隧道レポート 伊東線旧線 宇佐美隧道  第3回

所在地 静岡県伊東市〜熱海市
探索日 2007.7.25
公開日 2007.10.2

地圧との格闘 その証明

「さいごのカギ」が欲しい! 


 2007/7/25 12:32 

 現在地は10kmポストと9.5kmの中間地点付近と思われる。9.5kmポストが現れると、そこが宇佐美側坑口から1075mの地点であり、残りは1845mとなる。(全長2920mないし2919m←資料によって異なるが、以後前者を採用する)

 隧道内には、今のところ500m刻みでしかキロポストが設置されていないので、また基本的には淡々とした真っ直ぐな洞内であるから、厳密に「どの地点がどう」とレポートしづらいのであるが、断面の形が変化した辺りの“ある地点”から、路盤の造りが変化している。

 すなわち、それまでのバラスト軌道から、スラブ軌道への変化である。
建設当時の資料を読むと、洞内中間部全長1500mについてはスラブ軌道を採用し、かつこの間は多数のレールを一本に溶接した、超ロングレール(1500m)を使用しているとのことである。

 この変化は、これまで枕木とバラストによって、チャリに乗ることが出来なかった私にとっての、大きな福音となった。
探索ペースの向上が期待された。



 どうやら、硫酸の腐海は、そのピークを超したようである。
その代わりに現れたのは、多数の“観音様”。
コンクリート鍾乳石である。
硫酸塩の結晶は、酸性に起因するものだった。
しかし、コンクリート鍾乳石は石灰であり、つまりアルカリ性である。
陰と陽、プラスとマイナスが同居するような、一種異様な状況と言える。

 コンクリートに含まれる石灰分が地下水で析出し、このような鍾乳石状のものを形成するわけだが、本隧道ではそれがかなりの大きさに成長している。
自然界の鍾乳石は1cm伸びるのに何百年などと言われており、地球の悠久性の象徴のように扱われるが、人工物に成長するコンクリート鍾乳石の場合は、それより遙かに短期間で出来上がる。そうは言っても、この大きさは大変なものだ。



 内壁はコンクリートブロック積みとなっており、これも宇佐美側坑口付近がコンクリートの普通の壁であったことと異なっている。
おそらく、昭和13年の開通当時から変化していない部分なのだろう。

 なお、工事記録によれば、温泉余土の地山から生じる硫酸の酸性を中和するため、内壁とその外側の掘削断面との隙間に石灰を充填したという。
この石灰分が、巨大なコンクリート鍾乳石の発生を促した可能性が高い。

 そう考えれば、これらコンクリート鍾乳石はその不気味な姿に反して、隧道の守護者であるかも知れない。




 ようやくチャリを漕いで進めるようになった。
しかし、その速度は8km/h程度の、いわばよろよろ運転である。
レール横の平坦な部分は、その幅が30cmそこらしかない上に泥で濡れており、さらに切断されて垂れ下がった架線が繰り返し支障してくる。
さらに、この暗さである。さしものSF501とはいえ、電化規格のこれだけ大きな断面となれば、その隅々を照らすことは出来ない。
また、片手で前方を照らしながらの運転となり、操縦自体に気が抜けない。SF501をヘッドライトのように使うアタッチメントが欲しいものだ。




 さらに進むと、自分が沿っている左側の壁に、こんなペイントの施されているのを見付けた。

この地点より宇佐美側を「第七區(区)」とするという表示だろう。
また、隣には「九・五九九」の数字が書かれている。
現在地は、宇佐美側坑口より976mの地点と言うことになるのか。
これで、ようやく三分の一を辿ったわけである。
入洞から、既に30分を経過していた。

 そしてなお、すんなりと先へ進むことは出来なかった。
私は、この表示の反対側の壁に見てしまったのである。




 再び巨大な待避坑が、口を開けていた。

が、この待避坑も、様子がおかしい。


なんだか、奥行きが…

  …まさかこれって……




 横 坑!

 …すぐ奥で行き止まりのようだが… 



 扉のようなものが見える…。




 扉だ…。


 高さ2m、幅2mほどの横穴は、奥行き5mほどで、コンクリートの平らな壁に塞がれていた。
しかし、そこには扉が…。
扉自体もコンクリート製で、引き戸になっている。
何の装飾もなく、唯一平板ではない取っ手部分もまた、ただの溝だった。
重密な扉である。


  …ダンジョン…

囚われの姫が、悪のドラゴンに幽閉されている、地底の牢…。
そんな情景が、幼稚な私の脳裏に浮かんだ。



 よっこいせッ! 

   ムグッ!!

     ムグググッ…!  

