廃線レポート 木戸川森林鉄道 (乙次郎〜木戸川第1発電所) 最終回

公開日 2023.01.06
探索日 2006.12.09
所在地 福島県楢葉町〜いわき市

 連続木製桟橋の最期の姿



2006/12/17 15:35

日没45分前 & ゴール手前300m & 土砂降りの雨のなか

最ッ高の場面に遭遇した!

一望のもとに二つの木橋が見えるという、林鉄ファン垂涎の風景だ!

それぞれの橋は、完全な形ではないものの、経過時間を考えれば十分恵まれていると思える状態で残っていて、あまり妄想力や想像力を働かせなくても現役当時のせんろ風景を十分想像できるのは、興奮を禁じ得ない! 特に、遠くて細部が確認できない奥の「橋27」は、ここまで現われた全ての橋の中で最も保存状況に期待が持てる気がする。

そして、連続する桟橋の魅力は言うまでもないが、この二つの桟橋に挟まれた短い地上区間の造形にも、特筆すべきものがあろう。
この橋台と橋台を結ぶ長さ20mほどの地上区間は、その全てが、前後の橋の高さと匹敵するほど高い石垣によって築造されている。
もともと地面がなかった位置に、橋と橋を中継すべく造成されたであろうこの高い人工地盤も、人工が天工を克服せんとする風景の中で大きな魅力を発揮している。

それでは突破しながら味わっていこう。まずは「橋26」だ。
突破そのものは、ここまでの並み居る難所の数々と比較すれば、難しくはなさそうである。




「橋26」は、3径間の連続木橋で、各橋脚は低いコンクリート台の上に立っている。
台が低いので、純粋な木造橋梁に非常に近い外見を見せている。

各径間にこれまでの橋と同じく3本の主桁が当初は架かっていたはずだが、現存する数は手前から順に「1−0−0」とまあほとんど落橋状態の橋ではある。でも橋脚が傾きもなくしっかり立っているおかげで、見応えがする。
以前の回で木造橋脚(橋杭)の【模式図】を掲載したが、(橋杭の本数以外は)本当にそっくりだ。




早くも、橋と橋の間の短い土工部分……勝手に私が“人工島”と呼んだ部分が間近に迫っている。そして同時に、奥の「橋27」の期待を裏切らない状態の良さ……ひと目見て、「架かってる橋!」と認識できる状態……も見て取れたが、まずは順序よく手前の“人工島”から調査したい。先へ進むだけなら立ち寄る必要のない部分だろうが、もちろんそんな勿体ないことはしない。

で、この“人工島”部分だが、近づいてみて気付いたのは、壊れているということだ。
亀裂というには少々大きい、石垣が崩れて無くなっている部分があり、そこから本来なら人の入れる空間など無かったはずの“内部”に踏み込めるようになっていた。
もちろん入るが――



15:38

これはひどい!

“人工島”の内部を充填していた裏込めの土砂は、石垣の壊れた部分から大量に流失し、代わりに大きな空間を作っていた。
しかしこの空間の存在から、本来ここに地盤はなく、石垣で囲った中を土砂で満たして作り出した人工地盤だったことがはっきりした。
単純にここを前後のような桟橋としなかった事情は不明だが、味のある構造物だ。

おかげで本来なら人目に付くはずではなかった、「橋27」の橋台の裏面がさらけ出されており、木橋とそこを通る車両を支えるにしてはいささか貧弱な厚みでしかないことを露見させていた。
実際、橋の重みと自重を支えられなくなっているようで、橋台部分全体の沈下が始まっている。
いずれ倒壊すれば、せっかく枕木を残した状態で架かっている「橋27」の落下は避けられないだろう。


(←)
“人工島”の破損部分は前述した箇所だけで、「橋26」に近い側は完全な形を保っていて、人工地盤でありながら立派な樹木まで生え育っている。
写真はその「橋26」側の橋台から撮影した、下流方向の風景だ。

いま越えてきた橋の向こうには、ぽっかりと口を開ける隧道が見えている。
隧道がある岩山は取り付く島のない険しさを見せており、我々に試練を与えた“最後の難関”の出口に相応しい姿だった。
ここを走る列車の姿は、さぞ絵になったことだろう。
レールがあった現役時代を見てみたかったものだ。




(→)
ちょっとしたイタズラ心が働いて、普通なら見えるはずのないアングルから「橋27」を撮影してみた。
前掲した写真に写る橋台前面の亀裂を通し、橋台内側より橋を見上げたアングルだ。

続いて橋台へ上り、残存状況に期待が持てる「橋27」の全景を確認しようとした。



案の定素晴らしい!!

