前回の探索から9年目に突如もたらされた、白石トンネルに旧旧隧道が存在するという、衝撃的な新情報。
果たして、旧旧隧道はどこにあったのか?
新旧の地形図を何度も見較べてみたが、ここぞという地点は見つけ出せない。
現状、唯一の手掛かりである情報提供者のメールには、詳しい位置に関する情報はなかった。それは、敢えて書かなかったのだと想像した。
私に発見の喜びを感じて貰いたいという配慮か、少し探し回れば見つかる場所だということだろう。
もしも見つけさせたくないなら、わざわざ情報提供をして下さる理由がない。
なので、私も敢えて情報提供者へ再度の問い合わせはせに、2020(令和2)年1月25日に現地を見てきた。
以下、その再訪の模様をお伝えする。
2020/1/25 14:13 《現在地》
さて、やってきた。以前の私の甘さを自戒するためのリベンジ戦。
まずは、前回も見た旧隧道に挨拶を。
今回も同じ冬の季節であり、年だけが9年進んでいる。
経年による景色の変化が注目されるが、とりあえず旧隧道へ通じる道は、変わってなさそう。
強いて言えば、「全面通行止」の看板の周りにある樹木が育って、看板が見えにくくなっていたくらいか。
旧隧道の南口との再開。
坑口には、前回から変わったところはなさそうだ。
周囲の景色に目を向けると、樹木が少し生長しているし、また「遊漁証取扱所」の幟のために柵の存在が少し見えやすくなった。
旧旧隧道はどこにあるんだ?
前回ここを探索した時には、これといって、「ひっかかり」はなかったと思う。
何か腑に落ちない疑問点があったら、それを追求する過程で、旧旧隧道の存在に行き着いた可能性もあったのだろうが、すんなりと、
「旧隧道があるはずだ→ 旧隧道発見→ 残念ながら封鎖されていた」
で、終わってしまったと思う。
ただ、よくよく思い出してみると(=皆様にとっては、レポートを読み返すと)、一つだけ、旧旧隧道が旧隧道とは別に存在していた可能性を示唆する重大な情報が、あったのだ。
それは、昭和3(1928)年の地形図には既に隧道が描かれているのにもかかわらず、旧隧道の銘板に刻まれた竣功年が昭和35(1960)年だったという事実である。
いま思えば迂闊だったのだが、私はこのことを深く追求せず、(よくあるパターンである)同位置で大規模に改修された年が竣功年として刻まれたのだろうと判断したが、ここに誤りがあった可能性が大きい。
もっとも、昭和3年や昭和27年の地形図に描かれていた隧道は、現在ここにある旧隧道と、地図上ではっきり区別が出来るほど離れた位置のようには見えない。
このことが、上記の(誤った)判断の最大の原因となったのであるが、逆に言えば、旧旧隧道がこれら旧地形図に描かれた隧道とイコールだとすれば、それはこのすぐ近くにあるということになる。
……というわけだから、まず探すべきは、旧隧道の近くである。
現トンネルと旧隧道の間のスペースにはなさそうなので、旧隧道前からさらに保川沿いを上流へ進んでみる。
この道は、隧道名になった白石(しろいし)という小さな集落へ通じており、また分岐して保川沿いの林道にも通じている。
次の写真は、写真奥に写っている“白い看板”の前まで進んで撮影したものだ。
14:14 《現在地》
この先、道は急に狭くなり、同時に上り坂が始まる。
ここから九十九折りの道が、保川と早川を分ける尾根のてっぺん近くまで伸びており、その周囲の南向き斜面に数軒の家屋が建ち並ぶ。これが白石集落だ。
いざとなれば集落の門を叩いて、古老から旧旧隧道の在処を聞き出すつもりだったが、この日私が平和な集落を乱すことはなかった。
なぜなら……
キター!!!
しかも、開口しているみたいだぜぇー!
しかしこんな近くにあったのに、9年も気付かなかったのかよ俺…!
ここに揃い踏みした、3世代の白石隧道。
3本を同時に眺めることは出来ないが、位置的には相当近接して存在している。
しかも、この南口については高低差もほとんどないが、3世代トンネルの位置関係としては珍しい。
それにしても、「ある」と思って探さなければ、こんな近くても気付かないものなのである。
ここは、白石集落という行き止まりの小集落に用事がない人ならば、まず来ない場所だ。
渓流釣に明るい人なら、直前の駐車場や林道までは訪れるのかも知れないが…。
いまは見つけられなかった言い訳よりも、情報提供に感謝しつつ、隧道を味わおう!
