道路レポート 国道485号 五箇トンネル旧道 机上調査編

所在地 島根県隠岐の島町
探索日 2014.05.22
公開日 2023.09.25

 3世代のトンネルが繋いだ島後第一の幹線「中山越」の歴史


3代目/五箇トンネル 2代目/中山隧道 初代/中山隧道

現地探索により、上記のような3世代のトンネルが全て貫通した状態で現存していることが確かめられた中山越の歴史を、文献から紐解いてみたい。

資料名(データ年)隧道名路線名竣功年全長高さ
平成16年度道路施設現況調査
(2004年)
五箇トンネル一般国道485号昭和59(1984)年699m7.5m4.5m
道路トンネル大鑑
(1967年)
中山隧道(主)西郷五箇中村線明治35(1902)年151.2m3.5m3.5m

まずは第1回冒頭の復習になるが、探索前に得ていた主な情報としては、各世代のトンネルが描かれた3枚の地形図(大正元年版/昭和47年版/最新の地理院地図)のほか、『道路トンネル大鑑』『平成16年度道路施設現況調査』があった。それぞれ右図のように、2代目と3代目のトンネルを記録していたが、2代目の竣工年が明治35年になっているなど、初代トンネルとの混同が疑われる表記もみられた。



まずは時系列に沿って、初代隧道が誕生した経緯から紹介したい。今回の机上調査編の7割は初代隧道、残り3割くらいが2代目に関する内容となる。

初代隧道が建設されたのは、明治時代である。これは大正元年の地形図に既に隧道が描かれていることから明らかだった。では明治の何年かということになるのだが、これを解き明かすべく、『西郷町誌 下巻』(昭和51年)を調べた。

隠岐で自動車交通が発達するのは大正年間であるが、それ以前の陸上交通は徒歩、自転車、牛馬背、大八車などによるものであった。元来、島では木材、米、雑穀等の輸送の場合、沿海村落では船舶輸送で、人畜輸送は補助手段であった。

『西郷町誌 下巻』より

多くの離島がそうであったように、隠岐においてもはじめは海上交通が輸送の中心で、陸上交通は補助的なものに過ぎなかった。そのため明治期を通じて、島内で利用された車輌は自転車や大八車のような小型のものに限られた。島後により大型の車輌である馬車が導入されたのは大正8(1919)年で、翌年には自動車も導入されたが、後者は当初、西郷港周辺の平坦地で僅かに利用されたに過ぎなかった。

陸上交通の発達には道路の整備が必要不可欠だ。
円形の島である島後では、玄関口である西郷港を起点に、島内を南北に貫通する、いわば背骨にあたる幹線道路の整備が最初に企てられたのである。そしてそこに立ちはだかった峠が、中山越であった。

道路は島後の場合すべて西郷を中心(起点)として発達している。
島後の主要幹線である西郷―北方道路は、旧幕時代は中山峠を越える徒歩道路であったが明治28年に北方まで、同33年に福浦まで拡幅が行われ、有効幅員2間となってから車両の通行も容易になり、大八車がやがて大正末期には馬車にかわり、いくばくもなく自動車と変化し(1)峠道も明治35年にはトンネル開通(2)となり一層便利となった。

『西郷町誌 下巻』より

上記の『西郷町誌』の記述は、重要な内容を多く含んでいる。
前半部分(1)は、西郷から北方(きたがた、旧五箇村の中心部、村役場があった)を結ぶ道路が、明治28(1895)年に幅2間(3.6m)に拡幅されて各種車輌の通行が容易になったという内容で、後半部分(2)は、中山峠に明治35(1902)年にトンネルが開通し一層便利になったという内容だ。

明治35年というのは、『大鑑』では2代目の中山隧道の竣工年として記録されていた年だ。
そのこともあって、この『町誌』の記述は、明治28年に峠を含む区間の拡幅が完成し、それから間もない明治35年に改めて隧道が建設されたかのように読めると思う。(明治28年に初代隧道が掘られ、明治35年に早くも2代目隧道が掘られたかのようにも読める)

だが、結論から言うとこれは勘違いである。『町誌』の執筆者が実際どのような認識であったかは分からないが、上記引用文中の(1)(2)は、本来はどちらも初代隧道に関する道路整備への言及だ。
そう私が結論づけたのは、さらに古い時代の信頼出来る文献を見つけたからだ。
その文献は『隠岐島誌』。昭和8(1933)年に島根県隠岐支庁が発行した隠岐全土に関する詳細な地誌である。おそらく『町誌』も参考文献にしているはずだ。
『島誌』には、初代隧道の建設に関して次のような記述がある。

