隧道レポート 柏崎市の谷根隧道 最終回

所在地 新潟県柏崎市
探索日 2020.03.07
公開日 2021.05.28

 尾根を乗り越え 隧道西口を目指す


13:26 《現在地》

15分ぶりに地上へ戻ってきた。
洞内から逃げ出した隧道ぬこ1匹は、外へ出たあと、行方不明になった。私がいなくなってから、家族の元へ帰ったと思うが。

余談はさておき、谷根隧道の現存の有無を確認し、内部を探索するという大目標を果たしたので、これより帰路に就く。
ただ、隧道西口と、西口から谷根までの新道部分がまだ探索出来ていないので、それらを回収しながら帰ることにする。

そんなわけで、私は東口から隧道直上の尾根を直登して、西口を目指した。
果たして、東口の直上には、擂り鉢状をした大きな陥没跡があった。
言うまでもなくこれは、隧道内の【落盤ホール】の直上である。
底が抜けたら恐いので、陥没地を避けて尾根を目指した。



13:33 《現在地》

東口と尾根の高低差は30mほどで、道はなかったが、簡単に登ることが出来た。
たった数分で、見覚えのある道が縦走する尾根に達した。

この場所こそは、古道を歩いている時に隧道直上との目星を付けていた【地点】に他ならなかった。
安全に帰るだけなら、ここから左へ古道を辿れば良いのだが、私はまるで道を知らない原始人のように、全く無造作に古道を横断して、反対側の谷根谷を覗く。




するとそこは、ちょっと尻込みをするような急な斜面であって、隧道直上の地形が、決して東西に対称的ではないことが理解された。
もちろん、道らしいものも、目印もないし、果たして西口がどういう形で残っているのかも不明である以上、ここへ踏み込むことには少なからずリスクがあると思った。

とはいえ、このリスクを回避して変に迂回して行こうとすると、現時点で私が持っている西口発見への最大の武器といえる、東口との位置関係の立体的イメージを放棄することになる。
それは避けたい。
長さや高さといった実感的な立体的イメージは、あとから復元することはほぼ不可能なので、いまこの東口からの流れのまま西口を見つけるのが、最短なのである。

そう判断し、この急峻な斜面に足を踏み入れた。



13:42

下り始めて8分後、木々の幹を手掛かりや足置きにしながら、急すぎない場所を選びながら慎重に下ってきた。
既に東口の比高である30mを越え、40m近く下ったように思うが、依然として西口や、西口へ通じていた道に遭遇していない。
しかし、東口周辺にあったようなスギの植林地に出会った。
ここを訪れる手段があったからこその植林地であろうから、これはいい傾向だと思う。

まだまだ現在の県道が通じている谷根川の谷底は100m以上も低いところにあるが、これ以上低い位置に西口があったとは思えないので、このスギ林の内部を重点的にローラー作戦することにした。



13:44 《現在地》

どうやら、やったようです!

見つけたっぽいです。

スギ林の一画に、明瞭な掘割り部分を発見。
それを少し辿ると、尾根に正対する方向へ向いており……、そのままズドンと隧道へ突き刺さっていく線形を見て取った!

ここは新道の一部であろう。
そして、やはり完全な廃道であるらしく、倒木などの視界を遮る障害物が多い。
そのため西口開口の有無はまだ見えないが、目的の達成は間近であろう。
いざ往かん!


(←)
西口跡地を確定させた!

アンサーは、

完全埋没!

残念だが、これが現実。
洞内の様子から、なんとなくそんな気はしていたし、ひろみず氏もこのことを報告していた記憶が薄らあるので、がっかりはしなかった。
跡地がどこかよく分からないまま終わることを一番恐れていたので、むしろこれだけはっきりとした跡地の地形があったことに安堵した。

予想以上に巨大な坑口跡地の痕跡だった。
どこまでが人工的な地形で、どこからが崩壊による変化なのか、厳密な判断は付かないが、穏やかな印象を与えた東口と較べて、この西口は山岳に挑戦する気概を前面に押し出した、力強い坑口風景だったと思う。
谷根の人々が誇りにするような、偉容だったのではないか。

