道路レポート 山口県道60号橘東和線 和佐狭区 最終回

所在地 山口県周防大島町
探索日 2019.12.24
公開日 2020.08.03

地図から消えた町の……


2019/12/24 16:24 《現在地》

8つのみかんを持つ男が、周防大島町森の集落に現われた。
世にも非凡な狭小区間を突破しての登場である。

この森という集落は、平成17(2005)年まで大島郡東和町の役場所在地だったところだ。
そういう古い集落の中を、我らが県道60号はすり抜けていくが、よほど注意していなければ簡単に踏み外しかねないほど、県道の径路には不案内な屈折が多い。
それらをフォローしながら、この島の古い沿道風景に思いを馳せていきたい。


Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA


丁字路を見回してみると、さっそくそこかしこに古いものを見つけることが出来る。
それはたとえば、田舎道にはらしからぬ鮮やかな煉瓦の塀であったり(しかもストビューだと分かり易いが、立派な雁木の装飾付きだ)、曲がった先の県道沿いに見えるなまこ壁の民家(これは上の写真の方が分かり易い。屋根の上に立派なソーラーパネル(訂正:太陽熱温水器)が載っているのが頼もしい)であったり、ひっそりと佇む石標(後述)であったりだ。

また、丁字路と見たここは、よく見ると十字路だった。私が降りてきた道の反対側に幅1mほどの小径があり、低い丘の峰伝いに海の方へ伸びていた。周りの道が車道になる中で取り残された古い道かも知れなかった。



県道の沿道からは少しだけ外れるが、路傍に佇む石標を見に来た。

石の材質はモザイク模様が鮮明な花崗岩で、そういえば昔の三角点や水準点や道路元標といった石標の大半が、瀬戸内海に浮かぶ小豆島産の花崗岩であったとされていることを思い出した。それらと風合いが似ていたのである。
後日調べてみると、屋代島にも花崗岩は豊富に産出するらしく、昔は島にも多くの石工がいたそうだ。

肝心の石標の正体だが…




☛へんな道 ……じゃなくて、 ☛へんろ道 と刻まれた道標石だった。
また、側面には「森村傳吉」(森村の傳吉の意か)の刻字あり。

「へんろ」とは、皆さんも一度は聞いたことがあるだろう「お遍路」のことで、「遍路道」はお遍路に用いられる道全般を指すものとされる。お遍路の本場は「四国八十八か所霊場めぐり」であり、もはや代名詞のようにもなっている。

本州と四国の間に細長く横たわる屋代島の天与の立地や、現在この島を縦貫する国道437号の起点が航路を挟んだ四国松山であることを思えば、この道標が指す「へんろ道」も、四国の地を目指したお遍路さんに向けられたものだろうとする考えが、まずひとつ。
だが、この屋代島にも古くから「島へんろ」という伝統があったらしく、そのための道標だったとみることも出来る。



ふたつの説のどちらが正しいか、もしくは両を兼ねたものだったかは確定しがたいが、いずれにしても、道標の位置が昔から変化していないと仮定するなら、県道と反対の東側(四国方向)に下って行くこの狭い道路は、かつて(今も?)「へんろ道」と呼ばれていて、石標によって案内されるほど多くの旅人が通った主要な道路だったと推定しうる。

また、“指”の向きが一方向だけを指していることを重視するならば、この道標が建立された時点の幹線道路は、むしろ現在の県道の径路なのであって、その道からここで分岐して東へ向かう枝道が、特に「へんろ道」として区別されていたという解釈も可能だ。この場合、現在の県道は、この「へんろ道」より幹線的な存在だったと考えられる。

このような様々な解釈ができるため、道標石が建てられた時期を知りたかったが、記年がないため不明である。形状的に全く遊びがないことなどから、明治以降ではないかという印象は受けた。
そうこうしたことを考えているうちに目に見えて夕暮れが深まってきたので、諦めて「へんろ道」の指矢印と反対の県道へ出発した。




道路というよりは路地と表現したくなるような、生活密着型の狭い道だ。
地理院地図などは未だにこの道を徒歩道表記にしているくらいである。
残り僅かになった標高を全て吐き出すように、街の中心部の方向へ下って行く。
周囲には、西日に照らされた瓦屋根の群が、山の裾野を埋めるように連なっていた。

この美しい景色が、この島の真に古い街並みの典型だったという事実は、後で知った。
中世以前に成立した古い集落の多くは、海岸から少し離れた裾野にあったが、
江戸時代以降に人口が急増する過程で、それまでは塩田や湿田という生産基盤として
利用されていた海岸沿いの低地に、新しい街並みが形成されるようになったものらしい。
前者を「(ごう)」、後者を「」と呼び、両方を持つ集落が古いと考えられているのだという。

