隧道レポート 釜トンネル 第5回

所在地 長野県松本市安曇
探索日 2008. 7. 2
公開日 2008.10.26

 釜トン 明かり窓の真相 


17:35

新旧釜トンの連絡坑側から見る、旧釜トン本坑。

明らかに逆勾配になっており、分岐部がサミットになっていることが分かる。
この部分の地下水は新トンネルに疎水され、また頭上の照明は新トンネルから引き込まれているという、相互関係がある。




分岐部に立って、これから進む中ノ湯側旧トンネルを臨む(前回最後の場面)。

この先は目に見えて急な下り坂なのだが、写真ではまさに「闇へ呑み込まれ」ている。

全長510m余りある釜トンは、残り約450m。
出口まではまだ大きなカーブが一つあり、当然その明かりは届かない。


…閉鎖の危険も、当然ある…。




う あ …。

これはキてるな…。

思いっきり画像処理で明度を上げてこのあんばいである。

分岐部を過ぎると、あれだけ苦労した新トンネルでさえ可愛く思えるほどの急な下り坂になっていて、まず気持ちが悪い。
誰もがそうだと思うが、下りのトンネルというのはなんとなく居心地が悪いものである。

そのうえ、壁面や路面の状況が怪しすぎる。
一応壁はコンクリートで巻き立てられ、路面もアスファルトが敷かれている。
にもかかわらず、大量の小石や瓦礫が散乱している。
現役当時にはなかったと思いたいが、「スリップしてください!」って言っているようなものである。



ナガジス氏に「壁際に直立して」とお願いして撮影した写真。

本当にナガジス氏の中心線が鉛直線と平行であるかは不明だが(笑)、それを信頼してこの勾配である。


15%勾配

記録には、そう書かれている。

釜トンを象徴する急勾配であり、バスやタクシーの運転手は「五分の一勾配」と呼んで恐れていたそうだ。

この15%という勾配は、現在の道路構造令(12%以下)に合致せず、大正8年公布の“旧令”にさえ許されない。

まさにイレギュラーな急勾配だが、昭和初期の開通以来、平成17年の廃止にいたるまで、県道として一般の用に供されてきたのである。


…なんとなく写真だと大したこと無いように見えるかも知れないが、実際には凄い角度を感じている。
しかも、自分の身体一つを除いては四方八方の全てが傾斜しているという状況は、もの凄い違和感だ。
まして、手持ちの照明を除けば殆ど真っ暗なだけに、ただ歩いていてもつんのめりそうになる。




天井の様子。

照明は一応存在するのだが、いかにも旧式の白色蛍光灯で、しかも間隔が凄く空いている。

正直、理解に苦しむ。

というのも、釜トンは狭くて長くて急坂で、殆ど誰しもが例外なく不快な気持ちになるトンネルだろう。
そのことを管理者が理解していなかったとは思えない。
であれば、せめて照明くらいは明るい最新鋭のものを用いても良かったのではないか。

…これではまるで、管理者側も“釜トンの演出に加担”してきたかのようだ。

私としてはそういうお茶目は大好きだが、真相は不明である。




連絡坑分岐部から次のカーブまでは、約200mの長さがある。

そこは、出入り口のいずれからも決して光の届かぬ「闇の」中間部分と思いがちだが、実はそうではなかった。


分岐からはおおよそ50mほど進んだ地点。

向かって右側壁面の一角から、仄かに外光が射し込んでいる事に気がついた。




はたして現役当時、釜トンを通過してこの穴に気付いた人はどのくらいいただろう。

“上”は、窓の外に注目していた人の8割以上が気付くだろう。

しかし、“下”はどうだ?


