まずは、新旧地形図の比較から。
このレポートの前編で紹介した、2011年の2代目白石隧道(旧白石隧道)探索では、昭和27(1952)年の旧地形図に描かれていた隧道を探索対象と信じたが、実はそこに大きな誤解があって、旧地形図に描かれていたのは、初代白石隧道(旧旧白石隧道)だった。
読者の情報により、この誤りにようやく気付いて再訪した今回、首尾よく初代隧道の南口を発見し、内部を探索するも、閉塞のために貫通出来なかった。そのうえ、地表からの探索で北口を見つけることが出来なかった。今回の机上調査の重要な目標が、北口の解明だった。
なお、初代隧道の存在を知ってから新旧地形図を見較べると、2011年の私の見立ては雑だったと思うだろうが、旧地形図の山間部の表現はあまり正確ではないと思っており、そもそも新旧地形図の重ね合わせは、必ず作業由来の誤差が入ってしまうから、あまり位置に拘りすぎると逆に失敗するパターンもあって難しい。(←言い訳だが)
というわけで、新旧地形図の比較では、初代隧道北口は2代目隧道北口の100mほど北にあったように見えるものの、このことは参考に留めて、次へ進む。
早川町のことなら、『早川町誌』(昭和55年発行)を読むのがセオリーだろうが、同書は今までの早川シリーズの調査でも目を通しており、白石隧道に関する直接的な記述が一切ないことは分かっていた。
『目で見るはやかわの風景と歴史』より
同書に書かれているのは全体史であり、初代白石隧道を含む早川橋〜新倉間の約20kmが、大正13(1924)年に東京電灯工事用馬車軌道として、初めて車道が開削されたこと。馬車軌道は昭和3(1928)年に早川沿岸軌道組合所有となるが、昭和8(1933)年に山梨県林務部へ移管され早川林道となり、間もなく軌道が撤去され自動車道になったこと。昭和33(1958)年に早川林道は県道に昇格し、一般県道奈良田波高島停車場線となったこと。そしてこれが現在の主要地方道南アルプス公園線へと受け継がれていることなど、これまでのシリーズ作でも述べた通史が解説されているが、上記で太字にした各世代の道が通過した3世代にわたる白石隧道の記述はない。
右の写真は、『目で見るはやかわの風景と歴史』(平成8年発行)に掲載されていた、昭和初期に撮影された馬車軌道の風景だ。
これは馬場地内での撮影とのことで、おそらく雨畑川上流(旧硯島村)にあった牛奥沢軌道だと思うが、初代白石隧道を潜り抜けた最初の車両も、同様の姿であったと思う。
お馬さん、あの暗くてジメジメした隧道を、どんな気持ちで歩いていたんだろうねぇ…。
町誌に白石隧道の記述はないものの、路線バスに関する次の記述はとても興味深い。ここに書かれているバスは、昭和35年3月31日(=2代目隧道開通日)まで、間違いなく初代白石隧道を通過していたはずなので、現役時代のイメージを膨らませられる。
(登場する地名の把握にはこの【地図】をどうぞ)
『目で見るはやかわの風景と歴史』より
早川橋新倉間の道路改良工事は、関係各村の願望として逐次拡幅改良され、昭和15年5月5日早川橋から新倉(三里中学校前)間に、20人乗りバスが運行された。乗客の増加が著しく燃料と車両の不足が目立ったが、17年11月には身延駅から新倉間が直通運転になった。戦時中は木炭燃料を使用するなど苦斗の時代を経て、27年になってガソリン燃料に復元し、車両も30人乗りに改善された。昭和29年野呂川総合開発事業の開始と、新倉西山間の道路整備により、西山地区へ乗り入れが要望され(中略)31年11月19日奈良田まで延長され、身延奈良田間43.6km所要時間2時間42分の直通運行が実施されるようになった。