  * トビラは ひらかなかった


扉は非常に重い感触。それでも力一杯体重をかけて引くと、3cmくらい開く方向にスライドするのだが、そこでガッチリ止まってしまう。
どうやら、向こう側に鍵が掛かっているようだ。

 …行き止まりではないと言うことか……。




 最後の手段である。


 なぜか直径6cmほどの坑が、壁に二カ所、貫通していた。
ザラザラした孔の中はことさらヒンヤリとしており、僅かだがここにも風の流れを感じた。
腕一本通すことは出来ないが、私はここにデジカメだけを送り込み、タイマー機能を使って壁の向こうを撮影することを試みた。

普段首にかけているネックストラップを手に持ち、タイマー10秒とフラッシュをセットしたのに、速やかにカメラを孔の向こうへ送り込む。
緊張で掌が汗ばむ。ストラップの長さがギリギリで、少し手の先も孔に入れた。
万一指を離してしまえば、カメラは永遠に回収不可能になる。探索も終わる。



 …8 …7 …6 …5

タイマーの進行を示す赤色LEDの明滅が、速度を増した。

 …4 …3 …2 …

一瞬の沈黙 そして

 パシューー

孔の向こうでフラッシュが光り、同時に軽快なシャッター音が聞こえてきた。
すぐにカメラを引っ張り出し、撮影された画像を確認する。



 一発成功!

見事に、開かずの扉の奥の景色が写っていた。

そこには、これまでと同じかもう一回り大きな断面の素堀り隧道が、見えなくなるまで続いていた。
画像処理で明度を上げて、やっと確認できるのは、30mほど先までだろうか。

 さて、この坑は何なのだろう。

過去に、これと良く似た立地条件の横穴に遭遇したことがある。
奥羽線の2代目大釈迦隧道の内部である。そこにあった、通称“コワシの坑”は、やはり50mほどの奥行きで塞がれてこそいたものの、平行して掘られた新トンネルに続いていることが、ほぼ確認されている。

 おそらく、この隧道も同じで、新トンネルに続いているのではないか。
元々はズリだしのために掘られた坑かもしれない。
新トンネルの工事状況が分からないので断定できないが、工期短縮のため、網代・宇佐美の両坑口から掘るほかに、平行する旧隧道からの横穴を利用して中間部からも掘り進めた可能性がある。

 列車が通過した際の音響を確認すれば、さらに調べが進むかも知れないが、いつ通るか分からない列車を待つ気持ちにならなかったので、先へ進んだ。




 9.5kmポスト 苦闘の断層帯


 12:43 入洞から、37分を経過。

ここで、ようやく9.5kmポストが。
宇佐美側坑口より1075mの地点となる。


そこから少し進んだところで、またしても、私は驚きの光景に遭遇することに。




 何ですか これは!

伊豆版“コワシの坑” 出現?!

大きさの比較のために置いたペットボトルは、1.5リットルサイズのものだ。

坑は、先ほどの横穴とは反対側の、向かって左手の壁にある。
かなり乱暴に、内壁をドリルで貫通させたような感じだ。
そして、その奥に円形の狭い通路が延びている…。

 意味が分からない!




イミガワカラナイ!!

ナニコレは??

この坑の存在理由も分からなければ、三方に打ち込まれた超巨大な釘のような金属の意味も、なぜか左右に等間隔で小孔が穿たれている訳も、それらの孔から溢れ出るようにして洞内を充たしつつある「黄色い砂」の主旨も、何一つワカラナイ!

気持ち悪い!!

何もワカラナイから、この坑は猛烈に気持ちが悪いぞ!

狭くて前屈姿勢でしか入れないが、この黄色い砂は無毒だよな?




 黄色い砂を産み出したらしい左右の小孔のなかで、唯一砂で充たされていなかった、右側手前の孔の内部。

奥行きは50cmほどで、以降はコンクリートで詰まっていて、塞がれている。
ものすごい分厚いコンクリートだと思う。


 分厚いと言えば…。




 この壁の分厚さは凄い。

 目測だが、最低60cm以上の厚さがあると思う。
全てコンクリートで、鉄筋などは仕込まれていないようだ。
開口部の内側には、削岩機で削った痕が鮮明に残っている。

 なお工事記録によると、本隧道の巻厚は30cmから、厚いところで80cmに及ぶという。
通常30〜60cmくらいが相場なので、80cmという巻厚は特殊である。
温泉余土のため、1cm2あたり10kgという猛烈な地圧が生じたらしいから、これに対抗するために必要だったのだろう。



 で、ここからちょっと視線を左下に向けると…。



 パンダ


だから、意味わかんないって!!

何でパンダなの?!
どこにパンダ居るの?
何がパンダなのさーー!!




