隧道レポート 大沢郷の旧立倉隧道捜索作戦 最終回

所在地 秋田県大仙市
探索日 2018.11.26
公開日 2018.12.28

初代・立倉洞門 その内部は……


探索開始から約45分、ついに我々“第二次大沢郷で隧道探し隊”は、期待できる最大限度の成果物を獲得しようとしていた。

文献に記された僅かな記述をきっかけとした探索が、大砂漠の無限にも等しい砂粒の中の一粒の貴石に辿り着かせたのである。
いまからほんの4時間前には、夢にも思わなかった発見だった。というか、その段階ではこんな探索に出るつもりもなかったのだから。

もちろん、ここへと辿り着く筋道が一つしかなかったというわけではなく、例えば別の古老の証言から辿り着けた可能性もある。
しかし、現実として人が一生で触れられる情報は極めて限られているから、9割9分9厘9毛9糸の人々は、この場所へ来るきっかけを持たない。
育ち故郷秋田でのこのような電撃的発見は、人生の額縁に飾っておきたいくらいに嬉しかった。

……歓喜の自惚れはこのくらいにして、探索の続きを述べよう。

(←)
トリさんの表現を借りれば“暗がり”(隧道と口にして実際は違っていたらがっかりするから、心を守るために敢えて“暗がり”と言ったとのこと)であるところの、初代隧道東口坑口とみられる開口部の前面は、きわめて密な笹藪に覆われていた。

その濃さは本物で、普段なら出来るだけ避けたいと思うだろうし、もし避けられずに突入するとしても、早く終ることだけを期待しながら、しかめっ面で黙々と歩くような“道路状況”であった。
だがこのときばかりは、歓喜の面が肉付面の如く3人の顔に張り付いたまま微動だにしなかった。

この坑口前の掘り割りが、周囲の雑木林とは一線を画する濃い笹藪であったことで、峠から下るときに目的地としてよく目立っていた。
しかしもしも反対に麓から歩いてきたとしたら、この笹藪は視界の通らぬ目隠しでしかなく、その最奥に開口部が存在することにも気付けなかったかもしれない。
それでも執念で発見できたと信じたいが、この笹藪の濃さを考えると断言できるほどの自信は持てない。だから、今回西側から探索したことの運も味方した発見といえそうだった。

右写真は、掘り割りの奥に辿り着いたところで見上げた“暗がり”だ。
猛烈な笹藪と堆積した崩土の山のため、むしろ近づくと暗がりは存在感を失った。
最後は目の前の斜面を四つん這いでよじ登って……




2018/11/26 15:19 《現在地》

ジャジャーン!!

もう童心に返ったみたいに3人で喜ぶ喜ぶ!

“暗がり”の正体は、間違いなく、隧道で確定。

位置的に考えても、先に見つけた【西側坑口跡】の対となる坑口以外考えられないだろう。

そして、本当に嬉しいことに、“暗がり”には、奥行きがちゃんとあった。目の届く範囲で行き止まりになっていない!

したがって、このあと、内部探索の愉しみあり!!




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

(↑)全天球写真で撮影した坑口前は、こんな感じ。

人物と比べても、隧道の断面が決して小さくないことが分かると思う。

というか、横幅だけが妙に大きな、奇妙な坑口だった。



なんとも言えない不思議な形をした坑口だ。
普通自動車が通れそうなくらいの横幅があるが、立ったままでは頭をぶつけそうな天井の低さが、非常に不釣り合いだ。
これがもとからの断面だったとしたら驚異だが、そんなことはさすがにないだろう。

坑口前には崩土が堆積したものとみられる山があり、その山の頂上の高さから始まる洞床が、洞奥に向って緩やかな下り坂を作っている。そしてこの洞床の下り勾配と歩調を合わせるように、天井が弓なりにカーブしていた。このような洞床と天井が合わさって、奇妙に天井の低い、そしてアップダウンのある坑道が出来たのだろう。天井も床も、はじめはこうではなかったはず。

しかしこの奇妙なアップダウンのために、入口からは10mくらいしか見通せなかった。
そして言うまでもないが、隧道は閉塞しているはずである。
風が感じられないのは当然だ。

この洞奥へ向って下っている状況から水没を心配したが、見える範囲に水溜まりはない。
坑口の天井部は地表から染み出した水でよく濡れており、ときおり水滴が垂れているが、洞床が砂っぽい手触りなので、水気を逃がしているのかも知れない。
まあ、奥の方がどうなっているかは行ってみないと分からないが…。

各自ヘッドライトを着装して、洞内探索に備えた。
前回探索では遂に役立てられなかった照明機材を点灯させるのは、夢だった。それが叶った。(先ほど立倉トンネルで一度点灯させているけど…笑)

15:23 洞内探索開始!