馬が通った隧道を、開通から20年も経たないうちに、今度はバスが通いはじめたことが分かる記事だ。最終的には、写真に写る30人乗りバスも通ったらしく、そりゃあ壁ギリギリになるわという印象だ。
だが、鳴り物入りで始まった野呂川総合開発事業地へのアクセスルートとしては、さすがに狭すぎるとなったのだろう。あるいは、老朽化が愈々深刻になったのかも知れないが、数年後にようやく2代目白石隧道が誕生している。
『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』より
町誌や写真集からめぼしい情報を得られなかった私は、マニアックな方面を攻める必要に迫られ、山梨県がまとめた事実上の山梨県林業史ともいえる『県有恩賜林周年史』シリーズに救いを求めた。
県林務部は早川林道の管理者であっただけに、初代白石隧道の改築についての記述を期待したのだが、これまためぼしい記述はなし。
ただし、同書記載の地図からは、他のどの資料でも分からなかった“大きな収穫”を得た。
右図は、昭和11年に発行されたシリーズ第1巻にあたる『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』に掲載されていた「山梨県恩賜林之位置図」の一部である。
これを見ると、早川に沿って「都川村」まで、鉄道らしき記号がある。凡例によると、これは「官民設鉄道」を示す記号とのことで、要するに県有以外の鉄道・軌道をまとめた記号である。
作図された当時、まだ県営早川林道ではなく、早川沿岸組合軌道(東京電灯工事用馬車軌道の後身)だったのだろうか。
いずれ、図中の赤○の地点に初代白石隧道があったはずだが、この軌道上の他の隧道と同様、表記はされていない。
このことの何が“大きな収穫”だと言われそうだが、収穫があったのは、この地図と比較する、次の地図だ。
『山梨県恩賜県有財産御下賜五十周年記念誌』より
これは昭和36年に発行されたシリーズ第3巻にあたる『山梨県恩賜県有財産御下賜五十周年記念誌』に掲載されていた「恩賜林位置図」だ。
前掲の地図とは同趣旨のもので比較が出来るが、こちらでは早川沿いの道は「府県道」を示す記号になっており、その随所に隧道が描かれている。
隧道は下流の早川橋側から順に、増野隧道、高長隧道、切川隧道、横坂隧道、保隧道と来て、次にあるのが「都川隧道」である。そして、南山隧道、新倉隧道と続いている。
この都川隧道が初代白石隧道の位置に描かれており……、つまり、初代隧道は「白石隧道」ではなく、「都川隧道」という名前だったことが分かった。
都川は、保に役場を置いていた村の名であり、隧道名として納得のいくものだと思う。
当時の資料を検索する場合、白石隧道ではなくこの名前でなければ成果は得がたいだろうし、これは重大な成果だった。
もっともこの名前で調べても、今のところ新たな成果には繋がっていないのだけれど…。
この辺りまで調べたところで、私は文献調査に手詰まりを予感していたのだけれど、初代白石隧道改め“都川隧道”の謎に関して一気に突破口が開く重大な資料が、意外にも簡単にアクセスできる場所に発見された。
それは、早川町のNPO法人日本上流文化圏研究所が、早川町応援団獲得マガジンと銘打って平成15(2003)年から発行している無料のPDF情報誌『やまだらけ』の2012年12月号(No.56)だ。
同号の特集は、「道に思いを馳せる」。
そして、表紙の画像は、これ(↓)
『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より
間違いなく、都川隧道の内部写真ッ!!
こんな熱っつい雑誌が、私の知らないうちに、発行されていたなんて……!
