべーションも、大いに高まる!!



更に進むと、路上に点々と“杭”が打たれている現場に遭遇した。

道の中央に無造作な感じで植えられているので、自転車での走行には思いのほか面倒な障害であった。 その数は10を優に超えていたと思えるが、それぞれの杭にはピンクテープが結ばれており、杭本体には例えば―「No.20 R=21.0」―のような文字が書かれてあった。

この正体は、道路工事用の杭であろう。
測量後に道路用地の中心線として設置されたものであると推察する。
思えば、これまでもこの道では、非常に多くのピンクテープを目にしていた。
それらもこの杭に付けらたたものと同じ目的だったとしたら、県道改築工事の胎動があることの現れと考えられる。

話しを杭に戻すが、設置は数年以内のことと思われる。こうした杭は放置すると10年程度で自然に還ってしまうと思われる。
こうして車道は跡絶えたが、“関係者”の夢が潰えたわけではないようである。
道の芯に宿る生の焔を感じた。



9:28 《現在地》

車道終点から600mほど進むと、道は小さな尾根の先端を回り込むようにして、東から南へと進路を変えていた。
写真はそのカーブであり、右から来た道が奥へ曲がっているのがよく分かる。

地図上では、もう少し尾根に沿って下ってからカーブするように描かれているのだが、実際はそれよりも早いタイミングでカーブが現れた。
しかしこれは単純に地図の誤りであると思う。
というのも、地図上の道はここで尾根に沿って急降下しており、いかにも車道的ではなかった。

ともかくも、このカーブからは道を取り巻く地形の相が変化する。
ここまでは高い山腹に付けられた“山道”だったが、この辺りからは谷の強い影響圏に置かれた“谷道”としての要素が濃くなってくる。




カーブを境にいきなり急な下り坂になった。
とはいえ、ぎりぎりで車道たるを失わない程度の勾配である。
道幅的にも近代車道の体は失っていない。
そればかりか、路肩には小規模な石垣が築造されている箇所もあり、ますます近代車道の色を濃くしている。

私は大いに高揚した。

厳密には廃道ではないといえるが、自動車の轍が付いていないいわゆる“地道”状態の近代車道を、自転車に乗車のまま走行可能というのは、貴重である。
ましてやここは、県道である。(未供用らしいが)
とても楽しい。
オブローダー的にも、シングルトラック好きの山チャリスト的にも、ダブルで楽しい。



ひとしきり下ると、道は尾根筋を離れて、谷底の雰囲気を濃くした。
辺りは鬱蒼とした杉林で、左手には小さな谷(これまで沿ってきた谷の支谷)が近付いてきたのである。

道の周囲は全般に急勾配だが、岩場が露出しているような感じではなく、とりあえず「何かあっても何とかなりそう」と思える地形だ。
それゆえ、自転車というのっぴきならない大荷物を背負っている私であっても、あまり気負わずに進めている。

ゆえに楽しい。
下りなんで、疲労も少ないしね。




谷底に近付いたことで、ますます路肩の随所にある石垣が大規模化してきた。

石垣の作りは、もっともシンプルな自然石の乱れ積みである。
正確な築造時期は不明だが、空積み(=目地にモルタルを使わない)である時点で、昭和初期以前の可能性が高い。
それでいて大きく破損している場所は見られず、ちゃんと役目を果たし続けている。

そうして、谷に近付くほどに成長を見せる石垣の極(きわ)みは――




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9:37 《現在地》

おいC〜〜橋台!

道は、これまで短い付き合いをしてきた無名の支谷との決着を付けるべく、短い橋を架けていた。

県道213号の橋であるはずだが、実際に渡る事は出来ず、遺跡然とした石垣の橋台だけが残っている。



まさしく絵に描いたような、典型的な姿をした石垣の橋台だった。
保存状況はすこぶる良好であり、全国屈指の多雨な季候のために河川災害の多い紀伊半島であることも考えれば、奇蹟的という大袈裟な表現を用いたくなるほどだ。

