2007/7/25 12:06 【旧宇佐美隧道 宇佐美口】
往来が途絶え21年を経過した旧線には、未だバラストやレールが存在するものの、完全な藪へ変わっていた。
しかし、植物たちの母である日光が全く届かぬ隧道の中には、当然のことながら一片の緑も無い。
レールも、枕木も、バラストも、架線さえもしっかりと残っており、そこは未だに「人」の支配下に置かれているように思われた。
だが、進むにつれ私は、それが誤りであることを知るのだ。
この闇を支配しているのは、JRでも、もちろん国鉄の亡霊でもない。
それは、厳然たる地球の営みだった。
地上にあっては、光が支配者で、緑や生命を育む。
一方、主無き地の底では……。
これから、私とあなたは、目撃する。
この隧道の内部全般に言えることだが、あらゆる設備が存置されている。
しかし、本隧道が正式に「廃止」されたわけではなく、複線の一部として再利用する計画が存在したために敢えて「存置」と書いたが、実情は「放置」ないし「放棄」そのものである。
これと良く似た経過を辿る旧隧道を、私は前にも探索したことがある。
北の幹線「奥羽本線」の青森県内にある大釈迦隧道。そこにも全長1400mに及ぶ旧隧道が存在し、やはり複線化利用を待ちながら、長い年月ほったらかされている。
入ってすぐのところに、10.5kmのキロポストが半ば朽ちながら残っていた。
坑口のキロ表示が10575.60だったので、ここは坑口から75m強の地点ということだ。
振り返ると、まだ緑の光が間近に見えた。
キロポストが立っているのは西側の壁際だが、反対側の壁には、このような見慣れないものがあった。
まるで発破孔に差し込まれたダイナマイトのようであるが、傍に付けられたプレートによって、その正体がおぼろげに判明してくる。
「地山内変位測定 (D)」
「A測点 10K500M」などと書かれてある。
どうやら、隧道が地圧によって変形していないかを調べるための観測点のようだ。
既に取り付けられたコードは切断され、使用されていないようだが…。
最初にも書いたとおり、架線も存在している。
しかし、…簡単に切断されるものではないと思うのだが、至る所で切れてレール上に墜落、支障している。
当然通電はしておらず、触れても問題はないのだが、いい気持ちはしない。
また、チャリ同伴で侵入したことは、決して私を楽にはさせなかった。
むしろ、重い荷物を運ぶことになったと言える。
バラストと枕木が存在する道床は、どうやっても楽にチャリに乗れはしなかった。
まして、切断された電線が繰り返し進路を妨害するのだから、さっきまで「秘密の抜け道!ショートカット!」などと浮かれていたのが、可笑しい…。
さらに進むと、ATSの地上子らしい装置があった。
比較的近年まで使われていた幹線だけに、これまでの廃線隧道では見られなかった設備が、次々に現れてきて楽しい。
「2.9kmもの間、ただ漫然と穴が続くだけだったら、いくら長くても没だな」とは、要らぬ心配だったようだ。
これらの設備は何であろう。
もはや、マニアではない私には理解不能になってきた。
本当に様々なものが、壁には取り付けられている。
見たことのない制御ボックスや、変な形のコンセント(らしきもの)、幾つもの電線を集める函、架線や碍子、それらを支持するもの…etc。
電化されていたと言うことも大きいのだろうが、これほどに鉄道隧道とは付属品が多いものかと思う。
道路のトンネルにあってこちらに無いのは、照明と舗装くらいなもので、同じ隧道であっても、その保守の手間隙は断然鉄道のほうが大変そうだ。
そして、この膨大な設備はほぼ例外なく、酷く、浸蝕されていた。
隧道に、何か 異常な事態 が発生している事は、すぐに分かった。
これは…
これは… ものすごい… 結晶の滝だ。
美しいが、なんか、禍々しくもある…。
これまでにも、廃隧道の壁にこの種の白い結晶を見たことはあったが、これだけ壮大なものは初めてだ…。
完全にアーチの天端から片側側壁を覆っている。その距離は10mにも及ぶ。壁自体に大きな亀裂は見られず、流れ出たような形から見ても、地下水の作用によるものなのは間違いないが、ただコンクリートの石灰分が析出したものではない。
表面は湿気っており、指先を付けると、板状の薄い透明な結晶が着いてくる。
当初、これが何であるかは分からなかった。
しかし帰宅後に見た建設当時の記録には、この宇佐美隧道が丹那隧道に次ぐ大変な難工事であった理由として、「温泉余土」と呼ばれた特殊な地質が原因したと書かれていた。
温泉余土とは、その名の通り温泉、すなわち地中の熱水によって性質を変化した岩石で、粘土状になるまで組織が破壊されているという。
そして、普段は地中に埋蔵されているこの温泉余土が、隧道工事によって空気と水に触れることで異常に膨張し、そこに10kg/cm2という猛烈な地圧を発生させるのだという。
当然、隧道工事にとって、この地圧は最大の敵であった。
さらに、この温泉余土が隧道工事にとって最悪の地質だとされるのは、もう一つの性質のためでもある。
細かい過程は省くが、温泉余土に接した地下水は、強烈な酸性を示すようになるのだ。
それは硫酸である。中学校理科室の「王者」、皆が怖いもの見たさで覗く、あの無色透明な液体である。
極めて強い酸性を持ち、金属を腐食させ、電解することが知られている。
そんな液体が、せっかく出来上がったトンネルの鉄筋コンクリートを中から侵し、道床のレールを侵し、架線を、制御ボックスを、あらゆる金属を侵すのだ。
温泉余土は、掘ることだけでも大変だが、そこに隧道を維持する事がまた大変な…まさに、『トンネルマンにとって悪魔のような地質』なのだ。
内壁に、見事な “輝きの瀑布” を作り出した結晶質の正体。
それは、おそらく硫酸塩であろう。
美しいが…。
その美しさは、人の努力の結晶たる隧道が、内側から破壊されゆく証である。
剛健で朴訥な隧道が、光の欠片となって砕けていく…。
そのような光景なのだった。
私が、何の予備知識も持ちあわせなかったにもかかわらず、その美しさを禍々しいと感じたのは、隧道を愛する本能に突き刺さってきたからかも知れない。
12:25 入洞から、早くも18分経過。
そこに、10kmを示すキロポストが現れた。
すなわち、宇佐美側坑口から575m潜ったことになる。
まだ振り返れば辛うじて入口の光が見えたが、殆ど点のようであった。
地図で見る隧道は直線の筈だが、なお2.4kmも先にある出口は、全く見えない。隧道内にサミットを有する“拝み勾配”になっているせいだろう。
近くには、これまでで最も大きな待避坑があった。
本隧道の待避坑には大小の別があり、大きなものは馬一頭が忍べるくらいのサイズがある。
しかも、この待避坑には、更にその奥の壁に鉄製の扉が取り付けられている。
これは…、まさかの横穴?