ただ、坑口を取り巻く法面を高くしすぎたために、次々落ちてくる崩土によって坑口が埋没することを防げなかったのだと思う。



西口を背にして眺める谷根側の新道風景。
かつて、隧道を潜り抜けた人たちが真っ先に見た、明るい景色の再現だ。

現役当時から、隧道内にはあの怪しげな光景の数々が展開していたに違いなく、初めて通る米山参拝の旅人などは、奇異な印象を持ったかもしれない。それとも、隧道というものの珍しさに驚く方が強くて、別に変わっているとは思わなかっただろうか。
この先、掘割りが明けると直ちに左カーブがあり、あとは等高線に従って谷根集落を目指すルートである。

ところで、隧道内【最終プール】の水が、常に地上へ流れ出ているのではないかと推察した件についてだが、どうやら間違いないようだ。

(→)
西口跡地に崖錐状に分厚く堆積している瓦礫の山だが、その基部(路面の高さ)に湧水があることを確認した。
一見すると湧き水であり、美味しそうな気もするが、正体はコウモリ汁&隧道ぬこ汁である。いちおう土のフィルターに濾されてから、ここから谷根谷へ、そして日本海へ、排出されているのである。1匹、ちゃんと戻ったかな? 戻った後、気まずかっただろうな。「お前だけ外まで逃げたよな?」とか、からかい上手の奴にからかわれて(笑)。

こうして水が通っている以上、徹底的に排土作業を行えば再貫通は可能だろうが、人力レベルを遙かに超えた崩土量であった。




 帰路 西口(谷根)側の新道を往く


当初予定に(地図にも)なかった古道をも探索したために、予定よりもだいぶ長引いた探索も、いよいよ最後のピースを嵌める段階へ。
最後まで残った新道の谷根側区間の探索だ。

この区間は、最新の地理院地図にも明治の地形図と同じ位置に徒歩道が描かれており、それを辿ることになるわけだが、自転車をデポしてある【新旧道分岐地点】まで約500mの約束された廃道歩きである。

春の里山を舞台にした、ウィニングラン的な廃道歩きになった。
右手に谷根谷、左に古道が通じる尾根を眺めながら、約500mで海抜150mの坑口から海抜110mの分岐地点まで、穏やかなトラバースで下降していく。
道形は良く残っており、石垣などの目立つ構造物はないが歩き易かった。藪もあったが、激藪だった薬師堂側の谷とは別世界だった。



隧道西口付近を振り返って撮影した。
それは中央付近にあったが、切り通しの奥なので見えない。
この写真からは、尾根との落差や斜面の急さが分かると思う。確かに隧道を掘りたくなる地形であった。

ただ、この高さからだと、かなりの上り勾配で隧道を掘らなければ、薬師堂側の地表に上手く出られず徒に洞長が長くなってしまう。
そうした施工上の悪条件から工事中に混乱が生じ、隧道内に残された異様な光景の数々の原因になったと想像している。

ほとんどの人は、一生のうちに何度も隧道掘りを体験しない。
それは明治の人も現代人と同じであり、ビギナーには難しい隧道だったのだろう。 きっと。
でも、途中の失敗で諦めず、未成で終えなかったことは、絶対に誇らしかったと思う。



14:00 《現在地》

西口から250mほど進んだ。
ここに小さな沢があり、道は横断する。
橋が残っていたらと期待したが、そこにあったのは――




こいつをどう思う? 小さいです。

そこにあったのは橋ではなく、ごくごく小さな洗い越しのようなものであった。
舗装されているわけではないのに、洗掘もされていないところを見ると、よほど水量が少ないのであろう。
どうということもない風景だったが、あの隧道内に見られた凄まじい戦いの跡を思い出すと、その対比がなんともおかしくて、微笑みが零れてしまった。こんなのんびりとした道路作りの先に、あんな魔窟が…(笑)。



特筆すべき構造物や難所を持たない谷根側の新道区間だったが、尾根上の古道に負けないほど、眺めは良かった。
路傍の木々の隙間から、しばしば米山の美しい姿が眺められたし、間もなく谷根の集落に着くとは思えないような、深山幽谷の色香があった。




やや後方に目を転じれば、今度は青海川という地名をそのまま風景にしたような日本海が、谷根谷の出口に朧な水平線を見せていた。
谷底の県道にはない変化に富んだ風景の変化があり、このあとに谷根の里を目の当たりにした人が感じる感慨も、今と昔とでは違っていたと思う。



