過去の私の探索の中でも、おそらくもっとも電撃的に行われた今回の探索であったが、仲間たちの協力もあって、大成功裏に幕を閉じた。
その喜びがあまりに大きかったせいで、帰宅後にすぐレポートを書き始めたが、新たな机上調査の機会を得ないままに書き終えようとしている。
立倉トンネルの新旧3世代にわたる来歴には、探索を終えたいまでも未解決の謎がいくつか残っている。
なかでも 最大の謎は、今回のメインターゲットとなった初代隧道が、いつ作られたのか だろう。
これについては、明確な情報が全くない。
現時点で把握している、初代隧道に関する唯一の文献的情報は、本編第1回で紹介した(そしてこの探索のきっかけとなった)、『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』(昭和49年刊)にある次の記述である。
昭和23年に2代目のトンネルが掘られたと書かれているが、それ以前に使われていた初代トンネルがいつ作られたのかは、触れられていない。
一方、今回の現地探索中に解読した「感佩之碑」には、上記と明らかに矛盾する内容が含まれていた。抜粋すると次のような文章だ。
洞門の長さ80間、洞内の高さ8尺、巾9尺、東西の切割40間、測量着工昭和27年9月、翌28年5月竣工した。
旅人よ、現代人よ、当時の峰越のけもの路冬は往来不能な山道を想像してみませんか。昭和27年、残雪の峰に立って、よしここに洞門を掘ろうと一念発起した一人の男がいた。その人の名は佐々木六郎48才、戦災の都会から逃れ郷里に帰って間もない彼の眼に、郷土の発展は交通の確保しかないと写ったに違いない……
矛盾は、2代目トンネルの完成年に関する部分にある。
果たして、完成年は昭和23年なのか(郷土史資料)? 昭和28年なのか(感佩之碑)?
なぜこのような矛盾が生じたのか不思議だが、もっというと、なぜ「感佩之碑」は初代隧道の存在について全く触れていないのだろうか。
我々は現地探索のなかで、碑文で佐々木六郎翁がそこから郷里を眺め隧道建設を発起したことになっている、「峰越のけもの路」を歩いている。
そしてその頂上である“発起の峠”が、初代隧道の至近な直上であることを知ってしまっている!
……何が言いたいかといえば、この碑文の記述は少々不自然なのだ。
「昭和27年、残雪の峰に立って、よしここに洞門を掘ろうと一念発起」した峠の足元に、既に初代の隧道が存在していたとしたら、不自然じゃないか。
この場面が真実味を帯びるには、昭和27年の時点で初代隧道があってはならず、六郎翁がこの峠で発起した隧道こそ、初代隧道でなければならない。
しかし、碑文中で作られている隧道の長さ(80間=145m)は、現実の初代隧道とは符合しない。あの隧道は、せいぜい20〜30間の長さしかない。
…もっとも、この碑文を真面目に考察するのは、発起の場面が創作でないという前提の話になるのだが…。
もしかしたら、『郷土史資料』と「感佩之碑」のこれらの記述は、初代隧道と2代目隧道の建設に関して、複雑に絡み合うような錯誤を抱えていて、実際には――
昭和23年に、戦災の都会を逃れて郷里に戻った六郎翁の発起によって、旧来の峠の直下にはじめて建設されたのが、今回探索した初代隧道であって、それが不便だったために、昭和27年から28年にかけて、改めて現在の立倉トンネルの位置に建設されたのが、2代目トンネルなのかもしれない。
――なんてことを、考えている。
いずれ、新たな成果があったら、追記したい。
初代隧道の竣功年を明かす新資料が発見された! 2019/3/9追記
本編で最後まで“謎”だった、“初代隧道”の竣功年。
今回、読者様の尽力により、これを解き明かす決定的な資料が発見された。
合わせて、佐々木六郎翁が建設を発起した隧道が、初代と2代目のいずれであったのかという謎と、二つの説が存在していた2代目隧道の竣功年についても、信憑性が高いと思われる情報が提示され、本隧道に関する謎はほぼ完全に解明されるに至った。
以下、その内容について追記する。
情報提供者は、大阪市在住の田中氏である。
氏は、秋田県大仙市が運営している大仙市アーカイブズ(恥ずかしながら、存在を把握していなかった)に独自に問い合わせを行い、同所の調査によって、今回紹介する文献の存在が明らかになったという。
文献のタイトルは、昭和53(1978)年2月に西仙北町役場企画室が発行した『町の昔をたずねて』で、「広報にしせんぼく」に掲載されていた「町の昔をたずねて」というコーナーを集約した内容であるという。そしてこのなかに、ずばり「立倉の洞門」というタイトルの回が収録されていたのだ。