  1. 明治28年、島後の中心幹線たる北方道の改修完成し、西郷町より中條村を貫通して、五箇村大字北方に至る迄、4里30町の間、約2間幅の車道開通し、明治33年度に至り、さらに福浦港迄延長せり。
  2. 北方道は、西郷中町を起点として、中條村を貫通し、有名なる中山墜道を通過して、五箇村に出で、国幣中社水若酢神社の社前を過ぎ、福浦港に達する車道にして、延長5里20町あり。
  3. 島後の幹線たる北方道は、本村の中部を南北に貫通し、本村の北境、中山越に至り、長30余間にわたれる岩石の墜道を開穿して、五箇村に出で……
『隠岐島誌』より

上記1〜3はそれぞれ、島後の陸路全般、五箇村の交通、中條(なかすじ)村の交通を解説する箇所から引用した、中山越の道に関する記述だ。
これらを合わせると、明治28(1895)年に西郷町〜中條村〜五箇村北方を結ぶ「島後の中心幹線たる北方道」4里30間(約17.9km)が幅2間(約3.6m)の車道として開通した。その一部として、中山越に全長30間(約55m)余りの「有名なる中山墜道」が整備されたということが分かる。またこれまで正式な名前が分からなかった初代隧道の名称が、2代目と同じ「中山隧(墜)道」であったことも、これではっきりした。

明治35年に改めて隧道を整備したというような内容は、本書には出てこない。
『町誌』のこの記述が何を根拠にしているかは気になるが(『大鑑』も同じであることを考えると、おそらく道路管理者の資料がそうなっているのだろう)、これから述べる内容もあわせて総合的に判断すると、初代隧道は確かに明治28年に開通したと考えられるのである。

明治35年という数字が出て来た根拠は、今のところ不明である。



『隠岐島誌』より「隠岐島全図」に著者加筆

『島誌』には、これが執筆された昭和初期当時における島内道路網の整備状態が分かる記述が多くある。
また、「隠岐島全図」というカラー地図が掲載されており、そこには島内の主な道路が赤線で描かれている。

右図は「隠岐島全図」の島後の部分に、赤線で北方道を、青線で北方道以外の「改修道路」を着色した。
改修道路とは、文字通り改修済みの道路、基本的には車道を指しているようである。すなわち、島内でも優先して整備された、それだけ重要な道である。

島を南北に貫く北方道(西郷町〜中條村〜五箇村)を中心に、その途中の中條村原田から中村へと至る原田道、同じく都万(つま)へ至る都万道、さらに西郷から東西の海岸線をめぐる東部海岸道や西部海岸道が、明治〜大正時代に整備された主な改修道路である。現代の地図に照らしてみると、これらの道が後に国道や県道となった。
中でも北方道が最重要視されていたのであるが、このことはこれらの改修道路が整備された時期の微妙な差からも見えてくる。

チェンジ後の画像に、明治および大正時代に建設された主なトンネルの位置と竣工時期を表示した。
これは『島誌』をはじめとするいろいろな文献や地形図から調べた内容である。

島後というたかだか18km四方の島において、明治期にこれほど沢山の隧道が掘られていたことには驚きを禁じ得ないのであるが(おそらく日本一の“古隧道アイランド”だ)、その開通時期の微妙な差から、北方道が最初に整備されたことがはっきり分かる。中でも、中山隧道が最初である。(厳密にはさらに古い隧道があるが、局所的なものであるため除外した。別レポートで紹介する予定)

ところで、なぜ北方道が最初に整備されたのであろうか。
おそらくそれは、起点である西郷と、終点である北方が、島後における歴史的な意味での二大拠点であったからだろう。
昭和44年に、それまで島後と島前に置かれていた4つの郡が統合されて隠岐郡になったが、かつて島後は東部の周吉(すき)郡と西部の穏地(おち)郡に分かれていた。しかも明治から大正時代にかけては、郡というのは単なる地名だけではない町村と県の間に立つ地方自治体としての自治活動を行っていた。当時は、周吉郡の中心が西郷町であるように、穏地郡の中心として五箇村があったわけだ。(もっとも隠岐四郡の郡役所は全て、本土との交通に便利な西郷町に統合して置かれていたようだが)