石垣の最も高い部分は地上(谷底)から5mほどで、台形の断面の幅は底で3m、路面部分で2m程度である。

最大の特徴は、橋台と一体になった石垣の築堤が、谷幅の半分以上にもわたって長く作られている事だろう。
そのため、地形的な谷幅に対して実際に架橋されていた長さは短く、ちょうど平水時に水が流れている幅だけを橋で渡っていた。

このように、橋の長さを可能な限り短くしようとするのは、古い道の特徴である。
理由は単純に未熟な架橋技術のこともあるが、永久橋ではない木造橋の宿命として数年おきに架け替える必要があり、その労力や費用が常に地元住民の負担としてのしかかるという、近世以来の古い道路維持制度のせいもある。単純な初期工事の労力でいえば、石垣の築造は同程度の長さの木造橋を架設するより大変であったと思う。



9:40

大きな橋跡の出現は、オブローダーにとって間違いなく“ご褒美”だが、同時に渡る事の出来ない橋の出現は、大きな障害でもあった。
私も一瞬は緊張と恐慌に包まれかけたのだが、すぐさまこの橋の迂回はそう難しくないことが分かったので、安堵して橋跡を“観賞”することが出来た。

迂回ルートは橋台の上流側を巻く形で存在し、明瞭な踏み跡こそ見えないが、誘導するようにピンクテープの指導標が連続していた。
さすがに自転車は押したり担いだりして進んだが、断絶した橋の規模から考えれば楽な迂回であった。

なお、この橋台の出現によって、当道の近代車道説は、状況証拠的な意味で完全になったと言えるだろう。
“関係者”が県道の開通を渇望し続ける庄川越には、おそらくかなり早い時代に車両による交通が志された(或いは実際に開通していた)のである。
その後、何らかの事情で改良が進まなかったために“現代”には取り残されてしまった峠道の復権。それこそが“関係者”の願いであろう。



支谷を越えて少し進むと、また本谷沿いに戻った。
相変わらず周囲は杉林で、下枝払いなどの手入れもちゃんとされているようだった。
この界隈には自動車が入れる道は無いので、林業の従事者はこの旧車道である県道を歩いて通って仕事を続けているのだろう。

長い年月にわたって良く踏まれてきたらしき路面は、障害物のない場所では自転車にとっても走りやすい環境だった。
この辺りがまさにそうであり、かつ見通しも良く、緩やかな下り坂が続いているため、私は爽快なペースで進んでいった。

きぃ〜もちぃぃ〜〜!




なんてやってたら、転倒事故発生!!

県道213号で自転車による自損事故発生である(苦笑)。

原因は、撫で肩状態で谷向きにやや傾斜していた路肩部分を走行中、小枝で前輪が谷側へスリップした。転落の危険を感じた私は、咄嗟にブレーキをかけると共に山側へハンドルを切ったのであるが、スピードが出ていたために操作が間に合わず、前輪は路肩から逸脱。その瞬間に車体は転倒して、私も山側の路上に放り出されたのであった。
結構なスピードであったが、咄嗟に山側に転倒させたことと、常にズボンを二重にして履いていたことが功を奏して負傷は全くなかった。



転倒という“怪我の功名”であるかは分からないが、「落ちなくて良かった〜」と思いながら眺めた谷底に、予想外のものを見付けた。

それは、谷底附近の林地に連なる大掛かりな石垣である。
今いる場所から見て対岸の低い位置に、まるで護岸か道路擁壁(或いはその両方を兼ねたもの)のように、それは連なっていた。

明らかに人工の加わった光景であり、周囲が人工林であることや地形などの条件から考えて、集落跡地の可能性も疑われたが、いちいち確かめに行きたいと思うほどこういう光景が珍しくないのが、私のイメージする紀伊半島である。一応気には留めておくが、スルーだ。




道は谷に沿って順調に距離を稼いでいく。
次第に谷底へと近付いており、同時に険しい斜面が多くなる。
やがて険しさは岩場の姿となって牙をむき始め、道はそこに切り取りや石垣を以て返答していく。

