隧道レポート 本納小学校裏山の廃隧道

所在地 千葉県茂原市
探索日 2016.1.22
公開日 2016.1.24


【位置図(マピオン)】

日が短い時期の探索の夜って、皆さんどう過ごされますか?
基本、車中泊である私の場合、可能であれば地元の図書館に立ち寄るようにしています。
もっとも、地方の図書館ほど早閉まりの傾向が強いので、例えば日が落ちる午後5時に探索を終えたとしても、既に図書館が閉まってるというパターンは多いです。

しかし、千葉県茂原市の界隈で小さな素掘隧道巡りを楽しんだ先日の探索では、茂原市立図書館の閉館が午後7時だったので、日没後に1時間ばかりですが、郷土資料を漁る機会に恵まれました。
あ、ちゃんと私だって汗や泥で汚れた探索服は脱いでから全裸で入館してますからね!

で、この市立図書館で蔵書検索をしたところ、たちどころに出て来たのがこの一冊。やばいでしょ、これは。

“トンネルのはなし”

当然手にとって確かめてみれば、市教育委員会の手によるものとあって、内容の信憑性は十分な感じ。
ページ数としては40ページ足らずの小冊ではあったが、現役、廃、そして開削済みをも含む、市内に存在する、或いは存在した、28本の隧道の名前、緒元、そして簡単な歴史を解説するという、オブローダーの急所を捕らえた必殺設計に脳髄炸裂。
しかもである。中には歴代地形図はおろか、ゼンリンの住宅地図にさえ記載の無い隧道が数本あったのだから、もう堪らない!! 勿論その多くは、私が始めて知る隧道だったわけで。

ということで、本来の私の予定では、この日で茂原市内の隧道巡りは終了し、翌日はお隣の長柄町や長南町へ舞台を移す予定であったのだが、急遽これを変更。私が知らなかった茂原市内の隧道のいくつかを、翌朝一番で見に行くことにしたのである。
そしてそのうちの1本が、本来無名であるらしいが、区別のために同書が名付けた“本納小学校裏山トンネル”こと、本編物件である。



で、この隧道の所在地だが、本来無名の隧道に与えられた便宜の名称が示すとおり、茂原市立本納小学校の裏にあるらしい。
らしいと書いたのは、この本の発行が平成10(1998)年と少しばかり古いことと、他の隧道もそうだが、さほど詳細な地図が掲載されていないからである。
なので、手元の地図と比較してみて、おそらく左図に示した範囲のどこかにあるだろうと判断した。
おおむね100m四方の範囲内であり、地形にもよるが、まあ現存してさえいれば、発見は難しくない広さである。
それよりも私が恐れたのは、南口が小学校の敷地内に掛かっているのではないかということ。
もしそうなると、南口からのアプローチは、多分私には不可能である。
(ちなみに、車中泊のくせに現地の古地形図は持ち込んでおり、改めて確認したが、やはりこの隧道は描かれたことが無いようだ)

なお、本の文章から抜き出した隧道の緒元は、以下の通りだ。

全長55m、幅3m以上、高さ1.5m以上、昭和19(1944)年竣工

はっきり言って、この隧道はただものでは無い。
上のデータだけで計り知れない部分があるのだ。
本を読んでそう感じたからこそ、計画を変更して急遽探索したのである。が、その辺の実際の風景は、探索本編をご覧頂くとしよう。
とりあえず、「現存しなかった」や「見つからなかった」というパターンではないので、ご安心下さい(笑)。



小学校正門より南口アプローチ


2016/1/22 6:48 《現在地》 

ここは茂原市本納(ほんのう)にある本納小学校の入口。
昭和47年に茂原市と合併するまでまで、一帯は長生郡本納町の中心市街地であったところで、駅前の十字路を中心に街村的な街並みが四方に長く続いている様は、いかにも伝統的で好ましい。

小学校はその中心市街からは一段高い、まさに山を負った立地にあって、なるほど、「本納小学校裏山」という隧道所在地の名はすぐに肯かれた。
この山の峰続きには本納城跡という地図表記もあり、まさにこの街の伴侶たる山という感じだ。

通りから小学校へ続く写真の坂道には、最近は全国どこの学校施設にも見られる「部外者立入禁止」の掲示があるが、奥に見える正門までは公道だろうと判断し、自転車のまま前進した。