14:13 《現在地》

予定調和的に綺麗にまとまった。
3時間20分ぶりに、谷根側の新旧道分岐地点に帰ってきた。
我が自転車が待つ。

前にここを過ぎた時は、周りの全てが未知であり、得体の知れない状況だったが、3時間20分で私は谷根をマスターした……ような気分になれるのが、温故知新を地で行く廃道探索をする醍醐味だった。

というわけで、しっかり経験値を積んで、これより谷根へ帰る。
私は、この土地の人たちが歩んできた道を2世代分も(現県道を合わせれば3世代分)味わった。
謎の杉並木や、土塁で作った九十九折りに驚かされたり、石仏に驚かされたりした。




人煙たなびく谷根の里へ帰ってきた。

私は、彼らが臨んだ苦闘の跡を見た。弱さを見た。粘り強さを見た。

故郷を愛する人が、故郷に尽す、その姿を見た。



14:24 《現在地》

このあと私は、谷根の里で数人の古老に聞き取りを行った。

その成果を踏まえたミニ机上調査編を、最後にお伝えしよう。



 補遺: 国道8号薬師堂 〜 新旧道分岐地点まで


予想外に発見した古道に足を踏み入れたところから、結果的には明治の新道と江戸時代の古道という2世代の道を、一筆書きの要領で見て回ることに成功した今回の探索。
最後は目当ての隧道についてもしっかり決着が付いて、大満足の成果であったが、実は探索していない部分が一区間残っている。

それは、国道8号から新旧道の北側分岐地点までの約1.2kmの区間である。
現在の地形図だと、国道から入って北陸道を潜るところまでは1車線の道路として、以南は徒歩道として描かれている。
一方、明治の地形図だと、一貫して里道の記号で表現されている。

とまあ、総じて地図上の表現に特に不審なところはないし、先に書いてしまうと実際地味な区間であるのだが、とはいえここを欠いては、国道8号やその昔の北陸道(北国街道)と谷根を結ぶという一連の峠道の完全攻略は達成できないし、あの奇抜極まる古道と隧道(うん、どっちも奇抜だった)へと通じる入口的な部分の状況はやはり気になるというわけで、本編探索の後で時間があったので、そのまま追加探索を行った次第である。

エンディング後にオープニングを見せられたような、あまり盛り上がらない展開ではあるが、少しだけお付き合い下さい。




国道8号側の入口はここだ。
柏崎側から西向きを見ている。正面の坦々たる道が国道で、左へ登っていくのが目当ての道。
すぐ近くに「薬師堂」というバス停があるが、それらしい仏閣は見当らない。
一応国道側にも右折レーンが用意されているが、案内標識などは全くないので、間違って入り込む人はなさそうだ。
ヒトケタ国道ということで、車の流れも爆速なので、自転車では路肩にもあまり長居していたくない感じである。

ではさっそく進入開始。



2020/3/7 15:12 《現在地》

入って30mほどですぐに分岐があり、左折するのが谷根方向、直進すると国道へすぐ降りる。
道の形状的に、ここにあるのは短い旧国道(しかも、こちら側からの一方通行になっている)であって、本来の谷根への分岐はここだったのだろうと思う。

この国道より一段高くなっている分岐の一角に、大小の石仏が2基並べられており、仏身が刻まれた小さい碑には「米山」の文字があり、深い彫り筋で「説法一萬座供養塔」と刻まれている大きい碑には、太い文字の両脇にやや小さく以下のように書かれていて、道標石を兼ねていた。

右の砂道ハ京江戸往来 左の坂道ハ米山薬師さんけい道

おおおっ!


こんなに立派な道標があるなんて!
残念ながら、いずれの碑も建立年が書かれていないが、江戸時代のものだと思う。
これまで私の中では朧気な存在だった、北陸道から谷根を経て米山薬師へ至る古道(北山街道?)が、いよいよ明確になった感じ。

まずは、国道8号の前身である北陸道を「京江戸往来」と表現した昔の人の案外広い地理感に興奮を覚えた。
確かにこの道を西へ行けば最後は京都で、東へ行けば最後は江戸だ。それは現代の国道でさえ単体では成し遂げていない長大な道である。(しかしそんな道の実態が“砂道”なのも昔らしい。ここから西の北陸道は、古くから“米山三里”と恐れられた海岸の難路で、陸上にしっかりとした道が付いたのは明治時代である)

