2008/7/2 17:21
連続11%の急勾配に耐え抜き、脱出した先は、産屋(うぶや)沢という。
トンネルから続く坂を登りきったところで突如平坦になって短い橋を渡るが、この下の小さな沢が産屋沢である。
釜トンの入口が中ノ湯なら、出口は産屋沢と、昔から知られた名前だという。
釜トン自体のカリスマは失われてしまったとはいえ、梓川の車窓の大なる変貌は、依然として釜トンの存在感を確認させてくれるものだ。
中ノ湯までの車窓はずっと急峻なV字谷の底にあったが、この産屋沢まで来ると、上高地を象徴するあの風景…大正池…を彷彿とさせる、壮大な山間の堆積平野に変わっている。
実際、ここから大正池まではもう2kmほどだ。
川べりを行くこの県道「上高地公園線」も、トンネルであんなに登らされたのがまるで嘘のように、あとは終点上高地までほぼ平坦である。
え? 上高地?
なにそれ? 美味しいの?
…というわけで、Uターン!
つうか、Obターン??
nagajisさんとも笑ったんだが、ここまで登ってきて上高地へは行かないとか、どんだけマゾだって話だよ(笑)。
17:22
新トンネル上高地側坑口の目の前で分かれ、梓川河原の方へ急激に下っていく道があるが、これが旧道。
旧・釜トンネルへ繋がる道である。
当然、新トンネルが出来るまで、すなわち平成17年頃までは現役だった(後で少し修正あり)道だけあって、2車線舗装路の状況は思いのほか良い。
はじめの急な下り坂だけで10m以上高度を下げ、新トンネルで苦労して稼ぎ出した145mが早速消費された。
これを行っても最後はまた戻ってくるしかないわけで(警備員さん…)、チャリ同伴で行くのも複雑な心境であった。
まあ、オレはともかくnagajisさんがチャリを手放すのはよほどのことがない限り無理で、とりあえず路面が続く限りチャリも続くんだろうナァー(遠い目)。
ともかく、これよりオブローディングスタートだ!
相手は、なんと言っても アノ 釜トン。
いったいどれほどの遺構が待ち受けているか。
楽しみで仕方がない。
私も十数年前に体験しているが、トンネル前後には信号機による片側交互通行規制が敷かれ、そのための標識なども多数設置されていた憶えがある。
平成7年以降は通年でマイカーが入れなくなったので、一般車向けの標識は取り外されてしまったのかも知れないが。
ともかく、我々が釜トンへ接近する中で最初に遭遇した標識は、いかにも釜トンらしい、「3.2m制限高」であった。
この「高さ3.2m規制」のせいで、釜トンには最後まで二階建てのバスは入れなかった。
下り勾配が一段落すると、ほぼ梓川河床と同じ高さになる。
その流れは、なお穏やかだ。
そして、行く手に現れたるは、その名も「釜上洞門」。
読みはおそらく「かまがみ」となるのだろうか。
地名というよりも、釜トンネルの上手に繋がる洞門という名付けなので、「かまうえ」なのかも知れない。
そういえば、中ノ湯側の旧坑門を覗いたときにも奥に釜トン自体は見えず、その代わり長い洞門が見えていた。
実は、あれが「釜下洞門」である。
廃止直前のそれぞれの延長が記録として残っている。
釜上洞門 455.3m。
釜下洞門 226m。
二つ合わせれば、新トンネルの約半分の長さにも相当する長大さだ。
そして、両者にサンドイッチされているのが釜トンなのは言うまでもない。
前後に、「釜」を姓とする堅牢なる洞門を従えた姿は、まさにトンネル界の重鎮と呼ぶに相応しい風格である。
私は、この段階で早くも釜トンの溢れ出るカリスマ性を、ビシビシと感じとっていた。
現在くぐっている釜上洞門は、平成5年に完成したものである。
だから、現役としては10年ほどしか利用されていない事になる。
釜トンネルより遙かにお金もかかっている(時代が違うから当たり前だが)だろうし、素人考えだが、この洞門の放棄はもったいない気がする。
もちろん、やむにやまれぬ事情もあったのだが、事情を知らない目から見れば、本当にもったいない。
実際にも、この写真のように状況は極めて「端正」である。
路面も含めて、オールグリーンだ。
上の写真に写る奥のカーブまで進んだのが、左の写真。
…気付かれただろうか?
微妙に古びて来たことを。
壁面の形状が、少し変化したことを。
再び、上の写真の奥のカーブまで進んだのが、右の写真。
またしても、壁面の形が変わっている。
最初にそっくりだが、同じではない。
それに、路面にもやや綻びめいたものが…。
しかも先を見ると、さらに形状が変化するようである。
勘の良い方ならばもうお気づきだろう。
我々は、時代を遡りながら下っている。
つまり、進むほどに古い時代の洞門が現れている。
釜トン自体も当然改良の必要はあったが、その前後の梓川峡谷に面する明かりの区間も、落石や雪崩のリスクに晒された危険地帯であった。
とはいえ、一番最初はそこに釜トンだけがポツンとあった。
現在のように釜トンの前後に長大な洞門が作られるようになったのは、悲惨な事故が元になっている。
昭和39年3月、登山で釜上付近を通過した大学生6人が相次いで雪崩に巻き込まれ死傷するという遭難事故が起こった。
遺族は「二度と悲劇が繰り返されないように」という願いを込め、県に道路改良費50万円を寄附したのだという。
道路管理者である長野県はこれを拠金として、昭和39年秋、釜上側に全長15mのスノーシェッドを建造した。
以後、安全への備えをより万全とすべく、釜上と釜下の両側に向け毎年のように新たなロックシェッドや洞門が作られてきた。
その結果が、この継ぎ接ぎだらけの洞門なのである。
…そういえば、
しばらく“外”を見ていない気がする。
それに、なにやら随分と水の音が騒がしい。
見てみるか…。
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ぎゃあぁ!!!