また、今日の島後の玄関口といえば西郷港の一択であるが、かつては福浦港の重要度が遙かに高かったという。
以下は『島誌』にある五箇村の海上交通に関する一文である。

海路の交通は、もと、福浦港が、島後の門戸として、帆船の寄港地たりしを以て、比較的発達せるも、維新後、西郷港の発展とともに、暫時衰頽するに至れり。

『隠岐島誌』より

近世の隠岐は北前船交易の寄港地として大いに栄えた。
江戸時代から明治初期にかけて、大坂と北海道の間を日本海経由で行き来した交易船の北前船は、わが国最大の長距離大量輸送手段として寄港する各地の港に多くの賑わいや富をもたらした。主に大型の帆船が利用されたため、寄港地には風待ちや汐待ちに適した地形の港が選ばれている。隠岐においては、入り組んだ湾を持つ西郷港や、周囲を小高い高い山に囲まれて最も波穏やかな福浦港は、山陰有数の良港であり、重要な寄港地となった。特に日本海が荒れる冬期には、隠岐で越冬する「囲い船」も盛んであった。その際には大勢の船乗りが島で過ごし、文化と経済に多くの影響を与えたのである。

このように、明治初期までは西郷港に比肩する島後の要津だった福浦港だが、本土から見ると反対側にあって遠いため、明治18年に就航した本土島後間の定期汽船は西郷港を発着地に選んだ。帆船の時代が終わり、風待ちや汐待ちの優位性も徐々に失われた。福浦港は急速に衰微し、北辺の一漁村へ後退を始めたのである。
だが、その衰退を少しでも挽回したい北部地域の住民にとって、福浦港の一帯と西郷港を最短距離で結ぶ北方道の整備が何よりも急がれたのであった。

この辺りの道路整備の背景について、具体的に関係者の名前を挙げて紹介している優れた資料を発見した。
『土木学会誌 Vol.91 No.9』(平成18年9月号)に収録された「見どころ土木遺産:福浦トンネル」の回である。

島根県における本格的な道路改修は明治12(1879)年より行われたが、松江と隣接県を結ぶ幹線道路(三大道路)の整備が優先され、離島の隠岐に予算を割くことは難しかった。地元穏地郡出身の県議会議員、中西荘太カの尽力により、西方と北方を結ぶ北方道が開通した(1)のは明治28(1895)年のことであった。
中西は北方道の開通を見ることなく明治25(1892)年にこの世を去り、次の県議会議員となったのが藤田辰次郎(2)である。藤田は北方道福浦延伸の予算獲得に成功し、明治31(1898)年に二代目福浦トンネルが完成、翌々年に福浦までの道路が完成する。
掘削を担当したのは、石工の高井甚三郎である。北方道建設の際、トンネル掘削のため広島県の山中から一族で呼び寄せられ、彼だけが島後に残っていたという。

『土木学会誌 Vol.91 No.9』所収「見どころ土木遺産:福浦トンネル」より

明治31年開通、福浦隧道(2代目)

この文章の主題は、北方道の北方と福浦の間にある福浦隧道(右写真)であるが、北方道の整備に関わった3名の人物の名が登場している。
一人目は中西荘太カだ。『島根県議会史 第1巻』によると、彼は明治19年以前から度々県議会議員に当選しており、25年11月に死去したときもその職にあった。出身は穏地郡山田村となっているから、後の五箇村の一部で北方道に隣接した土地である。

彼が北方道の整備に向けて払った尽力の詳細は残念ながら見つけられなかったが、隠岐を取り巻く交通事情の改善へ向けた彼の並々ならぬ情熱ぶりは、次のような県議会での発言からも読み取ることが出来る。これは明治23年11月から12月に開催された第35回県会で、彼を含む4人の議員が建議した隠岐と本土を結ぶ航路運営に関する補助費の継続に関する議論での発言だ。

本県内地には三大道路の改修ありて運輸交通の便を開くといえども、独り隠岐国においては内地との航通極めて険難なるに拘らず、これを顧慮するところ無きは、以て人智の開発、物産の興起を謀る所以の道にあらず、実に隠岐人民に対し不深切たるの感を免れざれば……

『島根県議会史 第1巻』より

このように述べて、同じ島根県にありながら交通条件に恵まれないために開発が思うように進まない離島の不利性を強く訴えている。
なお、北方道の整備も県議会の議決を経た県の事業として、主に県の負担によって行なわれたようであるが、その詳細な記録は見当らない。

二人目の人物は、中西荘太カの死去の2年後に県議会議員となった藤田辰次郎である。『島根県議会史 第1巻』によると、彼は明治27年11月から議席を持っている。出身は同じ穏地郡の北方村である。彼が議員となった時点で、既に北方道の第1期工事(西郷〜北方)は相当進行していたのではないだろうか。彼はこれに続く第2期区間にあたる北方〜福浦港の延伸に注力した。