そのような大道に対し、「米山薬師参詣道」が案内されている。
古道が、あるいは隧道を完成させた新道が、もし今日まで存続していれば、この交差点には「←米山」と書かれた青看が何枚も設置されていたかも知れない。
そんなことを思わせる、立派な道標の分岐地点であった。

写真は、振り返って撮影した。
谷根から降りてきた旅人が見る海は、アスファルトと複線線路の向こうに今も変わらず広がっていた。



道標の分岐を左折すると、すぐにホテルらしき大きな建物と、その進入路への分岐が現れるが、既に営業はしていないようだった。
そしてこれ以外辺りに建物は見当らず、国道から分け入る道の行き先として期待されるようなものは、もう何もないという感じがした。

ただ、依然として2車線幅の舗装路が続いていて、ここから僅か1kmほどで【この道】に“堕ちる”ことが不思議な感じだった。
このままどこかへ通じていそうな雰囲気もあったのだが……。




北陸道――というと、ここでは古道と区別が付きづらいので――北陸自動車道の高架橋が近づいてきた。
高架の下に、白い米山の頂が収まって見えた。
それほどであるから、古道が越える谷根までの峠道も、もちろん高架橋の下に見えていた。

薄れ切った白線が残る2車線道路……、
広い歩道には、雑草が生い茂っている……、
ああ……と、察せられる。
未成道といえるのかは分からないが、この道はダメだと。
地形図の表現通りの顛末になるであろうと。



15:14 《現在地》

ダメでした。

「柏崎市」のデリニエータが歩道縁石上に並んでいることから、まず間違いなく市道と思われるこの道だが、入口から約400m、北陸道の高架橋を潜ろうとしたところで唐突に舗装が途絶え、歩道も消えた。




詳しい事情は不明だが、歴代の航空写真を比較したところ、昭和58(1983)年に開通した北陸自動車道の建設当時に高架橋までの区間が舗装され、さらに平成時代に大規模なレジャー開発が行われ、2車線に改良されたことがうかがえた。当時はこの高架橋を潜った先にターミナル式の駐車場があったようだ。
(航空写真上の×印の建物は、解体されて現存しない)

したがって、ここまでの道路整備は、谷根へ抜ける市道全体を改良しようとしていた名残というわけではないようだ。

読者諸兄のご指摘により、ここにあったレジャー施設は、柏崎トルコ文化村というテーマパークであったことが判明した。平成8年開業、同16年閉業という短い命であったらしい。

高架を潜ると舗装された空き地に突き当たり、一見すると、道はここで終点のように見える。
前述した航空写真によれば、この空き地は駐車場の跡だ。

そしてよく見ると、空き地の一角(矢印の位置)から、細い砂利道が谷奥へと通じているのだった。
地形図だと、この先の道は徒歩道になっている。




一瞬でステージが変わった感じ。
直前までの2車線道路から、廃道寸前の小径へ堕ちた。
奥には民家であったらしき廃屋も見えている。

これでも昔は【こんな耕耘機】を荷台に乗せた軽トラくらいは通ったのだろう。
先行する真新しいバイクの轍があるのが不思議だったが、それを追いかけるように、廃耕地に満たされた谷道を力強く漕ぎ進んだ。




数百メートル先に、轍の主が停まっていた。
主の主の姿は、森の中にあるのか、見当らなかった。
私はこれを追い抜き、見覚えの場所を目指して、さらに奥へ。
もうゴールは近いぞ。




15:24 《現在地》

小川という表現がぴったりである谷底の川べりを、ほとんど水と同じ高さになって進んでいく。
気付けば砂利の舗装もなくなって、見慣れた古道の姿であった。轍ももちろん消え去った。
路面が泥濘んでいるので、私も少し前に自転車を乗り捨てている。

次のカーブを回れば…、いや次か……、
そわそわと旅の完結を楽しみにするばかりだった私に、今回最後の発見があった。



これは…… 石橋 と言っていいかな? いちおう。

現代では神社境内とかでしかあまり目にしない、柱石を数本横並びに置いただけの超絶シンプルな石橋だ。(別アングル画像)
規模が規模なので、石橋というよりは排水溝の蓋(グレーチング)みたいなものと言った方が相応しいかもしれないが、ともかく水流と道路が交差する構造物。

跨いでいたのは川の本流ではなく、そこから分水した灌漑水路だと思う。
水路は既に埋れてしまっているが、ここまでの道路沿いにもそれらしい凹みや平場が所々に見えていた。

果たしてこれはいつの時代の橋なのか。
車道を志すようになった明治のものか、はたまた古道時代より参詣の草履に踏まれ続けてきた古橋か。
いずれにしても、愛情と年季を感じさせる石構造物だった。




15:28 《現在地》

見覚えある分岐地点に、約3時間半ぶりに再会。

これで見ない区間はなくなった。

古道と新道を完全攻略にて、

探索終了!





