隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線 戸中隧道旧道 解明編

所在地 新潟県佐渡市
探索日 2013.05.28
公開日 2014.07.10


このように私は佐渡の“魔窟”を堪能したわけだが、皆さまにもその魅力が伝わっているだろうか。

ここでは最後に、本編の冒頭で投げかけた“疑問”について、机上調査での解明を試みたいと思う。
どんな疑問であったかといえば、以下の通りである。

【隧道の竣工年に関する疑問点】

「道路トンネル大鑑」では、大正2年竣功とされている途中第一・第二隧道であるが、大正2年測図版に描かれている隧道は1本だけで、しかも後の版に描かれる第一・第二の2本の隧道とは微妙に重ならない位置に描かれている…ように見える、という問題である。





そもそも、大正2年竣功という数字は「道路トンネル大鑑」巻末のリストにそうあるだけで、これが正しいと断言するためには他の典拠を求める必要があるだろう。
というわけで、地元のことは地元の本に求めることにする。これぞ王道。

まずは、旧相川町が平成7年に刊行した「佐渡相川の歴史 通史編 近・現代」を取り寄せてみた。
そして読んでみると、同書は交通史についてかなりページを割いていて、期待以上の情報を得る事が出来た。
中でも戸中隧道に関する記述は、町内にある他の隧道よりも念入りであり、それだけ町民にとっても印象深い存在だったのだと推測する。
少し分量が多いので、何段かに分けて転載していこう。

さて、海府道工事最大の難関はトンネル掘りであった。
北狄・戸地境の旧鷹の巣トンネルは、大正六年に着手し(中略)同年内に竣功したが、戸中洞屋(どや)のトンネル開鑿は、その後一、二年かかり、その後で第一隧道の長さ一七四メートル、幅三,五メートル、高さ三,四メートル、第二隧道四〇メートル、幅三,四メートル、高さ三,八メートルの再改修工事が終わるのは、昭和四年十二月から翌五年九月にかけてであった。


戸地側坑口に見られる天井の切り上げの跡。
どうやらこの改修は、昭和4〜5年に行われたようだ。

いきなり、大鑑の記述と反した内容が出てきてしまった(笑)。
この本によれば、戸中隧道は大正6年か7年に開鑿されたもので、さらに昭和4年から5年にかけて「再改修工事」を受けたのだという。

「大鑑」に記載された隧道の延長や幅員などのスペックは、再改修後の数字と合致しているので、探索中に戸地側坑門の歪な形状(右画像)より見出した天井切り上げの改修は、この時に行われたものと推測出来るわけだが、ともかくこの記述からは、戸中隧道が大正2年に竣功したという根拠を求める事が出来ない。むしろ、反説になってしまった。


…とまれ、まだまだこの本の記述は続く。
ここから先は、戸中隧道建設以前のエピソードだ。

それ以前、この洞谷(ママ)の海にせまる断崖は、「佐渡の親不知の嶮」といわれた難所であった。今はその断崖の根もとまで海になっているが、昔は根もとに細長い砂浜があり、人びとは波の合間をみて、そこを通りぬけた。そのため運わるく足をさらわれ大波にのまれる人もいた。
たとえば明治三十年三月、戸地の弥平爺さんが、酒に酔い、戸中の洞屋の浜で波にさらわれたり、大正四年二月の末ごろ相川の行商人カリント屋こと吉塚倉吉(六〇歳)が、洞屋付近の浜で大波にさらわれて死亡したりの惨事が伝えられている。

本編第3回後段で採り上げた、昭和12年発行の古書「金泉郷土史」にも出ていた、「親不知」の情報である。
具体的な死者の名まで挙げて、その行路の厳しさを紹介しているが、重要なのは、大正4年にも死者が出ているという記述であろう。
彼は隧道が完成していたにも関わらず、波に呑まれたのだろうか。大正2年隧道完成説を採るならば、そういうことになる。
ただ、記述は「洞屋付近の浜で大波にさらわれた」のであり、必ずしも洞屋だとは言っていないが…。
また今回の現地調査により、隧道内部でさえ大波に襲われる可能性があるということも書き加えねばならないだろう。


なお、海の大時化の日は、戸地川横の、けわしいトン坂を越え、現在の近藤製材所近くへ下る山路もあった。

以上の記述で、戸中隧道に関する内容は締めくくられている。
なお、今回の探索ではこの“山路”の調査は(存在自体を知らなかったこともあり)行っていない。




果たして、戸中隧道の本当の竣工年は何時なのだろう?
そして、大正2年の地形図にくっきりと描かれてしまった隧道の正体は………?