以下、少し長くなるが、極めて核心的なその内容の全文を転載する。
まずは、初代隧道に関わる前半部分から。
大沢郷は名のように、大きなそして広い地域であるが、中には立倉のように、少し奥まったところにある部落もある。その昔の道路の開けない時代の話であるが、「路の中の落葉を、膝のあたりまで漕いで歩いたものだ」と、今七十を越した婆さんが、いかにも感慨深そうに語るのを聞いた。
そんな訳で、昔はとても不便な所のようであったが「窮ずれば通ずる」の諺の通りで、今は便利になった。それは山一つ越せば、南外村の落合に近く、ここに行けば買いものでもなんでもできる。それではじめは、峠を越して往復したものだが、山は全体泥板岩であるところから表土がはげて底が出ると、すべって歩けない。雨の日などは殊にひどい。そこで誰言うとなく「泥板岩の山だから、洞門を通したらよい」ということになり、立倉、大場台、布又の人達で、大正十一年の秋から冬にかけて掘り続け、遂に翌十二年二月の春、貫通したのである。長さ七十間余を両方の口から四五人宛で掘ったということである。
第一の謎が、これで決着!
初代隧道の竣功は、大正12(1923)年2月!
同時に、全長の数字も出て来た。70間は、おおよそ127mに相当する。
ただ、これは我々が探索できた隧道の長さよりも倍くらいも長いように感じられる。
東口から体感30mほどの位置に閉塞があるのだが、その先の不到達空間は私の考えている以上に長いのかもしれない。また、以前探索した小戸川隧道(仮称)で起きていたように、完成後の崩落によって坑口が後退して、現在の全長は短縮されている可能性もあるだろう。
印象深いのは、本文中に「泥板岩」という少々専門的な用語が出ていることだ。
泥板岩(でいばんがん)は、今日では主に頁岩(けつがん)と呼ばれる堆積岩の一種で、その名の通り板状に剥離しやすい特徴がある。
【初代隧道の閉塞部】や【2代目隧道の落盤部】に、この特徴的な板状の崩落物が大量に存在していた。
大正時代の村民が地質を正確に見抜いていたことに感心するが、このことは明治34(1901)年と大正3(1914)年に相次いで行われた大沢郷村内での河川隧道工事によって、村人の間に経験が蓄積されていた可能性を伺わせる。特に大正3年の現場となった布又の地名は、隧道掘鑿の当事者としてここにも登場しているのである。
こうして、近隣の3つの集落の人々の力で掘り抜かれたという初代隧道のエピソードに、佐々木翁は登場しない。
やはり彼の登場は、2代目のことであった。
以下、後半部分を転載する。
これで落合との交通は非常に楽になり、皆々大喜びであったが、そうしているうちに世の中は、グングン進歩して、自転車、自動車の運行と変わって来た。こうなるとこの洞門を通るには、少しばかりの山を登らなければならぬこと、そこまでの道路はとても車の通れるものではないことなどから、どうしても洞門を少し下から通して、同時にそこまでの道路もよくしなければならないことになった。
この時に、即ち昭和二十年九月神奈川県鶴見のニッサン自動車にいた、佐々木六郎が郷里の立倉に帰って来て、その交通のあまりに不便なのを痛感し部落開発のために、新しく便利な洞門を通し、同時に道路も改修しなければならぬと決心したのであった。
一旦思い立った六郎は誠に真剣で自ら他を説得して、遠く南外村方面にも足をのばして、資金の寄附を集めるなど苦心を重ね漸くにして同二十七年十一月廿六日甥斎藤茂二(六郎の兄正三の二男)が測量をはじめるに至ったのである。
これからは案外早く進んで、翌二十八年三月、貫通落成することができたのである。洞門の間口は九尺、高さは八尺、長さ約八十間全体に梁をかけわたした。同時に洞門までの道路は「県単林道」として改修され、今では或程度の大型車も楽々と通じている。
こう言うと甚だ楽々と計画され工事も進んだように思われるが、かえりみれば、六郎が鶴見から帰って来て、このことを考え出してから既に、八年の年月を経過しているもので、その間の苦労は決して少なくないのである。
何はともあれ、これは関係者一同の一致した努力と、大方の協力後援があってはじめて、この大業は成就したのだとは言い、まず何よりもその初一念、洞門とともに貫き通した六郎の、堅忍不抜の意思は、誠に貴いものとすべきである。さればこそ、立倉部落ではその功にむくゆるため、山林六反四畝(実測壱町歩余)を贈ったのである。
2代目隧道の竣功は、昭和28(1953)年3月!