3世代隧道の位置関係を地図上に表示するとこのようになる。
分かってしまえば、あっても不思議はない位置と思えるが、大きな疑問が残っている。
それは、この旧旧隧道の北側の坑口は、どこにあるのかという疑問だ。
位置的には、旧隧道の北口付近の法面にありそうだが、前回の探索でそのようなものを見ていない。
幸い、開口しているようなので、貫通して確かめるのが手っ取り早かろう。
おそらく、長さは旧隧道より少し短い、80m前後と推定される。
貫通していれば、通り抜けは難しくないだろう。
改めて、旧旧隧道への最終アプローチを確認する。
この、どことなく鉄道廃線跡のような印象の掘割が、旧々道だった。
いや、実際ここに線路が敷かれていた時代が、10年足らずだが、確かにあった。馬車鉄道だった時代が!
以前のレポートで解き明かしたように、早川沿いの最初の車道は、大正13(1924)年に東京電灯という電力会社が自社の発電所工事のために3年がかりで開通させた、早川橋から新倉まで全長約20km、軌間762mmの馬車軌道だったのである。
この軌道は昭和3(1928)年に地元の早川沿岸軌道組合に譲渡され、一般利用が増大するが、昭和8(1933)年に山梨県の手でレールが撤去され、自動車用の早川林道へと改築が行われた。
これらは全て旧旧隧道時代の出来事であり、この先に眠る隧道が体験した過去である。
大正13年から昭和35(1960)年3月末日まで、おおよそ36年間にもわたって、この隧道が早川流域の生命線だったのだ。
私は前回、旧隧道の扁額に刻まれた県知事の名前に興奮していたが、さらに容易く興奮と結びつく古いものが、こうして間近に残っていようとは……!
14:16 《現在地》
坑口前の掘割は、長年分の枯れ草が堆積した泥濘みになっており、頭上も低空飛行の樹枝に被せられていて、圧迫感があった。
おそらく夏場は緑に覆われ、遠目には坑口の存在を確認できなくなるだろう。
この緩やかにカーブした掘割から、縦長な隧道へ向かうところは、鉄道のような風景だった。
そして確かにこの隧道には、鉄道だった時代がある。大正13年、軌間762mmの工事用馬車軌道として開通したのが始まりだと思われる。
とはいえ、馬車軌道だった時代は短く、昭和8年頃には早くも山梨県営の早川林道という自動車道へ改良されている。
それ以降、馬車よりも車体の大きな林業トラックなどの自動車が頻繁に通行するようになったわけで、この鉄道っぽい坑門も、実は工事用馬車軌道由来ではなく、林道へ改築された時に作られたものではないかと思っている。
証言等の裏付けはないが、昭和35年3月に旧隧道が開通するまで、かなり長く使われていたことを考えると、馬車軌道時代のままだったとは考えにくい。
闇が濃い。
坑口前に立つと、大地の底に通じていそうな深い闇を感じた。
目に見える「黒色」とは別の、心で感じる種類の「闇」だった。
より新しい2世代の隧道よりも、土被りが大きなこの旧旧隧道は、もしかしたら歴代最長の可能性があった。
果たして、どこへ抜けているのか……。
貫通の有無も、現時点では判断できない。
それにしても、旧隧道は厳重に密閉されているのに、旧旧隧道は開口したままになっているのが面白い。柵も何もない。
廃隧道の危険防止なんてことが問題視される以前に廃止され、そのまま誰の目にも止まらず、問題も起こらなければ、わざわざ探し出してまで封鎖されないというパターンだ。
先代は封鎖されているが先々代は完全放置というのは、案外珍しくない。
また、この隧道の坑口には、意匠と呼べるような一切の飾りも、扁額や銘板のような情報も、全くなかった。
まるで産業機械のような無言の坑口が、底知れぬ闇を晒すばかりだった。
洞内への進入を開始!
注目すべき、 風 は、感じられない……!
これは、よくない予感がする…。
そして、入って2秒くらいか、早くも闇に慣れた私の目に、想定外の光景が飛び込んで来た!
強烈な断面狭化!!!