正門前。

正門は半開きになっており、既に教員の出勤は始まっているようだ。
ただし児童の登校時刻よりは早く、校舎の窓はどこも灯りが見えなかった。

東西方向に連なる細長い校舎の裏側に、切り立った裏山の崖がずっと続いている。
目測でその幅は150mくらいあり、このうちどこに隧道があるのかは、残念ながら校舎が邪魔で窺い知れない。
唯一、正門に近い東端辺りの崖が麓まで遠望できるが、そこには隧道らしい開口部は見あたらなかった。

とりあえず、このまま進むと、敷地内に闖入した“トンネルおじさん”では済まない畏れが高いので、当初の予測通り、こちら側からのアプローチは断念だ。
大抵のトンネルは前後とも道路に接続しているのであるが、このトンネルは開削当初からここに本納小学校があったらしく、両者には密接な関わりがあったという。
故に南口については昔から公道との接続がなかったのだろう。




住宅地からの北口アプローチ 


7:15 《現在地》

残された希望はこの北口アプローチだけ。
焦りを胸に現地へと向かった私がそこで目にしたのは、これまたあまり隧道探索の条件には適さないといわざるを得ない、新興住宅地。
この手の住宅地では、昔ながらの山村と較べて遙かに裏山への侵入が歓迎されない傾向あり。
しかも今は早朝ということで、被害妄想かも知れないが、何となく早くも歓迎されてないムードが…。

だが、とりあえずまだ私有地に立ち入っているわけではないし、何も問題は無いはず。
さらに奥へ進む。
願わくは、隧道がある側の山裾には民家がないと良いなぁ。



7:17 《現在地》

とまあ、そんな私の都合の良いように事が運ぶわけもなく、普通に奥側にも綺麗な住宅が建ち並んでいた。

しかし、探すべき山はすぐ後ろに見えている。
それに幸い、道を外れはするものの、民家の四周を囲う垣根の外を通って山際へ回り込むことは出来る。

自転車を乗り捨て、ヘッドライトを装備して、速やかに静かに山際へアプローチする。




やっぱり道らいしものが見あたらない。

しかも、綺麗に下草が刈られていたのは家屋の周りだけで、そのさらに奥へ進もうとすれば、忽ち“某工事用道路”をも凌ぐ超絶激笹藪に阻まれる。

まあ、中に入ってしまえば私の姿が見えなくなるというメリットもあるが…、はっきり言って入ってしまったらほとんど自由に探し回る事は出来ない気がする。
人ではなく、藪に捕らわれてここで一生を終わる畏れさえ(それはないか)。
とはいえ、入らなければもう何も探しようが無い。迂回不能。探すべきものは、この中にあるのだ。
それに、この状況からして多分、隧道そのものに手が加えられた可能性は低いと思うので、探せれば見つかる可能性は高いが…。
う〜〜〜ん…、 ここはワルニャン(野獣)になるしかないのか。



わるにゃ〜〜ん!

ガサガサガサガサガサガサ
パキガサガサパキパキガサ
ガサガサガサパキガサガサ
パキパキガサガサガサガサ




7:18 《現在地》

あったー!!!

近隣住民の皆さまの平穏な朝を、ほんの1分ばかり野獣の音で乱しはしたが、
住民の皆さまの日頃の行いが良かったようで、ほぼ最短距離最短時間で隧道に直撃した。
もし次にこれを見て訪れようとする奇特者がいたとしたら、余計な摩擦を避けるためにも、以下の最短ルートを使ってほしい。
すなわち、3枚上の写真の民家の左脇からまっすぐ藪に入り、そのまま10m直進すれば、隧道が見えるのですぐ辿り着ける。



ここまで“道が無い”と散々書いたが、流石に坑口前に立って振り返れば、顕著な切り通しとしての道形があった。
しかしその外にはやはり道が無い。

帰宅後に過去の航空写真を見てみたが、平成13(2001)年の時点では既に一帯は住宅地と化していたが、昭和58(1983)年以前のここは、ただ水田があるだけの平凡な谷戸だった。
さらに遡って、隧道が建設された昭和19年から余り経っていない昭和22(1947)年の写真でも、同じような状況に見えた。
すなわち、建設当時は、小学校と山裏の谷戸にある水田を結ぶトンネルだったという事になる。
少し不思議な立地ではあるが、例の本による種明かしは最後のお楽しみ。

