隧道は、現存しなかった。
それが答えだ。
この答えには、疑いを持っていない。
今後新たな疑義から再訪する事も、おそらく無いだろう。
もちろん、満足である。
読者の皆様にはいささか白々しく見えたかも知れない“動画の中の私の万歳”は、
現地でも、今これを書いている時点でも、私の本心である。
決着の華やかさは、ノン・フィクションである以上私には操作できない。
ただ、レポートをどのように描くかを操作し得るのみであるが、今回はつとめて淡々と書いたつもりだ。
それでも「煽りやがって」というお叱りがあれば甘んじて受けるが…、どこをどうつついても隧道は現存しなかった事実に変わりはない。
隧道は現存しなかったが、実在した事もまた、疑いはないであろう。
前回の探索では、消去法的に隧道の存在を肯定しうるレベルに過ぎなかったわけだが、
今回の地形の精査によって、隧道擬定地点=隧道跡地と確信出来た。
坑口は存在しなかったが、明確な凹地を確認できた。
このことが、今回の現地調査の大きな成果であった。
そして、隧道そのものに関する、唯一の成果でもあった。
(本谷の遡行が可能であることを確かめた成果もあるが、これは隧道とは関係がない)
出発前の時点で、清水峠に隧道があったことは、ほとんど確信に近いレベルで信じていた。
決め手になったのはやはり、冒頭回で紹介した『新潟県魚沼三郡地誌』である。
隧道の有無を確定させるためならば、現地調査も必要なかったことになるが、現状を知る必要はあった。
私が歴史研究家ではなく、オブローダーなればこそ。
そして、その本懐は遂げた。
現存しないことを確かめたことで、探索は完全に成功した。
“影”などという不確かなものだけを頼りに隧道を探したのだから、この決着は妥当と言える。
正直、探索前から現存するとは思っていなかったので、ショックは無かった。
そもそも、古老曰わく昭和20年代でも既に、東口から中を覗ける程度の開口具合だったのである。
さらに、その祖父の時代(=明治)でさえ、既に通り抜けが不可能になっていたのである。
そんな隧道が、完全放置状態で120年以上も残っているはずがない。
私はHAMAMI氏を今回の探索へ誘うメールの中で、「歴史の目撃者になりませんか?」と書いたが、開口していないことを確かめる事になっても、この探索の価値に変わりはないと考えた。
最終的にHAMAMI氏にはそれが伝わっていたようで、本当に良かった。
ご協力、ありがとうございました。
ここからは再び机上調査により、清水峠の隧道の真相に一層迫りたいと思う。
『新潟県魚沼三郡地誌』に収録された右図の“清水隧道”は、本当に今回の隧道だったのだろうかという疑問がある。
もしそうであると仮定すれば、左山右谷の地形から、西口を描いたものだろう。
しかし、実際の風景と見較べてみると、いまひとつ似ているとは言い難い。
道幅も勾配も、とても馬車道のようには描かれていないし、別の隧道を描いているのではないかと言われても、反論できないレベルである。
だが、これはもとより似せて描くつもりが無かったからだと私は思う。
おそらくこの絵は現地で模写的に描かれたのではないのだろう。
なぜそう考えるのか。
『新潟県魚沼三郡地誌』の奥付によれば、同書は明治28年5月に新潟県の松風堂という出版社から発行されており、著者は北魚沼郡在住の「新潟県士族夏目洗蔵」とある。
問題は、この発行時期である。
本編の第1回でも触れたとおり、清水峠の新潟側には明治22年という時期に、居坪坂新道という新道が建設されていた。
しかもその開削の理由は、清水国道(清水越新道が正式名称)が雪崩や土砂崩れで荒廃したためであったとされている。
居坪坂新道は清水隧道を含む区間を代替する存在となったのである。
『新潟県魚沼三郡地誌』が実際に編纂された時期は、発行時期から6年以上隔たってはいないだろう。
つまり、編纂当時から清水隧道は廃道同様であった可能性が高い。
挿絵のように旅人が往来していたとは考えにくい。
それでも挿絵として選ばれたのは、当時まだ魚沼地方には清水国道建設という国の大事業の威光が色濃く残っていて、北白川宮能久親王が開通式で通った清水隧道は、新道の象徴的な場面として多くの人々に記憶されていたのではないかと想像する。
しかし実はこの隧道の落盤こそが、清水国道を短命に終らせた元凶であった可能性があるというのは、大変な皮肉である。
『新潟県魚沼三郡地誌』は、清水隧道の所在地について、南魚沼郡内であるという情報しか記していない。
冒頭回でも検討を加えたが、清水隧道が本当に清水国道に存在した隧道だという断定は出来ないのである。
