隧道レポート 大井川鐵道井川線 旧第九号隧道 後編

所在地 静岡県川根本町
探索日 2010.4.19
公開日 2010.4.26

旧第九号隧道 と 旧旧第九号隧道の共演



2010/4/19 18:54 《現在地》

たかが300mにも満たない閉塞旧隧道と思いきや、洞内はまさしく「魔窟」と呼ぶに相応しいカオスを現出していた。
そのため、早くも入洞から12分を経過し、空気の悪さから来る息苦しさは、私に我慢を強いる状態にまでなっていた。
精神的な圧迫感が強いのは、なんと言っても閉塞隧道なのである。

コウモリがこれだけ棲んでいるのだから、酸欠の心配だけは無いと思うが…。


そんな感じで、二つめの横坑から本坑へと復帰。
さらに奥へと進むことにした。




ここだな…。

この左カーブの右側に壁に、旧旧隧道らしき空洞は接しているはずである。

こちら側からだと、壁に変化が無く全然気付けないが…。
これを逆に言うと、この旧隧道を建造した段階で、旧旧隧道は埋め殺されていたということだ。
両者が同時に、或いは選択的に使われた時期はなかったということである。

旧旧が廃止され、代わりに旧が作られたに違いない。

なお、この辺りで勾配も変化するらしく、勾配標が設置されていた。
「25‰→0‰(Level=水平)」である。




マジ素堀っすか?!

昭和56年まで現役だった区間で、マジ素堀出現?!

普通に洞窟の状態だし…。

恐るべし、大井川鐵道井川線。
一般の鉄道とは間違いなく一線を画している。

しかもこの「マジ素堀」は、旧旧隧道に由来しているのだろう。
旧隧道の区間はちゃんと巻かれていたのに、合流してから突然こうなったのだから。
(ただし私は現在の井川線を完乗したわけじゃないので、今も素堀隧道はあるのかも知れない。)




あ。

なんか、終わりが近い気がする。

素堀のままの左カーブの先に、私の照明を反射する、壁のような存在が見えてきた。

ラストが左カーブであろう事は、地形図から予想できていたことでもある。

なお、右に見えるコンクリート製の待避坑は、ただの待避坑であった。
わざわざ待避できるスペースを減らしてまで、そこをコンクリートで巻いている理由は不明だが、何か信念があるのだろう……か。




閉塞確定。

途中寄り道が多く、ここまでの本坑の長さを正確に判定しがたいが、丙種距離標の「3」を坑口で、あとから「4」も見つけている。
そして、「5」は発見できなかった。
見過ごしがないとしたら、ここまでの本坑の長さは100m以上200m未満ということになるが、実際にも200m程度と感じた。

勾配標曰く平坦であるはずだが、最終盤となって洞床に浅く水が溜まり始めた。
深い部分の水深は10cm程度はある。
これを避けて閉塞壁に接近するには、向かって左側の壁際を伝うより無い。






18:57 《現在地》

平面的ではなく、段階的な閉塞の施工が行われている、本坑末端部。

昭和56年の廃止直後に県道を拡幅する段階で、閉塞工事が行われた現場と見て間違いないだろう。


このいかにも分厚そうな壁の向こうは、地上(県道)であるはずだ。

(余談だが、この道が県道と小川地区を結ぶ町道に転用し得なかったのは、サイズの小ささや、落盤した“悪実績”のせいだろう)








19:01

約20分間の地底探索を終えて地上に戻ると、案の定、目鼻も分からぬ暗さになっていた。

周りにはただ一軒の民家があるだけで、その灯りも広場の立木に遮られ、ここまではほとんど届かない。

「本日の探索終了」を宣言しても良い状況だったが、最後にもうひとつだけ、確かめたいことがあった。

それは、「ハテナマーク」の現状確認であった。






「ハテナマーク」の位置には、

「地底部」しか確認できなかった“旧旧隧道”の、

坑口
があって然るべきなのではないか。



夕露に濡れた草を踏んで、広場の南東角へと歩いてみると







なんか、道があるらしい…

鉄のポールに、チェーンが架けられていた。

この時点で、血圧が上がった。



先には、幅2m強の平坦な草道が、左高右低の地形を削って、明確に続いていた。


そして、広場から30mばかり離れただろうかという所で…













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翌日 (2010/4/20) 17:00 

いやはや。

昨晩は最後にとんでもないものを見てしまったな。

幾ら地底でそれを見つけたとはいえ、地上にも痕跡があるかどうかは、五分五分くらいに考えていた。

それが、あ れ だ もの…。


←この新旧並んだ坑口の背後には、さらに「旧旧」が存在していたのである。
今日は改めてその「旧旧」を確かめにやってきた。
天気は生憎の雨模様だが、昨日と変わっているところはない。
私の“気づき”に気付かれて、既に大挙してマスコミが訪れているようなことは、幸いにしてなかった。







新旧線の3世代分岐!