トンネルの走行性を考えたとき、致命的に駄目なのが、トンネル内に突然現われる狭隘区間だろう。
最初から狭いのならまだしも、中に入ってから狭くなるのは裏切りに等しい凶悪さ! まさに悪魔の所業ッ! と、大型ドライバーなら叫びたくなるだろう。
坑口から20mくらいのところで、全く予告なく、強烈な断面の狭隘化が待ち受けていた!
このとき私は即座に、1本の隧道を思い出した。
同じ県道の角瀬トンネル旧道にある【高長隧道】だ。
あそこも入ってすぐに断面が半減する異常形質だった。
そして、この2本の隧道の異常構造には、共通点がある。
それは、坑口付近の土被りがほとんどないこと、そして土被りが大きくなると同時に隧道の断面が小さくなることだ。
これらから想像されるのは、坑口付近の大断面区間は後年の延伸で誕生したロックシェッドで、奥の狭隘区間が初めからの隧道という説だ。
両隧道の地形を見る限り、可能性は高いと思う。
この“機械”は、なんだ?
長く伸びた引き手の部分と、何か積載できそうな台が連結された構造で、車輪こそないものの、牽引車両のような印象を受ける。
よく見ると、ホースが取り付けられている部分があり、これが正体を知る手掛かりになりそうだ。
これはおそらく、“手引き消防ポンプ車”の一種ではないか。
古いものではあると思うが、貴重かといわれると分からない。それに、保存状態は悪い。車輪も見当たらない。
人里近くにある廃隧道ではありがちなことだが、このほかにも洞内には雑多なものが置かれていて、全てまとめて忘れられているようだった。
ここから振り返る坑外は、雪こそないが、寒々とした冬の景色だ。
しかし、この冬枯れのおかげで、在りし日々の道路風景が十分にイメージできた。
ちなみに、坑口付近が泥濘んでいたのと、隧道を通り抜けても先へ進む予定はないので、自転車は入口に置いてきた。今回は気軽な単身潜りである。
再び光を背に、前進を再開。
直後、早くも“特異点”へ到達。
隧道内坑門、現る!
隧道の中に、もう一つ隧道があるかのような、異常な状況。
私の説が正しければ、ここまでは土被りのない開削工法区間で、この先が山岳工法で山をくり抜いた、“本来の隧道”だ。
そうなると、開通当初はこの部分の壁(隧道内の坑門)が、坑門だったのではないだろうか。
その格別の年嵩を示すかのように、壁の角には大きな亀裂が生じていて、崩壊の前兆が出ていた。
さらに、この先は馬車軌道時代のサイズのままかもしれない。
そう思えるくらい狭かった。
大きさの比較対象物がなくて写真では上手く伝わらないだろうが、一般的な林鉄の隧道くらいのサイズ感だ。
自動車が通行するにはかなり窮屈で、バスや運材トラックも通ったはずだが、歩行者とすれ違うのも難しい狭さだろう。
戦慄すべき狭洞、第2ステージへ!
見よ! 路面に刻まれた轍の位置を!
轍がほぼ壁と接している状況が、四輪自動車にとってこの隧道がいかに窮屈だったかを物語る。
狭さを大袈裟に言うつもりはない。この轍の最も外側は、きっと大型車のものだろう。
大型車も通っている。世の中にはもっと狭い、車なら軽自動車しか通れないような隧道もある。
しかし、この隧道はおそらくそのどれよりも、日常的に、頻繁に使われていたという点に、偉大さがある。
これより奥の早川流域には、昭和31年に5村合併で早川町が出来る前、三里村と西山村の全領域があった。
住民は計約3500人。彼らが車を使って出入りするのは、この隧道が唯一の道だった。
とんでもなく重かった、この隧道が背負っていた使命……!
14:20
再び、来た道を振り返って撮影した。途中で断面が変化しているのがよく見える。
ここまで坑口から約50mを前進しており、狭隘化地点からは30mほど進んでいる。
推定される全長は最低でも100m以上だが、今のところ進行方向に光は全く見えず、不安が募る。
また、洞内は全体的に緩やかな上り坂になっている。封鎖済みの旧隧道は、もっと強烈な勾配だったと思うが、
こちらはだいぶ緩やかな勾配になっている。これも、馬車軌道時代を物語る形質といえるかもしれない。
壁の至る所から水が染み出しているのか、よく濡れている。洞床も轍部分は水浸しで、流水がある。
うっ!
落盤→水没
隧道内に痛恨の堰止め湖だとぉ〜。 くそー。
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