これは入口から5mほど進んだところだ。
坑口からここまでは洞床も天井も緩やかな下りになっていたが、ここから先は天井がほぼ水平になり、洞床も底を打った。

これは驚いたな…。

洞奥まで、こんなに土砂がたくさん…。

普通、隧道が崩落に任せられていた場合でも、崩落の具合は場所により一定しないから、天井と洞床に大きな凹凸が生じることになる。崩れの少ない場所に本来の隧道断面が保存されるということが当然ある。
だが、この隧道の現状は奇妙だ。
天井に顕著な崩壊の痕跡がないにもかかからず、崩土のような柔らかな土砂が全洞的に天井近くまで滞積していて、まるで外から土砂を持ち込んで埋めたみたいだ。

ここが幹線道路の旧トンネルだったら、埋め戻しを素直に納得しただろうが、正直なところ、とても手間のかかる隧道の埋め戻しが、こんな辺鄙なところでわざわざ行われたというのは疑わしい。それだけのメリットがあるとも思えないし、不思議な気がする。



不思議なことは解明したいと思うものの、この隧道の奇妙な現状が生じた原因は、はっきりしない。

この写真は入口から10mくらいのところで振り返って撮影した。
立って歩くことが決して出来ない、閉所が苦手な人だったら少しも入りたくないだろう天井の低さがよく分かると思う。
このような低空頭断面が全洞的に続くなんてことは、自然に生じうる現象なのか。

天井部分しかほとんど見えていない内壁だが、全体的につるつるとしていて凹凸が少なく、綺麗なアーチ型をしている。
とても激しい崩壊に晒された結果には見えない。
かといって、この洞奥には人が削り出した人工的な壁面であることの証明となる、鑿(のみ)や鶴嘴(つるはし)、あるいは削岩機による削痕(さくこん)は、発見されなかった。

極端に脆い地質であるために、自然の風化によってあらゆる角が落ちて丸くなると同時に、その崩れた土砂が洞床に堆積して天井を圧迫した。そんな説も提唱できる(崩れて瓦礫になると容積が増えるので隧道断面は縮小する)が、さすがにここまで綺麗に堆積することは考えにくい。
苦し紛れに、“外部から土石流が一気に洞奥までなだれ込んだ説”も試考したが、地上の風景といまいち符合しない。



やはり消去法的に考えて、これらの土砂は地上から意図的に持ち込まれたものと考えるべきなのだろう。
例えば、昭和20年代の立倉トンネル開削時、あるいは昭和40年代の同トンネルの拡幅工事時の残土が怪しい。
東口の近くまでブル道の跡があるので、機械力での搬入作業が不可能というわけではなさそうだ。この柔らかな洞床も、そういう目で見ると、いかにもズリっぽい気がする。

探索者としての心情的には、後年に埋め戻された廃隧道というのは、自然に任されてきたものより些か興が劣る感じがして、少し残念ではあった。
だがそんな些細な気持ちの優劣よりも遙かに問題なのが、埋め戻された低空頭の隧道を進む、肉体的な辛さだ。

また、こんな窮屈で瓦礫まみれの洞内は、野生動物的でもあまり居心地が良くないのか、廃隧道の主役であるコウモリたちも、片手で数えられるほどしかいなかった。
その餌になりそうな、カマドウマやゲジといった昆虫類も、皆無。
おかげで、バッドグァノ(コウモリの糞)の堆積もごく僅かでしかなく、洞床を四つん這いや中腰で歩かねばならない状況では、ありがたかったが。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

この隧道の窮屈さは、(↑)全天球画像で見てもらうのが、一番伝わりやすいかと思う。

閉所が苦手な人は息苦しくなるかも知れないので、あまり長く見ない方が良いだろうが。

とにかく中腰姿勢以上に頭を上げることは出来ないので、人を捨て、四つん這いで進むのが最も楽だった。

さっきまで、犬だ馬だ熊だとふざけて口にしていたが、気付けば3人とも畜生ムーブになっているのだから、因果だ。




15:26 (入洞から3分経過)

入口から20mは進んだが、まだ前進できる状況にあった。
普通(普通?)、隧道内でのこのような四つん這いのムーブは、崩落地点の突破のため局所的に行うものだが、こんな風に入洞から一度も立ち上がることが出来ないまま探索を進めることは、珍しい体験だ。

しかし、この洞内を埋め尽くす大量の土砂が崩土でないならば、天井がとても綺麗なこの隧道、意外にも安定しているというべきだろう。
ひっきりなしに崩れていたといわれる“南沢長根の洞門”とは、実は違った地質なのかも知れない。

