道路レポート 山口県道60号橘東和線 和佐狭区 机上調査編

所在地 山口県周防大島町
探索日 2019.12.24
公開日 2020.08.04


今回紹介した県道橘東和線の自動車交通不能区間は、いかなる歴史を持っているのだろう。
峠道の大部分が放棄されたみかん畑にあったことを重視すれば、農道に由来しているように見えるし、利用実態はその通りであったはず。
農道ならば無理からぬことであろうが、現地では道の来歴に繋がるようなアイテムを発見しなかった。強いていえば「へんろ道」の道標が近くにあったくらいだ。

和佐や森の集落内の狭路の存在も含めて、典型的な「なぜこのルートが県道なのかが謎」なタイプの“険道”だったと思うが、もし現地探索の成果だけで来歴を当ててみろと言われたならば、私は次のような説を述べることになるだろう。

島内一周道路を整備する目的のために、南岸沿いに県道に認定する必要があって、たまたま近い位置にあったみかん畑の農道を県道に認定した。その後、策が功を奏して南岸を通行する道路は(町道としてではあったが)整備された。そのため県道自体は未改良のまま放置されている」。

いかがだろうか。この手のストーリーは方々で見かける、いわば汎用のものだ。
しかし、少なくとも峠道の来歴に関わる部分については誤っていることを、以下の机上調査で知った。




まずは、昭和24(1949)年版の地形図と、現在の地理院地図の比較である。

前者は、東和町の前身である森野村時代の地図だが、「府縣道」を示す図中で一番太い二重線の道は、現在の国道とほぼ同じ径路で島の北岸を通っている。
この当時の路線名は定かではないが、後に国道へ昇格するこの道は、遅くとも昭和20年代には県道として、島東部における第一の幹線道路という地位にあったことが伺える。

一方で、我らが県道60号が越えている“和佐峠”だが、そこにも府縣道より一回り細い二重線の「町村道」が描かれている。しかもこれは「町村道」の中で最も上位の「道幅3m以上の町村道」を示す記号である。

正直、現状の道を見る限り、この幅員については信じがたいが、決して現在の「徒歩道」の表記に甘んじるような道ではなく、もっと重要な路線のように見える。すなわち、この後に県道へ昇格する真っ当な予備軍だったように見える。

さらに、私は重大な事実に気がついてしまった。
旧地形図に点々と描かれた「水準点」が、県道(=現在の国道)沿いではなく、北岸の森から峠を越えて南岸の和佐に至り、そこから再び峠(隧道)を越えて北岸の内入(うちのにゅう)に至るという、現在の県道60号に近い径路上にあるという事実に!!

明治10年代から全国に整備された水準点の多くが、当時の幹線道路沿いのおおよそ2kmごとに設置された。そのため、地形図にある水準点の位置を調べることで、さらに古い時代の幹線道路の位置を推定しうることになる。
この手法で推測すると、明治初頭の幹線は森〜和佐〜内入の径路であり、森と和佐の間では現在の県道が通る“和佐峠”より北側の尾根伝い(現在この位置にいかなる道も描かれていない)を越えていたと推定しうる。(「へんろ道」の道標はこれを指していた可能性がある)

ほぼ南岸に沿っている現在の県道60号が、わざわざ峠を越えて「森」に迂回していることは一見不可解な迷走に思えるが、実は国道の旧道ともいうべき由緒を持つ古い道に倣っていたという可能性が出て来た。




『東和町誌』奥付

このことは看過出来ない発見だと思ったが、まだ推測に過ぎず、資料の裏付けを欲した。
そこで私は、昭和57(1982)年に旧東和町が発行した『東和町誌』を読んだ。

現今の東和町の道路は国全体の状況に比較してみるとき、よく整備せられているとはいえない。しかし、過ぎ去った日から今日までの状態をみると、ずいぶん発達したものだとの感を深くする。
『東和町誌』より

このような書き出して町内の道路網を概観している。これは昭和51年に大島大橋が開通し、島が本土と地続きになった後の記述である。
上記に続いて、町内のバス路線および普通自動車が通行可能な道路の位置が列挙されるが、そこに和佐峠の道は挙がっていない。代わりに、このような記述が登場する。