チャリを線路上に停め、身軽になって、東側の壁に口を開けた待避坑のアーチを潜る。
立って歩ける高さがある。
そして、待避坑に入ると、真っ正面に鉄製の両開き扉…。
なぜか、半開の状態になっている。
ライトで奥を照らすと、それは小部屋だった。
横穴と言うほどの奥行きはなく、まさに小部屋。鉄の扉によって線路から隔離されうる、地底の小部屋…。
…正直。
全く入りたいとは思わなかった…。
隧道の探索を繰り返してきた私に、闇を恐れる気持ちは、もうほとんど残ってはいないと思われる。
しかし、この個室の居心地の悪さは、かなりのものだった。
右の写真は、フラッシュを焚かず手持ちのライトの明るさだけで撮影したものだ。部屋の中から本線を振り返って撮った。
実際に目に映る暗さも、これより幾分明るい程度で大差ないと思って良い。
天井には、白色蛍光灯が一本あって、アーチ型の低い天井を含め、四方の壁は全て薄水色のペンキで光沢を持たされていた。
そして、その壁の表面には行き場を失った水滴が無数に張り付き、全く動かなかった。
局限まで静かな、空間だ。
この場所への唯一の口である半開きの扉は、全体が真っ赤に爛れ、触れたら感染しそうである。
もう二度と扉は閉じないが、もし閉じこめられたら…。
そんな、ありもしない事に私が怖れを感じたのは、…果たして
闇のせいだけだったのか……
澱んだ空気と充満した湿気に、早く出たいという衝動に駆られた。
しかし、もう二度と来ないだろう景色を、しっかり記録を残したいという気持ちが勝り、私は矢継ぎ早に部屋の中の写真を撮った。
ダイヤル式の電話機(左)と、保線用の器具の数々(右)。
置かれている金属の器具はみな、綺麗な壁に対比して百倍の速度で経年したような姿だった。
再びチャリを押して、より闇の深い方へと歩き出す。
しばらくは何も変化はなかった。
そしてやがて現れた、次の大きな待避坑は、電気の巣だった。
猛獣の檻のような柵の中に、陶器である碍子の他はグズグズに錆び付いた電源設備があった。
そこにも、硫酸塩の結晶は大量にあった。
隧道には、全体をゆっくりと、冷たい風が流れている。
だから、窒息することはないだろう。(横穴の中は…)
しかし、今呼吸している空気は、ただの水蒸気ではないはずだ。
硫酸の成分を含んだ、濃度は薄くても毒気なのだろう。
線路… チャリ… 毒気…、硫酸…・・・。
忘れもしない、あの坑と一緒だ…。
こちらの方が、断面が遙かに大きく、造りも立派で、また素性も明るいぶん恐怖感は断然少ないが…
でも、似ている…。
そして、まだ2km以上もある…。
これほど地下深くに潜ったのに、まだ地下水が盛んに湧出している。
天井の小さな亀裂から、白糸のように幾筋もの水線が垂れる。
それらがバラストを叩く音は僅かだが、
それらが集まって流水となり軌条間の溝を流れる音は、意外なほど大きい。
正確には、所々に設置された集水地に落ちるせせらぎの音が反響するのだ。
かなり遠くからでも、「ザー」という、コウモリの大群にも似た音が聞こえる。
透き通った水流が、私の進行方向と逆に流れている。
先ほど、一つめの「ザー」を乗り越えたばかりだが、奥の方からも、さらに大きな水音が聞こえていた。
堅牢であった本線用の立派な軌条も、ボロボロの屑鉄に変わっている。
断面が、変わった。
壁に視線を這わせるようにして進んでいた私は、その変化に気付くことが出来た。
どうやら500m毎に設置されているらしいキロポストは、まだ9.5kmが現れない。よって、入洞から1000mは来ていないと思われる。
ここで、隧道の断面の形が変化する。
一段狭くなるというか、或いは巻厚が増すと言うべきか、より長円に近い形へ変化する。
これは、何かの兆候なのか。
硫気が漂い、硫酸の流れる隧道。
あらゆる金属が腐食し、文明を嘲るような姿に変わっている。
もはや、複線化のために保存していたなどという話が、ままごとのように聞こえる。
この姿を見てしまえば、一時でも保守の手を離れてしまったこの坑に、もはや使い道など無い事を知る。
少なくとも、全く新しく巻立てを行うくらいの大リニューアルは必須だろう。
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