一度転倒したことで少し慎重になってはいたが、それでも、ほぼ全線を乗車のまま進んでいる。
楽しい。
何度も言うが、この道はとても山チャリ向きである。
今まで内心で応援してきた“関係者”には突然の変節で申し訳ないが、この区間を現代的な車道で上書きしてしまうことには、個人的利益のために反対を表明したい(笑)。(とはいえ、相変わらず路上には点々と工事杭が打たれているから、実際に工事が始まれば、私の願いは危ういだろう)



更に進むと、まるで林鉄跡みたいに端正で礼儀正しいスタイルをもった築堤が現れた。

ここなどは本当に保存状態が抜群で、80年か100年かは分からないが、いずれそのくらいは古いであろう近代車道の風景が、ありのままに残っていて嬉しくなるばかりだ。
この保存状態の秘密は、両側の路肩に拳大くらいの石が埋め込まれているお陰だろう。おかげで路肩が堅牢になっている。

路上を少し掃き清め、それを白黒写真で撮影したら、「新道開通記念写真」として古いアルバムに収まっていたとしても区別が付くまい。




いよいよ谷底との比高が小さくなってきた。
お陰で、谷底や対岸の様子もよく見えるようになった。

すると、対岸にはやはり道があった。
先ほど転倒したときに見つけた、谷底の石垣エリア(集落跡?)へと通じているのだろう。
その道も今いる道と同じくらいの幅を持っており、さほど労なく辿れそうだった。

だが畢竟、川を挟んでいる両道を連絡するには橋が必要であった。



9:52 《現在地》

車道終点から1.5km(橋跡から0.8km)を古き車道に揺られて下ってくると、写真の場面に出た。
ここは地図上で破線の「徒歩道」同士が分岐するように描かれている地点である。
久木へ向かう県道は、このまま直進すれば良い。

また地形的に見ると、ここは峠の直下から始まった谷と、それとは別の谷が出合う地点でもある。
そして地図には出合う谷の側にだけ名前の注記があった。
ドン谷」という、不思議な名前である。

この分岐も、なかなかに味わいがある場所だった。
私が下ってきた道と左折する道が丁字路で接しているのだが、角の部分が大きく膨らんでいて、デルタ線的に踏み跡が残っていたのだ。(ただし、私が来た側から左折する方向に踏み跡はない。ただそのスペースがあるだけだ。)
このような分岐の仕方は探索序盤で通過した【出合集落】にもあったが、いかにも車道らしい作りであった。



既に述べた通り、県道はこのまま脇目を振らずに直進すれば済むのであるが、左折する道も気になる。
なにせ、分岐地点からその進行方向を見ると(←)、もうあからさまに途切れているのが分かったから。

その途切れた末端へ立って撮影したのが、右の写真である。

そこにあったのは、先ほど見たものよりも遙かに巨大な橋の跡だった。
対岸に見える橋台の規模は、縦も横も単純に前の倍くらいあるだろう。
この規模になると、さすがに橋脚を要したものとも思われるが、谷底には何も残っていない。
廃止から時間が経ちすぎているのだろう。対岸の石垣などは既に、ジャングルの古代遺跡を思わせる色を見せていた。

しかし、こうして橋はまるで消えてしまっているのにもかかわらず、対岸にも今なお人が通っているのではないかと思えるほどに明らかな路面が見えるのが、優艶だった。
そんな対岸の道も橋の袂で二手に分かれている。こちらの鏡像のようにだ。
分かれた正面の道が、地図に破線で描かれている「ドン谷」を遡る道だろう。左に行く道は、先ほどから対岸に見えていた(地図に無い)道。


……え?

「行かないのか」って?


うふふ…。 行きたいけど、今日はパスしたいと思う。
ドン谷の入口にこういうものがある以上、これは相当奥まで道は続いていると思われるから、思いつきで攻略出来るレベルを超えている可能性が高い。
しかもこのドン谷、おそらくは前に見た……【山崩れ】の在処である…。
いずれの機会にまた、としたい。

それにそもそも私の本道からして、まだ寄り道を楽しんでいる場合ではないという可能性もあるのだから。




ドン谷分岐の橋台を背に、県道213号を振り返る。

県道終点久木まで、残りあと1.2km。


この先にクライマックスが待ち受けていることを、私はまだ知らなかった。