ようやく前方にひときわ高い土砂の山が見えてきた。
それは天井のラインよりも上まで堆積しているようで、獣じみた隧道探索の終わりを予感した。
なにせ、想定される隧道の全長に匹敵する程度の長さを既に地中で前進している。終らなければおかしい。



15:27 (入洞から4分経過)

やっぱり……、閉塞地点だった!
体感測定で、東口から30mくらいの位置である。

最後は土砂の山が立ちはだかり、坑道は完全に閉塞していたが、その最後の数メートルは天井部分がラッパ状に上へ延びており、その先に崩れた西口を予感させた。残念ながら、落ち葉や木の根など、ここが地上に近いことを窺わせるものは見当たらなかったが。また、人為的に運び込まれたと想定する土砂と、この西口擬定地を閉塞させている土砂の間に、これといった違いも感じられなかった。

なかなか我々の推測を確信に変えるような情報を与えない隧道に、歯がゆさを覚えた。
もっとも、内部探索をほとんど諦めていた隧道に入ることができ、おそらく全長の大半を究めたのだから、現地探索としては大成功である。

大いに満足したので、事故が起こらないうちに脱出するとしよう。
廃隧道には慣れた私だが、ここの居心地は、だいぶ悪い。息苦しくて、長居したくなる要素は皆無だ。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

(↑)この息苦しい閉塞地点でも、全天球画像を撮影した。

私一人だったらまだしも、後続が詰めてきている状況が余計に息苦しい。退路を断つな!(笑)




(←)私と位置を交代し、閉塞地点を確認している仲間たち。
ちょうどこの閉塞地点の傍に、数少ないコウモリが1匹、冬眠状態でぶら下がっており、冬眠中のコウモリを冬に起こしてしまうと生きながらえないと私が話したせいもあって、気を遣いながらの洞奥観察になっていた。

(→)閉塞地点付近から振り返った入口方向。 微妙な天井のカーブや、断面の小ささが原因で、外の光は見通せない。だから余計に息苦しいのだ。




15:31 《現在地》

閉塞地点到達から、4分後。
また這い這いして、入口へ戻ってきた。

こうして見上げる上に反り返った坑口は、見たばかりの閉塞地点とそっくりだ。
向こうに光があるかないかの違いしかない。
やはりあそこが西口だったのだろうと思う。

一番乗りで私が地上に戻って間もなく、柴犬氏が洞奥から生還したが、その四つ足の姿はさながら紫色の熊だった。こんな高貴な色をした熊は初めて見た。




なんだこれ…。

狭い隧道に入る際に邪魔になるだろうと思って、坑口前に転がしておいた私のリュックとウェストバッグだが、再び身につけようとすると、思わぬ邪魔が入った。
我がリュックの上に、どう見ても私のものではないウェストバッグが、まるで水面上の露岩で羽を休める水鳥のようにちょこんと乗っかっているではないか。
いくら自分の荷物を汚したくないからといって、こんなことが許されるのか。
許されるわけだが、最後に戻ってきた“犯人”の少しも悪びれない様子を見ていると、それは馬車馬を何頭も役する御者の姿を彷彿とさせるものがあった。

まあそんなわけで、初代隧道の発見及び現状の確認という今回探索の本懐を遂げた一行は、日没まで残り40分となった晩秋の山中から、えびす顔の帰路に就いたのです。




大団円の帰還


初代隧道の東口を背にして、進行方向を撮影した。
かつての掘り割りがうっすらと見えると思うが、周囲を含めてもの凄く深い笹藪と化しており、完全なる廃道状態だ。

さて、この場所からの脱出だが、一番安パイなのは、来た道を引き返すことだろう。
もし既に日が暮れていたら迷わずそうしただろうが、まだ少しだけ明るい時間は残っている。
せっかくなので、このまま旧道を東へ進んで現道である大幹線林道との合流地点まで行ってみよう。

ここから大幹線林道までは、直線距離なら100mもないが、道のりは300m以上ありそうだ。
この深い笹藪だとそれなりに大変そうな気もするが、初代隧道とともに歩んだ道を体験しておくことは、決して無駄ではないだろう。出発だ!