いまさら何を言うかと思われるかも知れないが、整理するとこういうことになる。
<1>清水集落での聞き取りと、現地調査の結果、一本松尾根(仮称)に隧道があったことは、確定。
<2>『新潟県魚沼三郡地誌』により、南魚沼郡内に清水隧道という隧道があったことは、確定。
<1.口述および現場> と <2.記録> を結びつける情報が欲しかった。
時事新報 明治18年9月7日 第2面
○隧道(とんねる)の箇所並びに其名称間数 新潟県に属せる越後南魚沼郡、字本谷と称する地に一箇所、長さ凡そ十間、群馬県上州利根郡に属する地に一箇所十余間
本稿執筆直前、Keiju氏とその友人氏より、新たな記録に関する決定的な情報が寄せられた。
それは清水国道の開通式典が盛大に執り行われた当日の新聞記事であった。
明治18年9月7日の時事新報は、その第2面において5段のうち1段半という大きな紙面を清水国道開通の記事に割いていたが、その中に上記の引用文があったのである。
そこには、“新潟県に属せる越後南魚沼郡、字本谷と称する地に一箇所、長さ凡そ十間”の隧道があったと明瞭に記されていた。
もはや寸毫も疑義を挟む余地はなかろう。
情報提供を受けるタイミングが神がかっていた。出来すぎである。
とは言っても、私が清水国道のレポートを公開したことをきっかけにこうした情報が寄せられたのであるから、単なる偶然とも言えない。
清水国道の隧道問題は、このサイトをご覧の皆様の力によって解決されたのだと私は思う。
とても誇らしく、そしてうれしい。
当然のことながら、清水峠に隧道があった事実は、私が“発明”したものではない。
全国の時事新報読者にとって、これは周知の事実に過ぎなかった。
だが、それから127年を経た今日、その事実を知る人は清水の古老の他ほとんど無くなっていたのである。
絶滅寸前だった情報(事実)を、ふたたびネットという海に放流した気分である。
今から5年前に私が清水国道を探索すべくネットで調べた頃は、本当にこの道の踏破記録が見あたらなかった。
そして隧道の有無について言及した記事もまた、見あたらなかった。
127年前に全国で共有された公然の事実――しかもそれは国家の大事業であった――にもかかわらず、ほぼ忘れ去られかけていたのである。しかも国道291号として現在も国の管理下に置かれている道に関わる事実なのに……!
これは、清水国道が如何に日陰の存在であったたかを示しているのか、或いは単に時の経過による情報風化の威力を示しているだけなのか。今日の新聞に掲載された道路開通情報の中にあるトンネルの有無が、西暦2139年の世界で公然の事実であるとは思えないので、後者かも知れない。
『時事新報』にはこれ以上隧道に関する情報はなく、隧道の固有名も明かされていないが、『新潟県魚沼三郡地誌』に倣えば「清水隧道」である。
そしてこの清水隧道について、不確かな“絵”ではなく、“写真”が撮影されていた可能性が残っている。
Keiju氏とその友人氏の調べによると、前記した『時事新報』のほか、『朝日新聞 明治18年9月11日発行』と『新潟新聞 明治18年9月10日発行』にも、清水国道の開通を伝える記事が掲載されており、このうち新潟新聞には、“当港の写真師和田球四郎は去七日…(中略)…開通式場へ赴き式場の全景十二の状況を写し昨日帰港せり…(中略)…見事に出来しならん
”とあるというのである。
どうやらこの日の新潟新聞には付録があり、そこに開通式の詳細な様子が記されていたらしいが、その付録は国会図書館にも所蔵されておらず、当然写真も未発見であるという。
また、和田球四郎なる人物は明治期の新潟の写真師・和田久四郎氏である可能性が高く、和田写真館は新潟に現存するということだ。
『新潟新聞 明治18年9月10日発行号の付録』を、私は今後探す必要がある。
これについて進展があれば、この記事を書きたそうと思う。
話は変わるが、開通直後の清水国道を通行した記録が残っている。
それは、フランス人ギュスターヴ・グダローの原題『日本旅行』で、わが国では『仏蘭西人の駆けある記―横浜から上信越へ』というタイトルで、昭和62年にまほろば書房が翻訳本を出している。
そこに描かれている彼の旅は、明治19年8月19日に横浜を発ち、31日に同地へ帰着するまでの12日間である。
行き先は新潟県内と長野県内(上信越地方)であったが、この旅の3日目(明治19年8月21日)に湯檜曽から清水峠を越えて長崎(南魚沼市長崎)まで歩いている。
私の知る限り、これが清水国道の開通からもっとも近い時期(開通式の11ヶ月後)の(出版された)紀行書であり、居坪坂新道ではなく清水国道を全線歩いている貴重なものである。