三人目の人物は、石工の高井甚三郎で、彼だけは計画ではなく施工側の関係者である。
広島県の山中というところから一族で呼び寄せられて初代中山隧道の建設に従事し、その後も彼だけが島に残って2代目福浦隧道の掘削を担当したそうである。広島の山中というのは、現在の広島県三原市の区域にあった御調郡山中村であろうか。残念ながら彼の名前を検索しても、福浦隧道関係くらいヒットしない。

だが、前後が直角カーブという奇抜な線形を持ちながら、洞内にはまったくと言って良いほど崩れや誤掘進の跡がなく、丹念なノミ痕が壁一面に残されているなど、仕事の丁寧さや地質を測る技術の高度さが感じられた初代の中山隧道が、県の工事のために隣県より招聘されるほどの高い専門的を持った技術者集団の手によるものだったとしたら、納得も行く。

高井甚三郎が手がけた2代目福浦隧道は、土木学会の選奨土木遺産にも指定された、少しは知られた隠岐の観光名所である。
対する初代中山隧道には今のところそういった名誉は与えられていないようだが、紛れもない名隧道といえるものだと思う。


 『 島司:阿坂多一郎  ―Episode 0― 』


阿坂多一郎
(『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(下巻)』より)

阿坂多一郎は、明治36(1903)年から42年まで第2代八丈島島司を務めた人物の名だ。
彼は40歳のとき、「鳥も通わぬ」といわれた絶海の孤島、伊豆諸島にある八丈島の島司に任命された。赴任するや島の実情をつぶさに調査し、島内の南北を隔てる最大の難関「大坂」に隧道を開削する計画を発表した。すぐさま島内有力者の協力を取り付けると、明治38年に工事を始め、明治40年にみごと伊豆諸島最古の大坂隧道を完成させた。これによって島の交通環境は大いに改善したが、間もなく上司にあたる東京府知事の不興を買って職を解かれ、多くの島民に惜しまれながら島を離れたとされる。いまも現役である大坂隧道の傍らには、彼の偉業を称える内容を刻んだ記念碑が大切に守られている。

大坂隧道の机上調査を行った際、この阿坂島司の活躍を知り、興味を持って調べたところ、彼は八丈島に赴任する直前まで隠岐島司の職にあったらしいことを知った。そこで私が思い出したのが、2014年に探索したまま長らくレポートの執筆をしていなかった、今回の中山隧道のことであった。本編でも繰り返し述べているとおり、『大鑑』は中山隧道の竣工年を明治35年としていたので、これもまた阿坂島司の活躍によって建設された隧道ではなかったかと疑ったわけだ。
実を言うと、このことが今回のレポート執筆のきっかけであった。

だが、ここまで述べてきた机上調査によって、中山隧道は実際には明治29年に竣工していたことや、『大鑑』の35年竣工という数字の根拠は不明だということが分かった。
では、中山隧道や北方道の整備と阿坂島司の間には、何も繋がりがなかったのだろうか。そのことを調べてみたのが、この項の内容だ。

まず、阿坂多一郎と隠岐島の関わりについて調べてみたところ、『隠岐島誌』に記載された歴代島司の一覧に、確かに彼の名前があった。
彼は第5代の隠岐島司として、明治32(1899)年3月から36年1月(八丈島転任の直前まで!)、おおよそ3年11ヶ月にわたって、隠岐島司の職にあったことが分かった。 これは、北方道が西郷から福浦まで全線の改修を終えた直後の時期である。

次に島司としての彼の活動内容を調べようとしたのであるが、残念ながら彼の名前とともに掲げられている事業は、全く見出すことが出来なかった。
彼の名前を国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、明治18年以降にヒットがあるが、高い確率で本人と考えられるのは明治20(1887)年の島根県広報に登場する人物で、島根県庁に勤める収税属として国税の徴収事務にあたっていたようだ。その後もずっと県庁に勤め、明治32年の隠岐島司任命となったようである。それから約4年にわたり島内における県事務の長として君臨した。

八丈島での彼の疾風の如き活躍ぶりの片鱗を隠岐においても見られるのではないかと期待していた私は、その事績らしいものがまるで記録に残っていないことに、些か肩透かしを食らった。
だが、色々調べていくうちに、私は思い違いをしていたと分かった。
隠岐や八丈島など、全国の大きめの有人離島におかれていた「島司」という職は、その全般にして、私が職名から漠然とイメージしていた“島の長”のようなイメージほど、目立つ活躍の場を与えられたものではなかったのである。

