1本の情報提供メールから始まった今回の探索は、教えていただいた内容の素直な追認から始まり、最後はそこから遊離して、道の正体を調べるための延長行程を歩いた。
今回の探索により、上図に赤線で示した位置に道が存在することが確かめられ、おおよそ1.5km程度を実踏した。
探索の終了時点までに、この道の正体は、称名川発電所の導水路を建設するための工事用道路か軌道の跡であると結論づけた。
同発電所は昭和8(1933)年の運転開始であるから、道の使用期間は同年代から少し遡ったあたりだろうと考えた。
この道は、今回探索区間の下流側にも続いていた形跡があったが、未踏破である。
導水路の距離から考えて、下流側の未踏破区間の長さは、今回探索した区間の数倍に及ぶと思う。
ここでは、この現地踏査を受けて帰宅後に行った机上調査の成果をお報せする。

水源地ネット:
「ダム管理所長に聞く」第47回常願寺水力センター より
※左上の赤枠部分が称名川
まずは自身の推理に則って、称名川発電所の建設にまつわる記録を調べてみた。
称名川は常願寺川水系に属する河川だが、この水系の名は地理の授業で聞いたことがある人も多いだろう。
常願寺川は日本一の急流河川と言われており、明治初期に我が国の治水の方針を決めるために調査したオランダ人技師のデ・レイケが、「これは川ではない、滝である」と言ったなどとも伝説的に伝えられる。
そんな急流河川が人間社会に組み込まれていく過程では、一に砂防、二に水力発電の舞台となったのは必然だった。
砂防工事との関わりについては、本探索中でも雑穀谷で実態を見たので、迫真の実感があるところだ。
常願寺川水系には、実に多くの水力発電所が存在する。水源地ネットに掲載されている北陸電力常願寺水力センター所長のインタビュー記事によれば、同社が水系内に保有している水力発電所は28箇所もあるという。このうち称名川には、称名川発電所と同第二発電所がある。
同記事は、これら多数の発電所がどのような需要に基づいて整備されたかということを、4つのタームに分けて解説しており、称名川発電所については、第1タームにあたる「電源開発の黎明期(大正〜昭和初期)」に属する古参の発電所として分類している。
常願寺川の発電所は、支川和田川において、大正12年に越中電力により亀谷発電所、翌年には県営事業として支川和田川および本川に中地山発電所、松ノ木発電所、上滝発電所が建設されました。昭和に入ると、同じく県営事業として本川に真川発電所(昭和5年)、小見発電所(昭和7年)、支川称名川に称名川発電所(昭和8年)が建設されました。
このように、称名川発電所は当初、他の多くの発電所とともに富山県の経営によるものであったことが述べられている。
完成当時の記事を文献から拾ってみると、例えば昭和8(1933)年11月の雑誌『土木工学 2(11)』に、次の記事が掲載されていた。
富山県営称名川第二発電所竣功
かねて工事中であった富山県電気局の称名川第二発電所はこの程竣功し、9月30日仮使用許可を受けた。本発電所は常願寺川水系称名川外4支川を利用する水路式発電所で(中略)工事請負者は佐藤助九郎及び増田伊三郎(中略)工事費総額は約56万円であった。水路工作物としては特記する程のものなく、水路延長3050間でその大部分は隧道である。

『土木建築工事画報 9(1)(95)』(昭和8年)表紙
これが、現在は北電が運用する称名川発電所の完成当時の記事であり、ややこしいが、当時は「称名川第二発電所」と呼ばれていた。(「第一」は存在した記録がない)
今回の探索では雑穀谷に建造された取水堰の跡も見ているが、もちろんあれもこの発電所の一部だ。
山中幽谷に佇むあの瀟洒な取水堰も、その前後を人知れず貫いている長大な水路トンネルも、記事では「特記する程のものなく」とバッサリされているくらい、当時の我が国は長大な導水路を有する水路式発電所の新設ラッシュであったワケだが、この導水路工事の資材運搬こそが今回探索した廃道の使用目的だと踏んでいる以上、この工事についてより詳細な記事を同年代から探してみたところ……
あったよ! 凄い記事が…!
工事画報社という会社が大正14年から昭和15年頃まで発行していた建築ジャンル専門の月刊グラフィック誌『土木建築工事画報』の昭和8年1月発行号に、「富山県営小見発電所工事に就て」と題された長編記事が見つかった。
小見発電所は、称名川発電所の前年である昭和7年に完成した同じ常願寺川水系に属する県営の水路式発電所で、同時に建設が進められていた称名川第二発電所(現在の「称名川発電所」)についても、この記事の脇役として幾つかの言及があったのである。
それだけでなく、極めて核心的な図面も、掲載されていた……!