 机上調査編 

1、 谷根集落での聞き取り調査


14:24に山から降りてきた私は、すぐにこの谷根集落での聞き取り調査をスタートした。
古老は大勢住んでいると思うが、とりあえず何かの成果を得られるまでは、集落内ウロウロ古老エンカウント狙い頑張るぞ。(←怪しい)

……数分後、さっそく畑で作業中である50才くらいと見える男性に、お話しを伺うことが出来た。(古老と呼ぶには若い気がするが許して)

以下、証言内容――

  • 隧道のことは、親から聞いたことがある。自分たちの親の世代の話だと思う。
  • 自分自身は、隧道を見たことはない。若いころに一度見に行ったことがあるが、途中の道が荒れていて、辿り着けなかった。

たいへん親切にお話しくださったが、残念ながら隧道の素性に繋がる話は分からなかった。
その口ぶりからして、私の想像以上に廃止が早かったような印象である。

とはいえ、たまたま声をかけたお一人目が、隧道について、「親から聞いて知っている」と語ったのは、隧道と谷根集落の関わりの深さを窺わせるメッセージといえるのではないか。
もしかしたら、ある一定の年代に谷根に暮らした人ならば、知らない人のないような隧道だったのではないか。
これを一人目で決めつけるのは、さすがに性急といわざるを得ないが、私はそのような期待を持ってしまった。

より年齢を重ねていそうな証言者を求めて、再びエンカウント作業開始!


( 10分後 )

第2の古老があらわれた!

60才くらいと思われる男性の証言は、以下の通り――


  • 隧道は、私が小学生、中学生、高校生になる頃までは通ることが出来た。自分は昭和53年頃まで自転車で通っていた。
  • 谷根の田んぼが隧道の向こう側の谷にたくさんあって、集落の人たちはそこを耕すために、耕耘機と一緒に隧道を通った。
  • おそらく隧道が通れなくなったのは、昭和50年代後半くらいだと思う。
  • 通れなくなった理由は、崩れたから。
  • 隧道の上にある峠道は、隧道以前の道で、今も毎年秋に集落の人が出て刈り払いをしている。
  • (隧道内に急坂があったのではないかと聞くと)確かにあった。両側から掘ったが、中央で食い違ったせいで出来たと聞いている。
  • 隧道がいつからあるのかは分からない。誰が作ったという話も聞いたことはない。
  • 隧道も、古い峠道も、ここの人たちの自慢だ。隧道が通れなくなったのが残念だ。

キタキタキタキタぁーーー!

非常に重要な内容を含む証言である。
現地探索では窺い知れなかった廃止時期や、往時の利用実態について、情報を得ることが出来た。

特に衝撃を受けたのは、隧道が崩壊する直前まで、集落の人たちが農作業のために盛んに通っていたという内容だ。
耕耘機というワードが出て来たのも、私がたまたま見つけた【アイテム】(この時点では正体を知らなかったが)との、偶然とは思えぬ符合であった。
(あの耕耘機は昭和30年代のものっぽいので、谷根の人たちが隧道を潜らせて持ち込んだものである可能性は十分高い。)

これまでも、集落から山の裏にある田畑へ通うために隧道を掘ったパターンは多く見てきた(例1例2、etc…)が、今回の隧道もそうした利用実態を持っていたようである。
石仏がたくさんあった古道の印象のために、私は隧道についても米山参詣道の印象を持っていたが、少なくとも谷根集落の人々にとっては、田んぼへ通う毎日の仕事道だったようである。

あと、上記の最後の証言については、このような短い一言で述べられた内容ではない。
私の作文であることを告白せねばならない。
だが、古道と隧道が谷根集落の宝物であるという思い、深い愛着、そして廃止された隧道に対する愛惜の念を、私は古老のお話の節々より間違いなく感じ取った。それを伝えたいがための作文であることをご理解戴きたい。


