2013/4/25 8:41 《現在地》
マジか!!
ここにこんな分岐があった事に、今まで通っていて気付かなかった。
目には入っていたのだろうが、意識がないというのはこんなにも人を愚鈍にするものか。
この三叉路、いま見れば明らかに新旧道の分岐地点なのだが、これまではそんなものがあると思っていないで通っていたので、ただの工場への進入路だとばかり思っていた。ちなみに地図にもない道。
いきなリテンションが上がりまくった。
この右の“旧道らしき道”の奥には行ったことがないだけに、まだ万分の一、あるかも知れないと思えた!
隧道現存の可能性!(←マジで)
右の道へ入るとすぐに広い駐車場であり、同時に会社の敷地内のような場所になる。
特に「立入禁止」や門扉や守衛の姿などは見られないが、事実上は私企業の敷地と思われた。
そこへ自転車で勢いよく飛び込み、そのまま突っ切ろうとする私に対して、少し離れたフォークリフトの影から作業着の男性が闖入者、或いは不法侵入者を見るような視線を向けてきた。
立ち止まれば退去を求められそうな予感がして(これは被害妄想だったと思う)、かつその男性が若かったことから明治隧道の情報ホルダーの期待も持てず、今見えている道が尽きるまで一気に突き進んでしまった。
8:42 《現在地》
探索開始から僅か1分後、私はこの道(敷地?)の“突き当たり”に辿りついた。ここには人目が届いておらず、ホッとする。
アスファルトが舗装された敷地から、1本の狭い道路が丘の上に通じていた。
これは国道17号のスプーンカーブとJR上越線に囲まれた、小さな丘の上に通じているようであり、清水国道と関係は無さそうだが、丘に登れば見晴らしを得られそうだ。後ほど登って見ることにしよう。
清水国道の方は、おそらく「赤い矢印」(←画像に1.5秒間カーソルを合わせてね)のように進んでいたと思うが、そこには…。
線路が1本、奥にもう1本、合計2本が行く手を遮っていた。
これは上越線の上り線と下り線である。
そしてここは踏切などの無い場所であるが、明らかにかつては道が通じていた痕跡があった!
というか、こここそが隧道擬定地点である!!
ここに隧道は現存しない。それは疑いの無い事実だ。
しかし、目の前にあるこの地形から、薄皮を剥ぐように一つずつ後世の改変を除外していったとしたら、128年前(明治18年)の風景はどうだったか?
その事を慎重に検討する価値は有ると思わせる、大変に意味深な地形だと私は受け取った。
せめて、単線時代だったら(昭和38年以前)、もっと分かり易かったのだろうが。
踏切は存在しないが、上越線を跨ぐ古き道路の痕跡は、私の目に明瞭だった。
差し渡し100mほどの目通しがあり、その終点はスプーンカーブを抜けた国道に突き当たっていた。
その旁らの巨木にさえ、何かの意味を探したくなるような風景だった。
線路を跨ぐ部分は間違いなく地山を削った掘割りの跡であり、その本来の深さはあの「本谷隧道」の土被りに比肩しうるように思う。
長さ15〜20m(ダグロー談)の隧道にはおあつらえ向きと思われる、そんな掘割りの規模だった。
何より、私がこの地点を隧道擬定地点として看過できない最大の理由は、出会った経緯が出来すぎていたからだ。
この場所に偶然の探索で辿りついたのではなく、私にしては綿密な机上調査の末に、ピンポイントでここへ“導かれた”。
これは意味のあるこだと思う。
あなたは、机調と現調が焦点を結ぶこの風景を、どう見るだろうか?