わが国における島司という職名は、近代においては明治19(1886)年に公布された地方官官制にはじめて現われる。それは、勅令によって指定された全国の島地を府県知事の指揮・監督を受けて管轄する島庁の長官の職名であった。 隠岐島においては、明治21(1888)年4月に隠岐島庁が設置され、その長としての島司が任命されたのである。

このとき隠岐に置かれていた4つの郡役所が廃止され、従来は郡長が有していた権限は島司の管轄となった。つまり、「県知事>(郡長改め)島司」という指揮系統があった。なお、この時点の隠岐は町村制施行前で、自治体としての町村やその長としての町村長は存在していない。島司はその職をも兼ねたのである。
阿坂島司が八丈島に移った後の明治37年に、隠岐では郡制が復活し、同時に町村制に準じた制度も始まった。以後は「県知事>島司>郡長>町村長」という複雑な体制になった。
その後、大正14(1925)年の地方官制改正によって全国の島庁は廃止され、島地のような交通不便の地には新たに府県支庁を設置することとなったので、隠岐島庁は島根県庁隠岐支庁へ改められた。その長は支庁長である。隠岐支庁は現在も存続している。

このような制度の変遷から分かると思うが、島司は県知事の全面的指揮下にある存在だ。島の行政の範疇において特別な越権的仕事を認められたものではなかった。
島の行政長であったことは確かだが、島が所属する府県の監督が絶対的に存在したわけである。
だからこそ、明治20〜30年代に北方道の整備を求めた隠岐の人々は、地元出身の中西荘太カや藤田辰次郎といった人物を島根県議会へ送り込むことで遠大な目的を果たしたのだ。
県議会が議決して、県知事が執行する「北方道の整備」という事業を、島の実地で監督することが、その時に島司にあたっていた人物の役割であった。
もちろん、時には島司が知事に提案や意見、助言を与えることもあったであろうが、それが島司単独の功績のように記録されることは稀であったろう。


このような島司の制度を(少しだけ)理解したうえで改めて考えると、むしろ八丈島での阿坂多一郎の活躍は、異例であったことが分かる。
彼は東京府知事と意見が対立し、それでも意見を曲げなかったために、「文官分限令」に触れたとして休職(事実上の罷免)を命ぜられるのであるが、それは制度上の当然の措置であったろう…。

というわけで、隠岐島司時代の阿坂多一郎の実績には、これといって特筆すべき記録を見いだせず、中山隧道との明確な関わりも発見出来なかったのであるが、彼が隠岐で事務を執った期間(明治32〜36年)は、中山隧道や福浦隧道が完成した直後にあたり、おそらくはその刺激を受けて島内各地でさらに多くの隧道工事が企てられていた時期でもあった。
そこから少しだけ想像を広げれば、八丈島に異動した彼が島の北と南を隔てる大坂の嶮を目の当たりにした瞬間、そこにも(中山隧道のような)隧道を掘れば交通の問題を解決出来ると閃いたとしても、全く不思議ではない。

なお、阿坂多一郎は文久3(1863)年の生まれであるが、その出身地についての情報はあまりない。
唯一、昭和10(1935)年に刊行された『感激実話全集 第8巻』という本に、それらしい内容がある。これは戦前のこの時期に多く出版された、いわゆる歴史上の美談を物語風にまとめた内容の本で、その史実としての正確性について私には判断出来ない部分があるのだが、同書に「職を賭して墜道を穿つ八丈島の義人」の題で、阿坂多一郎の物語が大々的に取り上げられている。

トンネルが完成して、八丈島は、踊れ、うたへと、前代未聞の御祭騒ぎ、どこの家へ行っても酒の用意がしてある。賑やかなことであったが、一度阿坂島司罷免の噂が、五ケ村の隅から隅へと伝わると、パッと火の消えたようになりました。(中略) 
(彼が島を去ってから)何年か経ちました。阿坂多一郎の名が、ひょっこりと新聞に現れました。
『やア、阿坂さんが、代議士に売って出たぞよ。』
島では大騒ぎ。
阿坂氏の郷里は、隠岐の峯である。で、郷里から立候補したので、八丈では、全島のものが、心から当選を祈って居りました。(中略)處が、惜しや、たった一票の差で、敵候補に破られました。