(→)
坑口から2〜30m離れた地点から振り返って撮影したのが、この写真だ。

山が切り取られているところが、我々が乗り越えてきた古道の峠であり、坑口はその直下に口を開けていたのだが、笹藪に隠されていて、全く目視不能である。

この右の一段高い位置には、トリさんが最初に“暗がり”を見つけたブル道が横切っているが、それさえも笹藪に封じられて見分けがつかない。
もしこちら側から隧道を探しに来ていたら、捜索はもっと難航していた気がする。
改めて、今回の我々の発見が幸運に支えられていたとを実感した。



15:45 《現在地》

初代隧道から南楢岡側へと下る峠道は、ブル道として使われた形跡があったが、それもだいぶ昔に利用を終了したようで、引き続いて一面の笹藪に覆われていた。

初代隧道は、いまの立倉トンネルよりも20mほど高い位置に掘られていて、西口は同じ谷の中にあるが、東口は隣り合う谷に口を開けている。
そのため東口のアプローチは、西口のそれよりも長くなっており、さらに高低差も大きかったようである。前進を続けても、すぐに現道は見えてこなかった。

この初代隧道の峠道は、それ以前に使われていた峠越えをほぼ踏襲していたようで、隧道の前後だけが違っていたようである。
すなわちそれは、昭和9年の地形図に描かれていた破線の徒歩道であった。
こうして実際に歩いてみたことで、おそらく短命に終った初代隧道ルートの弱点の一つを、実感することができた。



それは、非常に急勾配という弱点である。

もとが峠越えの徒歩道だったうえ、最後まで九十九折りのような車道らしい勾配緩和が行われなかったようで、道は旧地形図のルート通り、ほぼ直線的に斜面を下っていた。
いくら峠に隧道があっても、これでは車両交通に不向きであったろうと思う。

これが、『郷土史資料』にあった「前の洞門は現在のものより上に位置して掘られたが、何かと不便をかんじていたことから、さらに新しく掘りかえたようである」の「不便」の中身ではなかったろうか。
当初の私は、地質の悪さから来る隧道の崩壊を疑っていたが、そうではなかった気がする。隧道は意外に形を保っていたし、断面も(埋め戻される以前を想定すれば)そこまで小さなものではなかったと思う。

初代隧道の前後にある急勾配を大々的に改修する手間と、冬道の難渋を考えれば、もっと低い位置に少し長いトンネルを掘った方が、後年の憂いを絶てると考えた。それがトンネル掘り直しの真相ではなかったか。



15:46

隧道を出発して15分弱で、ようやく(←短時間でもそう感じるくらい藪は濃かった)眼下に舗装路が見えて来た。目指してきた大幹線林道である。
私にとっては一応見覚えがあっていいはずの道路だが、前回通ったのは17年も前だから、まあ初めて見るのと変わらない。まして、あの道をこういうアングルから目にするのは初めてだ。

すぐそこに進むべき場所が現われたことで、私の探道眼にも曇りが生じたのかもしれない。先頭にいた私はここで道を見失い(正しい進路は藪と倒木で隠されていて気付かなかった)、すぐに見失ったことには気付いたものの、引き返さずそのまま現道へ脱出する進路を選んだので、ラスト10mで猛烈なイバラ混じりの藪に揉みくちゃにされるという不幸があった。




痛い痛いと連呼しながら、どうにか一番乗りで舗装路へ脱出した私は、後続の仲間たちが同じように苦しむ姿に向かって、励ましの言葉を述べる代わりに、大量の写真を撮影して記録することにした。

見よ!  まるで、死霊の盆踊りじゃないか! →→→

こんなことをしているから、限られた者しか私の探索に何度も同行しようとはしないのかもしれない(笑)。
なにはともあれ、チクチクしながら脱出成功!!!




15:49 《現在地》

我々が脱出した地点から、さらに50mほど南楢岡側へ下った位置が、本来の新旧道分岐地点であったようだ。
一応は、ブル道としての痕跡が微かに感じられるが、よほど注意深く観察しないと、ここに分かれ道があるようには見えないと思う。
(チェンジ後の画像の黄矢印が旧道、桃矢印は誤ルート)

この新旧道分岐地点まで、初代隧道東口から約350mあった。
また、ここから立倉トンネルの東口までは、約330mである。
距離はほぼ変わらないが、高低差は倍くらい違うだろう。とかく旧道は急だった。



なお、よくよく目を懲らせば、この新旧道分岐地点からも旧道の峠の切り通しが見えていた。

切り通しの存在もそうだが、なによりあの下に隧道が潜んでいることを知らないまま、今までこの道を通っていた事実が愉快だった。
実際に超常的な嗅覚なんてないわけで、何か根拠がなければ隧道を探しに行かない。仮にあの切り通しをここから見つけたとしても、それだけではわざわざ隧道を疑って探しに行ったりはしなかったろう。

今回の体験は、幼なじみの土地であっても机上調査によって重大な新発見が容易にあり得るということを、私に知らしめた。




これは同じ地点から撮影した東側、南楢岡方向の眺め。
今回この先へは行かないが、あと3.7kmほど道なりに進むと、旧南楢岡村(および旧南外村)の中心部である落合地区へ出る。
峠の立倉トンネルが崩落のため通行できないので、完全な行き止まりの道なのだが、今も林業関係などで通行する人がいるようで、立倉集落側のように荒れている様子はなかった。