私も近づくまで気付かなかったが、穴は上下に二つ並んでいて、いずれからも外の明かりが漏れている。
下の穴は、車高の高いバスの車窓からでは気付きようが無いかも知れない。





当然、日光が届いていると言うことは、このすぐ先に外があるということだ。

地図で確かめると、確かにこの辺りの地上は近い。

もっとも、外へ出てみたところで、そこに道があるはずはない。

そこは、梓川で最も遡行が困難な“釜ヶ淵”の核心部である。(この写真の奥の方だ)

釜の熱水さながらに狂濤するゴルジュがあると聞く。(実景は、写真を含めて見たことがない)



人の背で覗き込むことが出来るのは、“下の穴”だけである。

だが、路面よりも少し下に口を開けるこの穴は、人の出入りが出来る状況ではない。
頭を突っ込むことさえ難しいので、カメラだけを送って撮影したのがこの写真だが、ご覧のように。数メートル奥の出口は崩れたコンクリートで塞がれかけていた。
おそらく、坑口が土砂崩れなどで崩壊しているのだろう。

現状では疎水坑のようだが、立地的に必須ではない。
むしろ、“上の穴”とコンクリートでセパレートされる前は一つの大きな横坑になっていて、施工時のズリ出し作業横坑になっていたのではないかと思われるのだが、釜トンには建設当時の設計資料などが一切残っていないので、自説を検証することは困難だ。




灯りを消して振り返ると、このように見える。

ナトリウムライトの“分岐部”との距離感、高低差などがお分かり頂けるだろう。

なお、このような見え方ゆえ、この“上の穴”を採光窓と考える人も少なくない。
最初期には道路照明もなく、一人一人が松明やカンテラを持って歩いたそうだから、いかにも窓らしい形状を見てもそれは頷ける。

しかし、実は意外な使われ方もしていた。

昭和39年に釜上のシェッドが出来る以前は、冬期になると上高地側の坑口が雪崩などで埋没してしまい、登山などのために入山する人々が、この“上の穴”から梯子を使って外に出て、水量が極端に減った釜ヶ淵を歩いて上高地を目指したのだという。

残念ながら、我々にその“冬ルート”を辿るスキルはない。(梯子がない…)




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 釜トン通行者の 掟  


17:39

これが、釜トンをトンネル界のある種カリスマとして長年君臨させしめた、中間部分の最急勾配(15%)である。
路面はすり減ったコンクリート舗装で、常に濡れており、しかも浮き石が多いという、未舗装同然の最悪状態だ。
もしチャリだったら、坂道発進は多分不可能である。

昭和40年代、マイカーで上高地を訪れる人が増え始めた頃、釜トンの中ノ湯側の坑口には、こんな看板が掲げられていたという。

力のない車、
運転に自信のない方、
ご遠慮下さい


この注意書きが、釜トンの全てを物語っている。

当時は今よりさらに道幅が狭く、幅・高さともに3.2mほどであった(現在は少なくとも4mはある)。また、路面も未舗装だった。
よって、坂道発進が出来ないような「力のない車」や、狭いトンネルの運転や坂道発進・下りの操縦に「自信の無いドライバー」は、入るべきではないとされていたのだ。



右写真は、昭和50年8月25日に撮影された、県道上高地公園線の模様。

ちょうどこの昭和50年は、初めてマイカー規制が施行された年で、8月25日はそれが解除された初日(平日)であった。
この道は、釜トンネルの先の上高地で行き止まりになっているのだが、駐車スペースには当然限りがあるわけで、ご覧のとおり、都会住まいの人には目の毒、田舎住まいの人には沿道の緑の呻きが聞こえてきそうな、世紀末的渋滞風景が展開していた。(実際、“自然破壊駐車”と呼ばれる、森の中に強引に車を突っ込んで停める輩までいたそうだ)

渋滞は、時に終点から3kmほど手前にある釜トンにまで及んだ。
釜トンは自動車のすれ違いが出来ないので、昔から様々な手段を用いて片側交互通行が行われていたのであるが、昭和50年代には既に信号機が使われていた。
信号機の待ち時間は、8〜15分程度。
当然、トンネルの内も外も大渋滞になる。
510mもあるくせに換気施設など何もない(ちなみに、消火設備も転回施設も当然ない)トンネル内に、断面を塞ぎ尽くすバスを含んだ100台近い車がみっちり詰まるのも、珍しいことではなかった。
こもった排気ガスと水蒸気で視界は曇り、窓など決して開けられなかった。

