隧道レポート 久喜トンネル 最終回

所在地 岩手県久慈市
探索日 2012.2.14
公開日 2012.3.07

2012/2/14 15:02 《現在地》 

今となっては、その点滅する様子を想像するしかない2灯式赤色信号機の下、昭和48年生まれと記録される、やや面長な坑口が口を開けている。
周囲の路面に様々なものが散乱しているのは、去年の津波で運ばれてきた瓦礫が取り除かれずそのまま残っているためだろう。
しかし、トンネル自体に目立った被害は見られない。

重い鉄扉によって外界から半ば隔離された、久喜トンネル西口の姿だ。
より正確に表現すれば、「久喜館第1号トンネル」の西口。

この内部を制覇することで、一連の久喜トンネルに関わる旧道を全て修める事が出来る。
私は最後のピースを填めるため、既に自信の目で反対側の閉塞を確定させている洞内へ進んだ。






トンネルは真っ直ぐであり、入洞した時点で既に、うっすらとだが、閉塞壁が見えていた。

後はただ、どれだけ近付いたら満足出来るのかを、自分で決めるだけだった。




←ここで満足した。

まだ10mくらい壁まであるが、これ以上近付いてみても、何か新しい発見があるとは思えない。

洞内の様子についても、先に探索した「第2号トンネル」から変わっているところは特にない。
すなわち、素堀にコンクリートを吹き付けた内壁の様相や、照明が存在しない事、路面が舗装されていることなどである。
唯一の違いは、閉塞させられていることか。

閉塞壁の様子も、これと言って特筆するようなことは無かった。
右側にコンクリートが余分に巻立てられた膨らんだ部分が見えるが、坑口部の地形に対応した補強と言うことだろう。
この事は、外の風景に対応させるとよく理解される。




「第1号トンネル」の東口は、海食による著しいオーバーハング状態となっており(ここが久慈市だけに、ロッククライミングをする“くじ氏”の姿を思い出した)、鉛直面をなす坑門工の裏側に、ある程度の隙間が発生している。

この弱部を埋めて補強しているのが、洞内にある前出の“出っぱり”であり、おそらくは現役当時からあったのだろう。

そして現在この坑門は、久喜集落を津波から守る防潮堤の一部となっており、既に明確な活躍がなされたことも、前回述べた通りである。





さて、この塞がれた空間より撤収しよう。

洞奥より振り返ると、鉄扉の存在感が際立っていた。

こっそり入ってきた以上、出るときも、こっそりやらないとね。




えへ。 見つかっちゃった。

先ほど不在だった家の人が、出ようとするとちょうど鉄扉の前に居りまして、これはもう目も合っちゃいまして、観念するしかない。
久々に「なにをやっとるか」と叱られることも覚悟したのだが、私も咄嗟に、そしていつも通り、満面のロー●ンスマイルで対応。
もちろん、スマイルだけで接近していくと、それはもうフレンドリーどころか反対に怖い事になるので、自分が怪しくないということを口でアピール。
これはもう、素直に何をしていたかを言う。

「突然スミマセン! 私は古い道路の事を調べていまして。」
↑こんな男が軒先に突然現れても笑って許してね。
↓さらに間髪を入れず

「このトンネル、いつ頃に作られたものかご存じですか?」

だが、私の焦りとは裏腹に、そこにいた齢70ばかりの老紳士(背広姿であります)、別に動じる色もなく、柔和な感じで私の話を聞いて下さる。
私もすぐに言訳がましいのを止して、もとより機会が得られれば聞こうと思っていた、あれやこれやを質問してみることに。
これはもう、絶好の機会を得たのだった。
なにせこの老紳士、坑口前に居を構える、“この道のエキスパート”だったのだ。

頂いたアツアツの焼き林檎(今の目前で焼き上がったものを下さった)を遠慮なく頬張りながら、私がこれまでの探索で気になったことを、何でもかんでも質問してみる。
もつとも、既に洞内の状況を含めて現状の“全て”を知る私にとって、最大の関心事は、もちろん過去の事である。
なんといつても、何時どんなふうに出来たのかというのが、気になるのである。
リストにある昭和48年竣工は誤りでは無かろうが、数字だけではいかにも無味乾燥。
これだけインパクトのある地形に掘られた隧道だ。何かのおいしーエピソードが眠っているんじゃなかろうかいな。


「このトンネルが出来る前は」


「小さなトンネルだった。」



おおっ?

