隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線 戸中隧道旧道 最終回

所在地 新潟県佐渡市
探索日 2013.05.28
公開日 2014.07.10

自然の造化に目を奪われる 古(いにしえ)の道


2013/5/28 13:41 《現在地》

戸中隧道の模式図を用意してみた。(←)

第一隧道内にあった3箇所の海蝕洞との接合や、微妙なカーブの様子。そして現道との位置関係などを、出来るだけリアルに再現したつもりである。


これから私は、くぐってきた2本の隧道を戻り、戸中側坑口に置いてきた自転車を回収した後で、現道の2本のトンネルを通って戸地集落へ進むことにする。
ただ完全に来た道を戻るのではなく、今度は海蝕洞を通って地上へ一旦出て、海岸を廻ってみようかと思う。(←図上に赤線で示したコース)

そしてこれは単にバリエーションルートというだけではなく、ここへ来るときにだいぶ苦労した例の段差を降りることの危険を回避する、より安全なルートにもなると期待した。
(まあ、それが迂回路として安全なら、復路だけでなく往路もそうすれば良かったということになるワケだけど)


そんなプランを頭に描きつつ、“魔窟”の復習と参ろうか。





第一隧道の内部には、出入り口の他に、外の光が差す込む場所が3つもある。
それらの横坑から差し込む光は、横坑があるのとは反対側の壁を明るく照らしているので、遠くからもその場所が分かる。

ただし、最も簡単に出入りが出来る戸地寄りの穴は小さいので、右の写真のようにフラッシュを焚いてしまうと、凄く分かりにくくなる。




往路では覗くだけであった横坑から、外へ出る。

私は鼻炎で鼻がほとんど効かないのが残念だが、出口の向こうには日本海があり、隅々にまで潮水が染みこんだ海蝕洞の内部には、濃厚な潮の香りが満ちているのだろう。
既に何度も述べた通り、この海蝕洞を通じて隧道内に激しく波が押し寄せた形跡がある。
隧道が死んだ今も、海蝕洞は自然の息吹の中に息づいている。




う〜み〜〜だ〜。

隧道の横坑から外へ出るときは、いつもドキドキする。そこが正規の出入口ではないからだろう。
それは、廃道探索が世の裏道巡りであることと、フィーリングが似通っているように感じられる。

そして横坑を出た時に、一面の緑ではなく水平線が広がっていたというのは、
珍しい体験の中にあってさらにレア度の高い貴重な経験となった。 うん、きもちがいい。




視界がほぼ二次元に限られていた隧道内と違い、地上には三次元の自由度がある。自然と開放的な気分になる。
私は数歩あるく度に振り返り、その都度微妙に見え方を変える海蝕洞の全貌を、大きな興奮と共に眺めた。

右の低い位置にある穴が、私が今通った穴で、左の高い位置にある穴も隧道へ通じている。
左の穴は、波の侵入を防ぐための防壁が現在も機能していて、そのために高い位置にだけ口を開けているが、
本来は右の穴と同じ高さまで掘り下がっていたのだろう。それはそうと、この写真だとスケール感が掴み辛いかも知れない。

私が歓声を上げたスケール感を、是否皆さんにも感じて欲しい。
続いては、スケール感が分かりやすい遠景をご覧頂こう。




すっごい…。

隧道と接している部分の盛り土を除いては、海蝕洞内部に人が手を加えた様子はない。
いったいどれほどの時間をかけて、これほど大きな開口部が誕生したのかを知る由もないが、
自然が掘る“隧道”の巨大さと安定感は、まさに工期などという概念から完全に解放された天の仕事を思わせる。

ここが観光名所として現代を生きていないことが、不思議である。
佐渡は確かに多くの海の名所に恵まれているが、人文的要素を併せ持った景勝地としては、文句なく全国級のものと感じる。




とは言っても、自然物しか写真に入っていないと、まだスケールが分かりにくい人がいると思うので、南の方にある戸地集落をフレームに入れてみた。

集落は戸地川の対岸にあるので、近い部分でも200mくらいは離れているが、なんとなく人間の世界と比較した場合の海蝕洞の大きさが伝わっただろうか。
2階建てのマイホームくらいは余裕で中に建てられそうだ。

そして、いま見ているこの壮大な景観は、我々の交通とも決して無関係ではなかったのだ。
第3回の後段で紹介したいろいろな史誌のなかに、隧道が作られる前の旅人の交通方法を記録したものがあった。

往時風濤の荒るゝ時は行人一時此洞内に避難し、潮の去るを待って疾走するを常とせし であったと。

それゆえに、この地は“佐渡(外海府)の親不知”と恐れられていたのだとも。
大正時代に隧道が開通するまでの極めて長い期間、今でこそ穏やかな表情を見せているこの礫浜が、命がけの交通の場であったのだ。




つづいては、反対の戸中方向の眺めである。

そこには、あるはずのものがちゃんとあった。

目の前のものに負けないくらい巨大な海蝕洞が、向こうにもどっかんと口を開けていたのである。

言うまでもなくその正体は、往路にて最初に出会った、奥が鍾乳洞となっている海蝕洞の洞口である。
歴代の佐渡奉行が度々視察に訪れた記録が残る、佐渡有数の“古”景勝地でもある。

どうやら、何の問題もなく海岸経由で再び隧道へ復帰することが出来そうだ。
時化ている時でもなければ、例の洞内の段差に挑む必要は無いというわけだ。(知らなかったばっかりに余計な苦労をしたが、楽しかったからいいか)