和佐から片添への車道を完成するならば大島郡一周道路は完成することになる。これは大畠瀬戸の架橋によって島内の自動車交通量増大を予測するならば、工事を急がれるものの一つである。
『東和町誌』より

この「和佐から片添への車道」こそが、町誌刊行から22年後の平成16(2004)年についに完成した町道片添和佐線第2回に登場)に他ならず、大島大橋架橋当初から、島内一周道路の最後のミッシングリンクになっていたこの区間の整備が重視されていたことが分かる。

町誌の記述は続いて古い道のことに移るが、今回のレポートに関わりがある平野以東について抜粋すると……

明治10年代の幹線道路をたどってみると、海岸を八坂神社のまえを通って森の郷から東へ細道をほぼ真っ直ぐに山をこえて、和佐の郷へ下った。
それらの道をみると森野までは漸く幅三尺(約91cm)、その東は全くの踏み立て道であった。『風土注進案』にでている往還(主要道)もこの道であったから、幕末の頃にはこの道が利用せられていたのであろう
『東和町誌』より

登場する地名、「八坂神社」「森の郷」「山をこえて」「和佐の郷」の位置を旧地形図(→)上に表示すると、前述した水準点がある径路上に綺麗に並ぶ。
やはりこれが明治以前の往還(主要道路)だったと考えて良いようだ。

しかし、当時の往還というのは、森の郷から先は幅3尺に満たない山道であって、到底車馬の通行に耐えられるものではなかった。
今回探索した和佐峠の県道も狭かったが、一応“車道”ではあったはずだ。では、あれはいつ頃に作られた道なのか。

その答えも、町誌にあった。


島に荷車の通れる九尺道の改修工事の起こったのは明治20年代であって(中略)それまでの道は車の通ることを考えなかったから、道はできるだけ短距離を通って坂が多かったが、九尺道は車の通るために勾配をゆるやかにし、道はおのずから海岸近くを通り、紆余曲折が多くなった。この道は森野村役場まででとまり、それからさきは六尺道で、西方寺の東から葛原をこえるコースをとり、和佐浜の西へ下った。
『東和町誌』より

登場する地名は、「森野村役場」「西方寺」「葛原」「和佐浜の西」であり、このうち葛原のみはっきりした場所が分からないが、今回の道中で葛(くず)が多かった場所が【どこであったか】を思い出してもらえれば、道は自ずと絞り込まれる。

すなわち、明治20年代以降に、旧来の往還に代わって、今回探索した“和佐峠越え”の荷車道が整備されたのだ。
当初の幅員は6尺(約1.8m)であったというが、現在の道幅もこれからほとんど変わっていない!!!

まるで化石みたいな現役県道だったわけだ……。

なお、町誌にはこの後に起きた“重要な換線”についての記述は、なぜか見当たらない。
地形図を見る限り、この明治20年代から昭和20年代までのどこかで(とても幅が広いが…)、島の幹線道路は南岸の和佐への迂回を止めて、森から北岸の神浦(こうのうら)へ向かって、ずっと海岸線を通るようになった。これは大規模な道路工事であっただろうが、残念ながらこの工事の詳細は不明だ。
しかし、この海岸道路が整備された段階で、和佐峠越えの道は幹線の地位を剥奪され、農道的な役割へ転じたと推定出来る。




『私の日本地図 第9巻』表紙

ところでこの『東和町誌』、この手の本としては珍しいことに、個人が著者になっている。
著者は旧森野村出身の民俗学者宮本常一氏であり、昭和56年1月に亡くなった彼の遺作になった。

その宮本氏が昭和43年に発表した『私の日本地図 第9巻 瀬戸内海III 周防大島』という本がある。
そこには、町誌にもない、彼自身が島の古い道を歩いた記録が収められていた。
とうぜん、“和佐峠”を歩いたときのことも……

この村(神浦)については一つの思い出を持っている。私の母の弟が神浦の東にある和田の小学校で先生をしていたことがあって、外祖母と二人でその宿へたずねていったことがある。

ゆくときは森から和佐峠をこえて南岸の和佐へ出、さらに小泊を経て小泊から山をこえて北海岸の内入へ下って、その東の和田に至った。そこまでは六尺道が通っていて、陸路を和田へゆくものは普通その道を通った。

ところが帰りは内浦の方を通れと和田の人が進めてくれた。それには和田の西の内入と神浦の間は浜を通らねばならぬ。浜を通るには潮の干いている間でなければならぬとて、潮干を待って歩いたことがあった。