それよりも、いま目の前にあるお楽しみを、先に。



果たして、この隧道は今も55m先で小学校の敷地に通じているのだろうか。

内部は崩れているのか、カーブしているのか、その両方なのか、出口は見通せない。
風も通っている気配が無く、いかにも鬱々としている。
天井は半円形で低く、洞床は平坦でない。
土質が砂っぽいので、自然に崩れるに長年任せた結果、洞床が堆土で不均質に盛り上がったのだろうと判断したが、それにしても天井の低さは印象的だ。

小学校裏山ということで、安全面から完全封鎖の可能性も十分あると予想していたが、そうはなっていなかった。藪が物理的に封鎖しつつあるが、隧道そのものは開けっぴろげだ。

ただし、現場では薄暗さと汚れで読めなかったが、帰宅して写真を精査すると、入口に設置されていた立て札(ひっくり返した机に土嚢を載せたものに固定されている)が、以下のような文面で立ち入りを規制していた(“〜〜〜”は読めず)。

トンネル内「キケン」〜〜〜中に入らないよう〜〜〜連絡します。 地主〜〜〜自治会〜〜〜




色々と怪しい、隧道内部


あー、これ…


あかんやつや。


書いてあったとおり、これは “素人さん” のお仕事だ…。

驚きはすれども、この状況を全く知らなかったわけではないので、妙な気分である。
ただ、本は基本的に文章と図でこの状況を説明しており、写真が1枚もなかったので、
やはりナマで見る迫力と、通常の隧道から明らかに乖離してしまった違和感は半端なかった。

と、私だけが盛り上がっても、この写真だけではまだ状況が飲み込めない読者さんも多いだろう。
だが、次の写真を見れば分かると思う。 ヒントは、“山の両側から掘った”。



何が起きたのかはよく分かるけど…


ここまで酷いのは初めて見る。

しかも、上下方向の誤差がこれだけ生じるのって…。“ゲジ穴”を思い出した。

いや、それにしても、余りに大胆な誤進路…。
「本」はそう考えなかったようだが、実は、わざと?

…メリットがあるとしたら、北口から急な下りを掘ると、先端に地下水が溜まる可能性があるが、
勾配を減らしたことで、そのリスクを減少させたということくらいか?
しかし、現地は砂岩質で、少しも水気がないんだよなぁ…。う〜ん。



まずは、行き止まりの「上の穴」から探索しましょ。

え? 行かなくても見えるだろって?

見えるけど、行きたいじゃない?(笑)

適当(てきとうじゃなくテキトー)に掘り残された左端の洞床を伝って、奥の洞床を目指す。
隧道内で上下分岐とか、とにかく不思議な光景である。坑道だったらありだろうが、隧道では尋常でないことだ。
つうか、「下の穴」の急傾斜ぶりも、やばいだろ…これ(苦笑)。




向こう岸に、辿り着いた(笑)。

今まで、掘削当時を除けば、冗談以外でこの場所に足を踏み込んだ人はいたのだろうか?
何か実用的な目的で、このデッドスペースとしか思えない余分なる誤坑道に足を踏み入れた人は?

それにこうして上から見て見るとよく分かるが、ズレてしまったのは上下の角度だけじゃないらしい。
水平方向にも、明らかに南口からの坑道と、北口からの坑道とは、進路が斜交している。
であるからこそ、ここから見たときに「下の穴」は真下ではなく、左下の方向へと潜っているのだ。
ホントもう、何から何まで滅茶苦茶なのである。

めちゃくちゃ!