やっぱり来たぞ。

でも、何となくそんな予感はあったから、このくらいではまだ驚かない。


「それはやはり素堀のトンネルでしたか?」

「そう。」

「それを拡幅して、現在のようになったのですね?」




「いや、別にあったな。」





…え?

旧隧道が別にあった?!


やっべ。祭だぞ。




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「久喜トンネル」には旧隧道があった!!


老紳士が言うには、現在の久喜トンネルは2代目なのだという。
そして、なんとその初代のトンネルも「残っているはずだ」と。

私は遠慮することなく、即座に乞うた。
何卒私をそこまで案内して欲しいと。

老紳士の説明だけでは、よく状況が飲み込めなかった。
現在のトンネルの脇にぽっかりと口を開けていたならば、既に気がついていて良いはずなのだ。
おそらくそれは、私が予想だにしない場所にあるはずだ。

車は通れず、せいぜいリアカーが通れたくらいだという、旧隧道。
待ってろ今行くぞ!

*ろうしんしが なかまになった。




既にご存じの通り、現在の久喜トンネルは2本に分かれている。
そしてその2本とも、地表から浅い岩盤に穿たれていて、そこに平行して別のトンネルを掘る余地があるようには思えなかった。

だが、老紳士は確かな足どりで私を促して歩く。

指さした。

この岩場を。

これは、1号トンネルがある岩場だ。

私には見えないが、ここに隧道があるというのか?

老人の次の言葉を、期待に目を輝かせて待つ。





「この岩場は、外の際に道が付いていたんだな。」



…な、なるほど。

それはフェイントだった。

ここには隧道は無く、海の際を迂回して歩いていた。
波が高い日は恐ろしかったが、道はそれしかなかったと。
なるほど、現在は埋め立てられてしまって全く分からなくなっているが、今の地面の少し下辺りに、かつての路面があるらしい。
掘ってみたら、道の形に削られた岩場が出てくるかも知れないが、確かめる術は無かった。

ありがとう、おじいさん。

ということは、旧隧道は2号トンネルの近くにあるのですね。




《現在地》

1号トンネルと2号トンネルの間にあるロックシェッドの近くまで来た。

岩場の下には細長い盛り土があり(これはおそらく岩盤が崩れてきたとき、あまり散らからないようにと考えてのことだろう)、2号トンネル側面の岩肌をブラインドしていた。
老紳士はと言えば、いよいよ我が意を得たりな感じで、この盛り土の向こう側へと回り込んでゆく。
なんという庭先感覚であろうか。頼もしい限りである。

先を行く老紳士がその手を伸ばして促すよりも、ほんの一瞬だけ早く、私の声が上がった。

我、見付けたり。




確かにある!
海蝕洞には全く見えない穴が。

衝撃事実=久喜トンネルに旧隧道が現存。



言い訳がましいが、これは確かに気付きづらい。
つうか、この場所は普通気付かないだろ!

遠目には高い盛り土に完璧にブラインドされており、敢えて近付かないと見えない。
また、地上に道の跡でも残っていれば可能性はあったが、埋め立てのためにそれもなくなっていた。

ともかく“穴”が発見された位置は上の写真の通りで、
2号トンネルの西口からさらに30mほど山沿いに歩いた所だった。



あるべきものが無いために、とてもシュールな風景になってしまっている。
その事が惜しまれる。

もしこの明るい色の岩盤に穿たれた黒い穴が、澄んだ青と潮騒のもとにあったなら、どんなに麗しかっただろう。
頭では幾ら地形の人為的な変化を理解出来ても、隧道を掘り抜いた先人の苦労やその耀きを実感として得る事は、もう二度と出来なくなってしまった。