 ハァハァ…


とにかく全く意味の分からない横坑であるが、その奥行きは大きくない。
入口から10mほどで、黄色い砂に埋もれるように、坑は終わっていたのだ。

 この坑の正体は未だ分からないが、後からの調べで判明したのは…。
ちょうどこの9.5kmポスト附近に、隧道を横切るようにして、平行な二本の小断層が走っているということだ。
この小断層の動向を調べるための、計測機器がこの洞内に設置されていた可能性がある。
内壁の三方に埋め込まれた巨大な釘、或いは電極のように見えるものには、変位を調べる機器に接続されていたのかも知れない。

全ては想像だが…。



 そして、謎の横坑の最深部だが、膨大な黄色い土砂を数枚の薄い木の板で抑える、如何にも仮のような状況である。
こんなんで「極大」と恐れられた地圧を抑えられるのかと思ってしまうが、この土砂は本来の地圧と無関係な、埋め戻しに使われたに過ぎないのだろう。
その証拠に、かつてはもっと奥まで横坑は続いていた形跡がある。

 土砂の上部の隙間は、コンクリートの内壁との間に首を突っ込む幅もないが、カメラを持った腕を潜入させて見た。



 隙間は、素堀の洞穴を1mほど先で完全に塞いでいた。
この、不気味に赤い天井こそが、本来の地山である。
あの丹那隧道に挑んだトンネルマンを再び苦しめ、また開通後にも繰り返し補修を要したという“魔”の地山を、いま初めて目にした。(前の横坑で見た素堀は、厳密にはコンクリートが吹き付けられていたので、本来の生の地山はこれが初めてである。)

 再び私の想像だが、この横坑の正体は断層の変位を測定するためのものであり、膨大な砂は水抜き用のものでなかったかと思う。
サンドパイル工法と言って、地山に砂の柱を埋めて水を抜く工法がある。この横坑ではその要領で、隧道に悪影響を及ぼす酸性の地下水を集めて排出していたのかも知れないと考える。



 12:46 本坑へ戻り、前進再開。

当時の図面によれば、9.5kmポストの25メートル網代よりの地点が、本隧道の勾配変わり地点、すなわちサミットである。
自転車を利用していなければ気付けなかったかも知れないが、上りから下りへと勾配が変わったことが確かに感じられた。
ちょうど、宇佐美側坑口より数えて1100mの地点であり、海抜は36.7mと記録される。
宇佐美側坑口からこの地点までは3‰の上りであり、高低差が3mだという。これは、徒歩では水平と区別が付かない緩やかさだ。
一方、ここから網代側坑口までは全線が11‰の下りとなり、高低差は25mあるという。道路の勾配に直せば1.1%。やはり相当に緩やかではある。

 なぜか、この辺りから急に霧がかかりはじめ、フラッシュを焚いての撮影が困難な状況となった。
地熱を持っているのかも知れない。




 それからいくらも行かずに、今度はレール製のセントル(支保工)が現れた。
セントルも真っ赤に焼けただれており、硫酸の作用は全体に及んでいることを示す。
このレールセントルを設置する原因となったのは、隧道完成後9年目の昭和22年に相次いで発生した内壁の亀裂及び剥離崩壊だ。
断層が通じていることもあり、隧道完成後も最も気が抜けなかったのが、このサミット附近だったようである。

 セントル区間は、この後も断続的に現れたが、ここがその最初だった。
そして、100mほどで姿が消えた。




 かなり傷んでいるものの、9.4kmポストと思われる。
これまでは500m刻みでしか設置されていなかったし、この次のキロポストは9km地点だった。

なぜここにだけ中途半端なキロポストが設置されたのかは不明である。
まあ、私が見付けなかったものもあったかも知れないが。



 またも、変電設備を備えた大きな待避坑が現れた。
背後の壁には、白く亀裂を埋めた跡も残っている。
また、そこには様々な保線器具が置かれており、備え置くべき器具のリストまで壁に残っていた。

 「横裂TK50」や「破端TK50N」というのは、いったい何を指しているのだろうか。
ちなみに、金属の器具は腐食が著しく、取っ手を持っただけで折れそうだった。



 サミットを超えたことで、振り返っても全く入口の光は見えなくなった。
それから先しばらく、出口の光も見えず、洞内で最も暗いエリアである。
その一方、ひとまず漏水などの不気味な現象は沈静化しており、下りに転じた洞内をこれまでで最速のペースで進んでいく。
ここで初めて、チャリのありがたさを感じ始めた。

歩くには、余りに長い闇であったろう。





 12:55  9kmポスト出現。

入洞より、49分を経過した。
過去最長洞内滞在時間を更新するのは、ほぼ確実となった。
ちなみにこれまでの最長は、田代隧道の1時間と3分である。
宇佐美側から1575m、なお残りは1345mである。
漸く半分を過ぎ…分かっていたことだが…  長い!

しかも、色々と見るべきものがあるので、ペースが遅い!




 次回、

  一挙に光の下へ、    …しかしその結末は…。