1、 谷根集落での聞き取り調査
14:24に山から降りてきた私は、すぐにこの谷根集落での聞き取り調査をスタートした。
古老は大勢住んでいると思うが、とりあえず何かの成果を得られるまでは、集落内ウロウロ古老エンカウント狙い頑張るぞ。(←怪しい)
……数分後、さっそく畑で作業中である50才くらいと見える男性に、お話しを伺うことが出来た。(古老と呼ぶには若い気がするが許して)
以下、証言内容――
- 隧道のことは、親から聞いたことがある。自分たちの親の世代の話だと思う。
- 自分自身は、隧道を見たことはない。若いころに一度見に行ったことがあるが、途中の道が荒れていて、辿り着けなかった。
たいへん親切にお話しくださったが、残念ながら隧道の素性に繋がる話は分からなかった。
その口ぶりからして、私の想像以上に廃止が早かったような印象である。
とはいえ、たまたま声をかけたお一人目が、隧道について、「親から聞いて知っている」と語ったのは、隧道と谷根集落の関わりの深さを窺わせるメッセージといえるのではないか。
もしかしたら、ある一定の年代に谷根に暮らした人ならば、知らない人のないような隧道だったのではないか。
これを一人目で決めつけるのは、さすがに性急といわざるを得ないが、私はそのような期待を持ってしまった。
より年齢を重ねていそうな証言者を求めて、再びエンカウント作業開始!
( 10分後 )
第2の古老があらわれた!
60才くらいと思われる男性の証言は、以下の通り――
- 隧道は、私が小学生、中学生、高校生になる頃までは通ることが出来た。自分は昭和53年頃まで自転車で通っていた。
- 谷根の田んぼが隧道の向こう側の谷にたくさんあって、集落の人たちはそこを耕すために、耕耘機と一緒に隧道を通った。
- おそらく隧道が通れなくなったのは、昭和50年代後半くらいだと思う。
- 通れなくなった理由は、崩れたから。
- 隧道の上にある峠道は、隧道以前の道で、今も毎年秋に集落の人が出て刈り払いをしている。
- (隧道内に急坂があったのではないかと聞くと)確かにあった。両側から掘ったが、中央で食い違ったせいで出来たと聞いている。
- 隧道がいつからあるのかは分からない。誰が作ったという話も聞いたことはない。
- 隧道も、古い峠道も、ここの人たちの自慢だ。隧道が通れなくなったのが残念だ。
キタキタキタキタぁーーー!
非常に重要な内容を含む証言である。
現地探索では窺い知れなかった廃止時期や、往時の利用実態について、情報を得ることが出来た。
特に衝撃を受けたのは、隧道が崩壊する直前まで、集落の人たちが農作業のために盛んに通っていたという内容だ。
耕耘機というワードが出て来たのも、私がたまたま見つけた【アイテム】(この時点では正体を知らなかったが)との、偶然とは思えぬ符合であった。
(あの耕耘機は昭和30年代のものっぽいので、谷根の人たちが隧道を潜らせて持ち込んだものである可能性は十分高い。)
これまでも、集落から山の裏にある田畑へ通うために隧道を掘ったパターンは多く見てきた(例1、例2、etc…)が、今回の隧道もそうした利用実態を持っていたようである。
石仏がたくさんあった古道の印象のために、私は隧道についても米山参詣道の印象を持っていたが、少なくとも谷根集落の人々にとっては、田んぼへ通う毎日の仕事道だったようである。
あと、上記の最後の証言については、このような短い一言で述べられた内容ではない。
私の作文であることを告白せねばならない。
だが、古道と隧道が谷根集落の宝物であるという思い、深い愛着、そして廃止された隧道に対する愛惜の念を、私は古老のお話の節々より間違いなく感じ取った。それを伝えたいがための作文であることをご理解戴きたい。
非常に得る所が多い証言であったが、それでも判明したなかったことがある。
それは、隧道がいつ、誰の手によって、どうやって建設されたのかという、いわば原初の記録だ。
これについては、明治末の地形図に既に描かれていることからして、建設の当事者が存命ということはまず期待できない。
1人目の証言者が語った“親の世代”(≒30年前)どころか、祖父母(≒60年前)、いや、曾祖父母(≒90年前)の世代以前の話なのではなかろうか。
ここで私は聞き取り調査を切り上げ、薬師堂へと向かったのだった。(前述の補遺編へ)
2、 帰宅後の文献調査
家に帰ってきてからの文献調査では、セオリーに従って、平成2年に刊行された『柏崎市史』(上・下巻)を取り寄せて読んでみた。
……谷根の隧道については何も書かれていなかった。