確かに現状では、ここが隧道を避け難いほど険阻な土地には見えないけれど、この地における後世の改変の大きさは尋常ではない。
なお、玉虫色の隧道疑義が清水国道の宿命なのか、最初に「本谷隧道」に出会った平成20年の探索でも、同じように皆さんの意見を伺ったっけ…。あのときは「正解」だったけど、今度も答え合わせが出来る日が来るといいと思う。
とりあえず隧道が擬定地点に現存しないことの確認は取れた。
予想していた結果なので特にショックは無く、というかむしろ、今まで知らなかった旧道が明確にあったことを喜んでいた。
まあ、冷静に検討してみれば、明治どころか上越線が複線化する直前くらいまで国道がそこにあった(昭和20年代の古地形図からそう推測される)わけで、痕跡があったのは当然かもしれない。(そしてそんな場所に隧道が現存しないことは、さらに強い“当然”だった…)
ということで、ここからは隧道擬定地点の周辺を観察し、その妥当性を消去法的手法で検証しようと思う。
明治以来、表裏日本を結ぶ鉄道と道路が共にこの小さな利根川の舌状台地を通行し、壮絶な陣取り合戦を繰り広げた結果こそ、今の風景である。
8:44 《現在地》
小高い丘の東側半分は、今すぐに寝転んで昼寝をしたくなるような晴朗な果樹園であった。
なお、丘を西側半分と隔てるのは深い掘割りとなった上越線(上り線)であり、北側は工場の敷地に、残る東と南は国道のスプーンカーブによって取り囲まれていた。
外房線の土気旧線を思い出させるマッシブな巨大掘割りを、頑丈そうな電車が轟音と鉄砲風を纏って走り抜ける。
おそらく、先ほどの隧道擬定点にあった掘割り跡も、鉄道に横入りで壊されるまでは、ここと同じくらいの深さがあったと思われる。
それは色々なものに分断された地形の原形を精一杯想像した、私なりの結論である。
この丘の上で国境の白い山並みを見て、ただ「美しい」とうっとり出来るのは、ある意味で幸せな旅人だ。
清水国道を通って北国へ旅する予定があるならば、前途多難の予感に戦慄を禁じ得まい。
歩いてあの山脈を越える大変さは、私も身を以て体験している…。
丘を下りて、再び工場の敷地を駆け抜け、スタート地点を経由して、今度は現国道へやって来た。
現国道のスプーンカーブがいつ開通したのかは、はっきりは分からない。
しかし、国道17号が指定された昭和27年の地形図では、既に見て頂いた明治40年の地形図とほぼ同じカーブである。
カーブが明らかに“大外回り”に変化するのは上越線が複線化した後の地形図なので、昭和38年の複線化工事と同時期に国道の一次改築として換線されたのだと思う。
曲率半径約80m、旋回角180度、曲線長240mの見事な半円形カーブであり、その頂点付近で上越線の上下別線を跨ぐべく、そこをサミットとする上り下りが付いている。
自動車で走ると、しばらく同じくらいのハンドル切り角を維持して走り続けるという、不思議な走行感が印象深い場所だ。
そして自転車だと、車線からはみ出しそうな後続大型車との接触に神経をすり減らさせられる「危険箇所」である。
路肩も狭いので、私も余り長時間立ち止まって撮影する気にはなれなかった。
カーブを進んでいくと、やがてカーブの外側に水色の鉄橋が見えてきた。
鉄橋の行き先は利根川対岸の絶壁となった山肌に突き刺さっている。
そしてその右側にもやはり鉄橋があり、その行き先も同じように崖に突き刺さって、黒い坑口をさらしていた。
これが上越線の「第四利根川橋梁」と「棚下隧道」、それぞれの上下線である。
対岸の絶壁に較べ、こちら岸は果樹園や畑が広がっていて一見長閑だが、明治の清水国道はこの迂回を選ばず掘割りでショートカット(隧道擬定地点)していた。
明治の技術者達が、ここは隧道(少なくとも掘割り)を用いてでもショートカットした方が良いと考えた理由は、まだ分かっていない。
8:48 《現在地》
先に跨ぐのは、昭和38年に増設された「上り線」である。
国道はこれを短い跨線橋で跨いでいるが、銘板などはなく、データ不明。