特に目の前の第1径間は、主桁が3本とも揃っているだけでなく、地上の路盤では全く見つけられなかった枕木(橋梁枕木)がほぼそのまま残っており、レールさえ敷けば現役さながら……は少し言い過ぎにしても、とても良い状態だ。

これまで27本の橋を見てきたが、実際に渡ることができたのは、「橋9」「12」「21」の3本だけで、このうち「12」は極めて小規模だった。
また、渡りはしていないが比較的状態が良かった「橋4」なども含め、これまで見た状態の良い橋は、どれもコンクリート橋脚が直接橋桁を支えているものだった。

だが、この「橋27」は、コンクリート台の上にある木造橋脚が橋桁を支えており、いわゆる純木橋に近い。
この橋脚形態としては、初めて渡れそうな状態の橋だった。



が、渡ることはできない。

この位置からそれを撮影しなかったが、肉眼で見えたこの橋の一番遠くにある径間“第4径間”には、残念ながら1本の主桁も架かっていなかったのだ。
この4径間連続木橋の主桁の現存数は「3−1―2―0」というもので、こうして数字にしてしまえば、半数の主桁が喪失している“半壊”の状況だった。そのうえ、1径間は完全喪失のため、渡橋は不可能だった。

……まあ、完渡は最初から諦めて、途中の径間までを渡ることはできただろう(特に第1径間のみ)が、それもしなかった。
木造橋脚で支えられているこの橋が私の体重を支えられる確信が持てなかったのもあるが、半壊した橋をこれ以上痛めつけるのはさすがに忍びなかった。

上や右の写真でも分かると思うが、いま私が立っている橋台が沈下をはじめている影響で、第1径間は10度近く傾斜している。
部材はほぼ全て揃っていても、バランスという意味で、この橋にはもう少しの余力もない気がしたのだ。

なお、右図に重ねて表示した図は橋台の各部名称だが、現状は橋台が倒壊し桁受だけが残っている。
桁受と主桁の間にあるべき枕梁も喪失していた。
こうしたことから橋は大きく傾斜している。



(←)
そんなわけだから、期待をしていた4度目の渡橋とはならなかったが、木造橋脚の林鉄木橋とふれあえる、人生であと何度あるかも分からない貴重な機会であるから、下を回り込みながらこれまで以上にじっくり眺めた。

ここだけを見れば現役の橋のような第1径間と、チェンジ後の画像は、橋台の石垣を前景に背景の岩山に隧道を見る至福のアングルだ。

ただし、雨の酷さがほんとに非道いことになっている。写真をよく見ると落ちる水の射線がたくさん見えると思う。レンズを拭っても拭ってもキリがないを通り越し、もう拭うべき乾き物がどこにもなかった。
まあ、カメラ自体はこういう状況を想定していた屈強な“現場監督DG-5W”だから、壊れる心配が無いのは良かったが…。

(→)
第2径間以降は一気に桁の状況が悪化するが、それでも全ての木造橋脚があるべき位置に立って1本以上の桁を支えていたので、十分に素晴らしいといえる状態だった。



ここで一つまた、先へ進むためには必要のない寄り道をはじめた。

第3径間に隣接する岩場の途中に、ちょっと登れそうなテラスがあった。
そこに立てば、この橋を今まで見たことがないアングルから鑑賞できると思った。
また、上手くいけば、そこからさらに岩場をトラバースして橋の先へ出られるのではないかという期待もあった。

岩場を登る前にもう一つ、興味深いポイントを見つけた。
いままでなんとなく目にしながら、注目しなかったポイントが、ちょうど目の前にある。
そしてそこには、これまでの私の考えを覆す、意外な“常識”が潜んでいた。

それはなにかというと――




コンクリート橋脚台と木造橋脚の接合部分の構造だ。

橋脚と同じ太さまで育って我が物顔をする木の幹は無視して、かつて人が配置した各部材の位置関係を見て欲しいのだが、コンクリートの橋脚台に木造橋脚の先端が突き刺さっていると思うじゃない? ふつう。
でも実際はそうなっていなかった。

