左の写真は、どこでどちらを向いて撮影したものであろうか。
おそらくいくら眺めても分からないと思う。
しかし、「消灯」すれば答えは明らか。
この写真は、洞奥に存在する斜坑状態の大崩落現場の上に立ち、坑口方向を振り返って撮っている。
奥に見える光は坑口から漏れてくる外光で、手前をぼんやり照らしているのは、私の手元のライトである。
もしもこの足元にある瓦礫の山を、重機を駆使して全て洞外へ運び出したとしたら、後には高さ15m以上もある大ホールが残るはずである。
またこのまま崩壊が続けば、最後は地表へと通じる縦坑状のものが出来るであろう。
人が手をかけなくても自動的に掘れていくなんて、なんて出来の良い隧道だろうか…。
2012/6/1 16:37 《現在地》
約10分間の洞内探索を終了。
空洞の奥行きは50m前後であったと思う。
ただし本来の隧道の進路ではなく、√の方向に進んだ部分を加味する必要がある。
また、崩壊している現場が隧道の全長のどの位置であるかも分からないので、全長については保留しなければならない。
外へ戻った私が次にしようとしたことは、
反対側の坑口がどうなっているかを確かめに行くことだった。
当然である。
これを果さなければ、まだ納得出来ない。
問題はいかにそれを成すかであるが、時間があまりない。
少々乱暴な手ではあるが、山を直接乗り越えて探しに行くことにする。
GPSに坑口の地点を登録して、その地点と尾根を挟んで正対する
「 地点X(エックス) 」を目指す。
見たところ、隧道がある斜面はかなり急傾斜だが、向かって右側には樹木が密生していて、手掛りが豊富である。
その方向からアプローチすることに決めた。
登り始めた直後。 →
人力作業の苦労が偲ばれる、深い掘割りが眼下に広がった。
なんともワクワクする眺めである。
← 洞前に可憐な花を結ぶ藤の蔓のたもとを通過中。
周囲の斜度は45度を超えており、手掛りが命綱でもある。
また、坑口周縁は垂直に切れ落ちているので、安全のためこれ以降は縁からやや離れた。
おおッ!
なんだこれ?
斜面を直登していくと、尾根までの高さが残り半分くらいになったところで傾斜が緩み始め、そこを斜めに横切る平場が出現した。
この瞬間私のオブ脳が活動し、この平場を道と仮定した場合の正体について、二つの仮説を導き出した。
仮説一は、これが隧道が建設される以前に用いられていた旧道の跡であるとするもの。
なお、眼下の隧道が既に太郎丸隧道(仮称)の旧隧道であることを踏まえれば、峠の旧旧道であるという仮説である。
仮説二は、これを隧道建設の際に資材運搬などの目的で切り開かれた作業路とみるものである。
今まで不思議とここに考えが至らなかったが、「隧道あるところに旧道あり」というオブ大原則を今回も忘れるべきではないかもしれない。
明らかに途中から乗り込んだ“謎の道”であるが、これを頼りにしても良いのかな?
あてどない歩行が、道を辿るものへ変わるなら、それは大きな喜びである。
ただし、道が峠を越えるものでないと分かれば、その時点で追跡を止めねばならない。
そうなれば仮説一も二も破棄されるであろう。
だが、“謎の道”は私を乗せてすぐに、進路を反転。
隧道上の斜面を単に横切るのではなく、つづら折りの形で峠の鞍部を目指す可能性が濃厚となった。
また、道は見た感じ隧道よりも新しい時代のものとは思われない(轍が見られないことや幅が狭いことなどから)し、これはいよいよ、いよいよなのか?
なお、この切り返し地点の一方は、次の写真(↓)のようになっていた。
坑口直上ヒャ〜!(here)
敢えて身を乗り出して覗き込まなければ良いだけの事だが、
敢えて身を乗り出して覗き込みたくなるのが人情というもの。
眼下の地面までの比高はおおよそ20mあり、隧道の断面規模を考えれば異例な高さである。
これは単に「高いな〜」というだけでなく、もっと重要な意味を含んでいる可能性が高い。
つまり、隧道の建設者は、土被りがこれほどの高さになるまで、隧道ではなく掘割りを選んだ事を示唆している。
掘割りは隧道よりも掘削すべき土砂の量が多く、工事の全体量は増えるはずである。
それでも敢えて選んでいるとしたら…、
隧道建設の時点で既に地質の不良が判明していて、あるいは事故なども発生していて、隧道の延長を少しでも短くすることがその延命になると考えたのではないか。
そんな仮説を立てることが出来るし、洞内の現状と比較すれば、なおそう考えたくなるのである。
…さて、“謎の道” の続きは…。
掘割り 出現!!
しかもこの掘割りの規模は、仮説二(工事用作業路説)を否定しうるものである。
完全に仮説一(旧旧道説)が濃厚となったであろう!!
