隧道レポート 釜トンネル 最終回

所在地 長野県松本市安曇
探索日 2008. 7. 2
公開日 2008.10.31

 釜トン 横穴の真相 


17:41

全長510mほどの釜トン。そのほぼ中間地点にあるカーブの外側の壁には、同じ形をした穴が二つ並んで開いていた。

人が出入りするには小さいが、いったい何の穴なのか?

右図の通り、現在地点は明らかに地中である。
先ほどの「明かり窓」のように、壁一枚で外に通じているとは思えない状況なのだ。




私とナガジス氏は、
一人一穴の体制で、ここに進入してみた。







おや、ナガジスさん。

四角い穴をしゃがみ歩きで通過すると、そこには立ち上がれるだけの空洞が現れた。

そして、そこではもうナガジス氏がニコニコしていた。


……ここは、どこ? 

どこだ?!








ここも… 釜トンなのか??



やべー…




また洞内分岐だよ……。




我々が潜り抜けた二つの穴は、よく知られた釜トンと、その陰に存在している知られざるもう一つの釜トンとを結ぶ、秘密の通路のようであった…。

両者を分ける隔壁は、分厚く堅牢なコンクリート製だ。
横穴は完全に抹殺出来たはずなのに、二つの穴が残されたのは何故だろう。

それはさておき、数十年分の排気ガスは穴を通じて“こちら側”にも充満していたのだろう。
素堀の岩盤は、煤によって真っ黒く変色している。
それはさながら火災現場のようである。

火災現場とのもう一つの共通点は、そこに何ら“生ある”者が無さそうだという点だった…。




目の前には、全く得体の知れない金属製の残骸が置かれていた。
明らかに“二つ穴”よりも大きく、今のように塞がれる以前に持ち込まれた“何か”であることは明らかだった。

そして、横穴は異様に狭かった。

立ち上がるともう、目線は明らかに天井に近かった。
目測であるが、「幅2m、高さ2m」程度と思われる。

周囲の壁はすべてコンクリートに覆われているものの、路面のみは未舗装で、拳大の瓦礫やコンクリートの破片、木片などが雑多に積まれていた。
ここは、明らかに“年季の入った廃隧道”の姿である…。




巨大な残骸の脇をかわすと、進路が開けた。

出口だ!!

なんと、この横坑は外へと通じていた。

推定される全長は、50mほどだ。

その進行方向はおそらく、壁の穴を抜ける前に歩いた直線を、ただまっすぐに延長した方向である。

そして、引き継がれているのは進行方向だけではなく、アノ道路トンネルの常識を覆す急勾配(15%)もまた、この横坑にそのまま繋がっている。

この極端な断面の縮小を除けば、線形的にはむしろ、ここは横坑ではなくて「本坑」なのである。





コポコポコポコポ…

中程まで進むと、異変が発生。
洞床の数カ所から地下水が大量に湧き出しており、それらが大きな流れとなって傾斜した隧道内を流れているのだ。
水自体は透き通っているが、その流路は大量の泥によって鮮明にされていた。

異変は、それだけではなかった。
二つ穴に首をつっこんだ瞬間から感じていたのだが、この横穴の空気はぬるい。
それは、単に隧道の出口に近いからという程度のものではなく、明らかな「地熱」を感じる暖かさであった。
試しに湧き出す水に手をつけても、真水より温かいと感じられることはなかった。
それでも、間違いなく本坑との間には温度差がある。




出口が近づいてきた。
ライトに照らされ、壁面にある白い異形の物体が浮かび上がる。

それは、壁のわずかな隙間から育った、巨大な鍾乳石状の泥の固まりであった。
あるいは、コンクリート鍾乳石や温泉成分が結晶化した物なのかもしれない。

怪しくも美しい白と、おぞましい泥色とがミックスされた姿は、触れることさえたばかられる気色の悪さである。

人体よりも遙かに成長したその大きさは、謎の“釜トン横穴”が廃止されてから流れた、相当に長い年月を体現するものである。




出口付近には、白と茶色のミックスされた怪しい石筍が、大量にぶら下がっている。

洞床一面に地下水が流れ、そこもまた泥の海になっている。

長く人が足を踏み込まなかったろう“腐海”の、どうしょうもなく柔らかな感触が、長靴越しに伝わってくる。

釜トン本坑にも増して出口が恋しく思われる、狭くて、暑くて、気持ちの悪い横坑である。




横坑の出口(坑口)へとたどり着いた。

しかし、この外へ道が通じている様子はない。
覆い被さるような倒木の束と、草いきれのする夏草によって、梓川の渓声さえ正体が掴めない。

この姿を見て、私はこの横坑の正体について、第二の推論を見いだすに至った。
それは、「疎水坑ではないか」というものだ。
もっとも、本坑からは一滴の水も流れておらず、この坑口から流出しているのは、すべて横坑内部で湧出した地下水であるのだが。

