老紳士が言うには、現在の久喜トンネルは2代目なのだという。
そして、なんとその初代のトンネルも「残っているはずだ」と。
私は遠慮することなく、即座に乞うた。
何卒私をそこまで案内して欲しいと。
老紳士の説明だけでは、よく状況が飲み込めなかった。
現在のトンネルの脇にぽっかりと口を開けていたならば、既に気がついていて良いはずなのだ。
おそらくそれは、私が予想だにしない場所にあるはずだ。
車は通れず、せいぜいリアカーが通れたくらいだという、旧隧道。
待ってろ今行くぞ!
*ろうしんしが なかまになった。
既にご存じの通り、現在の久喜トンネルは2本に分かれている。
そしてその2本とも、地表から浅い岩盤に穿たれていて、そこに平行して別のトンネルを掘る余地があるようには思えなかった。
だが、老紳士は確かな足どりで私を促して歩く。
指さした。
この岩場を。
これは、1号トンネルがある岩場だ。
私には見えないが、ここに隧道があるというのか?
老人の次の言葉を、期待に目を輝かせて待つ。
「この岩場は、外の際に道が付いていたんだな。」
…な、なるほど。
それはフェイントだった。
ここには隧道は無く、海の際を迂回して歩いていた。
波が高い日は恐ろしかったが、道はそれしかなかったと。
なるほど、現在は埋め立てられてしまって全く分からなくなっているが、今の地面の少し下辺りに、かつての路面があるらしい。
掘ってみたら、道の形に削られた岩場が出てくるかも知れないが、確かめる術は無かった。
ありがとう、おじいさん。
ということは、旧隧道は2号トンネルの近くにあるのですね。
《現在地》
1号トンネルと2号トンネルの間にあるロックシェッドの近くまで来た。
岩場の下には細長い盛り土があり(これはおそらく岩盤が崩れてきたとき、あまり散らからないようにと考えてのことだろう)、2号トンネル側面の岩肌をブラインドしていた。
老紳士はと言えば、いよいよ我が意を得たりな感じで、この盛り土の向こう側へと回り込んでゆく。
なんという庭先感覚であろうか。頼もしい限りである。
先を行く老紳士がその手を伸ばして促すよりも、ほんの一瞬だけ早く、私の声が上がった。
我、見付けたり。
確かにある!
海蝕洞には全く見えない穴が。
衝撃事実=久喜トンネルに旧隧道が現存。
言い訳がましいが、これは確かに気付きづらい。
つうか、この場所は普通気付かないだろ!
遠目には高い盛り土に完璧にブラインドされており、敢えて近付かないと見えない。
また、地上に道の跡でも残っていれば可能性はあったが、埋め立てのためにそれもなくなっていた。
ともかく“穴”が発見された位置は上の写真の通りで、
2号トンネルの西口からさらに30mほど山沿いに歩いた所だった。
あるべきものが無いために、とてもシュールな風景になってしまっている。
その事が惜しまれる。
もしこの明るい色の岩盤に穿たれた黒い穴が、澄んだ青と潮騒のもとにあったなら、どんなに麗しかっただろう。
頭では幾ら地形の人為的な変化を理解出来ても、隧道を掘り抜いた先人の苦労やその耀きを実感として得る事は、もう二度と出来なくなってしまった。
ついでに旧道と坑口を結ぶ道も、そのために容易に辿り着けなかったかも知れないが、とても興味深い絶壁の廃道であっただろう。
私は老紳士に満面の笑顔を向けて礼を言うと、すぐに一人で坑口へ近付いた。
彼はその結末を知っていたに違いないが、何も言わずに頷いた。
隧道は非常な鋭角で岩盤へ入射しており、距離を短絡するという一般的な隧道の目的からはかけ離れた、まるで“窓のない片洞門”のような形態になっている。
地上の険阻を避けることだけがこの隧道の目的であったのだろうと、私は思った。
だが、それは半分くらい間違っていた。