図面を見せたい気持ちを抑えて、まずは本文中の言及内容を紹介。
富山県が県営の発電を計画したのは大正9年であって、それ以来第一期として上瀧、松木、中地山の3発電所合計14000kWを竣成し、続いて第二期として真川、小見、称名川第二の3発電所を計画した。(中略)称名川第二発電所は目下鋭意工事中で昭和8年10月1日から送電開始する予定である。
本文中の言及は、これだけ。
しかし、一緒に掲載されていた図面が……ヤバかった!!!(↓)

『土木建築工事画報 9(1)(95)』(昭和8年)より
これが、問題の図面の全体。
当時既設ないし建設中であった各発電所の関連施設の位置を記録した地図で、当時の地形図とは比べものにならない詳細さである。
当記事の本題である小見発電所だけでなく、称名川第二発電所に関係する施設も網羅されているのがポイント。
次に称名川第二発電所の周辺(ピンク枠の範囲)を拡大した図を見て貰う。(↓)

『土木建築工事画報 9(1)(95)』(昭和8年)より
ずばり、「称名川第三軌道」が、今回探索した廃道の正体であり、正式名だ!
図面によると、称名川第二発電所の工事用に敷設された軌道は、第一から第三まで存在し、それぞれ下部軌道、捲揚軌道(=インクライン)、上部軌道の役割を持っていた。これらが一体となって、称名川と常願寺川の合流地点から、称名川上流の取水口(“現在の”第二発電所の位置。今回の探索の最終到達地点)を結ぶ工事用軌道を構成していたのである。
称名川工事用軌道の詳しい諸元、例えば全長などの数字は記事のどこにも書かれていない。
だが、現在の地図に当てはめて計算すると、第一軌道が約1.5km、第二軌道(インクライン)が約0.5km落差330m、そして圧倒的に長い第三軌道が約9.5kmであり、合計延長は11.5km内外にも及ぶ。いずれもこの発電所の建設のために建設された生粋の工事用軌道だったとみられるが、探索済みは約1.5kmに過ぎず、全体の8割以上が未知だ。
もっとも、このような由来と規模を持つ工事用軌道自体は、実際珍しいものではない。
この年代の水路式発電所には、ほぼほぼ付き物といえた。
本当に珍しいのは、工事用軌道でありながら多数の隧道が存在したことだろう。
これについては経験上からも真に珍しいと思っている。千頭林鉄が初めは発電所の建設用軌道であったように、工事後に別用途へ転用するつもりがあった路線は別として、純粋な工事用軌道の隧道となると、全国屈指の規模を有した中津川発電所工事用電気軌道くらいしか思い当たるものがない。
上図は、最新の地理院地図に称名川工事用軌道の位置を反映させたものだ。
第二軌道(インクライン)と第三軌道(上部軌道)の跡は現在の地図から完全に消滅しており、歴代の地形図にも一度も描かれていない。
だが、第一軌道(下部軌道)は道路やいろいろな施設が今もある常願寺川や称名川沿いの低地に存在したので、この軌道自体が地形図に描かれたことはなくても、軌道跡は身近なところに存在していた。
中でも驚いたのが、これの存在だ。(↓)
この橋、見覚えがある人もいると思う。本編に登場したものではないが……。
これは現在の富山地方鉄道立山本線の立山駅のすぐ近くの常願寺川に架かる、千寿橋だ。
見ての通り豪壮なブレーストリブタイドアーチ形式の歴史的鋼橋で、下路部分を小見発電所の鉄管路が、そして中路部分を発電所専用道路が通じている。
この橋は小見発電所の水路橋として昭和7(1932)年に建造されたものとして周知され、私もそう認識していた。
現在の地形図にも、歴代の地形図にも、ずっと描かれてきたこの橋が、実は称名川工事用軌道に由来する最大の遺物であった。
正確には、水路橋としては小見発電所に建設の動機があったが、通路橋としては称名川第二発電所の工事用軌道に由来していたのである。
そして、工事用軌道が廃止されてからも、役割を移しながら、ずっと活躍を続けてきたのだ。
これは称名川工事軌道に由来する現状唯一の現役構造物だと思う。

『土木建築工事画報 8(8)(90)』(昭和7年)より
『土木建築工事画報 8(8)(90)』(昭和7年8月)に掲載されていた、完成当時の千寿橋の姿である。
当時は千寿橋とは呼ばれておらず、「常願寺水路橋」と注記されている。
撮影地点は常願寺川の左岸で、上に掲載した現在の写真と同ポジだ。
橋の上に見えているレールが、在りし日の称名川第一軌道ということになる。
さらに、右奥の雪渓混じりの山肌の一画(矢印の位置)に、雪渓とは異なる質感の“斜路”が見える。
そこに称名川第二発電所(現在の称名川発電所)がある。
これは凄い写真だ!! 興奮した!!!