もちろん全巻一気読みしましたよ! (ウヒヒ 今回の内容の他に、成果がいろいろありました)
次に引用するのは、この表紙の文章の最後の部分だが……
そうした歴史の痕跡が、廃道となった橋やトンネルに僅かに残されていて、先人の苦労と生きた証がそこに刻まれている。
今回は、そんな「県道南アルプス公園線」に焦点を当て、道の変遷とともに早川の歴史をひもといてみる。
ただただ、あちい。
完全に“同業者”の仕業でしょこれ(笑)。
肝心の都川隧道に関する内容は、本誌をダウンロード(pdf)すれば確認できるが、私の現地探索で未解決だった北口については――
1. 私が見つけられなかった“北口”について
北側の入口は附近の土砂崩れでその場所を確認することすら困難だが、南側からは入ることが出来る。
『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より
(矢印は坑口位置とは関係ないデザイン上のもの)
北側坑口は土砂崩れで埋れている
らしいが、一緒に掲載されていた跡地の写真が、これである。(→)
この場所はどこかというと……
2011年の探索で、何気なく撮影していた(レポートでも登場していた)、旧道上のこの写真(←)の地点だったのだ。
私は『やまだらけ』の写真と逆方向から撮っており、坑口跡を探す役に立たないが、まったく隧道のことなんて意識もしていなかったからだ。恥ずかしながら私の観察眼は、ここにあった隧道をまるで見出さなかった。それも2回連続で。2020年の再訪でもここを目にしているが、何も感じず、写真さえ撮らなかった。
一方、『やまだらけ』の写真でも特に隧道跡と分かるようなものは見当たらないが、強いて言えば、この前後だけ玉石練積の土留め擁壁がなく、地山の法面が露出している。
そのことが、隧道がここにあったことの、唯一の痕跡だったらしい。 ……ハードモードだ……。
この北口の位置を地図上に表示すれば、ここ。(→)
意外に長い!というのが、地図をみた全員の感想だと思う。
地図上での測定だが、全長180mくらいある。
数字だけ見ても大した長さには感じないが、現在使われている3代目トンネルの129mや、2代目隧道の104mと較べれば、ひとまわり長い。
断トツ古いのに。
一般的には新しいトンネルほど長くなる傾向があるが、このような長さの逆転が起きた原因は、初代隧道だけが軌道由来だからだと思う。
自動車よりも勾配に弱い馬車軌道を通すために、この長さのトンネルが必要になったのだろう。2代目隧道の内部がかなりの急坂になっていたことを踏まえれば、この説は一層説得力を増す。
なお、全長180m程度だったとすると、私の洞内探索で、概ね全部を踏破していたことが分かる。
もしかしたら、私が見た閉塞壁が、埋没してしまった北側坑口の裏側なのかも知れない。
以上が、北口の位置に関する解決情報だった。
だが、『やまだらけ』の収穫は他にもあった。
現役時代の貴重な体験談が。
2. 初代隧道の体験談
小学2年生まではトロッコが軌道上を走り、小学3年で初めてトラックが通ったそうだ。しかし、このトラックとトンネル内ですれ違うと、泥を飛ばされて怖かったという。この時代、県道はほぼ全線が未舗装で、遠くにホコリが見えたら対向車が近づいているということで、すれ違いの場所などを考えながら、広い場所で退避していたという運転手もいた。
トンネル内で泥を跳ねられて怖いというより、トラックに撥ねられそうで怖かったのではないかと思ってしまうが、昔の屈強な子はそんな程度で怖さなんて感じなかったのだろうか。
3. 初代隧道開通以前の古道
初代のトンネルが掘られる前は、このトンネルの上に「つむじの尾根」といわれる峠道があり、白石から西之宮へはこの峠道が唯一のルートであった。
明治43(1910)年の地形図に描かれていた道が、この「つむじの尾根」の峠道だろう。
すばらしい文献『やまだらけ』に教えられた、白石隧道に関する新情報は以上だ。
そして最後は、先日また新たな読者さまから、白石集落で得た古老の証言を教えて頂いたので、これを紹介して終わりたい。
読者情報より、白石集落での最新古老証言
山梨在住の者です。
そこに旧旧隧道があることは知りませんでしたので、2月1日にレポを見る前に生で見たいと思い行ってきました。
最初地図で当りをつけた時、白石地区の九十九折の先かと思っていたので、現地に行って旧隧道のすぐ先に在った時にはビックリでした。
でもせっかくなのでその先の九十九折も見に行ったのですが、そこでお婆さん(90歳近い?)に会い、子供の頃、狭い区間で車が来て壁に貼りついて避けたのが怖かったとか、隧道がない時代はこの道を峠越えして移動してたなどの話が聞けました。
ところでその白石地区、家は10軒ほどあるようですが1年通して住んでいるのはそのお婆さん一人だそうです。
読者様、ありがとうございました。
「狭い区間で車が来て壁に貼りついて避けたのが怖かった」とは、まさに私が欲しかった古老証言を、ばっちり頂いて来て下さいました。
恐がっている子供も、ちゃんといたんですね!
かなり変則的な内容となった探索も、これにて一応は完結。
やっぱり早川町はどこに行っても侮りがたい。今夜は反省会だ。