落合といえば、2代目立倉トンネルの来歴を刻んだ「感佩之碑」の碑文中に、「賛助をいただいた芳名は南楢岡村落合商人伊藤恭一」として名前が登場している「落合商人伊藤恭一」は、現在も落合で稼行している出羽鶴酒造株式会社(秋田県の飲兵衛なら知らない人はいないだろう)の前社長である。同社に何か記録は残っていはいないだろうか。
またさらに脱線するが、同碑文中に「石工 八代目渡部宇太郎」として登場する「渡部宇太郎」の屋号は、秋田県湯沢市内にある渡部宇太郎石材店と関係があると思われる。



15:53 《現在地》

合流地点から西へ向かうと、300mほどで立倉トンネルが見えてきた。
濡れた路面に、今しがたここでUターンをしたらしいタイヤ痕が付いており、一同は「サボリーマン」が休泊の痕跡ではないかと考えたが、もしかしたら単純な“被害者”かも知れない。この道とトンネルが未だ全ての道路地図帳や地理院地図に平然と描かれ続けていることの被害者だ。なぜ、通れなくなってから20年近く経過しているのに、どこも表記を改めないのだろうか。国道や県道ではないので、優先順位は低かろうが…。




15年ぶりに再会した、立倉トンネルの南楢岡側坑口。

トンネルそのものの姿は、おそらく15年前とほとんど変わっていないが、バリケードより奥の路面はさすがに自然への回帰が進んでいる。
当時既にボロボロだった「通行止」の工事看板は完全にへたれきって、バリケードのうえで伸し烏賊みたいに伸びていた。




これから、全員でこのトンネルを潜って帰ろうというわけだが、その前に一つだけ寄り道。
坑門脇翼壁上のスロープから、はじめて坑門の直上へ登ってみた。
15年前にはここに電柱が立っていたが、撤去されたようである。

ここにもしかしたら2代目立倉トンネルに繋がる何かしらがあるのではないかと期待しての行動だったが、深い笹藪と雑木林があるばかりで、何も見つからなかった。
改めて、現在の3代目立倉トンネルは、2代目を拡幅改良したものだったと確信した。




初めて見た頃とは別物のように禍々しいオーラを纏ってしまった、現在の立倉トンネル。
以前は123m先にくっきり見えていた出口の光は、完全に消えていた。
その理由を知っているにも関わらず、我々は入った。

出口が見えない気持ちの悪さはあるが、トンネル内は依然として平穏さを保っていた。
周囲を取り囲む頑丈そうなコルゲートの外側に、実はコンクリートの坑壁が存在せず、素掘りの岩盤がなまめかしく光っていることは、知らぬが仏であろう。

入洞から2分後、【戦々恐々の場面】が一同の前に現われたが、抜け穴を知っている私が先導して、突破!! 




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

(↑)抜け穴の途中にある“死の小部屋”の全天球画像。

トリさんが潜り抜けているスリットが東口へ通じており、そのすぐ左上にある外光が入り込んでいるスリットが西口へ通じる。
四周の歪んだコルゲートの外は、膨大な量の崩土でギチギチになっている。圧壊する瞬間の潜水艦内を思わせる、死臭漂う風景だ。



16:10 《現在地》

トンネルを潜り抜け、立倉集落へ向けて往路と同じ道を下る。
その途中、トンネル西口から100mほどの地点で、スギ林を下ってくる道を見つけた。
これが、初代隧道およびその上にある峠への古道の入口だろう。

ここから初代隧道西口までは、往路において探索を省略した部分で、結局ここでも暗くなりかけていたのでスルーした。
探索せず終った部分は正味100mほどであるが、この分岐地点から大半が目視できた。その内容は、スギ林の中の歩きの道に過ぎず、到底車道ではない。




16:19 《現在地》

「感佩之碑」と愛車たちが待つ、探索開始地点へ帰還成功。

案の定、最後は日没を少し過ぎてしまったが、出発から2時間15分のショート探索で、得たかったものを全て得た。
3人のパフォーマンスが十分に発揮された近年稀に見る無駄のない探索であったため、私はオブローダーとしての全能感すら覚えていたが、全ては優れた文献を残した先人のお陰だったことを忘れてはいけない。





この日の最後は、探索に参加した3人と、“FLLAK”を号令した細田氏と、屈強なアスリートと化した最年長のHAMAMI氏という、
県内在住+αの山行がメンバーが集まり、メンバー愛用の店である秋田市の名店「山の五代」での宴会で〆た。