廃の遺物しか残っていないと思っていた軌道跡に、こんな巨大な現存構造物があっただなんて!!思わぬ伏兵だ。
ところで、称名川工事用軌道の各種諸元については記録が見当たらないと述べたが、小見発電所の工事に用いられた工事用軌道については、前掲した『工事画報』の主題として豊富な記録がある。
同じ年代に同じ事業者が行った工事であるから、おそらく工事用軌道の諸元には共通点が多かったと思う。参考として掲載しよう。
(1)
工事用材料運搬のため、真川発電所工事用として、県営鉄道終点千垣駅から、真川発電所まで、延長4.7マイル分は、軌間2フィート6インチ、25ポンド軌条単線を敷設されてあったのを利用して、更にこれより小見発電所まで300mの分岐線を敷設し、7トンガソリン機関車3台を運転して工事材料、機械類一切を運搬した。
(2)
小見発電所から、水槽に至る間に、捲上軌道延長515m、軌間2フィート6インチ、25ポンド軌条複線を敷設し、捲上機は50馬力、4トン単胴2台を据付け、単独運転して、工事材料運搬及鉄管据付けをなした。
(3)
小見水路水槽附近から、第8号横坑に至る520mは、山腹に沿うて、水平に12ポンド軌条を軌間2フィート単線敷設して、人力によって工事材料の運搬をなした。
(1)〜(3)がそれぞれ、下部軌道、インクライン、上部軌道に相当しており、長さは違うが称名川工事用軌道にもそれぞれ存在していたので、運行方式や軌間などの要素が共通していた可能性が高いと思っている。
すなわち、下部軌道は軌間762mm(いわゆる林鉄と同じナローゲージ)の25ポンド軌条(おおよそ12kg/mレール)をガソリン機関車が運行した。
インクラインは軌間762mmの複線であった。
上部軌道は軌間が609mmで、使われたレールは6kg/mレール相当の手押し軌道であった。
軌間609mmは少し珍しいが、同じエリアにある立山砂防軌道と同じ軌間(610mm)であるから、この地方においては孤立無援の軌間ではない。時系列的には昭和元年に建設着手された砂防軌道が少し先んじている。
相当に高い確率で、今回探索した称名川第三軌道は軌間609mmの手押し軌道だったと思う。
あの、狭く、怪しげな隧道たちが、地の底で活躍していた風景が、やっと具体的にイメージ出来て……、私は大満足だ!
以上見てきたように、称名川工事用軌道は富山県電気局による真川、小見、称名川の3発電所工事(昭和5〜8年)の過程で建造・活用された。
そして、称名川発電所の完成と同時に、使命を終えたと考えられる。
したがって、称名川工事用軌道のその後については、情報らしい情報がない。
その後の情報がないことも、地形図に描かれることがなかったことも、この軌道が二度と利用されなかったことの傍証といえるだろう。
そして、完成から10年ほど経って太平洋戦争が始まると、常願寺川水系にあったほぼ全ての水力発電所が、全国の電力事業者を統合した巨大な国策企業である日本発送電に掌握される。
同社は急迫する戦時の電力需要を賄うべく、新たな発電所の増設も盛んに計画した。
称名川においても、従来の称名川発電所の上流に、第二、第三発電所の建設を計画し、いずれも昭和19(1944)年2月に着工している。(『日本発送電社史』)
このときの称名川第二・第三発電所の工事においても、雑穀谷のどこかで新たな工事用軌道を開削した記録がある(『飛島建設株式会社社史 上巻飛島組時代』)が、今回探索したものとも異なる未知の路線と考えている。
また、この工事は戦局の悪化に伴って、未成のまま昭和20年4月30日に中止された。
称名川第二発電所は、戦後復興期に工事が再開される。新たな担い手は、解体された日本発送電を継承して昭和26(1951)年に設立された北陸電力である。
同社は戦中の未成施設を引き継ぎ、一部の設計を変更したうえで、昭和35(1960)年に称名川第二発電所を完成させた。
今回の探索中、雑穀谷に設置された取水堰跡(→)を見ているが、この施設が役割を終えたのは、第二発電所の稼働が原因だろう。
もともとこの取水堰は県営の称名川発電所への取水を目的としたものであったが、北電の新たな第二発電所は、同じ雑穀谷のさらに上流に取水口を新設している。
第二発電所の完成によって、そのタービンを回した排水がそのまま称名川発電所の導水路へ流れ込むようになったから、雑穀谷の上下から二重に水を取るのは非効率となる。
称名川での水力発電は戦前に富山県の手を離れ、より広域的で巨大な電力資本の手に渡ったが、県民の生活を守る砂防工事という重要な仕事は、県の砂防課に引き続き委ねられた。