確かに地形図で観察すると、森と平野集落には「郷」と「浜」の明確な区分が見て取れて面白い。




左に、右に、道は立体的に折れ曲がりながら、家々の崖壁や石垣や塀の隙間をすり抜けて行く。
少し大袈裟な表現が許されるならば、路地裏ジェットコースター。実感はこれに近い。
道幅は2mほどで、拡幅箇所は皆無。見通しはまったく利かないが、交通量はそれなりにあってしかるべき家の多さなのである。
都市計画用語では家屋連担区域などと呼ばれるもので、それがあるだけで古い街並みと断定出来る光景だった。

この辺りもグーグルカーの奮闘が光る。
こういう路地が珍しいという気はないが、主要地方道だからね!国道の次に偉い!


道標があった丁字路から約150m地点。
下りきったようで、平らな地形になった。
沿道には小ぶりなマンションなども現われはじめ、駐まっている車も多く見るが、依然として地形図では徒歩道表記が続いている。

そして、“山口県”産レッドコーンあり!
ひとつ前のカーブにもちゃっかり写り込んでいるが、こうやって点々と置かれているのは、やはり県道だからなのだろう。絶賛荒廃中の峠越え区間にも、【いくつも】【あった】ことだし。

本当は県も、この峠越え区間の県道認定は解除したいんだろうなぁ…。



16:30 《現在地》

道標丁字路から200mほどで、変則十字路に突き当たった。

例によって案内は全くないが、県道は右折だ。
そしてこの地点をもって、約2kmぶりに地形図の表記が徒歩道から軽車道に変化する。
県道の自動車交通不能区間も、おそらくこの辺りで指定解除になっていると思うが、残念ながら詳細は不明。

ところで、ここを左に折れて、画像の★印の地点に行くと、こんな景色がある。




変則十字路に臨む四方の道の一本が、このような小さな橋で小さな水路を渡っているのを見ることができる。
本当に小さな橋で欄干もないが、親柱でもありそうな位置に2本の石標があることが目を引いた。
このうち右側の石標は、もとは“破線の矢印”で示した位置にあったが、破損したため奥に移動されたように見えた。

先ほど目にした道標石の再来を思い、刻まれた文字を読んでみると……。




「本屋 某」「柏屋 某」「井田 某」「吉田 某」

標柱には、各々二人分の名前だけが刻まれていた。

この小さな橋の建設に功績があった者、あるいは寄進した者の名を刻んで、永久に顕彰せんとしたものか。
路傍の石に名前だけが書いてあるというのは、石仏ではないし、道標でもないし、不思議を感じた。地味ではあるが、道路は無記名性の存在だと常々考えている私には意表を突く発見だった。これはイレギュラーなものなのか、それともこの地方では普通に見られる“文化”なのかも、気になるところだ。




16:32 《現在地》

変則十字路を右折して100m間は相変わらず狭い直線道路だが、この間は前述した“郷”と“浜”の間隙であり、空き地が目立つ。
そして、ついに広い道路に突き当たった!

海沿いの平坦な低地に、真っ直ぐな道路が敷かれ、両側に人工的な区画をされた背の低い街並みが広がっている。
これが江戸時代以降に開拓された“浜”の集落風景である。
どこにでもあるような街並みと、普通の道路、この景色の取り合わせが好ましい。



「こちら側から、間違わずに県道を辿っていくのは、難しいなぁ。」

そんなことを思いながら、本当に全く何の案内もない曲り角を撮影していると、軍用トラックみたいな姿をした見慣れぬ車が流れるような動きで勢いよく県道に入っていくのを目撃した。
しかも、ナンバープレートの地名表示が「山」一文字だけだった! 山口ナンバーが「山」から「山口」となったのは昭和63(1988)年だというから、それ以前に取得されたナンバープレートだ。
これだけでも印象的だったが、車体の後側から覗ける運転台には、ピンク色のほっかむりを目深に被ったおばあちゃまの姿が!

……す、 すげぇ……。




丁字路を左折して50mほど進んだあたりの風景だ。
背後に綺麗な形の山が見えるが、標高374mの白木山といって、島の東半分の最高峰である。
路上は平穏で平凡な街の景色であるが、瓦屋根の裕福そうなお屋敷が多い。

で、写真左に大きな空き地のようなところが見えるが……




ここには、東和町が合併によってなくなるまで、東和町役場があった。

昭和30年に4つの村が合わさって東和町が生まれる前も、ここに森野村役場があったようだが、
それから平成16年10月1日までは、東和町の役場が置かれていた。
少し古い地図だと、ここに町役場の赤○の記号が書かれているはずだ。