もともとこの日に予定されていたトリさんの訪秋に合わせて、このメンバーでの会食を計画していたが、
当日になって急遽予定になかった探索を追加したので、探索したい病だったトリさんの満足度は特にうなぎ登りだったようである。
よほど幸せだったのか、別れ際には「明日死ぬんじゃないか」などと言っていたものの、生きて最愛のものへ会いに行った模様。

探索を肴にす今宵の宴は至福なり。




残された「謎」と「矛盾」


過去の私の探索の中でも、おそらくもっとも電撃的に行われた今回の探索であったが、仲間たちの協力もあって、大成功裏に幕を閉じた。
その喜びがあまりに大きかったせいで、帰宅後にすぐレポートを書き始めたが、新たな机上調査の機会を得ないままに書き終えようとしている。

立倉トンネルの新旧3世代にわたる来歴には、探索を終えたいまでも未解決の謎がいくつか残っている。
なかでも 最大の謎は、今回のメインターゲットとなった初代隧道が、いつ作られたのか だろう。
これについては、明確な情報が全くない。

現時点で把握している、初代隧道に関する唯一の文献的情報は、本編第1回で紹介した(そしてこの探索のきっかけとなった)、『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』(昭和49年刊)にある次の記述である。

立倉部落から南外村落合部落へぬける洞門は前後2回掘っている。現在利用しているのは昭和23年に、戸川、立倉両部落の人たちが、金と労力を出し合って六郎という人の設計にもとずいて掘ったものである。前の洞門は現在のものより上に位置して掘られたが、何かと不便をかんじていたことから、さらに新しく掘りかえたようである。
『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より

昭和23年に2代目のトンネルが掘られたと書かれているが、それ以前に使われていた初代トンネルがいつ作られたのかは、触れられていない。

一方、今回の現地探索中に解読した「感佩之碑」には、上記と明らかに矛盾する内容が含まれていた。抜粋すると次のような文章だ。

この石文は現在の幹線林道トンネルが出来た昭和47年をさかのぼる20数年前、人の手と汗で掘られた洞門の記録である。
洞門の長さ80間、洞内の高さ8尺、巾9尺、東西の切割40間、測量着工昭和27年9月、翌28年5月竣工した。
旅人よ、現代人よ、当時の峰越のけもの路冬は往来不能な山道を想像してみませんか。昭和27年、残雪の峰に立って、よしここに洞門を掘ろうと一念発起した一人の男がいた。その人の名は佐々木六郎48才、戦災の都会から逃れ郷里に帰って間もない彼の眼に、郷土の発展は交通の確保しかないと写ったに違いない……
「感佩之碑」より抜粋

矛盾は、2代目トンネルの完成年に関する部分にある。
果たして、完成年は昭和23年なのか(郷土史資料)? 昭和28年なのか(感佩之碑)?

なぜこのような矛盾が生じたのか不思議だが、もっというと、なぜ「感佩之碑」は初代隧道の存在について全く触れていないのだろうか。
我々は現地探索のなかで、碑文で佐々木六郎翁がそこから郷里を眺め隧道建設を発起したことになっている、「峰越のけもの路」を歩いている。
そしてその頂上である“発起の峠”が、初代隧道の至近な直上であることを知ってしまっている!

……何が言いたいかといえば、この碑文の記述は少々不自然なのだ。
「昭和27年、残雪の峰に立って、よしここに洞門を掘ろうと一念発起」した峠の足元に、既に初代の隧道が存在していたとしたら、不自然じゃないか。

この場面が真実味を帯びるには、昭和27年の時点で初代隧道があってはならず、六郎翁がこの峠で発起した隧道こそ、初代隧道でなければならない。
しかし、碑文中で作られている隧道の長さ(80間=145m)は、現実の初代隧道とは符合しない。あの隧道は、せいぜい20〜30間の長さしかない。

…もっとも、この碑文を真面目に考察するのは、発起の場面が創作でないという前提の話になるのだが…。

もしかしたら、『郷土史資料』と「感佩之碑」のこれらの記述は、初代隧道と2代目隧道の建設に関して、複雑に絡み合うような錯誤を抱えていて、実際には――

昭和23年に、戦災の都会を逃れて郷里に戻った六郎翁の発起によって、旧来の峠の直下にはじめて建設されたのが、今回探索した初代隧道であって、それが不便だったために、昭和27年から28年にかけて、改めて現在の立倉トンネルの位置に建設されたのが、2代目トンネルなのかもしれない。 

