隧道レポート 清水国道の“利根郡内にあった隧道” 机上調査編

所在地 群馬県沼田市
探索日 2013.04.25
公開日 2013.08.17


清水国道には、全部で2本の隧道があった。

群馬県の高崎から新潟県の長岡まで遙か全長170km。
おそらく1本の道としては明治日本最大の新道計画であった「清水国道」(明治18年開通)は、気宇壮大な列島横断道路でありながら、明治初期の土木技術や工期の制約、そして当時の鉄道偏重政策に起因する国家的な予算不足などから、この道には意外にも、山坂を隧道で貫通する場面が少なかった(いうまでもなく隧道は工費が嵩む)。

明治の新道工事と言えば、かの三島通庸(ミッチー)を有名たらしめた「万世大路」(山形〜福島、明治14年開通)に、その象徴とも言える当時日本最長の隧道(栗子山隧道)が設けられた事とは大いに対照的で、清水国道を短命に終らしめた原因の一つをここに見る事も出来る、果敢かつ無謀な“隧道忌避”の設計であった。

しかし清水国道の全体が有名無実に終ったわけでは決してなかった。
確かに列島横断道路としての“核部”である清水峠こそ開通から僅か一冬で車両通行不能になったと言われているが、それ以外の群馬県側や新潟県側のアプローチ部分は今日まで主要道路であり続けている。具体的に言えば、清水国道は現在の国道17号(東京〜新潟)の上越国境部(および高崎以南と長岡以北)を除いた大半部のルーツとなったのがこの道である。
廃道としての清水国道は、清水峠にほとんど集約されているといってもいいくらいである。


序言に戻る。

清水国道には全部で2本の隧道があった。

いずれも名称は不明であるが、そのうちの1本は、清水峠の新潟県側廃道区間内(本谷)にかつてあり、現在も多少の痕跡を留めている事が昨年の探索によって確かめられた。(以後、便宜的に「本谷隧道」と呼称する)


では、残るもう1本の隧道はどこにあり、現在どうなっているのか。

私の知る限りでは、まだ解決されていない(言及自体も見たことがない)この“大問題”が、本稿のテーマとなる。






時事新報 明治18年9月7日 第2面
(資料提供:Keiju氏とその友人氏)
時事新報 明治18年9月7日 第2面 より引用(傍線は引用者による)
隧道(とんねる)の箇所並びに其名称間数 新潟県に属せる越後南魚沼郡、字本谷と称する地に一箇所、長さ凡そ十間、群馬県上州利根郡に属する地に一箇所十余間

上記の資料を引用するのはこれが2回目であるが、本谷隧道探索後の机上調査の過程で入手した、清水国道の開通を伝える新聞記事である。

そして現在のところ、この記事が2箇所の隧道についての最も詳細かつ信頼すべき情報源であり、ここには「字本谷と称する地」の隧道(本谷隧道)の後に、もう1本の隧道の所在地を次のように書いている。

群馬県上州利根郡に属する地に一箇所十余間” …と。


とはいえ、「利根郡」に隧道があったと言われても、探すべき範囲は随分広い。
左の図で緑に着色した範囲が明治18年当時の利根郡の範囲であり、清水国道沿いの現自治体名で現せば、沼田市とみなかみ町の範囲である。
路線長にして約50kmもあって、その中には“登山道国道”状態となっている清水峠の群馬県側が全て含まれるからなおさら大変なのであって、「字本谷」のような狭い地名を挙げてくれていないことが意地悪いと思っても、後の祭もいいところだった。

そしてこれはとても重要かつ、目を背けることが出来ない残念な事実として、私は平成19年にこの群馬県側の清水国道(旧利根郡内)の全線を既に走破している(レポート未執筆)。
その何が「残念」なのかと言えば、探索時に気付かなかった“利根郡内の隧道”は、現存していない可能性が高いということだ。
冒頭でも述べたように、清水峠区間以外の旧清水国道は、国道17号や国道291号(そしてこれらの旧道)として、大半が現役の道路で在り続けているのである。廃道はごく限られていた。


広大な砂浜で失くした小さな指輪を探すのは誰にとっても困難事だが、指輪を抱いたまま砂浜がコンクリートの護岸壁に覆われた状態でそれを探せと。
先ほどの新聞記事だけを頼りにして、今日の“利根郡内の隧道”を探す難しさとは、そんな“不可能事”であるように思われた。

これだけでは資料が如何にも足りない! 何か他にこの隧道を記した記録はないものか?