合併で役目を終えた役場の建物が、全国に無数にあるだろうということは容易く想像出来る。
ただ、多くは合併後も「支所」のような役割を与えられて存続しているようであるから、
いかにも町役場っぽい鉄筋コンクリートの建物が、廃墟のようになっているというのは……

ちょっと見慣れなくて、目を引いた。



本当に目を引いたのは、建物そのものよりも、鉄筋コンクリート2階建ての屋根を抜かんばかりに育ちまくった巨大なソテツだった。
私は植物を見る趣味はないし、知識もないが、こういう景色はやるせないものだ。

普通、こういうところに植えられたシンボルツリーというものは、建物なり施設なりの栄寿と発展を願うもので、この場合ならば東和町と一緒に育てていこうという気持ちの象徴だったろう。
それが枯れることなく、建物を抜かすほど大きくなっているというのは、本来なら喜ぶべきことだろうが、建物の寿命が先に尽きると途端にやるせない景色になる。
今回は建物の寿命というよりは、建物を必要とした社会の都合による廃止だろうが、残された木が盛んに育ちまくったり、花を付けていたりというのは、やるせないものだ。

根元とか、もうしばらく手入れがされていないようで、雑草も茂っているのに、強いんだなぁ。ソテツも、ツバキも。

ソテツという、平凡ではない自己主張のある樹種だったことも、強烈な印象の原因だったと思う。
いつかこの無表情の木が果てしなく成長して建物を覆い隠す姿を想像するのは恐ろしいが、そういう景色がどこにでもあるような未来を想像するのは、もっと恐ろしいことだ。


多くの町民が出入りした扉は固く閉ざされ、錆び付いていた。

……と、ここまで旧役場の建物という印象で書き進めておいてなんだが、実は違っていた。
この今は使われていない建物の正体は、東和町公民館
役場もここにあったのだが……


左図の航空写真の変化で分かるように、役場は公民館の隣の敷地にあったが、既に取り壊されていたのだった。
だから、私が見たものは“地図から消えた町”の役場ではなかった。

いずれにしても、もしここになければわざわざ立ち止まることはなかった風景であろう。
私の趣味性の外側にあるもので、探してまで見ることはなかった。
だが、人と暮らしが近くにあってこその道路である以上、人が減り続けていった未来を想像させる風景を見過ごせなかった。

なお、町がなくなった直接の原因ではないが、東和町は日本一高齢化が進んだ自治体として有名だった。昭和55(1980)年の国勢調査で初めて全国一となり、平成12(2000)年の調査で全国で初めて65才以上の住民の占める割合が50%を越えた。日本一の高齢化自治体の称号は平成16(2004)年に町がなくなるまで返上しなかった。
かつて山の頂まで段々畑を作るほど多かった人口も激減を続け、昭和30年には1万7000人以上あったものが、合併時点では3分の1以下の5200人となっていた。

県道荒廃の直接の原因は、人口減ではなく災害だったし、代替となる道路の整備は人口減であっても着実に進められ、既に完成の域に到達している。
おそらくこの県道は何も失敗をしなかったが、それでも今日の荒廃は避けがたかったと思うし、路線名の一部でもある町の名がなくなることも、やはり避けがたかっただろう。
また、町村合併によってこの集落が行政サービスから取り残されているわけではなくて、隣の平野地区の海岸埋め立て地に立派な周防大島町東和総合支所が新設されてもいる。
私は何かの批判の材料として、この風景を見たのではなかった。

町の表通りである国道に対して、県道は裏通りとして飾らない景色に満ちていた。
歴史に裏付けられた真実に満ちていた。
そのことが伝えたかった。




出会えない国道に別れを告げて


2019/12/24 16:35 《現在地》

旧役場前を通過して進むと、ずっと街並みが続いているので外見からは気付けないが、大字が森から平野(ひらの)に代わる。
平野も森と同様に“郷”と“浜”の集落が分かれているが、ここは海岸沿いの“浜”である。
そして写真の分岐地点へ。

アスファルトの広場かと思うほどに、ここだけ道幅がある。
左に見える鳥居は八坂神社、正面の青は中国新聞の販売店、右奥に見える緑の三角屋根は旧東和町図書館、県道は右奥の広い道である。
左の狭い道は明確にその旧道だが、今回は県道を忠実にたどりたいので、そのまま広い道を進んだ。



八坂神社前の鍵形を抜けると、約500mの長い直線区間で平野集落を駆け抜ける。
夕日を完全に呑み込んでしまった地平線には、白木山が300m台の標高とは思えない高峻さを感じさせる姿で聳えていた。
私は車を大島大橋の袂に置いてきているので、これからそこまで自転車を漕いで帰るのが地味に大仕事だ。間違いなく夜になる。

眼前にあるものは、たった500m前まで幅員1m制限区間だったとは思えない平凡な県道風景だが、この直線部分にも地味に興味深い道路状況がある。
それは冒頭にも述べているが、あの狭隘区間を見た後では大概の人が忘れているかも。 なにかというと…




家一軒分だけの至近距離に国道437号が並走している!