2つの巨大な海蝕洞が、内部で1本の隧道に繋がっているという、前代未聞の“佐渡の親不知”、洞屋海岸の全景。

それにしても、これが平時の海面水位なのだから、はるばる海蝕洞の奥の隧道内まで傾れ込んだ波の凶暴さには、改めて戦慄する。

しかしそんな危険を孕んだ隧道であっても、有ると無しとでは全く違う。隧道が無かった時代は、
たとえ空が平穏な日であっても命に関わる、とても危険な行路であった。




広々と続いていた礫浜だが、戸中側の海蝕洞の先には全く存在せず、垂直に切り立った数十メートルの断崖だけが海岸線となる。
もはや海蝕洞へ入る以外には、どうにも進みようのない地形である。

大昔には、この先にも辛うじて砂浜が残っていて、波の合間を見て戸中へ駆け抜けることが出来たらしい。
また、それとは別に、桟橋や鉄索で迂回する道もあったらしいが、現在の景色を見る限り、どうやってへつり越えたのかまるで想像出来ない険悪すぎる岩場である。

私は大人しく、海蝕洞の中に秘められた隧道に帰路を求める事にした。





13:47 《現在地》

またすごい…。

かつて、漁船を留め置くための舟小屋として利用した事もあったといわれるが、どんな舟でも余裕で隠しておけそうな奥行きと、断面の大きさがある。
おそらく、江戸時代を通じて佐渡奉行が眺めた風景とも、ほとんど変わっていないのではないだろうか。

また、ここに隧道を掘ろうと最初に計画した人も、きっと日常的にこの眺めを見ていたのだろう。
そして、思ったに違いないのだ。

この海蝕洞の奥を利用して、左の方へ掘り進んでいけば、100mも行かず地上に貫通できるはずだ。
こんな大きな穴が何百年も自然に残っているのだから、隧道を掘ることが出来れば、きっとそれは安定したものになる。
成功すれば、もう私も家族も怖い思いもしないですむし、村の子供達も安全に行き来できるようになるだろう… と。




海蝕洞の奥を横切っていたことは間違いない第一隧道だが、現在の路盤は完全に分断されている。
果たして、40年ほど前の現役時代には、どんなふうに繋がっていたのだろうか。

正直、隧道が誕生した当時のことを調べるよりは、よほど簡単に解決出来る問題だろうと高を括っていたのだが、申し訳なし。

…この問題は未だ解決出来ずにいる。

実は、これからまもなく訪れる事になる戸中集落で、道行く年配の方をお二人ばかりつかまえて、お話しを伺った。
もちろんお二人ともこの隧道の事も、海蝕洞を横切っていたことも存じていたし、何度も通行していたというのだが、「どうやって渡っていたかは覚えていない」と口を揃えるのだ。

まあ、橋ならばさすがに印象に残りそうなので、このことをもって築堤或いは暗渠だったと判断しても良さそうではあるが、はっきりしなかったのは心残りだ。
当時としても変わった風景であったのは間違いないから、写真を撮って持っている人が、どこかにはいると思うんだが…。




この後私は隧道の残りをくぐり、さらに第二隧道も通りぬけて自転車を回収。
すぐ隣に並行している現トンネルを2本快適に通りぬけて、戸中集落へ入った。



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戸地集落から隔絶された坑門を眺めて〆


13:58 《現在地》

戸中集落側から見た新旧トンネル。

やや離れた位置にある新旧坑口を一望出来るのは、手前に戸地川が横たわっていて、視界を遮るものが少ないからだ。いい気分である。
今さら説明も不要だろうが、右が現道の戸中第二トンネル、左が先ほど一旦は辿りついたのに引き返さざるを得なかった、旧道の戸中第一隧道である。
ちなみに、川沿いに両方の坑口を連絡するような道は全くなく、旧隧道は岩と川に囲まれて完全に孤立した状態である。
現道は戸地川を昭和47年竣功の「新戸地橋」で渡っているが、旧道は橋の痕跡も残っていない。
橋名だけは、ほぼ間違いなく「戸地橋」だったろうと想像が出来るが…。



戸地集落の北端である戸地北バス停の前が、新旧道の合流地点である。
ここで新旧道は平面交差し、今度は山側に旧道、海側に現道となるが、この先の旧道は集落のメインストリートとして立派に活躍している。

また、戸地集落は戸中のように目立つ高低差もない一見して長閑な農村だが、集落内の旧道には、佐渡では珍しい太平洋戦争の戦争遺跡が残っていた。
戦跡といっても、かつて出征兵士を村から送り出すために建てられていた凱旋門の土台という、少々変わり種のやつだが。




旧道との交差点を右折して、隧道へと引き返す方向へ入る。

すると、直線の道路の行く先に、ぽっかりと口を開ける見覚えのある坑口を見る事が出来た。

道の両側には集落の家並みが密に立ち並び、川に突き当たるところまで綺麗に鋪装されている。
明らかに、この道を中心として集落が発達した街村形態を感じさせる。

だが、川の向こうは全くの無人である。
山を越えればそこには戸中集落があるのだが、それを感じさせない険しい岩山が聳え立つ。
まさに1本の川が、道路の生と死の世界を分け隔てていた。




行き止まり。 英語なら、Dead End.

この人間世界との余りに明瞭な隔絶は、
役目を終えた隧道に対する人の世の冷徹な理を、強く印象づける。

安心な人間達の世界にどっぷり浸かりながら眺める対岸は、ほんの数分前まで
私の居場所だったのに、既に遠い世界へ立ち去っていこうとしているように見えた。

隧道は、最後まで私に阿ることもなく、今は海蝕洞の一部として、
悠久を長らえる覚悟を決めているように見えた。




これで探索は終了。
だが、まだ解明できていない謎がある。