この1ヶ月前の7月19〜20日にも、東京大学の矢田部良吉氏ほかが清水峠付近で植物採取をしており、その時の記録が『群馬県植物誌』にあるが、新道の状況について見るべき記述は少ない。
『仏蘭西人の駆けある記―横浜から上信越へ』より、県境の清水峠を越えた先の記述を引用してみよう。
――県境を越えてほどなく、居坪の見すぼらしい茶屋で休憩する。同行の日本人はようやく茶にありつく。そこは白樺と清水間の六里以上の工程の中の唯一の人家である。(中略)依然として人家からは遠く離れていることには変わりなく、我々は誰とも出会わなかった。
我々の眼前で、視界は山脈の支脈によって限られ、その支脈の間を峡谷が蛇行し、一番遠くに見える山々の向こうの、平原のはるか彼方に、米山の頂が見分けられるだけである。今しがた越えてきた山脈の峯々は、下って行くにつれて後方に、威圧するような様相を呈してくる。植物については、反対側の斜面のものに較べられるようなものは何もない。特に大きな木は、窪地でさえ次第に少なくなってくる。微風が吹いて、一歩進むごとに砂埃で目がかすむ。
道路はこれまで登って来た道路とよく似たようなものである。山の斜面に折り重なったつづら折りの山道である。しかし保全が疎かにされていたためか、土壌が軟弱であるためか、こちらの道路の方が状態が悪い。地滑りの箇所が多いので、下りの大部分は止むなく徒歩で行かねばならない。全般にわたって修復工事が開始されているが、そのためにかえって歩をゆるめなければならないだけである。
ここでちょっとしたトラブルが起った。一見、取るに足らぬようなことだが、旅行者には不愉快な結果を招く恐れのあるものだった。話はこうである。我々が峡谷の奥に到着してみると、橋は通行不可能になっている。それで橋を取り替えることに決めたのである。しかし新しい橋を用意する前に、先ず古い橋を取り壊しにかかる。すでに橋板ははずされ、橋板を支えていた二本の桁は綱で宙吊りにされ、姿を消そうとしている。暫く折衝した末、私はぐらぐらしている桁のうちの一本の上を渡ることを、この仕事に取りかかっている者にやっと承知させることが出来た。(中略)無人の場所で二四時間以上も立ちん坊をしないためには、取りはずさねばならない橋の内側に仮の歩道橋をかけることなど簡単なことだと思うのだが。しかし、ここは日本なのだ!
四時に清水に着く。人力車との契約はここで終る――
以上のような内容になっており、隧道については何も触れられていない。
くぐっていたに違いないのであるが…。
そして、新潟側の峠道は、群馬側に較べて状況が悪かったと言うことが書かれている。
開通翌年において、既に橋を取り替えねばならないような事態になっていることは注目である。
人力車さえ走行できず、彼は車夫にそれを押させ、自分は歩いたのであった。とても馬車が通行できるような状況ではなかった。
しかし、それでもこの頃にはまだ、道を維持するための営みが続けられていたのであった。
明治22年に居坪坂新道が開通するまで、わずか4年であるが、こうした“あがき”は確かにあったのである。
開通したその冬に廃道になったというのが、いわゆる“伝説”であったが、事実を“少しだけ”誇張していたようである。
(群馬側に較べ新潟側の道路が粗造であったということが、前掲した『時事新報』の記事中にも書かれており、この道を維持していくためには毎年多くの修繕費を要する事は自明なので、開通後も国の責任で管理し続けなければ忽ち使い物にならなくなるだろうと予言していた。だが当時は国道であっても維持管理は地元の義務とされていたのであり、清水国道も例外ではなかっただろう)
清水国道に2本の隧道があったという話は、実はだいぶ前から目に触れていたし、当サイトでも引用していた。(第3次探索の検証回)
新道開削は高崎以北新潟県長岡までの間、約四三里余、こう配平均三〇分ノ一、道幅平均三間であった。なお、総工費三五万円余、開削した岩石は八三か所、ずい道二か所、橋りょう一六六か所、暗溝八五八か所などであった。
『群馬県史 通史編8 近代・現代2』 p.385 より引用
典拠や書かれた時期が不明であるため、当時は捨ておいたものである。
しかし今回、隧道の所在が1本確認されたことにより、この記述の典拠を積極的に探す必要が出て来た。
明治18年の開通当時の路線全体にわたる詳細な記録があった形跡がある。そこには正式な隧道名や、図面が収録されているかもしれない。
そして残る1本の隧道は、時事新報によって“群馬県上州利根郡に属する地に一箇所十余間