でもこれだけでは、だから何という声が聞こえてきそうだ。
別に珍しくないのではないかという声が聞こえてきそう。

しかし、国道と県道がこんなにも接近して、500m近くも並走するのに、最後まで合流はせず、また遠くへ離れていくし、二度とで会うことはない……と言ったら、少しは珍しさを感じてもらえるだろうか。

地図を開いて同じような場所を探してみようと言われても、これがなかなか難しいと思うのだ。まあ、テーマがニッチすぎて、わざわざそんなことを誰も調べたがらないかもしれないが…。



国道437号と県道60号の位置関係を見て欲しい。

両者がぶつかるのは図の右端に近い(そして島の東端に近い)伊保田の地である。
ここを出たあとの2本の道は、半島のように薄っぺらな島の北岸と南岸に沿って西へ西へと進んでいく。
国道は平坦で穏やかだが、県道は道が狭く紆余曲折も多い。

そして両者は、この平野の地で再接近する。
伊保田から平野までの距離は、前者なら11km、後者は14kmほどかかっているうえ直前に自動車の通行が困難な区間がある。
しかしともかく両者は再接近し、500mにわたって並走する。
だが接続はしない。最も近いところでは10mくらいまで近づくが、決してふれあわない!

両者は平野の外れで離れ始め、結局そのまま二度と出会うことなく、それぞれ北岸と南岸を西へ向かって終わる。

まあ、実は平成10年代になって県道に新しい支線が整備され、これが国道との連絡路になったので、現在では上記のようなストイックでプラトニックな関係は過去のものなのだが、支線を除けば依然としてふれあわない。
(やっぱりだからなんだと言われそう…笑)



ここが国道と県道の再接近地点だな。

こんなに近いのに、別の世界の住人かのように交渉が薄い。
何本かの町道で結ばれてはいるが、どちら側を走っているときも、相手の存在を告知する標識類はまったくない。直接繋がっていないせいだろう。

さきほど県道沿いに旧町役場の跡地を見たが、ここの国道の海側の埋め立て地に、周防大島町への合併後に役場の代替として建設された東和総合支所がある。
そこには、「道の駅サザンセトとうわ」や「宮本常一記念館(周防大島文化交流センター)」といった外来者向けの施設もまとまっており、新しい町の中心になっている。

皆まで言うな。
分かっている。
ここにある国道と県道の関係は、典型的な新道と旧道である。新道は国道になり、旧道は県道になっている。ただし、国道の指定が新しいので、実際にこの旧道が国道として使われたことはなかったと思う。詳しくは机上調査編で。



そんな並走区間も終わりが近づいてきた。
ふり向いてくれない国道を諦めるように県道は間もなく左折し、束の間の北岸を離れ南岸へと帰っていく。
もう一度峠越えがあるわけだが、“和佐峠”のような苦労は二度とない。

青看を見るのは、和佐からここまでの県道沿道では初めてだ。
残念ながら県道表示はないが、支柱には「山口県」のステッカーがあった。
地味に古そうな青看である。デザインが旧式寄り。




16:40 《現在地》

さらば安芸灘!
県道60号はここを左折して燧灘に帰っていく。
直進すれば、100m足らず先で国道に出会えるのだが、思いを断つように。

もちろん、直進が本来の旧道のルートである。わざわざ説明不要なほど典型的だ。



うおぉぉ!

初ヘキサだ!!

思いを断って左折したらば、何食わぬ顔のヘキサが現われた。
へんな区間内では、県道であることを悪目立ちさせるようなヘキサを、敢えて置いていなかった気がするのは、私だけか。ずっと身を潜めてやがった気がする(妄想)。

探索すべき道は、これで終わったっぽいな。




16:44 《現在地》

小さな川沿いの道は緩やかに登りながら内陸へ入り、平野郷というバス停を過ぎる。文字通りこの辺りが平野で最も古い「郷」である。本平野とも言うらしい。もうこの辺りは白木山の麓でもある。

そして左折から500mで、非の打ち所がない2車線道路に突き当たった。
これがこの先の県道60号の姿だった。完全に幹線道路としてのあるべき姿を取り戻していた。久々に見る信号機のある交差点で、本線はここを左折し片添へ向かうが、右折は新しい支線であり、出会えずの国道へ通じてしまっている。そして私も数秒後にはこの道に入って帰る。



以上で、和佐から平野までの県道60号のレポートを終える。
次回は、机上調査編。