僅かに関係があると思われた記述を拾い上げるとしたら、今回探索した古道と鯨波の薬師堂で合流している北陸道の難所、いわゆる“米山三里”が、明治以降いかにして国道として整備・改良されてきたかという内容だ。
ここは明治11(1878)年の北陸巡幸時にも馬車の通れる道はなく、明治天皇は板輿で通過したのだが、それから間もない明治13(1880)年に、地元の村々が改良工事を県に出願し、明治15年に着工、翌16年7月に全区間完成し、柏崎と柿崎・高田方面が馬車道で結ばれたという。これが現在の国道8号の前身だそうだ(だいたいの区間は旧国道になっている)。
また、現在の信越本線が私鉄の北越鉄道(新潟〜直江津)として建設された時期については、直江津〜柏崎間の開業が明治30(1897)年で、青海川駅は同32年、鯨波駅は同35年にそれぞれ開業していることが分かった。
これらの国道と鉄道駅の整備が、谷根への車道導入の下地となったであろうと想像できたが、直接の記述がないのではここから先には進めなかった。
次に確認したのは、国会図書館デジタルコレクションの図書館向けデジタル化資料送信サービスで利用可能な文献だった。
タイトル、『柏崎市史資料集 民俗篇』、昭和61年発行。
おそらくだが、何冊かあるこの資料集を集成したものが、前掲の前後編からなる市史である。
より微に入り細を穿つ情報に期待して、この本にあたってみると……。
まず、民具の章で、「谷根」の名が付けられた道具を見るけることが出来た。ちなみに年代としては全て明治以降の話だ。
『柏崎市史資料集 民俗篇』より
重い荷物を背負うときに着用するものにタンネミノがある。谷根発祥といわれるもので、谷根ではノメシミノという。わら製の袖なし着物といったところで、背面が二重になっている。即ち、外側に三つ組みに編んだ扁平の縄を糸で平編みにしたものがついている。湿ったものを背負うときにも用いられ、背中がぬれなくてよいといわれている。
どうやら、谷根の人々が長い間、長距離かつ頻繁な交易に汗を流したことを窺わせる、工夫に満ちた独特の装いが存在したようだ。
この「背中が濡れなくて良い」というタンネミノで、天気を問わず土砂降りだったアノ隧道を潜っていたのだろうか…。
続いて、柏崎市街地と周辺の村々の交易に関する内容にも、谷根の名前を見つけた。
長い冬が去り、雪が消えはじめ真黒な土がみえる頃になると、一番先に蕗の薹が芽ぶく。3月15日を過ぎる頃になると、笠島、谷根、川内の女衆が、紺絣(こんがすり)の着物にモンペ姿でテゴに蕗の薹を入れ、「蕗の薹いらんかて」「蕗の薹お買いァやァー」と声を掛けながら各家をまわり、売り歩いた。また、わらびやぜんまい、ウド、竹の子、マタタビ、山椒と春の山菜を売りにきた。
谷根の女性の働きぶりの一端が述べられている。
モータリゼーションの進展によって、市場が全国規模に統一されていく高度経済成長期まで、隣り合う町と村の間の直接的で素朴な相互依存の関係は、両者を結ぶ多くの田舎道を、確実に存続させしめたのであろう。
谷根の隧道もまた、農作業だけでなく、交易路としての役割を果たしたことは想像に難くないのであるが、 …直接的記述が欲しいなぁ……。
そんなことを思いながら、季節ごとにまとめられた交易のページを読み進めていくと、春、夏、そして秋……再び谷根が登場した。
秋になると谷根から炭売りがきた。谷根では町通いといい、昔は谷根の北山の峠を越え、鯨波、中浜、大久保と歩いてくるのである。
明治13年村協議で峠に墜道をつくることを計画!!!
やっべえ! 唐突に来た!!!
炭売りの話で、いきなり来るとは思わなかった。
実は、この前に読み終えていた「交通」の章では全然成果がなかったので、「交易」の章は半分流し読みに入っていたのだが――、頭蓋骨陥没レベルの衝撃を食らった!
そうかそうか、ここで来ちゃうか。来ちゃうのか〜ッ!
現地探索中、古道の峠で「北山街道」という看板を見ているが、あの峠を「北山の峠」と呼んだことも、上記文章から判明した。
それでは注目すべき、明治13年云々の続きを読んでいこうぞ!
うおー!! 明治23年完成だったのか!
明治23(1890)年、私の探索のちょうど130年も昔だ。
マジかよってレベルで古い。明治隧道だとは思っていたが、その中でも意外な古さであった。
柏崎近辺に限ってみても、現在の県道11号柏崎小国線の畦屋隧道が明治26年開通といわれるが、それよりも古く、もしかしたら中越地方最古かもしれない。まさか北越鉄道よりも古いとは…!
……と、竣工年だけでめっちゃ盛り上がったところだったのだが、これに関する記述は、以上をもって唐突に終了するのだった。
あれあれ? ここはもっと掘り下げる所じゃないの?
明治13年計画、23年完成の隧道とか、凄くない?!