――なんてことを、考えている。


いずれ、新たな成果があったら、追記したい。



初代隧道の竣功年を明かす新資料が発見された!  2019/3/9追記

本編で最後まで“謎”だった、“初代隧道”の竣功年。

今回、読者様の尽力により、これを解き明かす決定的な資料が発見された。

合わせて、佐々木六郎翁が建設を発起した隧道が、初代と2代目のいずれであったのかという謎と、二つの説が存在していた2代目隧道の竣功年についても、信憑性が高いと思われる情報が提示され、本隧道に関する謎はほぼ完全に解明されるに至った。

以下、その内容について追記する。

情報提供者は、大阪市在住の田中氏である。
氏は、秋田県大仙市が運営している大仙市アーカイブズ(恥ずかしながら、存在を把握していなかった)に独自に問い合わせを行い、同所の調査によって、今回紹介する文献の存在が明らかになったという。

文献のタイトルは、昭和53(1978)年2月に西仙北町役場企画室が発行した『町の昔をたずねて』で、「広報にしせんぼく」に掲載されていた「町の昔をたずねて」というコーナーを集約した内容であるという。そしてこのなかに、ずばり「立倉の洞門」というタイトルの回が収録されていたのだ。

以下、少し長くなるが、極めて核心的なその内容の全文を転載する。
まずは、初代隧道に関わる前半部分から。


立倉の洞門
 大沢郷は名のように、大きなそして広い地域であるが、中には立倉のように、少し奥まったところにある部落もある。その昔の道路の開けない時代の話であるが、「路の中の落葉を、膝のあたりまで漕いで歩いたものだ」と、今七十を越した婆さんが、いかにも感慨深そうに語るのを聞いた。
 そんな訳で、昔はとても不便な所のようであったが「窮ずれば通ずる」の諺の通りで、今は便利になった。それは山一つ越せば、南外村の落合に近く、ここに行けば買いものでもなんでもできる。それではじめは、峠を越して往復したものだが、山は全体泥板岩であるところから表土がはげて底が出ると、すべって歩けない。雨の日などは殊にひどい。そこで誰言うとなく「泥板岩の山だから、洞門を通したらよい」ということになり、立倉、大場台、布又の人達で、大正十一年の秋から冬にかけて掘り続け、遂に翌十二年二月の春、貫通したのである。長さ七十間余を両方の口から四五人宛で掘ったということである。
『町の昔をたずねて』 p.69 より

第一の謎が、これで決着!

初代隧道の竣功は、大正12(1923)年2月!

同時に、全長の数字も出て来た。70間は、おおよそ127mに相当する。

ただ、これは我々が探索できた隧道の長さよりも倍くらいも長いように感じられる。
東口から体感30mほどの位置に閉塞があるのだが、その先の不到達空間は私の考えている以上に長いのかもしれない。また、以前探索した小戸川隧道(仮称)で起きていたように、完成後の崩落によって坑口が後退して、現在の全長は短縮されている可能性もあるだろう。

印象深いのは、本文中に「泥板岩」という少々専門的な用語が出ていることだ。
泥板岩(でいばんがん)は、今日では主に頁岩(けつがん)と呼ばれる堆積岩の一種で、その名の通り板状に剥離しやすい特徴がある。
【初代隧道の閉塞部】【2代目隧道の落盤部】に、この特徴的な板状の崩落物が大量に存在していた。

大正時代の村民が地質を正確に見抜いていたことに感心するが、このことは明治34(1901)年と大正3(1914)年に相次いで行われた大沢郷村内での河川隧道工事によって、村人の間に経験が蓄積されていた可能性を伺わせる。特に大正3年の現場となった布又の地名は、隧道掘鑿の当事者としてここにも登場しているのである。

こうして、近隣の3つの集落の人々の力で掘り抜かれたという初代隧道のエピソードに、佐々木翁は登場しない。
やはり彼の登場は、2代目のことであった。
以下、後半部分を転載する。


(つづき)
 これで落合との交通は非常に楽になり、皆々大喜びであったが、そうしているうちに世の中は、グングン進歩して、自転車、自動車の運行と変わって来た。こうなるとこの洞門を通るには、少しばかりの山を登らなければならぬこと、そこまでの道路はとても車の通れるものではないことなどから、どうしても洞門を少し下から通して、同時にそこまでの道路もよくしなければならないことになった。
 この時に、即ち昭和二十年九月神奈川県鶴見のニッサン自動車にいた、佐々木六郎が郷里の立倉に帰って来て、その交通のあまりに不便なのを痛感し部落開発のために、新しく便利な洞門を通し、同時に道路も改修しなければならぬと決心したのであった。
 一旦思い立った六郎は誠に真剣で自ら他を説得して、遠く南外村方面にも足をのばして、資金の寄附を集めるなど苦心を重ね漸くにして同二十七年十一月廿六日甥斎藤茂二(六郎の兄正三の二男)が測量をはじめるに至ったのである。
 これからは案外早く進んで、翌二十八年三月、貫通落成することができたのである。洞門の間口は九尺、高さは八尺、長さ約八十間全体に梁をかけわたした。同時に洞門までの道路は「県単林道」として改修され、今では或程度の大型車も楽々と通じている。
 こう言うと甚だ楽々と計画され工事も進んだように思われるが、かえりみれば、六郎が鶴見から帰って来て、このことを考え出してから既に、八年の年月を経過しているもので、その間の苦労は決して少なくないのである。
 何はともあれ、これは関係者一同の一致した努力と、大方の協力後援があってはじめて、この大業は成就したのだとは言い、まず何よりもその初一念、洞門とともに貫き通した六郎の、堅忍不抜の意思は、誠に貴いものとすべきである。さればこそ、立倉部落ではその功にむくゆるため、山林六反四畝(実測壱町歩余)を贈ったのである。 
『町の昔をたずねて』 p.69 より