これだけでも、相当に珍しい風景である。


そして、この累代の分岐の痕跡を隠すように存在する広場の由来が、本気で気になる…。

美しい桜の根元には、死したる鉄路が眠っていたのだ…。






ここから、旧旧線へGOだ!


旧旧線も桜の合間を通っていたのか。

或いは桜は、広場になってから植えられたのか。


鉄道カーブを思わせる緩やかな轍が、辿々しく広場南東角へと続いていた。




小山集落を見下ろす事の出来る、広場の隅にあるこの半鐘…。

まさかとは思うが、信号柱に似ている気がする。

さすがに思い過ごしだと思うが…。





広場南東角から延びる、一本の小径。

その入口にある、車止め。
そして、実はもうこの時点で旧旧隧道が見えている。

日中ならば。




17:03 《現在地》

キタよ〜〜!

やっぱり見間違えじゃなかった(笑)。
もうひとつ、坑口を発見してしまったよ〜!!


そして、昨日も見えていたが、み、みっ…

右の道は何?!?!

まさか、旧旧旧線なんてことは、
ないんだよね??

…ちょっと胸がバクバクするが、まず坑口を確かめよう。




この場所に最初の線路が敷かれたのは、昭和10年
しかしそれは旅客営業用の線路ではなく、奥泉堰堤(現在のアプトいちしろ駅付近)を建設するための資材運搬を目的とした、軌間762mm(昭和11年1067mm改軌)の専用鉄道(大井川電力専用軌道)であった。

堰堤完成後は堰堤の保守や伐木運搬などに使われたが、戦後になってさらに上流に大井川ダムの建設が決定すると、再び資材運搬のため昭和29年、中部電力専用鉄道として井川村(現静岡市葵区井川)堂平まで延長された。

昭和34年、資材運搬の役目を終えた専用鉄道を大井川鉄道(現在の大井川鐵道)が引き継ぎ、大井川鉄道井川線(千頭〜井川)として旅客営業を開始
現在に至るものである。


上記を踏まえてこの一連の廃隧道群(旧、旧旧)を見る必要がある。
だが、旧隧道の素性が明らか(長島ダム建設のため、昭和56年に線路移設)であるのに対し、この旧旧隧道は簡単ではない。
少なくとも探索前に手にしていた資料に、答えを教えてくれるものはなかった。
まずはこの現状から推測するより、手がなかったのである。




坑口の傷みは、かなり進んでいる。

当たり前だが、旧坑口と較べれば、その老朽の度合いは一目瞭然。
明らかに現役が許されない状況に見える。
具体的には、地山に接する左側壁に幾筋も走る亀裂の存在である。

ただし、坑門の形自体は、井川線のそれとして特別に変わっているものではない。
むしろ井川線としてはデフォルトの形状である。
(井川線隧道坑門の特徴は、化粧気のないコンクリート坑門に笠石と水抜き穴を持たせている事だ。)
この点、現在線や旧線の坑門が明確に後付けであるのに較べて、正統さを感じさせるものである。






死 隧 へ。

懲りずに、またしても死隧へと、侵入する。

きっと今度は、前みたいな“整った”最期ではないと思う。

閉塞しているだけじゃなく、汚く死んでいると思うのである。

それでも私は、見届けたい。





例によって、風の流れの止まった洞内。

外気同様、洞内も湿気100%の状態で、坑門付近から既にフラッシュ撮影は困難である。

そんな悪状況下、川砂利バラスの敷かれた洞床には、大量の廃材が散乱していた。

…廃材つうか、道路標識??


なんかここにあるの、道路関係のものばかりじゃね?