『隠岐島誌』より

このように阿坂氏の出身は「隠岐の峯」とされている。峯とは、どこであろうか。現在同じ地名は見当らないが、隠岐に「峯」の字を含む地名は数ヶ所あるようだ。
また、『帝国之選良』という大正元年の文書を見ると、明治45(1912)年5月15日に投票が行われた第11回衆議院議員選挙へ島根県隠岐区より出馬した2名の選挙人の中に、阿坂多一郎の名前を見つけた。165票を得ているが、4票差で次点落選となっている。
さらに、大正5(1916)年に発行された『日本紳士録 21版』には、東京市牛込区に住む日本生命株式会社の社員である阿坂多一郎の名前がある。
これらが同一の人物であるとすれば、なるほど『感激実話』は実話らしい部分が多いようである。少なくとも、隠岐から出馬している以上、同地と縁の深い(おそらく出生地?)人物であるのだろう。

『感激』の物語のラストでは、政界進出を果たせなかった阿坂氏が、大正7年に“旭生命保険会社”の創立委員となってあるパーティに出席したところ、かつて彼を罷免した阿部府知事と再開する。知事は彼に駆け寄ると両手を手を取って、彼の島司としての働きと、その先見の明を讃え、謝罪する。2人は和解し、以後亡くなるまで親交を深め合ったとなっている。

阿坂多一郎は、もとより隠岐の地に深く根ざした人物で、そこで隧道の便利さをつぶさに知ったはずである。
たまさか働き盛りの40歳のときに八丈島への赴任となり、その隠岐よりも遙かに遠く孤立した立地を目の当たりにする。上司は遠く離れて通信もままならない東京にいるのである。ここぞ我が島と、俄然やる気を爆発させて、それまで隠していた天性のリーダーシップを発揮するや、一気呵成に難しい隧道を完成させる。さながら“阿坂王国”の勢いで多数の島民に感謝されたというストーリーは、その余りに短い君臨と相まって、さながら異世界転生もの主人公のような波瀾万丈物語である。誰か漫画にして!


このようにして、多くの関係者の尽力によって開通した初代の中山隧道を含む北方道は、期待された通り大いに活躍したようである。
再び『西郷町誌』の記述に戻るが、大正8年には島後に従来の大八車よりも大型の馬車が導入され、大正13年からは乗合馬車の運行が始まったという。はっきりとした記述はされていないが、中山隧道を通ったものであろう、積雪期は馬車の代わりに馬橇を運転したそうである。

続いて昭和に入ると、乗合馬車に変わって乗合自動車が運行されるようになる。
昭和2(1927)年に、隠岐自動車という会社が、西郷〜五箇間のバス運行をスタートしたとあった。
これは少々驚きで、あの前後が直角カーブである狭隘な初代隧道を、どのような車体のものかは分からないが、自動車が走破していたことになる。てっきり自動車の通行は2代目隧道からだと思っていたが、峠の区間だけを歩行連絡していたのでもない限り、そういうことになろう。

ただやはり、大型の車輌が利用するようになると、初代隧道やその前後の峠道のさらなる改修が求められたようだ。
次に紹介するのは、大正5(1916)年12月に県議会議長が知事宛に送った「北方道路改修ニ関スル意見書」の一部である。当時の道路状況が分かる内容となっている。

北方道は(中略)県費負担の里道にして改修既済の道路なるも俗称中山越と称する周吉、穏地の郡界距離約18町の箇所頗る急勾配にして車馬の通行困難なるを以て当局においてこれが再改修を計画せられ今年夏期県庁より技手を派遣して其の実地を測量せられたりと聞く。本会においても該道は隠岐国における幹線道路の一に位するものなればこれを車道に改修して同国の交通機関を整備するの事業は急速事業の一に数うべきものと認むるを以て大正7年度予算中に右改修費を計上して提案せられんことを望む

『島根県議会史 第2巻』所収「北方道路改修ニ関スル意見書」より

このように、県庁や県議会が中山越の道路改良に熱心に取り組んでいた様子が見て取れる。
ただ、引用した意見書がその後どうなったかの顛末は分からない。実際に2代目隧道が掘られるのは昭和に入ってからで、まだ10年以上後である。
もしかしたら、私が現地で目にした、初代隧道北口の拡幅しようとした痕跡は、この頃の改良事業の名残なのかも知れない。
あるいは、実際に拡幅工事などが行われ、その成果として昭和2年からの乗合自動車の運行に結びついた可能性もある。もしそうであるならば、私が現地で見た初代隧道も、明治の完成当時の姿ではないことになる。とても気になるところだが、はっきりとしたことは分からないのが実情だ。