相当珍しいよ、この時代の道路隧道ってだけで。
とまれ、この先の記述も興味深いのは確かなので、引用を続ける。
炭売りも農業協同組合が出来て、作った炭が農協に納められるようになってからは、自然に行われなくなった。
以上一連の文を総合すると、谷根の隧道は、明治13(1880)年に、炭売り(町通い)の往来である北山の峠越えを楽にする目的のため、谷根村の協議によって計画され、10年後の明治23年に完成したものらしい。ちなみに、谷根村は明治22年の町村制施行時に、同所に村役場を置く上米山村となり、昭和25(1950)年に柏崎市に編入されるまで同村が存続している。
意外なことに、隧道の建設は当初において、馬車や荷車のような車両交通の実現を狙ったものではなかったのか、炭売りは長らく背負いによって行われてたようだ。
しかし一方で古老の証言によれば、最終的に隧道を自転車や耕耘機といった車両が通行していたようであるから、途中で拡幅や改良が行われたのかも知れない。
残念ながら、隧道のその後については記述がなく、はっきりしないのだが…。
以上の成果をもって一応の満足を覚え、机上調査を終えていたのだが、先日、新潟県立図書館へ行って地元の文献を探した際、隧道に関する新たな記述を発見した。最後にこれを紹介したい。
タイトル『柏崎市谷根の民俗』、発行者新潟県立柏崎商業高等学校社会経済調査部民俗クラブ、発行年昭和43(1968)年という文献だ。
明治21年、当時、県庁所在地の柏崎への往還は峠を越えるため誠に難渋であった。
上記の北陸道における表街道と裏街道の関係をプロットしたのが、右の地図である。
近世を通じて鉢崎に北陸道の関所があり、通行人には面倒な検めがあったから、これを迂回できる裏道が存在し、それが谷根から例の“北山の峠”を経由し、鯨波に出ていたというのである。
そして、最後に急に「明治21年」という聞き覚えのある年が出て来るのであるが、確かに明治初期の短期間(明治6年まで)、柏崎は柏崎県の県庁所在地であったことがある。
この説明があった後で、いよいよ待望の隧道の話が出てくる。
しかし、仕事は科学的でないので途中湧水や穴の食い違いなどのため相当の困難が伴った。
遂にはこのため新沢氏の家運が傾く程になり、人は五厘、牛馬一銭の割で通行料を徴収した。
そして、谷根隧道の管理は鯨波村と谷根村が共同管理し、その後、個人の所有になったものらしい。(県立柏崎工業高等学校社会部調査)
うわぁああぁぁ…
めっちゃ、書かれてるぅー
「仕事は科学的でないので、途中湧水や穴の食い違いなどのため、相当の困難が伴った。」
「仕事は科学的でないので、途中湧水や穴の食い違いなどのため、相当の困難が伴った。」
「仕事は科学的でないので、途中湧水や穴の食い違いなどのため、相当の困難が伴った。」
ここで初めて、工事の計画者であり、私財を投じて建設を進めた、事業の中心人物の名前が判明した。新沢多三治という。
偉大な郷土の慈善家であったことは間違いないが、長さ100mを越える隧道掘りを容易く考えてしまったものか、湧水については当時の技術水準からして予測不能だったろうし不運でしかなかったと思うが、洞内での食い違いがあって、ああいう段差のある隧道が誕生することになったことがはっきりと記録されていた。
しかし、最終的に家運を傾けたというのは、気の毒にも程がある。
いったいどのような立場の人物であったのか、さらなる調査をしたかったが、現時点では分かっていない。
氏名で検索して得られた唯一の情報は、明治10年前後の「高田呉服町長澤六一郎書状〔拝借米代金上納に付〕」という古文書の存在が判明したというだけである。この書名から金銭を人に貸す財力があったことが窺えるが、時代的にこれは隧道工事に取り掛かる前である…。
しかし、とにもかくにも隧道は完成し、当初からそういう計画だったのかは分からないが、通行人から通行料を徴収したのだという。
現代でいう有料道路である。
明治期には私人が管理する賃取橋(有料橋)や有料の私道が各地にあって、財政的に行政が手をこまねくような道路整備の助けとなっていた。とはいえ、運営には県の許可が必要で、未来永劫料金を取り続けることも許されていなかった。時限があった。
したがって、県の公文書をつぶさに調べれば、この“谷根有料隧道”の記録がきっと残されているはずで、そこからも関係者や事業の沿革が判明するかも知れない。(未捜索)
有力な文献を得て、まだまだ調査の伸びしろを感じる状況であるが、現時点の調査は、ここまでとなっている。
出来れば完成当時の記念写真とかも見てみたいものだ…。
工事の失敗をまったく隠せていない、出来の悪い隧道だった。
工事関係者の必死の努力を、これほどまで深く壁に刻んで留めている隧道は、稀であった。
そのことが文献調査からも裏付けられた。
だが、完成した隧道は、意外と言えば失礼なくらい長く活躍を続けた。
いまなお古老の誇りとして語られている隧道は、間違いなく、その長い生を全うした。