ドドドドドドド
気付けば横で、梓川が大変な事になっていた…。
見ての通り人造の滝であるが、これを「釜ヶ淵堰堤」という。
昭和11年に国の砂防事業として着工し、18年に落差25m幅79mという上部堰堤(練石積アーチ式)が完成、翌年に下流側の第一副堰堤が竣工した。
昭和初期における最大級の砂防堰堤として、平成14年に国の有形登録文化財に指定されている。
釜トンを抜けると真っ先に飛び込んでくる上高地の車窓として、長いあいだ多大な印象を与えてきた存在だが、新トンネルによって存在感を失った。
洞門全体の空気を振動させ、飛沫混じりの風を吹きつける圧倒的な迫力に、我々はしばし釘づけとなった。
いよいよ、その本性を剥き出した「釜ヶ淵」。
その核心部へ、我らが洞門は、溺れてゆく…。
始まった!
ぐっつぐつに
煮立ってる!!
そもそも「釜」の名前は、梓川の流れがこの先の淵で極端に狭まり、怒濤と水しぶきのため、煮立った釜のように見えたことに由来するという。
今日の釜は、まさに沸点を越えている。
洞門が連なっている間はまだ核心部ではない(核心部は、道が釜トンに逃げた先、写真右の白い崩壊斜面の先だと言われる)が、既にもうもうと湯気のような飛沫が谷を舞っている状態。
洞門もまた凄まじい所に へばり付いている!!
これだけの洞門群を築いておきながら、最後は全ての風景を捨てて地下へ逃げた現道。
だが、この悪地形ではそれもやむなしという気がする。
どんなに堅牢な洞門だって、キャパを越える破壊力を持った落石や雪崩に襲われないという保証は、全くない。
17:25 【現在地(別ウィンドウ)】
釜上洞門が始まってから約300m。
形状は4パターン目だろうか。
唐突に、停止線が現れた。
その先には、センターラインがない。
つまり、一車線ということだ。
間違いない。
現役時代、中ノ湯へ下る車はここで釜トンの信号待ちをしていたのだ。
残念ながら、信号機や標識類の設備は撤去されたのか跡形もないが、白線だけが真実を語っていた。
停止線の50m先。
遂に、運命的な場面に遭遇。
それも、私にとってはダブルで運命的!
一つは、オブローダーならば絶対に目を反らせない風景…。
念入りに、路外の中空に至るまで封鎖された
本線…。
車も通れる大型の両開き扉になっているが、当然のように施錠されている。
どこにも立入禁止などとは書かれていないが、「言うまでもない」というところか。
もっとも、釜ヶ淵自体が立入禁止にはなっている訳ではないから、このゲートの向こう側に人がいても絶対に不自然というわけではない。
それが、野外にある立入禁止が抱える矛盾である。
…って、さすがに屁理屈だな、これは。
いずれ隧道までの間には「ゲート」が現れるだろう事は予見していた。
それよりも私にとって運命的だと思えたのは、この「トンネルナンバープレート」である。
番号は19。
この番号は、奈川渡ダム下流にあった「小雪なぎ隧道」から、国道158号上の各トンネルに続いて来た通し番号である。
ただし、18番までは国道158号であったが、このラストナンバーのみが、県道24号上にある。
つまりこの通し番号自体、上高地へのカウントアップだったというわけだ。
何より印象深かったのは、この途中の番号の中には既に旧道化し廃隧道となっていた物もあって、それらを全て体験した上で総括としてのラストナンバーという点だ。
その全てが今日一日の探索であっただけに、なおさら。
そんな私的な事情を省いても、このプレートにはツッコミ所がある。
なぜ、 「かまとんねる」 なのだろうか。
他のプレートは、トンネル名だけを平仮名で記していた。
その例で行けば、これはたった二文字 「かま」 となるはずだ。
そう言えば、このトンネルに関しては、昭和初期からのモノであるにもかかわらず、「釜隧道」という言い方はなぜか聞かない。
もちろん、最初の頃はトンネルという言葉が輸入される前だから、当然「隧道」だったと思われるのだが、確証はない。
いずれ、ニックネームが「釜トン」であることからも、この釜トンネルというやつは、そのトンネルより隧道と呼びたくなるような外見とは裏腹に、「トンネルであること」を強く主張するらしい。
なぜかは分からないが、面白いことだ。
昭和初期にこのトンネルを初めてバスが通り始めた頃、近代アルピニズムの隆盛とともに外国人の訪問者が多かったと聞くが、もしかしたらこの釜トンネルの呼称を決定づけたのは、彼らの言葉だったのかも知れない。
ゲート後の洞門。
ナンバープレートは表れたが、未だ隧道が始まっている気配はない。
しかし、停止線とゲートを越えて表れた“5形態目”の洞門は、
明らかにこれまでよりも古びていている。
路幅も、狭くなった。
気付けば勾配も急である。
何もかもが、怒濤の谷底へと呑み込まれようとする“釜ヶ淵”。
旧道はいま、その落ち口から零れた。
遠からず、暗き…
釜の口へと没する。