欄干がガードレールでなくて、最近は滅多に見なくなった「オートガード」であることが特徴的だ。
後補と思しき橋の前後のガードレールのほうが頑丈に見えてしまうという、逆転現象が起きているのも面白い。
(オートガードは主として昭和30年代に、それまでのコンクリート欄干に替わる橋上の防護柵として採用されるケースが多かった)
なお、画像中の「赤矢印」は、旧道踏切跡(隧道擬定点付近)を示している。
上の写真とは反対方向の眺め。
絵に描いたような鉄道用のトラス鉄橋が好ましい風景だった。
ちなみに、写真ではほとんど見えないが、対岸の絶壁には半ば隧道となった県道255号が通じている。
鉄橋のすぐ下辺りである。
以前レポートしたので、見覚えがある人もいるだろう。(【道路レポ 群馬県道255号下久屋渋川線(最終回)】
間髪入れず、同じ作りの跨線橋がもう1本現れた。
この下にあるのが、現在は下り線として使われている、大正13年に単線で開業した当初の上越線である。
画像中の「赤矢印」は、先ほどに引続き旧道踏切跡(隧道擬定点)を示している。
これは新旧道の位置関係がよく分かると思う。
高低差が結構あることに注目して頂きたい。
明治の馬車道は、この余分な高低差を嫌って掘割り(おそらく隧道)を選んだという推測は、この同じ道が清水峠で見せた執拗な勾配緩和への努力を知る者として、説得力を感じる。
下り線の「第四利根川橋梁」は、一見するととても地味である。
しかし実際は上り線の橋と同程度の巨大な構造物であり、それどころか土木遺産としての価値の高さが評価された「名橋」である。
この見え方の違いのカラクリは、橋の上路構造と下路構造の違いにあるが、ここでその話を始めるとますます繁雑になるので割愛する。
8:50 《現在地》
半円のカーブを終えると「そば屋」さんがあり、その奥で「踏切跡」の旧道に接続する。
国道17号の旧道としてはここまでで終わりだが、清水国道時代の道は現在の国道をそのまま突っ切って、利根川の川べりに下っていた…のだが、この先は別稿(『日本の廃道』vol.37や『廃道をゆく3』)があるので写真での簡単に説明に留めよう。
そば屋から国道17号の現道を東京方向に300mほど進んだ利根川の川べり(《現在地》)から、初代清水国道の綾戸橋があった利根川を眺めたのがこの写真だ。
机上調査編で述べた通り、橋は清水国道と共に明治18年に開通した(図中の赤破線ルート)が、同33年の洪水で流出。翌34年に代替となる新道が開通(図中の黄破線ルート)している。
現国道のルートがいつ開通したのかは分かっていないが、昭和27年よりも昔であることは地形図の比較から判明している。(併用軌道の利根軌道が電気軌道となった大正7年頃か)
初代清水国道の隧道を探している今回重要なのは、綾戸橋と隧道擬定地点の位置関係である。
グダローの叙述「利根川を渡る。板張りの橋を渡るのはこれで二度目である。そして再び川床から約三〇メートルの高さの丘に登る。それから長さ一五〜二〇メートルのトンネルを通り抜け…
」と比較すれば、やはり今回の擬定地点が妥当と思われる。
そもそも、綾戸橋は本当にそこにあったのか?
という疑問を提起する方がいるかも知れないが、それについては心配ご無用。
なんと落橋から113年が経過した現在も、綾戸橋の痕跡が残っているのだ。
上の写真の“紫○”で囲んだ部分には、左の写真の礎石がある。
それは綾戸橋の右岸橋台基礎部分である。
右は、土木学会附属図書館「古市公威アーカイブス」に記録されている、綾戸橋開通当時の極めて貴重な写真である。
視座は私と同じ左岸であり、現存している基礎は「赤矢印」の部分(の一部)である。
なお、対岸にある“綾戸梁”(観光梁)の敷地内にも橋台に連なる築堤の一部が現存しているし、河中にも木製橋脚の基礎が(古代寺院の発掘現場の如く)残っている。
以上の事から、ここにグダローの渡った橋があったことは間違いないといえる。
これも余談だが、写真の右奥には“綾戸巌穴”に続く木製桟橋も見えている。やはり写真の破壊力というのは凄まじい……なんで隧道も撮影してくれなかったんだ…!