二説があった竣功年は、「感佩之碑」の記述が正しかったようだが、月まで見ると、碑文では5月となっており、2ヶ月のずれがある。
また、隧道の長さや高さ・幅などの数字も、碑文と一致しているが、「全体に梁をかけわたした」というのは初見の情報だ。
現在ある鋼鉄製のセントルではなく、おそらくは木造の支保工を持っていたのだろう。この隧道が崩れやすいことが、当時から予期されていたのに違いない。
上記の文章によって、これまで分からなかった佐々木翁のいた「戦災の都会」(碑文)がどこであったのか(横浜市鶴見)ということや、郷里に戻ってきた時期(昭和20年9月)も分かった。
そして、碑文にはなかった彼の甥の協力や、完成に対する報償についても書かれており、一連の工事が極めて円満に終了したことが伺える内容となっている。
なお、この2代目隧道は、佐々木翁による開削と「県単林道」(県単独事業で整備される民有林林道)の整備から20年後の昭和48(1973)年に至って、前後の道とともに大規模な拡幅と改修を受け、「立倉トンネル」と「大幹線林道」へと生まれ変わった。それがさらに半世紀を経た現在どのようになっているのかは、本編で見たとおりである。
文章は最後、執筆者の体験記によって締め括られている。
私は一旦車で南外村の洞門入口まで通りぬけ、帰りは車をおりて一歩一歩、歩いて立倉の入口まで戻って見たが、当時は機械にも動力にもたよらず、ボツリ、ボツリ鶴はし一丁で掘り進んだ人達の、念力の強さ、徹底した気分のたくましさ、頭の下るのを覚えたのであった。入口の側の岩壁に今なお残っている鶴はしの跡に、雨あがりのせいか、タラタラと汗のような水滴のなだれかかっているのを見た一瞬、言い知れない尊い感に打たれたのであった。
昭和四十三年七月
最後に明かされた、私にとってのサプライズ。
昭和43(1968)年7月の時点では、この初代隧道は通り抜けが可能だったのだろうか。
私は本編中で、初代隧道の天井が極端に低い理由について、外部から残土が持ち込まれた可能性を示唆した。
そしてその機会があったとしたら、それは昭和48年の立倉トンネル再整備の時ではなかったかと書いた。
図らずも、上記の記述は、この私の推測を掩護している。昭和43年に通り抜けられた初代洞門の天井が、
当時からここまで低ければ、そのことに全く触れていないのは不自然に思えるのだ。
なお、本編で触れなかったと思うが、確かに初代隧道の入口付近の内壁には僅かながら手掘りの痕跡とみられる鑿の痕が残る壁面があった。
おそらく頁岩の特徴によって大半が剥離して失われたなかで、粘り強く残った唯一の部分だが、執筆者はそれを目にして感動を述べていた。
このことは、執筆者が間違いなく初代隧道に立った証しであるようにも思われる。まだ本来の断面を有していた初代隧道を前にしたのだろう。
(うらやましい)
以上により、立倉の3代にわたる隧道の変遷は、その全貌が解明されたといえるだろう。
情報提供者の田中氏および、文献調査にあたられた大仙市アーカイブズ職員に感謝します。