雑穀谷での砂防工事については既にここで述べているので再録しないが、砂防工事のなかで今回探索した戦前の工事用軌道跡が何かの役割を果たした可能性はゼロではない。なにせそこは雑穀谷の急峻かつ荒廃した地形の中にある貴重な平場であり、作業員の往来や作業スペースとして活用しうる余地がある。
だが、やはり情報らしいものはない。
雑穀谷の名前が世の文献に登場するものとして、これまで述べた水力発電と砂防の外に、レジャーの分野がある。
レジャー……すなわち、沢登りや山歩き、ロッククライミングなどのフィールドとして、雑穀谷の名前が知られている。
そしてこれも古い。
例えば、日本山岳会が発行した雑誌『山岳』の大正8(1919)年4月発行号には、「去年あたりから、地獄谷の硫黄を運搬したり、沿道から出る鉱石を採掘するため、立山鉱業会社というのが事業を始めて、今年は立派な道路が雑穀谷の先まで付けられ、今まで登山者のあまり行かなかった、この方面も非常に便利になった」とあり、現在の称名道路のもとになった車道が、大正中期には雑穀谷出合の先まで建設され、称名滝の観光や立山登山が身近になっていたことが分かる。
さらに、昭和7(1932)年9月に朋文社が発行した山岳雑誌『山小屋 第10号』に掲載された、同年7月17日の山行記「立山・針ノ木越え」は、現時点で唯一確認されている、称名川工事用軌道を歩いた可能性が高い記録である。
非常に貴重な内容だと思うので、紹介する。
これから紹介する「立山・針ノ木越え」では、上図のピンクの線のようなルートが辿られているようである。
途中、今回ちょうど私が実踏した雑穀谷辺りの工事用軌道を歩いている(太字の部分)と思うので、注意して読んでみて欲しい。
千垣より藤橋までは富山県電気局の工事用ガソリンカーに便乗させて貰ったので大変助かりました。同軌道は(中略)常願寺川と称名川の合流点よりやや上流を【立派な鉄橋】
によって常願寺川を右へ渡り、怪しげな軌道だけの橋でさらに称名川を渡って藤橋の部落へ出るものです。藤橋も発電所工事のため多勢の人夫達が這入って仕事をしています。
藤橋から称名川入りの道を這入って暫く行くと七姫平へ出た。(中略)
人津谷を過ぎると道の中央に材木が組んでその側に赤旗が立ててありました。注意書に曰く「工事中危険につき左の坂を登られ度し」。仕方なしに左の細道へ這入ると幽かな踏跡がありました。それを約百米ばかり登ると発電所へ導く水道の切り崩しが出来ている処へ出ました。道は略水平を保って雑穀谷を過ぎ、称名川の水の取入口に出ました。同所では今工事中で盛んにハッパをかけていました。そこの河原で昼食をしていると雨がパラパラ落ちてきたので急いで詰め込み、ハッパの炸裂するのを見物してから称名滝へ向かいました。
人津谷から雑穀谷の途中のどこかで、称名川沿いの道路が工事のため通行止になっていて、その迂回路として案内されていた山道を登ると、100mほどで「発電所へ導く水道の切り崩しが出来ている処」へ出て、その「道は略水平を保って雑穀谷を過ぎ、称名川の水の取入口に出ました」とある。
昭和7年7月当時、称名川発電所の導水路工事が進められていたのは確かで、一行が歩いたのは工事用軌道の路盤だと思う。
レールが敷かれているとの記述がないから、敷設前ないしは撤去後だった可能性があるが、偶然にも、今回私が実踏した区間の100年近く昔の歩行記録ということになろう。
ほかに、後年の雑穀谷を遡行した内容の山行記はいろいろと見つかるが、特に軌道跡や隧道への言及は見当たらない。
そして、昭和後半の年代になって現れるのが、ロッククライミングのゲレンデとしての雑穀谷である。
今回私が情報提供によって軌道跡の存在を知り得たのも、ロックゲレンデ利用者からの情報提供による。
昭和62(1987)年発行の『北陸の名山 白山と日帰りの180山 改訂版』は、雑穀谷を「富山労山の人達が開拓した花崗岩の素晴らしいゲレンデ」と評ししている。そしてこの開拓者として名指しされた富山県勤労者山岳連盟が発行した『20周年記念誌』には、実際にどのように開拓されていったかが事細かに記されていた。
しかしどちらの資料も、ゲレンデを利用すれば自然と目に付きそうな隧道群についての言及は特になかった。
それでも、この場所で盛んにクライミングが行われたことが、巡り巡って、私とこの軌道跡を巡り合わせてくれたのは、間違いない。
この長大な工事用軌道には、まだまだ未踏破の区間が沢山ある。
今後そこ探索するかは未定だが、今回の机上調査では周辺に他にも気になる探索対象を認知したので、今後の続報に期待してほしい。
……このエリア、正直手に負えないものも多いんだけど、死なない程度にがんばるよ……。