頼むぜ!ギュスターヴ・グダロー!



『仏蘭西人の駆けある記―横浜から上信越へ』より転載

フランス人旅行家ギュスターヴ・グダローによる原題『日本旅行』(『仏蘭西人の駆けある記―横浜から上信越へ』(以下『駆けある記』)のタイトルで昭和62年にまほろば書房が翻訳本を出している。本稿の記述もそれによる)に描かれているのは、清水国道開通の翌明治19年の8月19日に横浜を発ち、同月31日に帰還するまでの12日間におよぶ上信越への旅行であり、その3日目(明治19年8月21日)に水上から清水峠を越えている。その一部内容は「本谷隧道」のレポでも引用しているが、今回は清水峠越えの前日(旅行2日目)の行程に注目する。

グダロー8月20日の行程は前橋から湯原(現在の水上温泉で、湯檜曽の6km手前)までで、主に馬車の車上でその長途を過している(『駆けある記』では第2章と第3章の内容である)。
当時、横浜から前橋までは鉄道が通じており、前橋以北は清水峠口の湯檜曽まで延々15里(60km)に乗合馬車の便があった。これは今の乗合バスみたいなもので、一里あたり5銭というのが規定料金であったらしいが、グダローは外国人であったために行く先々で“ふっかけられ”、ここでも2〜3倍の料金を払ったという。

正午、馬車で前橋を出発する。内陸部へ入るにつれ、文明は停止し、暴利が始まることを、色々な点から確かめられるということをぜひ言っておきたいと思う。外人の旅行者は土地者からは格好の餌食とみなされている。

ともかくこの乗合馬車は意外に速度が出るものらしく、正午に前橋を出発した彼は、この日の夜更けてから約54km離れた湯原に到着している。
注目すべきはこの途中の記述であり、ずばり、隧道が出てくる。

これは現時点で確認出来た中で当隧道の所在地に言及した唯一の記述であり、大変重要と思われるので、少し手前から長めに引用したい。(出来ればフランス語の原文も見て見たいが、見たことはない上に見ても読めないだろう)
色々な地名が出てくるが、この後で実際の地図と対照してみるので、まずは一度通しで読んでいただこう。

『駆けある記』より引用 (1)〜(4)は重要な部分。地名を太字とした。
 山の中腹で蛇行している道路は、少し前につくり直されたもので、完全に車が通れるようになっている。上白井を出ると、道路は川の方へ下りになりヤドバシで川を渡り、左岸を遡り続ける。(1)
 次第に絵のような風景になってくる。もはや眼下にあるのは、スイスそっくりのミニアチュールの風景のみである。林と林との間では民家は稀になり、しばしば荒涼とした風景となる。利根川の川床は、切り立った岸壁にところどころ挟まれている。(2)丘の斜面を削り取ってつくられた道路は、一方では殆んど至る所で切れ目のない絶壁になっていて、その崖はしばしば崩れ落ちている。他方では、砂と岩の堆積は殆んど垂直に切り立っていて、通行人を今にも押し潰さんばかりである。
 利根川を渡る。板張りの橋を渡るのはこれで二度目である。(3)そして再び川床から約三〇メートルの高さの丘に登る。それから長さ一五〜二〇メートルのトンネルを通り抜け(4)、次の谷間を進み続ける。戸鹿野の少し手前で、川岸に再びさしかかるが、サトウのガイドに書かれている立派な橋を我々は渡らない。(以下略)

羨ましいぜ!ギュスターヴ・グダロー!


今や何人も通る事の出来ない幻の隧道を、サラリと通っていやがるぜ!

しかも贅沢にもほどがあって、(産業革命をとうに終えたフランス国民の目に)隧道は大した感動をもたらさなかったようで
これといった感想や形容もなされていない。ただ、長さ15〜20mとだけ述べている。
そしてこの長さは、時事新報にあった「十余間」と合致している。


さて、ここでグダローが潜った隧道は、どこにあったのか? 
さっそく謎解きをしてみる。

まず、隧道の場面の前後に出てくる地名(上白井、戸鹿野)から、それが左図の範囲であった事は明らかだ。【広域図:マピオン】
清水国道の後継である国道17号もこの渋川市上白井〜沼田市戸鹿野町(付近)を通行しているから間違いない。

さらに利根川の川床は、切り立った岸壁にところどころ挟まれている。(2)という記述から、現在も風光明媚と急峻な地形で知られる利根川の峡谷「綾戸峡」こそが、その場面であったと考えられる。