実際は、コンクリートの橋脚台の上に、横向きに太めの角材が置かれていて、その角材の上にただ置いてあるようなラフさで、木造橋脚が立っているのだ。挿してあったりはしない。
これは、事実上ヒンジ構造になっているといえる。橋脚が前後に傾斜したとしても、根元で折れてしまうことがない構造だ。
ただ、曲げても折れないとはいえ、倒れることを防ぐ力が全くないし、引っ張りに対して少しも抵抗しないだろう。

これは私がこれまで考えていた構造とは異なっていて、しかも非常に脆弱に見えた。
私がこれまで考えていた構造は、コンクリート橋脚台の上面に深い孔が掘ってあって、そこに木造橋脚を埋め込んでいるというもので、実際そのような木橋や橋脚を見た記憶があるから、それが常識だと思っていた。
しかし、本橋のような構造であるならば、道理で【橋25】のように、木造橋脚部分がドミノみたいに倒れてしまった橋が多かったわけである。
おそらく、木戸川林鉄にあるこの種の橋脚は、全てこの橋と同じ造りになっている。

これだけなら「なぜ?!」で終わってしまう話だが、帰宅後に読んだ林鉄の設計書ともいうべき『林業土木学』(昭和26年/産業図書株式会社刊)には、むしろこの木戸川林鉄の橋脚の作りが林鉄としての“常識”だったことが示唆されていた。

橋杭の水面との接触部は腐朽したり破損したりし易いので下部を石積またはコンクリートの橋脚としてその上に木造の橋脚を立てることもある。この場合は枕土台を埋込ボルトで止め、その上に橋杭を立てる。

『林業土木学』より

……と、こう書いているのだ。
枕土台はコンクリート台に埋込ボルトで固定されているが、その上に橋杭は“立てる”だけで、それ以上の固定をしないのである。

これ以上の解説がないので、この構造を選ぶ理由は私の想像に過ぎないが、この構造の明確なメリットは橋全体が曲げモーメントに強くなることである。
そもそも気温や湿度や劣化や動荷重の影響によって伸縮が大きく働き、かつそれ自身の重さがさほどではない木造桁橋においては、ガッチリ各部を固定せずに柔軟性を残した方が、橋全体で荷重を分散して耐える橋になるということなのかもしれない。
また、木橋の耐用年数は10〜15年程度に過ぎず、そもそも頻繁に解体して架け替える前提であるというのも、剛直な構造を避ける理由であるのかも。

皆様は、こんな橋脚の造りが一つの常識だったことを知っていました? 地味に今回一番感心したのは、この発見だったかもしれない。




15:45

クリア目前の高揚感から、ちょっとばかり調子に乗りすぎたか。

土砂降りの雨のなかでやることじゃなかった気がする、この岩登り。

足元滑ってめっちゃ怖いし、雨が強すぎて、冷や汗も垂れんよ。


常識的に考えて、なにしてんだこれ。くじさんはもう先行ってしまったし。

(やっぱりこうして見ると普通に橋脚が傾いているな…)



でもまあ無茶をした甲斐はあって、

こんな橋の姿が撮れました!

主桁を半分失いながらも架かり続けている第2第3径間、その空中での最期の姿だ。



もうこれ以上は登れないというギリギリまで登ってしまった。
橋を見下ろす高さである。
左端の第4径間が失われてしまっているのが見える。

既に述べたとおり、橋脚はヒンジのように容易く折れ曲がる構造になっているので、橋の両側がしっかりと橋台で固定されていることが、安定性確保の絶対条件であるはず。
このように橋の片側が橋台に支えられていない状況で、その方向に傾きはじめたら、簡単に崩れてしまうことだろう。

現状は、第1径間を支えている橋台が沈下し、橋全体がそちら側へ少しだけ傾斜しているおかげで、第4径間側に倒れることを防いでいる状態といえる。
これは破壊がもたらした偶然の状況だが、倒壊したくない橋の最期の足掻きのようだった。

(→)
なお、私が内心「できたらいいな」と思っていた、よじ登り果てた地点から横移動しての、第4径間側橋台への到達は、右写真のような岩場に遮られて、あとほんの数メートルだったが無理だった。
寄り道での時間をさらに費やしてしまった。すまんくじさん。一旦下りて進みます。



少し離れて下から見上げると、部材の華奢さが割り箸細工を連想させた。
土砂降りの雨に打たれ続ける姿は、工芸品には相応しくない鬼気迫るものと見えた。

この橋を脇目にしながら、くじさんが待つおそらく最後の橋台へと笹藪を握りしめてよじ登った。




16:00 《現在地》

「橋26」「橋27」の連続桟橋を突破!
ここはただ越えるだけなら10分かからなかっただろうが、“人工島”とか寄り道をしすぎて25分も費やしてしまった。
でも後悔はない!




