事前情報からの期待感に背かぬ凄絶な実景を存分に見せつけた大山隧道群であるが、レポートの最後に後日の机上調査から明らかになった少しの事柄を追記しておこう。

『両津市誌 町村編下』(昭和58年/両津市役所発行)より、
「大山隧道と黒姫大橋の基礎工事」という写真。
『両津市誌 町村編下』(昭和58年/両津市役所発行)は、黒姫集落を紹介する冒頭でこう書いている。
「両津の埠頭から加茂線のバスで、内浦海岸を走ること四十分、長い大山トンネルをぬけると、右手に防波堤に囲まれた漁港が見え、道の両側に家々が立ち並ぶ小さい部落に入る。これが「黒姫」である。
」
当時、黒姫大橋はまだ建設中で、右の写真の様に基礎が完成したばかりであった。
この写真の背後には現役末期の旧道が見えるが、地上のアイテムは現在とあまり変わっていない。当然である。
写真の左に第二隧道の護岸擁壁が見え、右端にはあの小さな橋が見える。
しかし今と大きく違っている点もある。
それは、小さな橋のすぐ左に、一帯で最も目立つ巨大な岩峰が存在していた事実だ。
おそらくこれこそが「鬼の面」と称されてきた天然の尤物であったが、その崩壊は第二隧道の北口を巻き込んで、地形の印象さえも大きく変えてしまった。
これほどの崩落であるから、当時の新聞記事には何か記録があるかも知れない。(未確認)
このレポートの初回で「鬼岩城に挑む」などと煽ったのも、この地がかつて「鬼の面」と呼ばれる奇景であり難所であったからだが、探索開始時点でそれは既に消滅していたのだった。
…煽ってゴメンね。 でも、好きなんだよね、こういう分かり易く難所っぽいネーミングが。鬼だぜ。鬼!!

『両津市誌 町村編下』(昭和58年/両津市役所発行)より、
黒姫地区の地図。
だが、大崩壊までは確かに「鬼の面」があったらしく、同市誌の黒姫地区の地図(←)にも、この通りである。
また、隧道の名前となった「大山」だが、地形図には出ていない地名であり、実際に大山という山があるのか、それとも単純に険しい山道(の在処)を称してそう呼んでいたのかが疑問であった。
この地図を見る限り、地元では大山第三隧道が裾野をくぐる標高166.6mの山を、大山と呼んでいるようである。
そこから大山隧道という名前が付けられた可能性が高い。
(しかし、険しい山越えの道が通る場所という意味で大山と地名が付けられた可能性も捨てきれない。ニワトリとタマゴの関係である)
また、この地図は大山隧道を「黒姫トンネル」と誤表記している。
結局のところ、この大山という地名は、大山越えが廃止された昭和初期の時点で旧化が始まり、その後の黒姫大橋が大山大橋と呼ばれなかった事からも分かる様に、遠からず消え去る定めなのだと思う。
市誌の類には写真一枚も残っていない「鬼の面」は、江戸時代末期の紀行文(越後国雑誌)にも次の様に現れている。
「当村(黒姫のこと)海際浜形に家あり。後ろ少々田方にて直に山なり。波打際より家まで四、五間。貧村に相見へ、村内に黒姫川と言うあり。鬼の顔と言う岩あり
」と。
顔なのか面なのかはっきりしないが、ともかくそういうものがあり、同市誌はそもそも大山とは鬼山の転化などとも言われている、と紹介している。またこの集落の伝承として、鬼が田植えをした田んぼがあるとのことだ。
…というように、各集落史について結構詳細な『両津市誌 町村編』であるが、大山越えや大山隧道に関しては単に「昭和2年に大山隧道が開通した」という一文があるのみで、他には黒姫大橋の着工が昭和53年であった(つまり完成まで9年も要している)事くらいしか記述が無く、それ以上の交通史上の出来事は分からなかった。
集落にとって、これら道路事情の改革は一大事であったはずだが、道は暮らしの中の日常にあるもので、敢えて集落固有の歴史として記録される事は多くなかったのかも知れない。
あんなに立派な、本土に連れて行っても誇るべき隧道が目の前にあり続けたのに、余りに近すぎたのだろう。


大山隧道の机上調査は敢えなく壁に突き当たってしまった(第二隧道にも入れず今はここで止まっている)が、『両津市誌下巻』(平成元年/両津市役所発行)によると、この大山隧道を抜けた黒姫集落は長い間、両津から北へ向かう路線バスの終点として人々の記憶に刻み込まれた地名であったようだ。黒姫は佐渡における車交通の一つの果てであったのだ。
大正3年に両津港から工事が始められた県道(当初は馬首線と呼ばれたがすぐ海府線に改称された)が、加茂村の歌見まで達したのは大正14年だそうだ。
それから大山隧道の難工事があって、内海府村黒姫まで(海府線と呼ばれていた)が開通したのは昭和5年とされている。
(『大鑑』や『町村編』では開通が昭和2年とあり、一致しないが、どちらが正しいかは不明)
だが、黒姫から先へは「難工事区間が多く、相次ぐ事変・戦争の遂行などで工事は中絶し
」たため、路線バスが黒姫の次の集落の外れにあたる虫崎北まで行くようになったのは昭和38年(前年の虫崎トンネル開通による)と一気に遅れる。
それから内海府海岸と外海府海岸が接する佐渡北端の地である鷲崎まで県道と路線バスが辿りついたのは、昭和45年という。
地図の上では、黒姫と鷲崎の間は11km、両津との距離を測っても30kmに過ぎないが、内海府海岸北部の地勢は、大山を含めて随所に険しかったのである。
そしてそのために、浦々を結ぶ定期船が、長らく内海府海岸交通の主役であり続けたのだった。
このような脆弱な道路事情は、右に掲載した昭和28年の地形図においても表現されている。
県道の表記が、黒姫で打ち切られているのである。それより先は里道の扱いである。
法的には既に鷲崎まで全線県道であったはずだが、それは測量者の目に止まらないような存在であったのだ。
大正から昭和初期、大山隧道は犠牲を払いながらも、何とか掘り抜いた。
やがて佐渡を一周する夢を抱いた県道は、起点の両津から順調に加茂村を貫通し、鷲崎を擁する内海府村の南端(黒姫)までは辿りついた。
しかし、そこで力尽きてしまった。
それからの再充電には、想像以上に長くかかってしまった。
そのため、せっかく開通した大山隧道も、昭和3〜40年代に車社会が島にも徐々に浸透して黒姫の奥へ県道が伸びていくまでは、かなりお寒い交通量だったことだろう。
黒姫以北の集落へ向かう旅客も、わざわざ黒姫で路線バスから定期船へ乗り継ぐ事はせず、両津から直接ゆく事が出来た。
立派な坑門は寂しかったかも知れないが、それゆえ「鬼の面」の大崩壊という危険な爆弾を抱えた隧道の本格的改築(=黒姫大橋)は遅れ、実際のXデーとの誤差もあまりなかった。
改築が間に合って、本当に良かった。