これで利根郡全体からはかなり絞られたが、現存がしないと思われる隧道のかつての所在地を特定するには、まだ少し探すべき範囲が広すぎる。
より詳細かつ、グダローの時代に近い地形図より、位置の特定に挑むことにした。


右の古地形図は明治40年測図版で、この場所について、これより古いものは作られていない。
中央を流れる利根川の西側(右岸)に描かれている一際幅の広い道路は「国道」であり、これこそが当時「国道8号線」であった「清水国道」であり、現在の国道17号とほとんど重なっている事が分かると思う。

そしてそこには、2本の隧道が描かれている!!

…のであるが、グダローが通ったのはこれらの隧道ではない。

その事は、ここに描かれた道がグダローの叙述との不一致からも分かると思う。
もう一度振り返って見て欲しい。
グダローは上白井を出た後でヤドバシで川を渡り、左岸を遡り続け(1)た後で、利根川を渡る。板張りの橋を渡るのはこれで二度目である。(3)という風に、二度利根川を渡った直後、再び川床から約三〇メートルの高さの丘に登る。それから長さ一五〜二〇メートルのトンネルを通り抜け(4)たのである。

実は、明治33年に利根川に架かっていた2本の木橋が洪水のため流出し、翌年に「綾桜隧道」と「綾戸隧道」という2本の隧道を通る新道へ切り替えられる以前の清水国道は、(右画像にカーソルを合わせて欲しい)赤線の様に通じていたのであった。(よく見ると、当時も水準点は旧ルートに沿って設置されている)

この明治中期に行なわれた清水国道換線については、『日本の廃道』vol.36およびvol.37に詳述したほか、『廃道をゆく3』にまとめているが、この重大な事実とグダローの記述を照らし合わせた時…

“幻の隧道”は極めて狭い範囲に焦点を結ぶ! ↓↓



←この位置が「正解」であると、私は信じる!

二度目の橋を渡ってから直ちに「川床から約三〇メートルの高さの丘」に登った位置である。

これより北の道は、グダローが「次の谷間を進み続ける」と記述したとおり、谷沿いであり、丘を越えていくような場面は見あたらないし、それは現在の車窓とも一致している。

が、この通り明治40年の地形図には既に隧道が描かれていない。
これは、初代清水国道に由来する隧道が、その開通から僅か22年の後に消滅していた事を示唆している。
もっとも全長15〜20mという極めて短い隧道が省略された可能性はあるが、『沼田市史』やより古い『沼田町史』を見ても清水新道の隧道は「綾桜」「綾戸」の2本しか触れられていないので、やはり明治34年の清水国道換線当時、既にこの丘の隧道は消滅していたと思われる。

そしてこの地点、現在どうなっているであろうか? ↓↓



じょぉおおえぇええつせぇええぇぇぇん(空気読め!)

完全に隧道があった丘もろとも、微塵切りにちょちょ切っちまっただろ、これ…。


これでは、現地へ行く必要が果してあるのかさえ微妙だった。

しかもここはもう、隣接する綾戸隧道などの調査のために既に探索や往復している場所である。

まあ、この「丘」で隧道を探してみたことはないので…

…行くけどさぁ……やっぱりこんな事だったか…。





はい、そーです。

現地にも隧道なんて跡形もありませんでしたよ!!(涙)

この後の「現地調査編」を読むかは、あなたにお任せしますね…。



ここからは余談、というか重箱の隅突きである。

グダローの短い叙述を見ていて、実は綾戸隧道こそ彼の潜った隧道ではなかったのかという疑念を持った時期があった。

現在では後述する理由のためにその可能性を完全に否定しているが、こんな疑問を持った理由は単純であり、明治34年に清水国道の換線に伴って綾戸隧道が建設される前から、そこに隧道が存在していた事実があるからである。


『群馬県史』より転載。綾戸隧道南口の清水国道を映した写真で、
電柱の右側に見える小さな坑口が「綾戸巌穴」である。撮影時期は明治44年〜大正7年の間と見える。
(明治44年に清水国道上に「利根軌道」が敷設され、大正7年に電化したが、写真は馬車軌道時代である)

その名を「綾戸巌穴」といい、竣工したのはなんと、弘化3年(1846年)。

全国的にも極めて珍しい江戸時代の隧道であり、『沼田町史』は「関東の“青の洞門”」と呼んでいる。
これは沼田の江舟なる僧が隧道の建設に深く関わっていたが故の命名である。