非常に得る所が多い証言であったが、それでも判明したなかったことがある。
それは、隧道がいつ、誰の手によって、どうやって建設されたのかという、いわば原初の記録だ。
これについては、明治末の地形図に既に描かれていることからして、建設の当事者が存命ということはまず期待できない。
1人目の証言者が語った“親の世代”(≒30年前)どころか、祖父母(≒60年前)、いや、曾祖父母(≒90年前)の世代以前の話なのではなかろうか。

ここで私は聞き取り調査を切り上げ、薬師堂へと向かったのだった。(前述の補遺編へ)



2、 帰宅後の文献調査


家に帰ってきてからの文献調査では、セオリーに従って、平成2年に刊行された『柏崎市史』(上・下巻)を取り寄せて読んでみた。

……谷根の隧道については何も書かれていなかった。

僅かに関係があると思われた記述を拾い上げるとしたら、今回探索した古道と鯨波の薬師堂で合流している北陸道の難所、いわゆる“米山三里”が、明治以降いかにして国道として整備・改良されてきたかという内容だ。
ここは明治11(1878)年の北陸巡幸時にも馬車の通れる道はなく、明治天皇は板輿で通過したのだが、それから間もない明治13(1880)年に、地元の村々が改良工事を県に出願し、明治15年に着工、翌16年7月に全区間完成し、柏崎と柿崎・高田方面が馬車道で結ばれたという。これが現在の国道8号の前身だそうだ(だいたいの区間は旧国道になっている)。

また、現在の信越本線が私鉄の北越鉄道(新潟〜直江津)として建設された時期については、直江津〜柏崎間の開業が明治30(1897)年で、青海川駅は同32年、鯨波駅は同35年にそれぞれ開業していることが分かった。

これらの国道と鉄道駅の整備が、谷根への車道導入の下地となったであろうと想像できたが、直接の記述がないのではここから先には進めなかった。




次に確認したのは、国会図書館デジタルコレクションの図書館向けデジタル化資料送信サービスで利用可能な文献だった。
タイトル、『柏崎市史資料集 民俗篇』、昭和61年発行。
おそらくだが、何冊かあるこの資料集を集成したものが、前掲の前後編からなる市史である。
より微に入り細を穿つ情報に期待して、この本にあたってみると……。

まず、民具の章で、「谷根」の名が付けられた道具を見るけることが出来た。ちなみに年代としては全て明治以降の話だ。


『柏崎市史資料集 民俗篇』より
 タンネミノ
重い荷物を背負うときに着用するものにタンネミノがある。谷根発祥といわれるもので、谷根ではノメシミノという。わら製の袖なし着物といったところで、背面が二重になっている。即ち、外側に三つ組みに編んだ扁平の縄を糸で平編みにしたものがついている。湿ったものを背負うときにも用いられ、背中がぬれなくてよいといわれている。
『柏崎市史資料集 民俗篇』より

どうやら、谷根の人々が長い間、長距離かつ頻繁な交易に汗を流したことを窺わせる、工夫に満ちた独特の装いが存在したようだ。
この「背中が濡れなくて良い」というタンネミノで、天気を問わず土砂降りだったアノ隧道を潜っていたのだろうか…。

続いて、柏崎市街地と周辺の村々の交易に関する内容にも、谷根の名前を見つけた。

 蕗の薹(ふきのとう)売り
長い冬が去り、雪が消えはじめ真黒な土がみえる頃になると、一番先に蕗の薹が芽ぶく。3月15日を過ぎる頃になると、笠島、谷根、川内の女衆が、紺絣(こんがすり)の着物にモンペ姿でテゴに蕗の薹を入れ、「蕗の薹いらんかて」「蕗の薹お買いァやァー」と声を掛けながら各家をまわり、売り歩いた。また、わらびやぜんまい、ウド、竹の子、マタタビ、山椒と春の山菜を売りにきた。
『柏崎市史資料集 民俗篇』より