ところで、『島誌』では「北方道」と呼ばれていたこの道は、全国画一の道路制度の中ではどのような位置づけにあったであろうか。
まず完成当初は里道であったようだ。
直前に引用した大正5年の意見書にも、「県費負担の里道」と表現されている。
これは単なる里道ではなく、県費の補助を受ける(現在で言えば県道に相当する)里道ということである。
明治34年に島根県が改訂した「土木費補助規則」(『島根県令規全書 土木・地理』所収)に、県費で補助する路線名の一覧が掲載されているが、そこには既に「北方道」の名前がある。また、大正10年に発行された『隠岐西郷町誌』には、「北方道路、一等里道なれども仮定県道にして」と紹介されている。


『島根県統計書 大正9年 第1編』より

そして大正8年に国が道路法を公布し、9年より施行されると、すぐさま里道北方道は県道の格付けを得ている。
『新修島根県史 通史篇 2』によると、議会は大正9年に「西郷福浦港線」という県道の路線名を諮問しているが、実際に島根県が認定した路線名は右図の通り、「五箇西郷港線」と「五箇福浦港線」の2路線に分割されていた。両者を合わせるとちょうど従来の北方道と同一の区間になり、山中越は前者の一部である。

県道認定当初の五箇西郷港線のスペックは、全長4里17町57間(約17.7km)、幅員2間(約3.6m)、最急勾配1分3厘(13%)というものであった。これはおそらく中山越の区間であったろうが、かなりの急勾配部分が残っていたことが分かる。

そしてこの県道五箇西郷港線という路線名が、戦後の道路法全面改正(昭和28年施行)まで存続することになる。
2代目隧道の建設も、県道の整備として行われたのである。
ここからは、驚くべき“化粧美人”の2代目中山隧道に焦点を当てる。




昭和7年11月から12月に開催された第73回島根県通常県会にて、県道五箇西郷港線の改良が新規事業として採択された。以下は知事による理由説明からの引用である。

先年土木調査会におきまして改修計画を樹立し未だ着手して居らなかった路線即ち五箇西郷港線(以下9路線名を略)を加え新たに五箇年継続事業とし総額110万円を以て改修することとし(中略)、何れも3分の1の国庫補助を計上致して居ります。

『島根県議会史 第3巻』より

こうして昭和8年度より県道五箇西郷港線の整備は島根県により進められることになった。2代目隧道はこの事業によって誕生したのである。


『隠岐今昔写真帖』より

明治29年竣工の初代に代わって、2代目中山トンネルは昭和10年に誕生した。延長は151.2m、幅は3.5m。戦中・戦後を通じて、西郷五箇中村線(国道485号)で重要な役割を担ってきたが、五箇トンネルの開通とともに、ほぼその役割を終えた。

『隠岐今昔写真帖』より

上の文と写真は、平成19年に郷土出版社が発行した『隠岐今昔写真帖』からの引用だ。
小さなトンネルをレトロな自動車が潜り抜けるこの写真は、昭和37年の撮影であるという。

が、賢明な読者諸兄であれば、もうお察しであろう。
この写真は明らかに、2代目中山隧道ではない。
中山隧道はもう少し幅があるし、坑門の外見も扁額の有無など明らかに異なっている。では、この隧道はどこかというと、これは【大久隧道】であると思う。明治37年に東部海岸道に整備された隧道だ。場所は前掲した図に表示している。

ナンテコッタ。
せっかく現役当時の2代目隧道の写真だと思ったのに……?!

だがその後、求めるものを見つけ出すことが出来た。

島根県の近代建築を多数訪ねて紹介しておられる元島根県民のトリ( ・∋・)氏のブログ「元島根県民のお部屋(島根県の近代建築)」の記事「二代目中山隧道」に、同氏の収集された情報がまとめられており、そこに地元紙「松陽新聞」の昭和11年6月1日号に掲載された「中山隧道竣工 隠岐島を縦断する唯一の県道が大変の便利に」という見出しの記事が紹介されていたのである。それも隧道の写真付きで!