この隧道は辛うじて現存しており、『日本の廃道』vol.37や『廃道をゆく3』に現状を紹介したが、ともかく江戸時代から明治まで存続していた隧道がここにあり、かつ当時は日本国内に隧道が希少であった事と考え合わせれば、グダローがこの隧道を(多少道を戻るなどしてでも)見聞して記録してしまった可能性があるのではないかと思ったのだ。
しかも巌穴の長さは17mという記録があり、グダローの記述にぴたり合致する。


しかし、グダローは綾戸巌穴を通ってはいなかった。

それは『駆けある記』の第2章最後の部分の文章から判明した。
(グダローはそれまで時系列順に旅を記録していたにもかかわらず、なぜか「上牧を通過し、ついに湯原に到着する。夜も更けた。」という記述の後に、取って付けたかのように以下の記述が突然始まっている。そのため、当初はこれが日中通過していた綾戸峡に関する記述だと気付かなかった)

『駆けある記』より引用 
 新しく作られた道路の大部分は、古くからの道路とは全く異なった道筋を通っている。
 一方は、いくつかの場所で川の左岸を遡って行くのに、他方は反対に右側に延びている。従って、谷間のもっとも狭くなっている道では、我々の辿っている川縁とは反対側の川縁に、サトウのガイドに記されている古い道、というより小径が非常にはっきりと見えていたのである。しかしこの道は今日ではもう人が全く通らなくなって、植物群落にところどころ、覆われてしまっている。丘の曲がり角に掘られた小さなトンネルの入り口と出口が通りがけに見えたが、しかし、かつてはその隣りにあった木道の路床の跡すら全く見分けることが出来なかった。  

グダローこそ、最古のフランス人オブローダーである! …かどうかは知らないが、彼の敏感な観察力は川の対岸に廃隧道を見つけせしめ、そこに大きな注目を寄せている。(私だったら探索したかも知れないが、ネットに書けなかったろうな)

これがどの場所の記述であるのか、固有地名が一つも出て来ない上に、前後の文脈から判断することも出来ないのだが、中途に出てくる「サトウのガイド」というのがポイントである。
「サトウのガイド」とは、当時日本を旅行する外国人旅行者には必携のガイドブックとなっていた、アーネスト・サトウとホーズの共著『中央部・北部日本旅行案内(明治14年刊行、私は訳書『明治日本旅行案内 中巻』(平凡社刊)を参考にした)のことである。(ちなみにサトウは生粋の欧米人であり、サトウという姓もドイツ系のものである。私は最近まで日本人「佐藤」さんとのハーフだと思っていた)
そこには、清水国道開通以前の上白井から戸鹿野までの道が次のように記されている。




『子持村誌』より転載。綾戸巌穴(中央付近)とそれに続く木道(桟橋)。
撮影時期は不明だが、明治18年以前(清水国道開通以前)の極めて貴重な写真と思われる。
『明治日本旅行案内(中巻)』(原題『中央部・北部日本旅行案内』)より、上白井〜戸鹿野間を抜粋して引用 
 上白井はいくつかの家屋群が互いに少し間隔を置いて続く長い村である。このあたりで道は急な曲折をみせ長い渓谷を蛇行しながら流下していく利根川の迫り出す高い断崖についている。(中略)
 棚下の対岸で道はすみやかに左に折れ川に迫り出す断崖の縁近くの急な岩山の基部を通過する。川から崖がすっくとそびえ、山道のつく余裕もない箇所が一つあるが、そこは堅い岩におよそ五十フィートの長さの通路を貫通させ旅行者は木板の上を歩いてそこから出ると引続きまた道に戻る(通行量、五厘)。道は依然利根川の水筋をたどり左手の山を迂回して岩本へ向い、そこから戸鹿野に至って立派な橋を渡って川を越える。 

はっきりと「綾戸巌穴」や隧道という表現が出てくるわけではないが、この文章を下敷としてグダローの“廃道目撃”が語られた事は間違いないだろう。

つまり、「綾戸巌穴」ではない隧道が、明治19年当時の清水国道には存在していた事になる。

しかし繰り返すが、この隧道について記録した資料は今のところ、『駆けある記』だけである。
綾戸巌穴については詳述している資料があるが、この隧道には全く触れていないくらいにマイナーかつ短命だったのだろう。



所在地探しが終ったので、一応の形として現地の様子を見に行ってみよう……。





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