← 各種道路標識 


ここに集められてから、どれだけの時間が経っているんだろう。

まだそんなに傷んでいないものから、触っただけでボロボロに崩れてしまいそうなものまで、数え切れないくらいの数の道路標識があった。

一応デザインは現行用のものなので(旧版標識がこんなに捨ててあったら聖地化してしまう…笑)、古くとも昭和40年代以降と言うことだが、いずれにせよ結構な時間をここに過ごしているようである。
その種類も、規制標識、警戒標識、指示標識と、各種取りそろっていた。




各種道路工事案内板 → 


棄てられているのは道路標識だけではなく、これまたかなりの数の道路工事案内板も遺棄されていた。

一枚一枚めくって確かめたい衝動に駆られたが、さすがに民家からも見えそうなこの場所で、雨の夕方、ガチャガチャ騒がしく看板をちょして(触って)いたら、妖怪でも出たと思われそうなので、自重した。
決して、鉄錆と泥と、まとわりつく水気に嫌気がさしたわけではない。




いや〜ん! 
道路情報板がありまくりだ!!

最近はあまり見なくなった、旧式道路情報板の「道路情報」が、神経衰弱ゲームでもしてくれとばかりに、散乱していた。

これはどうしても見過ごすことが出来ず、手が汚れるのも構わないで全種類のコンプリートに燃えてしまった結果が、左の画像である。

暴風雨警報、風雨警報、大雨注意報、積雪、通行注意、工事中、チェーン必要、土砂崩れ、大型車通行止

こんなに種類があるとは思わなんだが、大抵は見たことがある気がする。
しかし、最初の「警報」が付くやつはレアっぽい。




鉄道の廃隧道を探索しているはずが、気付けば道路のことばっかり考えていた。
鉄道の役目を終えた後、今度は道路標識の処分場になったのだとしたら、まるで「交通の墓場」のような場所である。

だが、そんな「にへらにへら」とした気分も、坑口から緩やかに左カーブを続ける50mほどの地点に差し掛かったときには、もう醒めきっていた。
「これ以上はヤバイ」という気持ちが、なんら仕切りのない隧道の中であっても、標識を棄てた人達に共有されていたのだろう。

洞床に、一切の人工物が無くなったと思ったら…

ぐしゃ。




17:10 《現在地》

「標識遊び」のせいで、わずか50mほどの洞内探索に7分を要したが、ともかくこれで「終焉」。

隧道は、天井を突き破った大量の土砂に完全に埋め立てられ、これ以上前進することが出来ない状況になっていた。

結局、「旧隧道」の一本目の横坑の末端とも、二本目の横坑から立ち入った「謎坑」の末端とも接続することは出来なかったので、正確な位置関係は不明なままである。
しかし、距離や方向などの状況証拠から、上の《現在地》で示したような構造と断定していいと思われる。

そして、ひとつ意外であったのは、この落盤閉塞地点はわずかに外気と接続していたことである。
人が出入りできる状況ではないが、外の緑が微かに見えたのは事実だ。

この光景は、土被りが浅かった「旧旧隧道」が、地表の地辷りに付随した落盤のため放棄されたという可能性を、強く示唆している。






17:12 《現在地》

二日越しの探索(大袈裟?)で、色々と見えてきた。

様々の断片が、ようやくひとつにまとまりを見せつつある。

もっとも、“ひとつ”といってもそれは“一本の”ということではなく、一連の廃線群であり旧線群である。

旧線に加えて旧旧線の存在がほぼ確定した現状であるが、最後の「未知」が、この左の分岐である。

線形的には、いかにも旧旧旧線でありそうなのだが…。

行ってみよう。




えーーーっ!
これも、廃線跡じゃね〜の??

雰囲気は、もろにソレである。

アップダウンの全くない道が、山腹に沿って綺麗にカーブを描いていく。
それに、轍という感じでもなく、路面の全体が均等に堅い。
落ち葉の下にあるのは、きっと川砂利のバラスだ。

具体的に鉄道を思わせる遺物は何もないが、この線形といい路面といい、いかにも鉄道の廃線跡なのだ。

しかし、この方向にどこまでも行けるはずのないことを、私は知っていた。
昨日、何度もこの辺りは往復していたから。




最後の分岐から50mほどで、案の定、道は寸断されていた。

左の山肌と右の路肩が衝突し、間の路面をゼロにしていた。
原因は明白で、このすぐ下を通る「町道小山線」に、切り取られてしまったのである。

隧道内部では旧旧線の進路を旧線が剥奪し、地上では旧線の進路を県道が剥奪。
そしていままた、謎の廃線跡らしき道の進路を、町道が剥奪したのである。

道と路の壮絶な進路争奪戦は、平地の少ない谷間の病苦である。
そしてこのような環境こそが、廃道の生まれる最大の所以。




町道によって進路を剥奪された末端部から、その空中に失われた区間を通じ、前方「牛の頸」を眺望する。

そしてこの光景を見たとき、私は直感した。

町道の一部もまた、この廃線と同一のものなのではないかと。

町道が平坦になる高さと、今いる路盤の切断された末端の高さは、綺麗に一致する!!