十数年前に一度通ったときも、外と、そして洞内でも、だいぶ待たされた記憶がある。
そのとき、運転席の親父はどんな気持ちだったのだろう。
オブローダーでも酷道マニアでもない親父は、生きた心地がしなかったかも知れない。(ニヤニヤしていたのは家族の中で私だけだったろう…)




釜トンで実際に起きていた“最悪のシナリオ”とは、だいたい次のようなものであった。

狭いトンネル内、急勾配、排ガスの海。

車で登っていく途中に、一番急になっているこのあたりで渋滞に巻き込まれ、停止してしまう。

車が非力であったり、初心運転者の場合、再発進が出来ない事態が起きる。

やがて、後続車輌はクラクションを鳴らすであろう。

なんといっても初心運転者さん。
おそらく、ここで半パニになる。
欲しいのは半クラなのに、半分パニック…。
焦ってアクセルを踏み込んでも、駆動輪がイタズラに空転するばかり。
再発進どころか、徐々に下がり始めたりすると、ますます焦る。

困り顔の後続車輌。




だが、この後続たち全員に、とってもイヤーな事態が迫っている。

それに気付いた者から順に車を降り、初心運転者さんの発進を手伝ったりするだろう。
彼らは一様に、ただならぬ焦りの表情だ…。



 はやく

 はやく はやく!

 はやくはやくはやくはやくはやくはやく!!!




動けなくなった車の前方にだけ、先ほどまでの渋滞が嘘のような静けさが満ちる。

それからの数分内に動き出せればセーフ。ぎりぎりセーフ。

だが、ここで解決できないと…

ひとときの静寂を打ち崩し、新たなエンジン音がもたらされる。

そして、初心運転者さんの車には真っ先にヘッドライトが当てられることになる。



はち合わせ。


上高地側の一方通行信号が、時間で青に変わったのだ。

何の疑いもなく、渋滞からの開放に嬉々とした車列が下ってきたのだ。

それが、洞内で立ち止まっていた“残留組”とはち合わせとなったのだ。


ドライバー諸氏、しばし我が目を疑う。

そして、最悪の事態になったことを理解する。



何度も言うが、当時の幅員は3m少々。
車同士のすれ違いは不可能。
そして、下ってきた車列が皆バックで引き返すことなど不可能だ。

結局、上りの車列が一台ずつ、中ノ湯側の出口までバックしなければならなくなる。

 飛び交う怒号(想像)。
 悲鳴(想像)。
 泣き言(オレなら言う)。
 パンチ音(嫌だ)。
 爆発音(嫌すぎる)。


バックは、容易ではないはずだ。
洞内はクランク状に屈折しており、当時は所々にコブ状の出っ張った大岩もあったという。
闇と湿気と排ガスに満たされた洞内で、地獄の押しくらまんじゅう。
上りの車列にバスも含まれていると不幸中の“不幸”であり、ミニスカァートのバスガイド氏も泥にまみれた洞内に降りて、バックオーライオーライの叫びを上げる羽目になる。

発端となった初心運転者、涙目。

パパ、涙目。


パパ、マジで涙目。

涙目どころじゃねーー!! 反省しろ!!!



…というような、一時的な交通麻痺状態が、毎夏のように発生していたらしい。

当事者だったら、トラウマものだろう。

二度と上高地なんて行きたくなくなるというか、トンネル恐怖症を患うかもしれない。


恐るべし、かつての釜トン!!






話を、現在の釜トンに戻そう。

現在の、廃隧道となってしまった釜トンに。


平成17年の廃止からまだ3年ほどだが、洞内には既に「廃隧道」としての異変が発生していた。

その最大のものが、路面の著しい破壊である。

15%急坂部分の全体にわたって、山側の舗装が写真の通り、滅茶苦茶に破壊されている。
まるで大地震後のような光景だ。




この異変の原因だが、流水が舗装の下に入り込んで路盤を削ったために、その上の舗装路面が陥没したものと考えられる。

陥没の中央部は深い洗掘を受けており、流水によってもたらされただろう枯れ枝や落ち葉が堆積している。

そもそもの舗装路面が非常に薄っぺらなものであったことが災いしているのだろうが、何より急勾配に原因がありそうだ。
そう遠くない将来、側壁の安定性さえ損なうほどの深い溝になるかも知れない。
車の通行も不可能になるだろう。