”と明かされているものだ。
私はこの隧道が現在の群馬県沼田市と渋川市の境をなす綾戸峡付近にあったと考えている。(いずれ紹介しよう)
ともかく、清水峠全線踏破の試みは、これでようやく決着した。
だが、全長170kmを超える清水国道にとって、清水峠は1/5程度に過ぎない。
(探索済みである群馬側のレポートも書かねばなるまい。実は群馬側こそ見どころが多い)
清水国道開通時の土木局長は、東北の県令を辞した後の三島通庸であり、彼は開通式典にも参列している。
この道を開通の半年前に国道へ認定したのも彼である。
地上に極めて短期間しか存在できなかった、わずか10間(約18m)ほどの清水隧道を、栗子隧道(約880m)の生みの親である彼は、どんな思いでくぐったのか。
表裏日本を結ぶには、余りに頼りないと思ったのではなかったか。
そして、北国の風雪を十分に見ていた彼は、清水国道の暗澹たる未来を予期し得なかったとは、とても思えないのである。
私にとって、清水国道は生涯のライバル(?!) 三島通庸が最後に歩いた道である。
その解き明かすべき謎は、まだまだ残ってもらわねばならない。
さあ、次の舞台へ参ろう。
国立公文書館デジタルアーカイブで公開された、開通当初の清水国道の図面。 2015/12/15追記
本編探索と机上調査により、清水国道の本谷周辺に長さ10間の隧道が存在していた事が判明したが、この隧道は歴代地形図に描かれたことが一度も無く、地形図以外の地図についても隧道を描いたものは未発見だった。
それゆえ、私が現地で隧道跡と判定した地点が実は誤りで、他の場所に本当の隧道跡が存在したのではないかという疑惑を、可能性は低いだろうが残していた。流石に当時の隧道の在処を正確に証言できる人物を現地へ連れて行くことは不可能に近く、これについては永久に解決出来ない事を覚悟していたのだが…。
このたび遂に本谷の隧道を描いた地図が発見されたのである!
この情報を当サイト掲示板にお寄せ下さったたいせん氏によれば、国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている、「清水越新道竣成ニ付国道表中路線改正ノ件」という明治18(1885)年の公文書に、問題の地図が含まれているのだという。
以前、私が同サイトを検索した時にもこの文書はヒットしたと記憶しているが、まだデジタルデータ化されていなかったのか、公開はされていなかったと思う。
それがいつの間にか公開され、しかもその中に隧道を描いた図面があるというのだ!
逸る心は抑えきれず、早速サイトへ見に行ってみた。
「清水越新道竣成ニ付国道表中路線改正ノ件」より転載(国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧)
やりました^^!間違いない!
掲載されていた図面は思っていた以上に緻密なもので、なんと現代の2万5千分の1地形図と重ね合わせると、ほとんどずれていなかった!!(→)
そしてこのように新旧地図を重ね合わせることにより、図面に書かれた「隧道」と、我々の隧道擬定地である“一本松尾根”が、120年の時を超えてピタリ一致した!
図面には記号だけでなく、ご丁寧に「遂道」と注記までなされている。字が「隧道」ではないのは、意図的なのか、誤りなのか?今日では「恥ずかしい」とされるこの誤字も、その最古の例かも知れないと思えば、なんか意味ありげに見えてしまう。遂に開通したから遂道なんだ!みたいな(笑)。
この図が描かれた明治18年当時は、地形図の最古の版がようやく都市部について調製されたばかりだったが、まるで江戸時代の絵図面のように見える清水国道の図面は、これほどリアルに道路の線形を描き出していた。そこに驚きを感じる。
このことは、清水国道工事が当時の国の威信をかけた最先端の国家事業であったことを物語っているのだろう。
地図の描き方は古くとも、確かな測量技術によって、険しい山岳地の道路工事が進められていたことが分かる。
なお、図面では赤と黒の2本の線が清水峠(上越国界)を超えているが、赤が明治18年に開通した新国道(いわゆる「清水国道」)で、黒は明治7(1874)年に熊谷県令河瀬秀治が中心となって計画・建設された幻の旧道(未探索…探索したいけどしたくない…苦笑)である。
今回の図面が確認出来た事により、清水国道に開通当時2本あったとされる隧道のうち1本、本谷の隧道の跡地が改めて確定した。
以上で清水峠の隧道についての極めて重要な追記を終える。情報を下さったたいせんさま、ありがとうございました。