この写真は、ここまで紹介してきた平成18(2006)年12月9日の撮影ではない。
これは、12年あまり経った後の令和元(2019)年1月22日の撮影だ。

この間の平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災で楢葉町は震度6強を記録し、同時に発生した原子力災害のために、木戸ダム付近から下流側が警戒区域となり、平成27(2015)年9月まで立入りが出来なくなっていた。現在地については立入規制は無かったと思われるが、しばらく浜通り地方に不要不急の探索をしに行くような状況でも気分でもなかったのは皆様も一緒だろうと思う。

そんなわけで、12年あまりぶりに、「あのときの木橋はどうなってるのか?」と思い立って見に来た結果が、この写真。

……まあ予想していたことだけれど、「橋27」は完全に落橋していた。
案の定、木造橋脚が根元から倒れてしまっていて、立てればまだ使えそうにも見える姿が哀れだった。

(→)
これは望遠で覗いた“人工島”と「橋26」、そして最も奥に隧道も見えている。

「橋26」も桁は全て落ちていたが、橋脚1基は立った姿で残っていた。
支える桁がなかったことが功を奏したのだろうが、震度6クラスに耐えたのか…。

なお、この日の探索のメインの目的は、木戸川第一発電所よりも上流の軌道跡探索であったので、これより下流は見にいっていない。
だから、本編で紹介している多数の橋の現状は不明である。
まあ、残っているものがあるとは正直思っていないが……。
仮に地震が襲ってこなくても、十数年という放置時間は、劣化した木橋には長すぎる。これは日本中の林鉄木橋に言える終末の砂時計である。



さあ、まもなく懐かしき“ワルクード”との再会だぞ!




 電撃的雨天探索の終焉



2006/12/17 15:35 《現在地》

(→)
ご褒美のような木橋連続地帯を突破した時点で、日没まで残り20分しかなく、しかも土砂降りで、辺りは薄暗くなり始めていたが、同時にゴールである木戸川第一発電所の施設群が、少し上流の対岸に現われた。

明るい時間にここを見るのは初めてだったが、我々の願いが通じたか、現在地から川を渡って辿り着く術はありそう。渡れないような川でなくて本当に良かった。

(←)
まもなく離れようとしている軌道跡だが、藪もなく鮮明に残っていた。
高い石垣に護られたカーブの先には、ナイフエッジの切り通しがある。久々に大きな切り通しだった。




高い石垣に護られたカーブだが、なんと両側が石垣になっていて、ようするにガッチガチの築堤だった。道路ではまずありえない、ナローゲージの鉄道ならではといえるの幅2mに満たない築堤にときめいた。

それはさておき、周囲にうっすらと白い部分が見えるが、これは雪である。
いまはみぞれ交じりかと思うほどの冷たい雨が降り続いているが、少し前までは本当に雪だったのか、わずかに新雪が積もっていた。そういえばここより少し標高が高い出発地の乙次郎にもうっすらと雪が積もっていたっけ。私の手指や頬の感覚はすっかり失われてしまっていた。濡れ続けた体の末端が本当に冷え切っていた。

(チェンジ後の画像)
築堤から深い切り通しに突き進む。
ここまでの探索では驚くべき頻度で数え切れないほどの遺構を目にすることができたが、いよいよそれも見納めであった。




16:04 《現在地》

ひどいピンボケ写真である(笑)。

だがこれが、この日の探索で最後に軌道上で撮影した写真だった。カメラも時間も寒さも、いろいろギリギリだったんだよ!苦笑

切り通しからさらに50mほど進んだなだからなすり鉢状をした谷のカーブの途中、大きなモミの木が生えている地点で、約4kmにわたって踏破を続けた軌道跡から離脱して眼下の対岸に間近に見える発電所敷地へ向かうことにした。

軌道跡自体はこの先も終点の上戸渡までさらに6.5kmくらいも続いていて、最終盤に集落があるが、その近くまで廃線跡が続いている。もっとも、地形的には渓谷の険しさが次第に緩解し、穏やかな丘陵的山地に変っていく。2019年に探索しているので、いずれ紹介したい。