ついでに旧道と坑口を結ぶ道も、そのために容易に辿り着けなかったかも知れないが、とても興味深い絶壁の廃道であっただろう。

私は老紳士に満面の笑顔を向けて礼を言うと、すぐに一人で坑口へ近付いた。
彼はその結末を知っていたに違いないが、何も言わずに頷いた。




隧道は非常な鋭角で岩盤へ入射しており、距離を短絡するという一般的な隧道の目的からはかけ離れた、まるで“窓のない片洞門”のような形態になっている。
地上の険阻を避けることだけがこの隧道の目的であったのだろうと、私は思った。

だが、それは半分くらい間違っていた。

この隧道は、もともとこのような“位置”に掘られたものではなかった。
もちろん、絶対的な位置は変化していないのだが、海岸線との相対的な位置関係は、この隧道が現役であった時期のなかで大きな変化があった。

その話は、内部の探索が終わってからしよう。




遠目にも分かっていたが、いざ入ろうと思うと、天井の低さが気になった。
身を屈めるほどではないが、かなりの圧迫感である。

なお、この素堀の旧隧道が出来た時期については、老紳士もはっきり記憶しておらず、分からなかった。
しかし、彼が船舶免許を取得した昭和29年には既にあって、昭和35年のチリ津波のときも、この隧道が使われていた。
或いは戦前に遡るのかもしれない。

そして久喜トンネルがそうであるように、この旧隧道も久喜港への唯一の通路であった。
久喜港に水揚げされた全てのものが、人背やリアカーに乗せられて遅滞なくここを通った。

隧道は短いはずだ。
2号トンネルの長さが45mであるのと比較して、こちらが取り得る長さは30mを越えるはずが無いのだった。
にもかかわらず、出口の光は見えなかった。




これがその答えだった。

旧久喜隧道は、坑口から20mほど進入した地点で、完全にふさがっていた。

しかも、これは普通の落盤閉塞によるものではない。
閉塞壁は木材で密に築造されており、向こう側を見る事は出来ないものの、位置的にこれが第2号トンネルの“外壁”であることは明らかだった。

閉塞壁の手前には土砂の山があったが、そこには海の藻屑が大量に集まっていた。
これが埋め立て前に運ばれてきたものか、或いは去年の津波によるものかは分からないが、津波は隧道を一時的ながら完全に冠水させたはずだから、その影響を受けた景色であることは間違いない。




この後、地上に戻った私の問に対し、

老紳士は次の事柄を語った。



旧隧道の東口は2号トンネルの東口の場所にあった。

新旧の隧道はその東口で接していたが、同時に通行出来たことはなく、旧隧道は2号トンネルの完成にともなって塞がれた。




この証言と、2号トンネルの内部には洞内分岐の痕跡が全く見あたらなかった事を合わせれば、旧隧道の東坑口のの擬定地はこの場所以外に無い。

これだとまさしく、新旧隧道は東口の位置を共通させていただけで坑道は別物であったことになり、旧隧道の約20mという現存延長は、そのままほぼ全長に等しかったことが分かる




話は少し戻るが、この坑口の位置は、
岩盤の形状と比較して不自然ではないかという、第一印象があった。

そしてその理由は、老紳士の証言によって、さらなる衝撃的新事実とともに判明した。

それは次のような事に因った。



これはとても古い話で、その経緯も時期も詳細は不明である。
老紳士でさえ、うっすら覚えているだけだというのだ。

だが、ここには旧隧道よりも更に古い隧道が、確実に存在していた。
その名も、犬クグリ。

もっともそれは正式な隧道ではなく、「自然の岩場の突端に多少手を加えた程度のもの」だった。
つまり、天然の海蝕洞をベースに、人が通り易いように多少拡幅した程度のものであったようだ。
さらにそこは、波の隙を縫って走らねばならぬ、危険極まる道であった。

にわかには信じがたいが、老紳士が子供の頃の岩場の突端は、上部の稜線を「そのままのカーブ」で地上に落した位置にあって(つまり写真に示した位置)、犬クグリはその突端近くに存在した。
しかし、その後の海蝕と、松の根の成長に伴う岩盤の欠落という、上下両方向からの破壊の作用によって、現在の位置まで崖が後退したのだった。


老紳士がいなければ知ることの無かった数々の事実を手に、私は大満足して帰途についた。





次回の「補完編」では、
レポートの執筆後に判明した新事実や、
震災の前に私の仲間が撮影していた、貴重な旧道風景を公開します。