16:45 《現在地》
写真は掘割りを通り抜けた東側から振り返って撮影。
隧道とは規模の大小において比べものにはならないが、明らかに“土木工事による深さ”を有している。
下の隧道が丑松洞門と同じく明治中期の竣工であると仮定すれば、この掘割りはそれ以前に使われていた、場合によっては近世以来のものと言うことになるのだろうか。
周辺に何かしかの往来の証拠となる石仏や古碑を捜索したが、そのようなものは見あたらなかった。
しかし、私が思っていた以上に重要な道路が、この無名の峠《太郎丸峠?》に設定されていたのかもしれない。
旧隧道や旧旧峠の掘割りの存在も、予想外に豪壮な作りも、そんな想像の糧となるものだ。
だが、しかし。
道、途絶える。
明確な道の痕跡である掘割りを背にしながら、道は峠の東側へ下る素振りを見せぬまま、ここで唐突に消失していた。
右か左のどちらかに折れていたと考えるのが自然であるが、平場らしきものはどちら側にも見あたらないのである。
突如消失した道の代わりに、そこにあったものは……。
スプーンで掬ったようにすっぱりと切れ落ちた、大きな斜面。
やや遠くに見える谷は、このレポートの第2回で私をさんざん苦しめた、砂防ダムがある谷だ。
再びこの谷を目にしようとは、思いもよらない展開というヤツだ。
既に谷の半ばまでは日没し、濃い影の中に落ち込んでいた。
ここから見たところ、眼下の斜面に人工物の気配は全く見られない。
隧道はおろか、道が通じていたような痕跡がない。
そもそも眼下の斜面の植生は、先ほどの西側の斜面と比較して不自然である。
あまり木が生えておらず、灌木や雑草が高密度に生い茂っている。
おそらくこれは、さほど古くない時代に大きな地滑りが起きた、その痕跡地形ではないだろうか。
そう考えれば、切り通しの先で旧旧道突如消失していることも、眼下に道の痕跡が見られないことも、簡単に説明出来る。
隧道崩壊との関連性を疑うことも可能だ。
16:50 《現在地》
時間的にも展開的も、もう勿体ぶっている暇はない。
道無き草むらの急斜面を下降する事は当然抵抗があったが、この探索を満足いく形で決着させるには、ここで躊躇うわけにはいかないのである。
勢いよく激藪に突撃し、緑を引きちぎって斜面を下った。
ようやく地に足が付いた気がして振り返ったが、既に自らの踏み跡も見えない状態になっていた。
あとはこの左から右へ緩やかに傾斜した「グリーン・ヘル」の中に、隧道があった痕跡を探すだけである。
それが出来れば全て決着。
ここまでピンポイントになると、頼りはGPSより己の勘である。
見つからぬ道理など無い!
探し始めて1分数十秒後の私は、早くも擬定地点を見出した。
この奥の斜面が、周囲に比べて著しく凹んでいる。
しかも、その凹んだ部分の下には水脈があるのか、芦が密生していた。
もし隧道の長さを短くすることを至上命題としていたならば、
当然、坑口は地形的な谷央に選んで設けられたはずである。 ここが臭い。
隧道東口擬定地点を特定。
これはもう、断定して良いレベルだと思う。
坑口埋没の特徴である「スプーンで掬った」ような凹み方をしているし、
先端がほとんど尾根の近くまで達していることも、“地中の惨状”とよく対応している。
また、露出している岩盤は、隧道の閉塞地点で目にしたのと同じ砂岩のようである。
閉塞は了解していたので、残念とは思わなかった。
それよりも、切り通しで道を見失った不安な状態から、
速やかに擬定地発見を達成した喜びが勝った。
両側坑口の位置を特定したことで、私が洞内を歩いた距離は、隧道の全長と大体同じであろう事が判明した。
閉塞地点で見た“根っこ”が地表スレスレを教えてくれたことも、その根拠の一つである。
GPSの距離測定に拠ると、隧道の全長は5〜60m程度である。
これは現在の(と言ってもピンと来ないが)太郎丸隧道の半分程度だ。
このことを踏まえて、凄絶な洞内の状況を出来るだけ反映させた断面図を作成してみた。
ポイントは隧道内の地質が途中で変化していたことで、特に崩壊が著しかったのは泥岩層(と思われる)であった。
また、そこでは地層の模様におおむね追随する感じで崩れていた。
洞内の地質と落盤の状況が綺麗に対応していたわけで、こういうことは頭では分かっていても、通常実際に目にすることが出来るのは、トンネルの現場で働く技術者くらいであろう。
隧道好きとして貴重な体験をしたと思う。
帰ります。
…知らないよ。
この先は知らない。
ここから、さっき歩いた新道へどのように接続しているのかは確かに気になるし、まして荷馬車が通るくらいの道があったとすれば、明確な痕跡が残っている可能性は高い。
しかし、見た目ほどゴールは近くないし、この時間から深追いするのは時間的にキツい。
(この日の山チャリの最終目的地は、ここから約10km離れた柏崎市の大沢という場所であり、もう一つ峠越えが待ち受けていたんだ…)
それに、激藪の時期が悪い。
今慌てて探索すれば、ただ駆け抜ける感じに終始するだろうから、途中に何か…石碑とか…あったとしても見逃しかねない。
そのうえ、一度探索し終えたら、二度は来なさそうだ。
ここは涙をのんで撤収し、時期を改めてこの旧旧道東側の区間を確定させたいと思う。
(何か成果があれば追加報告します)
17:17 《現在地》
激藪から24分後。
私は意気揚々と新旧道分岐地点に帰ってきた。
古老がもしまだ庭先にいたら、この成果を報告するンだっ!
古老さん、マジありがとう!
次に通りかかった太郎丸集落に、もうあの古老の姿はなかった。
写真は、市道小国159号線と新潟県道572号諏訪井太郎丸線(国道403号の旧道)の交差点。
一連の“太郎丸峠越え”の起点である。
ツキにツキまくった今日の太郎丸、
探索完了!
本来はこのあと、「太郎丸隧道の歴史に関する“私の考察”」を少し付け加えて『完結』とする予定でしたが、
これを書いている最中に、地元の方(古老?!)から隧道の歴史に関する詳細な情報を得ましたので、回を分けて紹介させていただきます。
でも、情報を得た結果ますます謎が深まってしまったという……… 次回を待て!
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