2012/2/14 14:49
前回の最後の場面である。
久喜集落の東の端までゆくと、確かにそこには、地図にも描かれている久喜トンネルが口を開けていた。
だが、道はそちらへは行っていなかった。
道はあるのだが、背丈の倍もある巨大な鉄扉によって、坑口へ辿り着く以前に封鎖されていたのである。
そしてその代わりに、地図にはない新道が右に分かれていた。
新道はまず、久喜集落を海岸線から完全に隔てている、巨大な防潮堤をくぐる。
もちろん、“穴”の部分には頑丈な門扉が設置されており、いざとなったらこれを閉じて防潮堤としての機能が全う出来るようになっている。
これを陸閘(りくこう)という。
もっとも、門扉の銘板にある竣工年が「平成23年12月」となっていたから、先の津波で一度破壊され、それから復旧されたようである。
ともかく、これで古代ローマの城塞都市を思わせる久喜集落を脱した私は、再び海の際に立つことになった。
これも津波の傷跡なのだろうが、陸閘を出ると少しの間だけ砂利道だった。
さて、肝心の久喜トンネルの行き先はどうなっているのか。
左の方を向いてみよう。
…そうだよね。
今はまだ、見えるわけがない。
防潮堤が視界を遮る。
この裏側には坑口があるんだけどね…。
大人しく、もう少し進もう。
↑この辺まで来た。
(地形図では、全くの更地のように描かれているが、ここにちゃんと道がある。
久喜トンネルが廃止されてから、まだ数年しか経っていないのだろう)
というわけで、いよいよお待ちかね。
久喜トンネルが貫通している【この岩場】を、間近に見る時が来た。
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興奮してきた。
久喜トンネルは1本ではなく、間に短い落石覆いを挟んだ、2本連接モノだった。
しかし、携行していた昭文社の道路地図が2本の短いトンネルとして描いていたので、
これについては、想定の範囲内であった。
想定外なのは、トンネルが貫通している岩場の「凄絶」なたたずまいの方である。
オラ興奮してきたぞ…!
あんな見るからに危険そうな岩場に、どうしてトンネルがあるのだろう。
こっちにはこんなに平坦な場所があるのに。
これは、トンネルが掘られた当時まで、あの岩場が海岸線だったに違いない
三陸の象徴的な海岸風景である絶壁も、こうして陸に上がってしまうと少々勿体ない感じだ。
そして、我々が難地形を克服する方法には、実に様々なものがあることを、改めて思い出させられる眺めである。
(大崩海岸では同じようなケースで海上に橋を架けてバイパスを作ったが、ここでは橋を架ける代わりに、陸化させてしまったのである)
砂っぽい舗装路は、かつて海の上だった場所を、まっすぐ東へ続いている。
やがて突き当たるまでは至って平凡な道であるが、退屈はない。
私の意識は、左の山腹に集中している。
そして、久喜トンネルの東口は、なかなか勿体ぶって全貌を見せなかった。
高い盛り土が山裾の低い位置にあって、視界を遮っていたためである。
もう少し、進んで…。 よし、来た。
何かの建物の新築工事をしている現場の向こうに、今まで見えなかった久喜トンネルの“部分”が、露わになった!
こ、これは…!
ロックシェッドが、巨人のお砂遊び場になっている…。
廃止されたのが先か、崩れたのが先なのか。
また、地震が先なのか、崩れたのが先なのか。
そんな疑問が一気に湧出してきたが、“アヒルさんたち”はあくまでも現実からは目を背け、無機質な表情で私を見つめています。
……ぶっちゃけ、これは近付かない方が良い感じ…。
如何にも神おわします風情の峨々たる巌山を前に、平身低頭跪き、媚びへつらいながら、
ちゃんと我々人間の欲求を満たすという“実”を取ってきた道。
しかし、遂に巌山はその欺瞞を見抜き、鉄槌を下した。
自らの一部を粉々にしながら放ったとびきり重い一撃が、痩せた洞門を打ち砕いたのである。
14:51 《現在地》
さて、前から見えていた突き当たりの山裾に近付くと、足元の舗装路は突然途切れ、無理矢理な感じで左の空き地に迂回をさせられた。
いったい何事なのだ。
その理由は、数秒を経ずに判明した。
昨年の津波で押し流されたのだろう。
まだ見るからに真新しい橋は、対になった橋台から“上流側”へ斜めに離脱し、転倒していたのである。
普通、落ちた橋は川下へ行くものだが、これは津波ならではの被害風景といえる。
さあ、頃合いだ。
ここで、振り返ります!
よっしゃ!
こちら側には、頑丈な扉など行く手を阻むものはなさそうだ。
今度こそ、2本に増えた久喜トンネルを心置きなく探索出来そう! ぬっふふふほ。
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