谷根の女性の働きぶりの一端が述べられている。
モータリゼーションの進展によって、市場が全国規模に統一されていく高度経済成長期まで、隣り合う町と村の間の直接的で素朴な相互依存の関係は、両者を結ぶ多くの田舎道を、確実に存続させしめたのであろう。
谷根の隧道もまた、農作業だけでなく、交易路としての役割を果たしたことは想像に難くないのであるが、 …直接的記述が欲しいなぁ……。

そんなことを思いながら、季節ごとにまとめられた交易のページを読み進めていくと、春、夏、そして秋……再び谷根が登場した。

 炭売り
秋になると谷根から炭売りがきた。谷根では町通いといい、昔は谷根の北山の峠を越え、鯨波、中浜、大久保と歩いてくるのである。
明治13年村協議で峠に墜道をつくることを計画
!!!
『柏崎市史資料集 民俗篇』より

やっべえ! 唐突に来た!!!

炭売りの話で、いきなり来るとは思わなかった。
実は、この前に読み終えていた「交通」の章では全然成果がなかったので、「交易」の章は半分流し読みに入っていたのだが――、頭蓋骨陥没レベルの衝撃を食らった!
そうかそうか、ここで来ちゃうか。来ちゃうのか〜ッ!

現地探索中、古道の峠で「北山街道」という看板を見ているが、あの峠を「北山の峠」と呼んだことも、上記文章から判明した。

それでは注目すべき、明治13年云々の続きを読んでいこうぞ!

明治13年村協議で峠に墜道をつくることを計画、23年に完成、町通いを少しでも楽にしたという。
『柏崎市史資料集 民俗篇』より

うおー!! 明治23年完成だったのか!

明治23(1890)年、私の探索のちょうど130年も昔だ。
マジかよってレベルで古い。明治隧道だとは思っていたが、その中でも意外な古さであった。
柏崎近辺に限ってみても、現在の県道11号柏崎小国線の畦屋隧道が明治26年開通といわれるが、それよりも古く、もしかしたら中越地方最古かもしれない。まさか北越鉄道よりも古いとは…!

……と、竣工年だけでめっちゃ盛り上がったところだったのだが、これに関する記述は、以上をもって唐突に終了するのだった。

あれあれ? ここはもっと掘り下げる所じゃないの?
明治13年計画、23年完成の隧道とか、凄くない?!
相当珍しいよ、この時代の道路隧道ってだけで。

とまれ、この先の記述も興味深いのは確かなので、引用を続ける。

それにしても、8貫目、10貫目という炭俵を背中にかついでくるのであるから大変である。いつも太い荷休み棒を持っていた。途中で疲れて休憩をとるときに、背中の荷物の下に棒を入れ、立ちながらでしばらく休憩をとるというものである。町通いは一日がかりである。昼食には味噌漬を入れた握りめしやイリゴモチを持っていき、簡単に焼き、持参した味噌や一、二銭で黒砂糖を買って、つけて食べたもんだという。昼めしの宿は、大体顔見知りの谷根へ物売りに来る商店で、昼めしの宿には谷根の人々が集まるので、昼食をとりながらしばらく雑談をし、この店で雑貨、日用品を買い整え、ときには黒砂糖や飴玉、菱糖などと子供のダチンを買ったりしたという。
炭売りも農業協同組合が出来て、作った炭が農協に納められるようになってからは、自然に行われなくなった。
『柏崎市史資料集 民俗篇』より

以上一連の文を総合すると、谷根の隧道は、明治13(1880)年に、炭売り(町通い)の往来である北山の峠越えを楽にする目的のため、谷根村の協議によって計画され、10年後の明治23年に完成したものらしい。ちなみに、谷根村は明治22年の町村制施行時に、同所に村役場を置く上米山村となり、昭和25(1950)年に柏崎市に編入されるまで同村が存続している。

意外なことに、隧道の建設は当初において、馬車や荷車のような車両交通の実現を狙ったものではなかったのか、炭売りは長らく背負いによって行われてたようだ。
しかし一方で古老の証言によれば、最終的に隧道を自転車や耕耘機といった車両が通行していたようであるから、途中で拡幅や改良が行われたのかも知れない。
残念ながら、隧道のその後については記述がなく、はっきりしないのだが…。




以上の成果をもって一応の満足を覚え、机上調査を終えていたのだが、先日、新潟県立図書館へ行って地元の文献を探した際、隧道に関する新たな記述を発見した。最後にこれを紹介したい。