ともかく、この坑口の現状は、横坑の正体を私が自主的に見つけることが出来ないほどに、大きな変状を遂げていたのである…。




スポンサーリンク
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
前作から1年、満を持して第2弾が登場!3割増しの超ビックボリュームで、ヨッキれんが認める「伝説の道」を大攻略! 「山さ行がねが」書籍化第1弾!過去の名作が完全リライトで甦る!まだ誰も読んだことの無い新ネタもあるぜ! 道路の制度や仕組みを知れば、山行がはもっと楽しい。私が書いた「道路の解説本」を、山行がのお供にどうぞ。


 行き先無き出口?! 幻の初代坑口! 


17:45

釜トン“第三の坑口”より、おおよそ15分ぶりに地上へ戻った。

だが、そこは文字通り「足の踏み場もない」場所だった。

坑口からは、我々が派手にかき混ぜたせいもあるのだろうが、濁々とした水が流れ出し、それはそのまま梓川へ滝のように流れ落ちていた。
(余談だが、このせいで水が濁り、下流で待ち受ける警備員によって異変に気付かれるのではないかと心配してしまった…
実際には、梓川本流の水量が圧倒的に多いので、全く問題はない)

《現在地》は、梓川最大の難所である釜ヶ淵のすぐ下流で、地形図を見ても、両岸は険しい岩場によって外界と画されている。

事実、坑口周辺の視界は左右に対して全く開けておらず、ともに木と夏草が密に茂る急斜面である。

第三の坑口とは、まさに人跡稀な峡谷のただ中に、一人ぽつんと口を開けているのだ。





そして、このような状況ゆえ、我々は“それ”に気付けず終わった…。


実は、これこそが、


釜トン “幻の初代坑口” であった!!




これまで当レポート内で、釜トンの完成時期を単に「昭和初期」と書いてきた。
実は、これだけ有名な釜トンであるが、その竣工の時期については諸説あって一定しない。
通常、このような事例について最も信頼されるべき史書、すなわち『安曇村史』のなかでは、根拠を特に示さず「大正13年竣工」とある。
また、我々オブローダーにとってはメジャーな資料である『道路トンネル大鑑』巻末のトンネルリストには、「昭和12年竣工」と書かれている。

だが、実はこのいずれも正しくないらしい。
「信濃毎日新聞社」が平成13年に発行した『釜トンネル』という本の中で、この竣工年の問題が詳しく分析されているのだが、結論から先に言えば、かなりの高確率で昭和2年の竣工というのが正解のようだ。

そして、この昭和2年当時の釜トンは、平成17年まで長らく使われていたそれとは大きく異なるものであったという。
同書を引用すると、「開通した当初の釜トンネルは長さ320m、幅と高さは2mそこそこだったといわれる」とあり、廃止前の全長510mからは大きな隔たりがある。
そして、この大きな差は、初代の中ノ湯側坑口は、現在知られている位置より300mほども上流に存在していたためだというのだ。


それこそが、今まさに目にしているモノである。

(同書中には初代坑口の現状は触れられていないが、状況証拠的にこれこそ初代坑口と見て間違いないだろう)




右の図を見ていただきたい。
詳しい歴史は抜きにして、釜トンの線形的な変遷を見ていただきたい。
何とも異例ではあるが、この釜トン。
初代→旧トンネル→釜上トンネル接続→新釜トンネル(現在)という風に、3回もルートが変遷している。
そのうえ、前者3つまでは旧釜トンを母体にした坑口の変化であるから、連絡坑を通じて接続している現在の釜トンネルもあわせると、釜トンネルには歴代5個もの坑口がある(中ノ湯側3つ、上高地側2つ)ことになるのだ。

釜トンは、通行する車両の拡大とともに、2mから3m、3mから4m以上という風に、だんだんと断面を拡大してきた。
だがそれだけではなく、ルートさえもたびたび変えてきたのである。
時代とともにその姿形を生き物のように変化させる、まさしく変幻自在のトンネルといえる。

そして、これが釜トンの最大の特徴なのだとすれば、現在の無味乾燥の釜トンでさえ、やはり釜トンに違いないのだと思えてくる。





現在も東電の発電所として稼働している霞沢発電所。
大正池と沢渡の高低差をほぼそのまま示す落差453m
の鉄管水路が国道を見下ろしている。上高地を目指す
サイクリストはその意味を知らない方が幸せだろう…。