2代目隧道の竣功は、昭和28(1953)年3月!

二説があった竣功年は、「感佩之碑」の記述が正しかったようだが、月まで見ると、碑文では5月となっており、2ヶ月のずれがある。
また、隧道の長さや高さ・幅などの数字も、碑文と一致しているが、「全体に梁をかけわたした」というのは初見の情報だ。
現在ある鋼鉄製のセントルではなく、おそらくは木造の支保工を持っていたのだろう。この隧道が崩れやすいことが、当時から予期されていたのに違いない。

上記の文章によって、これまで分からなかった佐々木翁のいた「戦災の都会」(碑文)がどこであったのか(横浜市鶴見)ということや、郷里に戻ってきた時期(昭和20年9月)も分かった。
そして、碑文にはなかった彼の甥の協力や、完成に対する報償についても書かれており、一連の工事が極めて円満に終了したことが伺える内容となっている。

なお、この2代目隧道は、佐々木翁による開削と「県単林道」(県単独事業で整備される民有林林道)の整備から20年後の昭和48(1973)年に至って、前後の道とともに大規模な拡幅と改修を受け、「立倉トンネル」と「大幹線林道」へと生まれ変わった。それがさらに半世紀を経た現在どのようになっているのかは、本編で見たとおりである。


文章は最後、執筆者の体験記によって締め括られている。

(つづき)
 私は一旦車で南外村の洞門入口まで通りぬけ、帰りは車をおりて一歩一歩、歩いて立倉の入口まで戻って見たが、当時は機械にも動力にもたよらず、ボツリ、ボツリ鶴はし一丁で掘り進んだ人達の、念力の強さ、徹底した気分のたくましさ、頭の下るのを覚えたのであった。入口の側の岩壁に今なお残っている鶴はしの跡に、雨あがりのせいか、タラタラと汗のような水滴のなだれかかっているのを見た一瞬、言い知れない尊い感に打たれたのであった。
  昭和四十三年七月
『町の昔をたずねて』 p.69 より


最後に明かされた、私にとってのサプライズ。

昭和43(1968)年7月の時点では、この初代隧道は通り抜けが可能だったのだろうか。

私は本編中で、初代隧道の天井が極端に低い理由について、外部から残土が持ち込まれた可能性を示唆した。
そしてその機会があったとしたら、それは昭和48年の立倉トンネル再整備の時ではなかったかと書いた。
図らずも、上記の記述は、この私の推測を掩護している。昭和43年に通り抜けられた初代洞門の天井が、
当時からここまで低ければ、そのことに全く触れていないのは不自然に思えるのだ。

なお、本編で触れなかったと思うが、確かに初代隧道の入口付近の内壁には僅かながら手掘りの痕跡とみられる鑿の痕が残る壁面があった。
おそらく頁岩の特徴によって大半が剥離して失われたなかで、粘り強く残った唯一の部分だが、執筆者はそれを目にして感動を述べていた。
このことは、執筆者が間違いなく初代隧道に立った証しであるようにも思われる。まだ本来の断面を有していた初代隧道を前にしたのだろう。
(うらやましい)


以上により、立倉の3代にわたる隧道の変遷は、その全貌が解明されたといえるだろう。
情報提供者の田中氏および、文献調査にあたられた大仙市アーカイブズ職員に感謝します。



当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口
今回のレポートはいかがでしたか? 10点満点で採点してください。
←つまらなかった。   普通かな。   おもしろかった!→
1  2  3  4  5  6  7  8   9  10
コ メ ン ト 
(空欄でも結構です。皆様からいただいたコメントの一部を公開しています。詳しくは【こちら】をお読み下さい。
 公開OK  公開しないで!         

これまでの平均点 9.50点 /これまでの投票回数 795人

このレポートの公開されているコメントを読む

【トップへ戻る】