くじ氏の跡を追って、木戸川の本流を徒渉した。
すぐ上流に木戸川第一発電所の取水口があり、川を横断する大きな堰があるが、堤上は解放されていないので、取水によって水量の減った部分を徒渉した。
今回の探索では、最初の入渓で乙次郎の滝のような沢を下って、ダム工事現場の上端付近で本流を徒渉して軌道跡へ辿り着いたが、終わりでもまた本流を徒渉した。軌道跡は世の道々より孤立していた。

なお、この辺りの木戸川はいわき市と川内村の境界であり、発電所の諸施設がある左岸は川内村だ。
軌道跡は川内村へは立ち入らず、掠めて通り過ぎている。

チェンジ後の画像は、徒渉の最中に振り返った下流の風景。
この先は非常に険しい木戸川渓谷のV字谷で、やがてダム湖に終わる無人無道の川である。
今後も新たに道が整備されることはないだろうから、30近い木橋跡と隧道跡を有する軌道跡の踏破は、今後もますます難しくなる一方だろう。

なお、俺らは一旦上がらせて貰うぜ! あばよ!



余水吐と思しき水路に沿って、車道がある内陸へ。
氷雨はここでついに雪へと変わった。積もる前に出られたのは、ほんとギリギリだったなぁ。

なお、この木戸川第一発電所は、現在は東北電力が運用しているが、最初の運転開始は大正13(1924)年12月で、郡山電氣が開発した。
その後、下流に整備された第二発電所とともに日立電力の所有となり、現在は第三発電所まであるが、いずれも木戸川の落差を利用した水路式発電所だ。
第一発電所の整備は川内地方における最初期の電力事業だが、おそらく上流側から資材を運搬して整備したのであろう。下流へ通じる林鉄が対岸に整備されたのはだいぶ後のことである。




16:12 《現在地》

ワルクード帰着! 生還!

10:28に乙次郎を出発していたので、6時間近くもかかったことになる。

軌道跡は全体的に荒廃しており、迂回を要する橋跡のような障害物も多かったので、距離以上に時間を要した。
しかし、屈強なくじ氏が難所をリードし、常に軽口をたたき合えたことで、条件の厳しい探索だったが精神的には疲弊せずに乗り越えることができた。
おつかれさまでした! もう二度と見られない良い物を沢山見られたぜ!




 机上調査編 〜木戸川林鉄の前身となった双葉軌道について〜



今回紹介した2006年の探索は、木戸川森林鉄道の最初の探索であり、2019年以降に追加の探索を行っている。
今後その成果についても発表する機会があると思う。
ここでは今回のレポートの締め括りとして、木戸川林鉄が整備されるまでの“前史”を紹介したいと思う。探索当時は知らなかったのだが、なかなかに興味深い内容だった。
多くの林鉄は、“前史”といってもそれは非常にシンプルで、古くからの林業地として前時代的な運材手段(その代表例は河川を使った流材だ)があったところに、国有林経営という大きな経済的後ろ盾を得て、いわゆる国有林林道として森林鉄道が開発される(すなわち国有林森林鉄道である)というものである。

だが、『鉄道廃線跡を歩く』にもあるとおり、木戸川林鉄には前身となった国有林森林鉄道ではない軌道が二つ存在している。
その一つが、次図に位置を示した木戸川軌道である。
今回の探索区間とは直接関係しないが、まずは木戸川軌道を紹介しよう。(キドガワキドウって何度も口に出したくなる日本語だな)


 1. 丸三製材所と木戸川軌道

木戸川軌道は、地元の製材所が運材のために開設した民営軌道である。
軌道法に則って営業の免許を与えられた軌道ではないので、いわゆる専用軌道という扱いになる。

今回探索した険しい木戸川の渓谷だが、実は最後に辿り着いた木戸川第一発電所から3kmほど遡ったところを境に緩やかな流れとなり、川内村の耕地や集落が両岸に点在するようになる。さらに遡れば小さな谷底平野にある川内村中心市街地へ至る。

木戸川渓谷の出口(流れ的には入口か)に面するところに、下川内に属する手古岡(てごおか)という集落がある。大正初期に有力な材木商の共同によって設立された丸三製材所は、まもなく下川内一帯の村有林を買い入れ、この手古岡を拠点に従業員数百人を擁する大規模な伐採・製材事業を開始した。まもなくこの地方に「丸三時代」と称されるほどの“今まで見たこともない繁栄”(川内村史)をつくりあげたという。