タイトル『柏崎市谷根の民俗』、発行者新潟県立柏崎商業高等学校社会経済調査部民俗クラブ、発行年昭和43(1968)年という文献だ。

柏崎への通路は、谷根から旧米山登山道の峠をすぎて鯨波に出る道がある。柿崎、鉢崎、笠島、青海川を経て続く米山三里の海岸線を表街道(浜街道)というに対し、鉢崎の関所をさけて柿崎から入って米山の中腹に散在する大平、小杉をすぎ谷根、鯨波、柏崎を通る線を裏街道とした。浜街道に比べ裏街道の往来も烈しかったようである。
明治21年、当時、県庁所在地の柏崎への往還は峠を越えるため誠に難渋であった。
『柏崎市谷根の民俗』より

上記の北陸道における表街道と裏街道の関係をプロットしたのが、右の地図である。
近世を通じて鉢崎に北陸道の関所があり、通行人には面倒な検めがあったから、これを迂回できる裏道が存在し、それが谷根から例の“北山の峠”を経由し、鯨波に出ていたというのである。
そして、最後に急に「明治21年」という聞き覚えのある年が出て来るのであるが、確かに明治初期の短期間(明治6年まで)、柏崎は柏崎県の県庁所在地であったことがある。

この説明があった後で、いよいよ待望の隧道の話が出てくる。


新沢多三治氏は私財を投じてここに隧道をつくることを計画した。
しかし、仕事は科学的でないので途中湧水や穴の食い違いなどのため相当の困難が伴った。
遂にはこのため新沢氏の家運が傾く程になり、人は五厘、牛馬一銭の割で通行料を徴収した。

そして、谷根隧道の管理は鯨波村と谷根村が共同管理し、その後、個人の所有になったものらしい。(県立柏崎工業高等学校社会部調査)
『柏崎市谷根の民俗』より

ぁ…




めっちゃ、書かれてるぅー

「仕事は科学的でないので、途中湧水や穴の食い違いなどのため、相当の困難が伴った。」

「仕事は科学的でないので、途中湧水や穴の食い違いなどのため、相当の困難が伴った。」

「仕事は科学的でないので、途中湧水や穴の食い違いなどのため、相当の困難が伴った。」



ここで初めて、工事の計画者であり、私財を投じて建設を進めた、事業の中心人物の名前が判明した。新沢多三治という。

偉大な郷土の慈善家であったことは間違いないが、長さ100mを越える隧道掘りを容易く考えてしまったものか、湧水については当時の技術水準からして予測不能だったろうし不運でしかなかったと思うが、洞内での食い違いがあって、ああいう段差のある隧道が誕生することになったことがはっきりと記録されていた。
しかし、最終的に家運を傾けたというのは、気の毒にも程がある。

いったいどのような立場の人物であったのか、さらなる調査をしたかったが、現時点では分かっていない。
氏名で検索して得られた唯一の情報は、明治10年前後の「高田呉服町長澤六一郎書状〔拝借米代金上納に付〕」という古文書の存在が判明したというだけである。この書名から金銭を人に貸す財力があったことが窺えるが、時代的にこれは隧道工事に取り掛かる前である…。

しかし、とにもかくにも隧道は完成し、当初からそういう計画だったのかは分からないが、通行人から通行料を徴収したのだという。
現代でいう有料道路である。
明治期には私人が管理する賃取橋(有料橋)や有料の私道が各地にあって、財政的に行政が手をこまねくような道路整備の助けとなっていた。とはいえ、運営には県の許可が必要で、未来永劫料金を取り続けることも許されていなかった。時限があった。

したがって、県の公文書をつぶさに調べれば、この“谷根有料隧道”の記録がきっと残されているはずで、そこからも関係者や事業の沿革が判明するかも知れない。(未捜索)
有力な文献を得て、まだまだ調査の伸びしろを感じる状況であるが、現時点の調査は、ここまでとなっている。
出来れば完成当時の記念写真とかも見てみたいものだ…。





工事の失敗をまったく隠せていない、出来の悪い隧道だった。

工事関係者の必死の努力を、これほどまで深く壁に刻んで留めている隧道は、稀であった。

そのことが文献調査からも裏付けられた。

だが、完成した隧道は、意外と言えば失礼なくらい長く活躍を続けた。

いまなお古老の誇りとして語られている隧道は、間違いなく、その長い生を全うした。




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