写真を含む紙面イメージはぜひ同ブログへアクセスしてご覧いただきたいが、以下に記事の本文を転載する。

隠岐国西郷と五箇間県道五箇村中山隧道とんねるは西郷町二見■次郎氏が総工費2279円で請負ひ昨年6月25日着工したが未曾有の積雪のため意外に工事が遷延し去る5月18日漸く竣工したので検査官小橋技手の検査を終了、同日より開通することになった、これによって隠岐島の中心を縦断する唯一の県道が自轉車てんしゃで楽々と往復することが出来るので一般から非常に喜ばれてゐる (写真は中山新トンネル)

「松陽新聞」の昭和11年6月1日号より

記事により、2代目隧道は、地元西郷町の土建業者の請負によって昭和10年6月に着工し、翌11年5月18日に開通したことが分かる。五箇側坑口を撮影したらしき写真も、まさしく私が見た【ボロ隧道】の生まれたままの美麗な姿らしいもので、乗合自動車らしき小型のボンネットバスも一緒に写っていた。

こうして中山峠は一段と利用しやすい道となり、2代目隧道は完成から半世紀近くの後、昭和59年の3代目となる五箇トンネル開通まで、大変長く利用されることになった。
その後の経過を見ていこう。




昭和30(1955)年2月4日、島根県は新道路法下における第一次の県道認定を行った。
このとき多数の路線と一緒に県道西郷五箇中村線が認定され、同時に建設大臣による主要地方道の指定も受けた。

この路線は、右図に示した現在の国道485号の経路とのうち、西郷から中村までを結ぶものであった。旧来の北方道は福浦港を目指していたが、新たに島の最北部を経由する路線となったのは、島内でも開発が遅れていた地域への開発効果を狙ったものであったと思う。

この県道の認定より少し前の昭和25年に、国は国土総合開発法を公布している。そしてこの法律を根拠にした特定地域総合開発計画が、全国22の地域に対して実行された。太平洋戦争後の食糧や電力等、緊急必要物資の確保を図ることを目的に、従来の低開発地域で集中的な開発を行なおうとするもので、昭和26年に指定された19地域の中に隠岐諸島を含む島根大山地域があった。特定地域総合開発計画は昭和42(1967)年に終了している。

昭和25年に発行された『国土綜合開発の展望 国土計画最近の進歩』には、島根大山地域の主要な整備対象として「隠岐島の林産資源搬出路たる五箇西郷港線の改良を根幹とす」と挙げており、当時の隠岐が森林資源供給地としての期待を背負っていて、その搬出路の役割をこの県道が担っていたことが分かる。

さらに追い風となったのが、昭和28(1953)年より施行された離島振興法の存在だ。この法律は離島にある不利性を克服し離島地域の振興を図るために様々な措置を講じることを規定しており、なかでも道路をはじめとするインフラの整備には特別に大きな国庫補助規定が盛り込まれていた。同年10月28日に隠岐も同法の振興計画実施地域に組み込まれている。
その効果は劇的であったようで、『西郷町誌』は「離島振興法による道路、港湾、電気、水道などの整備はたしかに島の様相を一変しつつある」と書いている。同法による補助は現在も続いている。

これら、国による様々な施策をバックに、県道西郷五箇中村線の整備は着実に進められていった。
昭和36(1961)年に島根県が策定した10年長期計画の『島根県総合振興計画』では、同県道の整備について次のように書いている。

島後地区の幹線は南北に縦貫する西郷五箇中村線であり、45年度までに15kmを改良し全線を2車線道路に整備する。

『島根県総合振興計画』より

2代目トンネルでは2車線を確保することは出来ないはずなので、当時既に3代目トンネルを昭和45年度までに完成させる計画であったようだ。
だが、実際にそれが果たされるのは昭和59(1984)年であったから、なお紆余曲折があったことが疑われる。

主要地方道西郷五箇中村線は、昭和52(1977)年に主要地方道西郷浄土ヶ浦線へ変更された。
終点が中村から布施(そこに浄土ヶ浦という観光名所がある)に延長されたのである。そして後の平成5年に国道485号へ昇格した島後島内の部分は、この西郷浄土ヶ浦線の全線であった。
3代目にあたる五箇トンネルの建設と開通は、いずれも西郷浄土ヶ浦線時代の出来事となるが、調べてみてもここで解説出来そうな情報は何も得られなかった。




昔の出来事ほど、劇的なもののように思えてくる。
というのは、単純に私の興味の中心がそこにあるせいもあるだろう。
だが、時代が進み、世の中のあらゆる制度が高度でシステマチックなものになるにつれ、特筆するようなイレギュラーが減っていくためもあるだろう。

島民の熱意だけをほとんどその背景に、島で1番目とか2番目の誕生という偉業を果たした中山越の隧道も、昭和の2代目となると、県土を広く見据えた大きな全体計画の中で、トップダウンに整備されるものとなり、さらに時代が下った3代目は、国の補助事業というさらに大きな枠組みの中で、緩やかに実行されたようである。
もはや、道路に劇的な物語を期待する時代は、昔のものとなったのかもしれない。
古い道を訪ね歩くことは、道路の物語に心を満たされたい私にとって、欠くことのできない行為である。