大正の終頃までここには道がなかった。
祖母と二人で浜をあるいて神浦まで出た。途中誰にもあわなかった。そして潮のひいたままの浜へ足跡を付けていった。神浦から森へはさきにも書いた山道をあるいた。これは踏み立て道であった。この道は外浦(南海岸)をあるくよりは近かったし、島の東部の人が森野や西方へ出るときには多くこの道を利用したのだが、間道ということで車道がここに通ずるまで改修せられることはなかった。そういうことがこの地方を島の果てという感じを持たせたのであった。出稼ぎも本土の方へ出るよりも四国の方へゆく者が多かった。
『私の日本地図 第9巻』より

掲載した地形図は昭和24年版だが、これよりも古い時代の紀行である。
大正の終わり頃になって初めて海沿いの道が出来たと書いてあり、これは明治40年に生まれた彼の子供時代の話なのだろう。
和佐峠がどのような場所だったかという詳しい記述はないものの、町誌と同じく、そこには明治生まれの六尺道の車道が通じていて、本道の扱いだったことが読み取れる。
なお、件の峠を“和佐峠”と称する資料はいまのところこの本だけだが、相応しい名前だと思うので、本編でも採用させていただいた。


以上が、宮本常一氏の著作から拾い上げた、和佐峠の由来である。
かつてはそこが島の幹線道路であったこと、明治時代に開削された六尺道から今もほとんど変わらない道幅のままであることなどが、判明した。
しかし、和佐峠は昭和時代になって幹線ではなくなった。その記録は未発見だが、間違いのない事実だ。
それでも廃道になったりはしなかったようだ。今とは違って人口過密だった当時、山間部でも沿道は農地(段畑)として利用されていた。それが昭和30年代から急速にみかん畑へ変わっていった。これは本編で触れたとおりである。
みかん農家用の小型車両が通行出来るよう、路面の舗装や路肩の改修などは徐々に進められたと考えられる。


さらなる机上調査により、和佐峠が県道に認定された時期やその後の変遷が判明した。
ちゅうごくDrive Guide」が公開している「山口県道異動総覧」などの資料により、昭和33(1958)年に「県道大島東循環線」という路線が認定されていることが分かった。

その大まかな位置は、右図の通りであったと思われる。
昭和33年当時、島の西部を周回する主要地方道大島環状線が既にあったが、この年新たに島の東半分を周回する一般県道大島東循環線が認定された。
(「環状線」と「循環線」が同じ島に同居しているのはやや奇妙であり、資料によっては「大島循環線」としているものもある(『道路トンネル大鑑』など)が、『続周防大島町史』は環状線としているので、本稿もそれに倣った)

この大島東循環線の詳しい径路は不明だが、その後の路線名の変遷を見るに、和佐峠を経由していた可能性が極めて高い。
つまり、和佐峠は昭和33年から県道になったと考えられる。これ以前(旧道路法の時代)から県道だった可能性もゼロではないが、昭和24年の地形図に町村道として書かれているので、可能性は低い。


それから14年後の昭和47(1972)年、一般県道大島東循環線は廃止されるも、同時に2本の県道が認定された。
主要地方道伊保田土居線と、一般県道伊保田橘線である。

それぞれの位置は右図の通りと考えられる。
つまり、旧来の大島東循環線は南岸と北岸の2本の県道に分割され、北岸は格上の主要地方道に昇格した。
しかし和佐峠の道は南岸側で、引き続き一般県道である伊保田橘線となった。

だがこの路線名も長く続かなかった。


11年後の昭和58(1983)年、島に初めて国道が指定された。
一般国道437号が本土から大島大橋(昭和51年開通)を渡って侵入してきて、それまであった主要地方道大島環状線の一部と主要地方道伊保田土居線の全部を吸収してしまったのである。さらに伊保田から海上へ四国松山港へ渡っていく。なお、実際の起点と終点はこの逆方向だ。

北岸が国道になったことで、南岸にも花を持たせたわけではなかろうが、南岸を通る一般県道伊保田橘線は、この年に主要地方道橘東和線へと昇格した。ただし末端部は切り離されて、そこは一般県道油田港線となった。
以後、現在(令和2年)までこれらの路線の指定認定は変化していない。