釜トンの代名詞、急勾配、狭幅員、片側交互通行。

だが、平成になる前の釜トンを通った人の中には、もう一つ別の印象を口にする人もいると思う。


 素堀り という。

現在のように拡幅を受ける前の釜トンは、掘りっぱなしの黒光りする岩盤が、直接隧道に接していた。
我々は地球の胎内もぐりのようにして、そこに車を走らせていたのだ。

現在ではほぼ全面がコンクリートや鋼鉄のセントルで覆われているが、中間部分のうち僅か20mほどだけが、素堀のままとなっている。

いま、その部分に遭遇した。




なぜか、20mほどだけが素堀のままになっている。

これは私の憶測だが、おそらく現在のようなサイズに拡幅される以前にも、この部分は「待避所」として拡幅してあったのではないだろうか。
前後は後から拡幅されたので、地山を抑えるために巻立てを要したが、元々この断面で何十年と安定していた20mは、改めて巻立てを要しないと判断されたと考えられる。

もっとも、単純に巻立てが要らないほどに堅牢な岩盤であったという風にも考えられる。

どちらにしても、排気ガスで真っ黒に汚れた20mの素堀区間は、釜トン往時を彷彿とさせる貴重な風景である。
早くも天井照明の取り付け金具が腐食して外れかけているのは、廃隧道の自己主張だ。




素堀部分を振り返って撮影。

この辺りの路幅は約4.5m、高さは4.4mと計測されている。

しかし、この程度のサイズに辿り着くために、釜トンでは少なくとも5回は大規模な拡幅工事が行われてきたのだという。
これは、平成に入ってまもなく行われた工事の成果である。
前に紹介した釜上洞門の完成は平成7年であったが、廃止される本当に直前まで、釜トンは「成長」を続けていたのだ。
逆に言えば、平成11年の釜上シェッドの被災がなければ、もう当分は釜トンが使われ続けていたに違いないのだ。
釜トンは、決して望まれて舞台を降りたのではなかった。

あの無味乾燥な1310mで辿り着く上高地と、釜トンからの威圧に耐えて辿り着く上高地とでは、その印象において、1時間行列に並んで食べたラーメンと、ただのラーメンの違いがあると思うのは、永く見ていない上高地を侮った暴言であろうか。




依然、ペースを緩めず下り続けている。

なぜ釜トンがこんなに急勾配である必要があったのかは、単純に並行する梓川の河川勾配がそうだからという風に理解される。
当時の技術では、これ以外にルートを選びようが無かったのだろう。
新トンネルが妙に蛇行しているのは、勾配を12%以下に抑えるための距離稼ぎではないかと思うが、そんな凝った芸当は出来なかった。
もし鉄道であれば、ループトンネルを採用した可能性もあるくらいの地形だ。

我々は、ライトに照らし出させる全てのものに目を輝かせながら、至福の釜トンデートを体験した。
もちろん、むろん、言うまでもないことだが、デートは、「私と釜トン」、「ナガジス氏と釜トン」。
そういうダブルデート(禁断の三角デート?)であるから、勘違いしないように。
釜トンを舞台にした、私とナガニャンコとのデートではない。(←念のため言っておく)

つか、“セッション”って言った方がカッコイイな。


つま先が痛くなるくらいに猛烈下りの、カーブとカーブに挟まれた中間部分は、約200m。

やがて、その終わりを告げる、中ノ湯側のカーブが近づいてくる。




カーブ近し。

トンネル断面拡大セリ。




カーブ出現!


蛇腹のような鋼セントルに囲まれた、2車線幅の大断面カーブ。

これを曲がれば、釜トンはラストストレートに入るはず。


だが、我々と釜トンとのセッションは、まだ終わらない。

終われない。




カーブ外側の壁に穿たれた、二つの穴。

ここにいるのは、二人のオブローダー。


デートだけでは終わらない。


穴があれば、
当然入るッ!!!






これまで決して明かされることの無かった釜トンの秘部。

次回、遂に…。