あまり知られていない釜トンネルの最初期の歴史を、ここで紐解いてみよう。

まず、釜トンはなぜ作られたのかということだが、それは発電所建設のための工事用通路としてであった。
大正末年に、地元企業である梓川電力(第二次大戦中の整理統合を経て現在の東京電力に組み込まれた)が、霞沢発電所を計画・着工した。
これは大正池に堰をもうけて約5km下流の沢渡へ隧道にて導水し、そこで水路発電を行うという、当時日本最大の水路式発電所であった。

そして、この工事に必要な大量の資材の運搬路として、梓川伝いに奈川渡から沢渡、中ノ湯を経て大正池に至る、工事用軌道が敷かれたのである。
それまで梓川沿いには、木樵が通る程度の小径しかなかった。

軌道の動力として当初は馬力を用いたが、まもなくディーゼル機関車も入線し、物資や作業員たちを盛んに運んだという。

初代の釜トンネルも現在の国道158号の元となった梓川沿いの旧国道も、大半がこのときに造られたルートに由来している。
つまり、これらは旧道、廃道である以前に、鉄道廃線跡でもあったということだ。





釜トン内部には、15%を超える急勾配区間がある。
鉄道風にいえば、これは「150パーミル(‰)」というあり得ないほどの急勾配だが(なお、日本に唯一現存するアプト式鉄道の勾配は90‰)、これも軌道時代から存在していた。
洞内の勾配は右図の通りであるが、このうち「中間部」と「上部」は、初代以来使われてきた部分である。

果たしてそんな場所を当時の非力な機関車が通行できたのかどうかは大いに疑問であるが、特に対策をしていたという記録は残っていない。
それ以前に、釜トンネルの工事に関しても詳しい資料は残っていないのである。
工事に朝鮮人を使ったであるとか、ありがちな話は伝わっているようだが、技術的な話はほとんど残っていない。




ともかく、釜トンネルは霞沢発電所の工事用軌道として昭和2年に開通した。
そして発電所が翌年に完成するとレールは取り外され、早速、自動車道に転用された。

それまで、上高地への入路としては主に徳本(とくごう)峠が使われていたが、梓川沿いの転用車道と釜トンは、楽に上高地へ入れる便道として一躍脚光を浴びることになる。
昭和4年には、坑口手前の中ノ湯まで路線バスが運行を開始し、8年には釜トンをくぐって上高地までバスが入るようになった。
もっとも、当時の断面は2m程度であるから、バスとは言ってもごく小型のものであったのだろう。

なお、この昭和8年に中ノ湯から上高地までの道は、梓川電力の私道から、公道である県道「松本・槍ヶ岳線」の一部になった。
これは、同年に国策事業としての上高地ホテルが開設され、そのアクセスルートとして道路を整備する必要があったためであり、一般道としての釜トンの歴史は昭和8年に始まったといえる。



だが、バスが運行を開始した翌年の昭和9年、事故が起こった。
釜トンの中ノ湯側坑口に近い地上区間が、増水した梓川によって大規模に崩壊してしまったのだ。

そしてこの復旧に当たっては、国際的観光地として上高地を売り出していく国の手前もあって、安全性に考慮した新ルートが決定された。

それこそが、皆によく知られた釜トンの姿である。
すなわち、旧中ノ湯側の坑口から50mほど内部の地点より南に屈折する、約270mの新トンネルが掘られた。
そして、釜トンの全長は合計510.6mになった。

釜トンを象徴する激しい洞内での曲折、および、車道の規格を逸脱した急勾配。
これらはいずれも、すでにあった旧トンネルを活かした形で新トンネルを接続させたために起きた、ねじれの現象であったのだ。
もし釜トンがこの複雑な経緯を経ていなければ、このような屈曲も勾配の大きな変異もなかっただろう。
もちろん、洞内分岐など生まれるべくもなかった。





『本邦道路隧道輯覧(土木試験所・昭和16年)』より引用

この改良工事は昭和10年に着工し、12年4月20日に完成した。
新たに掘られた区間(全長266m)については、右で示した「本邦道路隧道輯覧」などの資料が残っている。
「道路トンネル大鑑」リストの竣工年も、この年になっている。

いくつも記されている図のうち、左上のものには新旧隧道が接続する様子が描かれているし、その下には洞内の“図からはみ出さんばかりの急勾配”が示される。
また、この新洞区間に関しては当初からコンクリートで巻き立てられ、幅、高さともに4mを越えていたようだ。
今日的には狭小に違いはないが、昭和12年という時期を考えれば、恥ずかしくない大断面を採用したと言えるだろう。
開通以後、毎年のように繰り返された釜トンの改良工事は、もっぱらこの新洞ではなく、旧洞に関して行われたものであった。