このような路線名の変遷だけでは、それぞれどのような目的によってなされた行政行為なのか、背景にどのような陳情があったのかまでは、分からない。
ただ、昭和30年代当初から島内一周道路の整備が重視されており、そのために必要な県道の認定が進められたと思える。大島東循環線という路線からスタートしていることが、それを強く感じさせる。

島という隔絶された世界において、海岸一周道路を建設することの魅力は計り知れないのだろう。わが“本州”も、島として見れば全くその通りであるから、よく分かる気がする。

したがって、私がこの机上調査編の冒頭で推定した県道の来歴……
島を一周する道路整備するという目的のために、南岸沿いの道を県道に認定する必要があって、たまたま近い位置にあったみかん畑の農道を県道に認定した。その後、策が功を奏して南岸を通行する道路は(町道としてではあったが)整備された。そのため県道自体は未改良のまま放置されている……
は、やはり大部分で当たっていたと思う。違っていたのは、たまたま近い位置にあったみかん畑の農道を県道に認定したという部分で、県道認定当時はそのような実態だったとは思うけれど、実はそれが昔の幹線道路だったのだという点が大いに抜けていた。



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平成28(2016)年 昭和56(1981)年 昭和36(1961)年

探索終盤に見た平野地区の珍しい道路線形……国道と県道が近いところを並走したあとでまた別方向へ離れていく……が生まれた理由についても調べてみた。
といっても、使ったのは新旧の航空写真だけだ。

これは現地でも推測出来たことだが、現在の国道である海岸道路は、昭和50年代初頭に海岸線を埋め立てて防波堤を作った時に一緒に整備されたものである。
それまでは、いまの県道60号がメインストリートだった。

先ほど調べた昭和30年代からの県道の変遷と組み合わせることで、各時代の県道の位置を右図のように推測可能だ。

最も古い昭和36(1961)年の航空写真では、まだ海岸線の埋め立てが完成しておらず、白砂の浜辺も見える。
そこを通る県道は大島東循環線であり、今のように「出会えない」ことはなく、南岸と北岸の道がここでひとつになっていたようだ。その途中に森野村役場があり、界隈は賑わっていただろう。

次の昭和56(1981)年版では、海岸道路が完成している。
そこを通る道は国道指定を受ける少し前の主要地方道伊保田土居線である。
旧道は一般県道伊保田橘線であり、海岸道路が開通した後に両者は分離されたのだろう。伊保田橘線も海岸道路上に認定し、重複区間にする選択肢もあっただろうが、そうしなかった理由は分からない。両方とも県道として維持されたい地元の要望があったのだろうか。

最後は最新の平成28(2016)年版で、道路については路線名は変わっているが位置に変化はない。
しかし海岸の埋め立てはさらに進み、そこに役場の移転が行われたことで、町の賑わいも移った。
耕作は下火となり、集落を取り囲む山肌も中世以前の緑を取り戻しつつあるようだ。




最後に。

『町誌』の最後の章には、昭和39年に東和町の全域が国の離島振興地域の指定を受け、これによりあらゆる公共事業の推進が著しく容易になったと書かれていた。

その結果どうなったのかを私は見ている。
島は架橋によって離島を脱することができ、国道や県道の整備は進み、島内を縦貫する立派な広域農道も建設され、サザンセトや宮本常一記念館のような綺麗な観光施設が出現した。
そうしているうちにみかんの価値は暴落し、昭和55年度から全国一の高齢化自治体を20年以上も継続し、極めて速いペースでの人口減となった。
もし、生産や人口という尺度で町の繁栄を測るなら、どこかに酷い失策があったことが疑われよう。

しかし、(昭和57年発行の)『町誌』のなかで宮本常一氏ははっきりと次のように書いている。

人口・生産の面を見ていくとその自立性を失ってきた町の典型のように感ぜられるのだが、生活が便利になり、見た眼にはりっぱな建物ができ、品物の豊富な店屋ができ、金さえあればそれを自由に買うことができるようになったので、誰にきいてみても昔の方が良かったという人はほとんどいない。今の方がよいと言っている。
『東和町誌』より

私はこの記述にとても救われた気がする。


こんな道しか選べなかった時代が、今よりも幸せだったと言うのは、なかなか難しいことだと思う。