私はここで、一旦机上調査の行き詰まりを感じていた。
そういうときは王道である市町村史から離れ、少しファジーでファンタジーな民話や昔話などに抜け道を探すことも良いだろう。
といういうわけで、「佐渡の民話 相川外海府の伝説と昔話」(昭和53年/佐渡時事通信社)を取り寄せたところ、期待以上の収穫があった。

その昔話は、「へいじェむタコタコ」というもので、書き出しはこんなだ。

 へいじェむタコタコ
今のような隧道のなかったむかし、カイタクは戸中から戸地へ行く交通の難所だった。きり立つ高い岩壁に這いつくばうようにして通らなければならず、一歩あやまればそのまま波に呑まれるという危険な場所だった。
そこに出没するカイタクむじなというのがいたずら好きで、どれほど人間を苦しめておったかわからんかった。
初め上から小石を転がす。それだけでたいがいの者は震え上がって…

なんという“ワルムジナ”だろう。こんな犯罪悪さをするムジナには、当然天罰が下らなければならないのであって、お話しもそのようなものになっている。
すなわち、平左ェ門(へいじぇむ)という人がカイタクむじなを捕まえたが、その時にむじなは命を助けて貰う代わりに、恩返しを約束する。しばらくして平左ェ門が漁に出てタコを突いていると、件のむじながカイタクの岩場の上から旗を振りつつ、「へいじぇむタコタコ、へいじぇむタコタコ」と叫ぶ。すると沢山のタコが採れたという(恩返し)という、和やかな話しである。

この話はそれだけなのだが、挿絵代わりに掲載された2枚の写真が、とても参考になるものだったのである。
現在の風景と比較しながら、ご覧頂こう。



「佐渡の民話 相川外海府の伝説と昔話」
より転載。

まずは1枚目の挿絵(写真)&キャプション。

洞屋の難所、または「佐渡の親不知」、そして「カイタク」。このようにいろいろと呼ばれていた隧道以前の道の在処は、これまで不明だった。
だが、この写真でようやく判明したのである。

これはひどい!

そういうレベルである。
探索中にこの事を知っていても、残念ながら、探索は出来なかっただろう。
辿りつく術が、まるでない。 まるで…。

岩場の突端にある凹みが道の跡だと言われても、前後にぜんぜん道形がない。
もともとはどうなっていたのか。
おそらくは、桟橋だろう。 恐怖の… 鉄索頼みの桟橋道…。
「佐渡案内」(明治41年発行…本編第3回参照)に記載されていた、幻の古道の姿が彷彿とされた。




「佐渡の民話 相川外海府の伝説と昔話」
より転載。

そして2枚目の挿絵(写真)とキャプション。

本の出版時期(昭和53年)から考えて、現在の戸中トンネルが写り込んでいるこの写真の撮影時期は、昭和48年〜53年に絞られる。
旧道になったばかりの戸中隧道はまだ塞がれておらず、また、戸中トンネルのロックシェッドは後補のものであったことが判明した。
さら、隧道前の路盤は現在よりも1mくらい低い位置にあり、後に埋め立てが行われた事も分かる。
そうしなければ、大時化の度に海水が現道にまで押し寄せたのだろう。




古道の在処は判明したが、相変わらず戸中隧道の竣工年は不明である。
う〜む…。 この謎を解き明かすには、どうすればいいのか??

……
そ う だ。
昔の出来事を詳しく知るためには、やはりその時代に書かれた資料を見る必要がある。
これまでよりも、もっと古い資料が見たい!!

そうしてアプローチしたのが、国会図書館の近代デジタルライブラリで閲覧出来る著作権満了の古い資料達だった。
第3回で取り上げた古資料もみなそうである。
最後には、この手が決まって、決定的な情報に辿りつく事が出来たのだ。 いよいよ、解答編と参りましょう。



「金泉郷土史」 より転載。

決定打となったのは、昭和12年に金泉村教育会が出版した「金泉郷土史」だった。
これまた少し長くなるが、拾っていこう。

 戸中トンネル
戸地川の右岸から戸中村入口に至る約二百数十米間は、段丘の岩壁海に迫り、僅かな浜辺を残すのみで、海荒の時は波岩壁に打付け通行不可能となる。仕方なく牛使ひ道と称する段丘を上下する道に依らねばらなぬ。 浜道を行けば数分で足りるが、牛使ひ道は数十分を要する。 人情の常、危険と知りつつも此の浜道を波の引き間に走り通り、遭難者が時々あったのである。 此の難所は洞屋と呼ばれ、島の親不知として有名であった。 幾多の遭難哀話も昔語りとなり、今は安全な道が開けている。 戸中第一トンネル、第二トンネルがそれである。 此の難所開拓は四期にきざまれる。

このような書き出しの後に、戸中隧道完成に至るまでの一期から四期に及ぶ工事の内容が記されているのである。
もう飽きたと言わず、ここまで来たら最後までお付き合いくださいな。