我々が紛れ込んだ、“壁の裏の隠された50m”は、これら“有史”以前の釜トンの姿を今に伝える、貴重な証人といえそうだ。

もっとも、その旧洞も全面コンクリート巻きであった件については、いささかの疑問を感じる。
当初の釜トンは素堀であったというのが通説だからだ。

だが、これに関しても、坑口付近のみは当初から巻き立てられていたと考えられないことはない。
あれだけの地下水や泥が湧出させる土圧、地質を考えれば、単なる素堀では80年も原型をとどめられないのではないだろうか。




泥の流れをさかのぼり、厚い壁を潜り抜けて本坑へ戻った。

本坑は、肌で感じる温度が明らかに違う。

ものすごくひんやりしている。





 釜トン 新洞区間と中ノ湯坑口 


17:50

二つ穴の分岐地点が本坑のカーブの頂点にあったことを思い出してほしい。

本坑へ戻った我々が右を向くと、そこにはまた一つの光が見えていた。

今は小さくか細いが、あれこそ本坑の中ノ湯坑口である。

この先は、第二世代の釜トン。
昭和12年に完成した延伸部、266mである。




延伸部は、昭和12年の隧道らしく、直線の構造をしている。

だが、相変わらず下り勾配はかなりのものだ。

記録によれば、この区間の勾配は9%であるという。

すり減って、ぬれていて、とても滑りやすいコンクリートの舗装路を、二人は出来るだけ大きな音を立てないように注意して歩いていく。

稀に見る濃さで満たされた釜トンの“闇”も、目に見えて目減りしてゆく。




半円形をした坑口の向こうに、鋼鉄製のシェッドが見えている。

全長226mと記録されている「釜下洞門」だ。

この距離は、すなわち我々と警備員との距離である。
洞門は直線ではないから、坑口を出ても発見されてしまうリスクはほとんど無いはずだ。




案の定、中ノ湯側坑口も鉄扉で塞がれていた。

第三の坑口を発見したことにより、原理的には全く無意味になった両側坑口の封鎖だが、実効的な意味はある。



ニャーン…




17:55 

釜トン、中ノ湯側坑口。

魔王の玉座の裏に連なる、510m+αの闇の踏破を、我々はいま完遂した。

願わくば、もう一度クルマで、今度は自分自身の運転で体験してみたかった釜トン。
それはおそらく永遠にかなわぬ夢と成りはてたが、クルマからではまず気づかぬだろう数々の発見もあった。

 洞内分岐地点 2カ所。
 地上脱出口 1カ所。

これらの存在を確かめることが出来たこと。
それが、最大の成果である。




なお、この中ノ湯側坑口であるが、どこから調達してきたものか、立派な扁額が鉄扉の方に取り付けられていた。

元々は、釜下洞門の坑口に取り付けられていたものかもしれない。
かなり新しめで、隧道本来の扁額ではないはずだ。

一般の通行者はもはや目にすることのない旧釜トン。
だが、そこに誇らしげな扁額が取り付けられていた事実は、まだこの釜トンを大切に、誇らしく思っている人がいると言うことを教えてくれた。

不格好だと言ってしまえばそれまでだが、私はうれしく思った。




坑口を後にして、今回の探索目標における最後の区間に入る。

釜上で見たのと変わらず、谷いっぱいに溢れんばかりの水を流している梓川が、やはり唯一の車窓である。
しかし、釜トン一本の効果は絶大で、釜上と釜下とでは実に80m近い高低差がある。

地形学的には滝と言ってもいいほどの急流が、彼我の間には存在しているのだ。
初代釜トンさえ迂回した、釜ヶ淵という名の急流が。




鋼鉄製の釜下シェッドを50mほど下っていくと、高さ制限3.2mの標識と制限バーが現れた。

もちろん、これは振り返った方向へ向けられている。

多くのドライバーがこの標識を見て、この先に待ち受ける釜トンを意識し、期待と不安(こっちが遙かに多かったに違いない)を感じたに違いない。

そして、この標識だけではとても予告しきれないものが、釜トンにはある。




さらに50mほど進むとロックシェッドが終わり、今度はコンクリート製の真新しい洞門が現れた。

依然として路面には中央線が無く、このあたりも一方通行であったようだ。


それはそうとして…。

そろそろ…。
そろそろ…かもしれないぞ…。




はい。
終わりです。


終わりですね。

終わり。


これ以上進むと、見つかっちゃいます。
出口の扉の裏側が見えてきました。

満足。
十分に味わいました。
釜トン、味わい尽くしました!


さあ、帰ろうか。
ナガジスさん! 俺たちの釜トンに帰ろう!!