綾戸橋跡と綾戸隧道を同じ地点から撮影。
これより下流の利根川は、これまでと変わって右岸側を特に険阻にしており、
対して左岸には棚下集落があるなど、やや穏やかな地勢である。
初代の清水国道は、2本の利根川架橋で巧みに険阻を避けていた。
問題は、その橋が“板東太郎”の猛襲には耐え難かったことだろう。
ここの国道17号は、自然物と人工物の相克を刻んだ第一級の芸術品だと思う!!!
岩と鉄とコンクリが、“児子岩”の大難所を壮絶なフランケンシュタインの怪物に……。
姿無き清水国道の隧道を完全に“喰ってしまう”だろう異常な存在感から、
本頁では余りこの話をしないでやりたかったんだが、触れぬ訳にもいくまい…。
江戸時代の綾戸巌穴は、あそこに眠っている。
頑張れば辿り着けるのだが、その話はまた今度。
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8:55 《現在地》
完全にネタをあっちに喰われちゃうまえに、路線を元に戻すぞ。
この探索の最後に、隧道擬定地点に横たわる踏切跡の反対側(東京側)を訪れてみた。
「そば屋」の辺りから、序盤で線路越しに見えた「大木」を目印に、国道を横断して山側へ入り込む。
国道からの入口は上野集落へ入る市道に重なっているので整備されているが、「大木」や見覚えある「軽トラ」が、私だけの進むべき道を教えてくれた。
この大木は樹齢的に、グダローが目にしている可能性もありそうだ。
そもそも、隧道が本当にここにあったとしたら、この位置から坑口が見えていたかも知れない。
この場所が隧道跡だなんて口にしたら、「踏切」と「隧道」の区別が付かない可哀想な人だと思われるかも知れないな。
それでも私は期待しているぞ。
かつて道の左右の小高い丘が繋がっていて、その下に小さな隧道が掘られたことを。
立入禁止と明言するものはどこにもないし、最低限度渡れるような雰囲気はあるけれど、現役の踏切道ではない。
近くに踏切が一つも無いせいで、列車が近付いていても気付きづらい場所なので、行動は慎重に…。
これは下り線。
掘割りの奥には現国道、鉄橋、隧道、その向こうの明り、さらに先の鉄橋まで、気持ち悪いほど見通せた。
大正時代にこんなものを作ってしまうくらい、鉄道っつうのはガチだったんだなぁ。
そりゃ、清水国道が1年で死んだ清水峠を貫通する日本一のトンネルだって掘るわなぁ。
…と、妙に納得。
上下線に挟まれたこの短い路盤跡が、隧道の洞床だったかも知れないんだぜ。
……何か楽しいだろ?
清水国道が利根軌道との併用軌道だった明治44年から大正13年までは、
ここに線路も敷かれていたと思われる。上越線の工事中にはレール同士の平面交差が起きていたのだろうか?
そしてこの上り線を渡れば、探索は一円を描いて終了となる。
しかし向こう側は工場敷地となったときに埋め立てられたのか、柵の他に意外な高低差がある。
私は線路を見渡し、耳を澄まし、列車が近付いていないことを十分に確認した上で、
自転車を背負って一気呵成に線路を渡り、同じ勢いのまま工場敷地までよじ登るという行動の
所要時間を脳内で何度かシミュレーションしたが、斜面を上る部分での不測の事態が完全に除外できないので、
ここで引き返して探索を完了させた。
以上、現地よりお伝えしました。
なお、グダローに妖怪ポ●トで問い合わせ中なので、続報が入り次第追記する。