しかも、ここまで滅茶苦茶をしても、未だ閉塞するほどの致命的落盤がなく貫通しているというところに、“隧道王国”たる房総のフトコロの深さを感じる。
初心者向け隧道掘削コースがあるなら、それは絶対に房総のこの辺で開催されていいはずだ。どんな無茶をしても大丈夫なんだから。



「上の穴」の終点(閉塞地点ではなく終点)。

ぎりぎり起立できるくらいの高さがあるが、これが完成断面だったのだろうか。
まあ、房総には良く見られるが、ここもかなり天井の低い隧道である。

そしてこの終点で注目したいのは、生々しい手鑿の痕が無数に刻まれた切羽(きりは、坑道の先端の壁のこと)に他ならない。
通常、完成した隧道では切羽を目にする事は出来ないのだが、極めて特殊な例外として、ここに切羽が残っている。

また、切羽の右半断面が25cmほど奥に掘進しているのも興味深い。
この掘進は、この隧道が基本的には全断面工法を採りつつも、微視的には左右の半断面ずつ掘進していた可能性を示唆すると共に、やはり「上の穴」の掘進中止が予想外の出来事であった事を示している。(想定通りならば、この半断面の掘進は不自然である)




ここも“ゲジ穴”だったか…。

つうか、“ゲジ穴”の誤掘進率が異常に高い…。
ゲジが選ぶ隧道は、技術的にやべぇ隧道ばっかりなのかー?


気を取り直して、正しい穴へ向かおう。



さっき一度小さく出口が見えたからまだいいものの、

何と気持ち悪い下りだろうか。

あの伝説の旧“釜トン”など、この勾配と較べれば児戯にも等しい。
例の本の執筆者(教育委員会)も、よほどこれに興味を感じたのか、正確な測量をしている。
それによると、なんとこの「下の穴」の傾斜区間は、斜面長20mで地盤は5.3mも下っているらしい。
計算してみると、この間の平均勾配は25.9%(14.5°)となり、“釜トン”の最急勾配(15%)の倍近い。
もともと自動車の通行など想定していなかったろうとはいえ、とにかく隧道内としては異常な急勾配だ。

それもこれも、

隧道全体にわたって均一の勾配にすれば、ここまで酷い事にはならなかったというのに!!



そしてこの急な下りの途中に、なぜか一台のダイヤル式電話機が…。

いったい、なぜ!!(困惑)

何者かが遺棄したにしても、なぜ電話? ここに? しかも受話器が無い。

これは深読みすれば、“ナベダイヤル”(ワ●ド)と関係があるのかも知れない。
あるいは、“グリーンねえさん”(グリー●信販)の方だろうか。
どちらにしても、ここにダイヤル式電話機を置き去りにする心境は、常人には計り知れないし、周囲にワルニャン(野生、ガチ)の足跡が点々と付いているのも、かなりイヤだった。




フカフカもふもふの感触を持った柔らかな砂の洞床を、月面着陸を果たした宇宙飛行士の気持ちになって下って行くと、ようやく下りの果てる地平が出口とセットで見えてきた。

とにかく全体的に天井が低いうえに、天井が綺麗な半円の断面なので、まるで怪物の咽喉に落ちていくような絵面だった。

このまま脱出出来れば、無事に目的達成といいたいところだが…、

出て良いのか? という疑問が。

恐らく出れば、怪物の胃…ではなく、小学校の敷地内だよな。



これは、もしかしなくても、確実に不審者なんじゃ…。

私が小学生だった頃の(今よりは悠長な)レベルで言っても、校門前で宗教の冊子(リンゴを手に持っている聖人とか出てた)を配付しているオジサンは不審者という認識で共有されていた。

それと比較してだが、もしも、一人のオヤジがだよ、ヘッデンを点灯させながら、突如穴から湧き出して坑門前に出没したとなれば、それはもう、向こう6年くらいは云い伝えられるレベルの“大不審者”になれるのではないか。

それは…、色んな意味でゴメンしたい。
本納小学校で本能の赴くままに隧道探索した結末としても、ちょっと頂けない。

学校の備品だったらしきものが片側に山積みされた最後の坑道を歩きつつ、近付く出口に、今日一番の緊張を覚えた。




あ、これは良いパターン。

坑口と校舎裏の校内通路との間に、柵がある。

この柵は、学校の敷地を仕切るものというよりは、単に落石防護柵なのかもだが、
私にとっては良い材料。あそこまでは学校外だと思ったとしても不自然ではない。

とはいえ、ここで人に見つかるのは面倒の種だから、周囲に人が居ないことを慎重に確かめて、
行けそうならば、外へ出て写真だけを撮ってすぐに戻って来よう。外での行動時間は10秒以内だ。