推測だけで語るには、さすがに飛躍しすぎているかも知れない。
だが、私はこのような「旧旧旧線」の存在を、疑わずにはいられない!

昭和10年の最初の鉄路敷設から、まだ70年余りしか経っていないが、この70年の間には改軌もあれば、用途変更(貨物→旅客)もあったのだ。
特に昭和34年の旅客化前後では、線路保安のため様々な改良が行われたであろう事は想像に難くない。(例:神岡軌道

現在入手を試みている「大井川鉄道 三十年の歩み」が、この疑問に答えを与えてくれる事を期待している。




町道に下りて、旧旧隧道の閉塞部に見えた「小穴」を探すも、これは数分で断念せざるを得なかった。

落石防護ネットに斜面全体が覆われている上に、この時期既に緑が深くなっており、とてもこの悪天候のもとで、小さな穴を発見できる気がしなかった。

だが、地形的には間違いなく、この法面のどこかに旧旧隧道の破片が顔を出しているはずである。


以上で一連の旧線探索は本当に終了であるが、最後にもう一度広場に戻り、その一角に居を構えるお宅に突撃してみた。
滅多に「ピンポ〜ン」まではやらない(迷惑でしょ、多分)のだが、今回は我慢ならんかった。




そして幸運なことに、親切な家人が快く情報を提供してくださった。

・トンネルが三つある事をご存じであった。
・この場所に転居した昭和28年当時、真ん中のトンネルが使われていた。(つまり旧線)
・右のトンネルは、昭和28年当時から既に使われていなかった。
・トンネル同士が洞内で接続している事をご存じであった。
・落盤によって廃止されたのかどうかは、不明(落盤時期も不明)。
・右のトンネルの右側の道が廃線跡であるかは不明。
・広場は元貯木場だった。

という断片的な情報ではあったが、ともかく旧旧隧道の廃止時期が昭和28年よりも古いと言うことが判明した。
(消去法的に考えれば、廃止時期は昭和10〜28年のわずか18年間のいずれかであり、旧旧旧線についてはこの範囲内でさらに古いと言うことが考えられるわけだが…)







結局現時点では、旧旧旧線の存在について決定的な確証は得られていない。

個人的には、ほぼ間違いなくあったものと考えているが…。

最後に「奥の手」というわけではないが、歴代地形図の悉皆調査の結果をご覧頂こう。

ただし、かなり「私寄り」の解釈をしていることは、ご容赦いただきたい。



まずは、最新版の地形図である。

最新版でありながら、描かれているのは「旧線」であることは、前々回に述べたとおりである。

しかしともかく、「旧旧線」以前の路線は、全く描かれていない。




続いては、昭和42年版である。
年代的には既に旅客営業を始めている状態で、今回得た住民の情報も加味すれば、これも「旧線」ということになる。

…であるはずだが…

これは誤差の範囲に収まるのだろうか。

小山集落側の坑口の向きや、山腹に極めて近い隧道の位置は、いかにも今回発見された「旧旧線」に似通っている感じがするのだが…。
(もっとも、この「補則調査版」というのは、歴代地形図中でも最も不正確であると評判の悪い版なので、過度の信用は禁物である)




そして、最後にご覧頂くのは、昭和27年版である。
これはまだ旅客営業が始まる前で、中部電力専用線だった頃だから、当然「川根小山」などの駅は存在しない。


この版に描かれた線路の特徴的な部分は、今ある隧道がひとつも描かれていないと言うことである。

これを素直に受け入れるならば、まさに今回私が「旧旧旧線」を疑ったルートが「真」である可能性は、極めて高くなる。

もっとも、これが本当に昭和27年を正確に描いているならば、旧旧隧道はいつ使われていたのかという話になってしまうし、本当に隧道がひとつもなかったかと言われると疑わしい気がする。(専用線は旅客線に較べ不正確に描かれる傾向がある)

しかし、現時点においては一応、旧旧旧線の存在を肯定する唯一の資料と言うことになる。





謎が謎を呼ぶ、小さな多重廃線跡。


本件については、引き続き調査を続行する予定だ。

何か分かり次第、お伝えしよう。









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