この隧道は、もともとこのような“位置”に掘られたものではなかった。
もちろん、絶対的な位置は変化していないのだが、海岸線との相対的な位置関係は、この隧道が現役であった時期のなかで大きな変化があった。
その話は、内部の探索が終わってからしよう。
遠目にも分かっていたが、いざ入ろうと思うと、天井の低さが気になった。
身を屈めるほどではないが、かなりの圧迫感である。
なお、この素堀の旧隧道が出来た時期については、老紳士もはっきり記憶しておらず、分からなかった。
しかし、彼が船舶免許を取得した昭和29年には既にあって、昭和35年のチリ津波のときも、この隧道が使われていた。
或いは戦前に遡るのかもしれない。
そして久喜トンネルがそうであるように、この旧隧道も久喜港への唯一の通路であった。
久喜港に水揚げされた全てのものが、人背やリアカーに乗せられて遅滞なくここを通った。
隧道は短いはずだ。
2号トンネルの長さが45mであるのと比較して、こちらが取り得る長さは30mを越えるはずが無いのだった。
にもかかわらず、出口の光は見えなかった。
これがその答えだった。
旧久喜隧道は、坑口から20mほど進入した地点で、完全にふさがっていた。
しかも、これは普通の落盤閉塞によるものではない。
閉塞壁は木材で密に築造されており、向こう側を見る事は出来ないものの、位置的にこれが第2号トンネルの“外壁”であることは明らかだった。
閉塞壁の手前には土砂の山があったが、そこには海の藻屑が大量に集まっていた。
これが埋め立て前に運ばれてきたものか、或いは去年の津波によるものかは分からないが、津波は隧道を一時的ながら完全に冠水させたはずだから、その影響を受けた景色であることは間違いない。
この後、地上に戻った私の問に対し、
老紳士は次の事柄を語った。
旧隧道の東口は2号トンネルの東口の場所にあった。
新旧の隧道はその東口で接していたが、同時に通行出来たことはなく、旧隧道は2号トンネルの完成にともなって塞がれた。
この証言と、2号トンネルの内部には洞内分岐の痕跡が全く見あたらなかった事を合わせれば、旧隧道の東坑口のの擬定地はこの場所以外に無い。
これだとまさしく、新旧隧道は東口の位置を共通させていただけで坑道は別物であったことになり、旧隧道の約20mという現存延長は、そのままほぼ全長に等しかったことが分かる
話は少し戻るが、この坑口の位置は、
岩盤の形状と比較して不自然ではないかという、第一印象があった。
そしてその理由は、老紳士の証言によって、さらなる衝撃的新事実とともに判明した。
それは次のような事に因った。
これはとても古い話で、その経緯も時期も詳細は不明である。
老紳士でさえ、うっすら覚えているだけだというのだ。
だが、ここには旧隧道よりも更に古い隧道が、確実に存在していた。
その名も、犬クグリ。
もっともそれは正式な隧道ではなく、「自然の岩場の突端に多少手を加えた程度のもの」だった。
つまり、天然の海蝕洞をベースに、人が通り易いように多少拡幅した程度のものであったようだ。
さらにそこは、波の隙を縫って走らねばならぬ、危険極まる道であった。
にわかには信じがたいが、老紳士が子供の頃の岩場の突端は、上部の稜線を「そのままのカーブ」で地上に落した位置にあって(つまり写真に示した位置)、犬クグリはその突端近くに存在した。
しかし、その後の海蝕と、松の根の成長に伴う岩盤の欠落という、上下両方向からの破壊の作用によって、現在の位置まで崖が後退したのだった。
老紳士がいなければ知ることの無かった数々の事実を手に、私は大満足して帰途についた。
次回の「補完編」では、
レポートの執筆後に判明した新事実や、
震災の前に私の仲間が撮影していた、貴重な旧道風景を公開します。