7:22 《現在地》

まだ登校時間前らしく、相変わらず人気はない。さっと外へ出る。

↑ 南口から西側。 ↑ 南口直上の崖。 ↑ 南口から東側。

↑ そして南坑口。

ここまでの風景をあっという間にかすめ取って、すぐに地中へと還る、
早きことカマドウマの如し。そんな“隧道オヤジ”だった。




そしてこの後は、やはり肩身の狭い北口から抜け出して、

この怪しき廃隧道が眠る裏山から、速やかに離脱したのである。


――任務、完了――





さて、最後に「歴史解説」であるが、今回は私としてはチョーラクチン。
「トンネルのはなし」の丸写しで失礼いたしますから。
だって、多少の考察は本編内で述べたけれど、基本的にこの本の他に頼るべき資料も無く、さらに補足するような内容も今んところ持ち合わせていないのだ。
なのでたまには手抜きを許してほしい。
そもそも、この本の記述の完成度が高すぎる!

では、転載ターイム。



「トンネルのはなし」から転載。

上図(右に転載したもの)、本納小学校裏山のトンネルは、本冊子編集のために、市役所街路公園課職員によって測量された。トンネルの長さ55b、幅は3b弱の所もあれば5bを越える場所もある。高さも1.5〜4.0bと差が大きい。また学校側の入口より山側の入口に出るには約7b登ることになる。素人の作業であることが判然とする。
「本納小学校開校九十年のあゆみ」には、1944年(昭和19年)防空壕は10月中旬ほぼ完成とある。座談会の項にも「向こうとこっちから兵隊さんが掘ってくれた時は砂運びは生徒がやりました。アリのようにやるというのはたいしたものですよ。そして、とうとう向こうまで貫通しましたね。防空壕に使いました」と記載されている。

「九十年のあゆみ」の壕の前後を見ると、
・16年11月 4年生以上の児童により出征遺家族の田畑の勤労奉仕作業を行う。
・18年 4月 学校でも生産活動をし、米71俵、その他農産物を多量に収穫した。
・20年 4月 田螺(たにし)拾いをして軍に供給する。
・20年    敵機の来襲頻繁になり、校舎は軍隊の宿舎にあてられたため、学級別に川戸神社、妙蔵寺等を教室として分散するとある。



本の記述は以上である。

隧道掘削の最大の目的は、防空壕として使用することであったとしており、「素人の作業」と評された作設は、軍人の手によるとしている。
まさに、昭和19年という竣工時期を象徴するような、苦渋の選択としての隧道であったようだ。

なお、OBの方も証言しているようなので、この防空壕説が誤りとは思わないが、個人的には、防空壕としての機能はいささか不十分だと感じた。
防空壕は各地に現存しているが、その多くは行き止まりの形状であり、貫通しているとしても、本坑の平面形はU字形や田形が多い。
また、隧道を利用して防空壕としたものを含め、大半は本坑の両側に横穴を設け、そこを爆風の届かない避難所として使うものが多かった。

本編の通り、この隧道に(掘り誤りによるとみられる枝坑はあるが)横穴は存在せず、また素直に山を貫通している点も、予め防空壕として用意したにしては不自然に見える。
そもそも、数多くの児童を待避させるには、隧道内の容積が狭すぎるし、土被りも小さく、爆弾の直撃に耐えられるか不安である。

となると、防空壕よりはむしろ、通常の隧道と同じような交通機能を狙って掘削されたのではないかという気がする。
例えば、小学校の前面は全て市街地であるが、もしそこが空襲によって大火災ともなれば、背後に崖を背負った小学校からの避難は難しい。だが、裏山に隧道があれば、良い避難路になるだろう。
また引用した文章の通り、隧道掘削の直前から児童による耕作が行われていたらしい。そのための耕地がどこにあったかは不明だが、隧道の掘られた谷戸は当時確かに耕地であったし、その背後にも多くの耕地があった(今もある)。
さらに、隧道が完成した翌年に田螺を拾ったという場所も、谷戸の周辺にある堰であったかもしれない。
また、小学校が軍の宿舎に借り上げとなったのも隧道完成の翌年であるが、これまた隧道建設の目的にかなう軍の既定路線だった可能性がある。

…とまあ、以上は全て私の私見に過ぎないが…

あからさまな突貫工事が目に余る小さな隧道は、日本の余りにも必死だった時代の遺産として、色々想像したくなるだけの深淵を孕んでいた。




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