一 期
明治十年頃、澤根宣徳寺住職により広く全島より喜捨を募り、洞屋の最も危険な箇所の岩壁に長さ六七十米、幅員辛うじて一人をやる程の細路を開拓した。
二 期
明治四十三年、今の第二トンネルを高さ約二米、幅約二米に開鑿、費用は郡支出。
三 期
大正二年頃、今の第一トンネルを高さ約二米、幅約二米に開鑿、費用は郡支出。
四 期
二期並に三期に開鑿したトンネルを切広げ現在のものとした。

戸中第一トンネル (切広げ工事) 起工:昭和四年十二月 竣功:昭和五年七月 工費:三八〇〇円(県費) 全長:一七四米 幅員:三,四米 高さ:三,五米
戸中第二トンネル (切広げ工事) 起工:昭和四年十二月 竣功:昭和五年九月 工費:一五九三円(県費) 全長: 四〇米 幅員:三,四米 高さ:三,八米

…もぅ〜〜〜。 最初からこれを読んでいれば完璧だったじゃん!!!!(笑)

もう、驚きと感心の連続だった。 (戸中隧道関係の机上調査には数週間かけていたので、この歓びは格別だった)

まずは、「カイタク」古道の誕生が解き明かされる。
この最初の(人工的な)道は、明治10年に沢根の宣徳寺住職によって切り開かれたのだそうだ。(一期)
沢根という地名は佐渡市(旧佐和田町)に実在するが、宣徳寺というお寺が現存するかのかは未確認である。また、「カイタク」という道の名が、宣徳寺住職がはじめて道を“開拓”したことに由来するのかも定かではないが、いずれ全島から喜捨(寄付金)を募って道を切り開いたとは、まさに佐渡版“恩讐の彼方に”(wiki)を思わせる、一大スペクタクルではないか!(こんな貴重なエピソードも失われていく…)
惜しむらくは、この道が余りに険しく、また失われすぎていて、私の技術では踏破をしてみせられないことだろう…。

そして、後に戸中第二隧道と呼ばれる隧道が、明治43年にいち早く建設されたという記録である。(二期)
これにより、冒頭からの地形図の謎は呆気なく解き明かされた!!!

続いて、後に戸中第一隧道となる隧道が大正2年に完成したという記述。(三期)
これにより、「大鑑」の記述にも根拠があったことが確かめられた。
もっとも、第二隧道の竣工年は明治43年だったらしいので、50点だ。

最後は、戸中第一・第二隧道が現在の形に完成した経緯である。(四期)
この部分だけが、後の「佐渡相川の歴史 通史編 近・現代」に、戸中隧道の歴史として記載されたのである。
こうして、時間の経過と共に古い正史から古い記録が失われていくのだという、寂しくもまたやむを得ない、そんな具体例を見たのであった。


これにて、謎は解けた!!(よね?) メデタシメデタシ。






こうして、最高に気持ちよく、探索も謎解きも終わったはずだった。


だが、“魔窟”は甘くなかった。 机上調査の最後に、私にさらなる謎を叩き付けてよこしたのである。


未だ解明されていない謎を。





大正14年に優美堂なる出版者が発行した、当時としては珍しい観光地の写真集「佐渡案内写真大全」。

その金泉村の章に、「戸中の隧道」とだけ書かれた写真が、たった1枚、収められている。


「佐渡案内写真大全」 より転載。

写真は鮮明なものではないし、撮影時期も不明である。

だが、歩荷のような人物を添えて撮された隧道は、いったいどこなのだろう。

右側に海が見えるので、第一・第二いずれかの戸中隧道の戸中側坑口(北口)であろうか。
私には特定出来なかった。
というか、そもそも、道と海面の比高が高すぎるように見える…。

背景の山の形や集落の配置には、見覚えがある気がする(戸地集落っぽい)が、このアングルで集落を見晴らすような場所など、旧道のどこにもなかったのではないか…。


もしや、私が知らない戸地と戸中を結ぶ道が、もっと高い位置にもあったのだろうか。
それとも、単純に写真の差し違えで、全く関係ないどこかの隧道…?


… そういえば、私はここまでの机上調査の中でまだひとつ、意味も正体も分からぬ地名に触れていたなぁ (それは本文中にある)。




あの… “ トン坂 ” って、 何のことだったんだろうか?


それに、新旧地形図にある隧道の位置は、いつまで経っても重なりそうもない…。(冒頭の比較画像参照)



最後の最後で、私が知らない隧道がまだ眠っているという可能性を疑う羽目になってしまった。嬉し恥ずかし。
まあ、これだけ詳細な工事の記録が揃う中、漏れた隧道が1本だけあるとも正直思えないが…。
まあ誤りだとしても、写真の撮影地点を確かめる必要があるだろうから、いずれ再訪しなければならないな。