丸三製材所は、それまで川内で細々と行われていた原始的な運材方法に代わる大規模な輸送手段として、木戸川の急流に目を付けた。夏の時期に木戸川の畔の土場に大量の木材を集めておき、秋の稲刈りが終わる9月末から10月に一気に河口目がけ押し流した。当地方ではこれを木流しと呼んだ(一般には管流しと呼ばれる運材方法であろう)。




『楢葉町史 第一巻(下)』より

左の写真は『楢葉町史』に掲載されている丸三製材所の木流し風景である。木戸川渓谷が太平洋岸の平野部へ出る直前の女平の地で木材を陸揚している風景ではないかと思う。

だが、木戸川を使った流材には多くの問題があった。水量が少ない木戸川渓谷での木材の損耗の激しさや、下流部にある用水堰を度々破損してしまうことへの賠償問題などである。

丸三製材所の事実上の経営者西岡重好は、木戸駅から下川内にいたる山間部を調査、軌道による木材運送に切り替えることを決意した。ところが下川内から直接木戸駅に至ることは当時の技術では不可能であることが判明、木戸村上小塙字女平まで軌道を敷くことにした。時に大正3年2月初旬である。

木戸川軌道の開通により、丸三工場は軌道の最終地である女平に工場を新築、製材を大規模に行っている。

『川内村史 通史編』より

『楢葉町史 第一巻(下)』より

このような経緯で、丸三製材所は木戸駅と女平を結ぶ約5.5kmの木戸川軌道を敷設し、女平以下の川流しをこの軌道に置き換えた。最終的にこの路線が木戸川林鉄の一部に組み込まれることになる。

特筆すべきは、この時点で既に下川内までの軌道の敷設が企図されていたことである。
しかし、今回探索したような険しい峡谷部への軌道敷設は「技術的に困難」であるとして、この部分は引き続き流送に頼ることにしたのであった。

右写真は、女平にあった丸三製材所の製材所だ。
製材された木材が川沿いの土地に膨大に積み上げられている。これを軌道で木戸駅に運んで出荷したのであろう。

残念ながら木戸川軌道については、軌間など施設の詳細は明らかでないが、手押しか馬車軌道として運行されていたのではないだろうか。
丸三製材所が運用したこの木戸川軌道が、木戸川森林鉄道の原点である。
そしてこの施設を次に引き継いだのが、双葉軌道株式会社という名前からして軌道の経営を目的に設立された新会社であった。



 2. 双葉軌道の計画と挫折

丸三製材所の経営は当初順調に進んでいたが、大正11(1922)年2月に木戸川流域を襲った大洪水(死者29名)とそれに伴う山崩れによって女平の製材所施設が壊滅し、同社は事業継続が不可能になる。

このタイミングで現われるのが、双葉軌道株式会社による軽便軌道計画だ。
小川功氏の研究ノート「民営森林鉄道におけるビジネス・デザインとコミュニティ・デザインの相克」によると、水害の翌年大正12年に双葉軌道株式会社は、福島県双葉郡木戸村より川内村に通ずる軽便軌道の敷設地、総延長約14マイル(約22.5km)中、国有地約8マイル(約12.9km)の使用許可を昭和8年3月までの貸付期間で農林大臣より得ている。これは国有林を通過する使用許可である。

また『川内村史』によれば、これより先の大正11年12月に同社は川内村議会に対して、「貨物輸送ヲ目的トスル軌道本村地内ニ敷設ノ件ニ関シ、本村ノ承認」を求め、同村はこれを承認している。
四方を山に囲まれていて交通の不便に喘いでいた川内村では、この軽便鉄道事業を「公益事業ニシテ開通ノ暁ニハ本村発展上」に大いにメリットがあると歓迎したのである。

『川内村郷土誌』には、大正12年時点の双葉軌道専用軌道について次のように記されている。

双葉軌道株式会社専用軌道 鉄道常磐線木戸駅ヨリ本村字坂シ内ニ達スル軌道ニシテ延長十七哩ナリ(目下工事中)

『川内村郷土誌』より

これらの情報をまとめると、双葉軌道の計画は、木戸駅から女平までは既設の軌道(木戸川軌道、約3哩≒5km)を利用し、女平から国有林を通り(新設の軌道、8哩≒13km)、さらに川内村内を通って(新設の軌道、6哩≒10km)坂シ内(さかしうち)に至る、合計17哩≒27kmの軽便軌道であった。そして、大正12(1923)年現在、「目下工事中」だったのである。
終点とされた坂シ内は川内村の中心部の地名である。これと起点の木戸駅以外のルートや経由地について詳しい情報はないが、国有林内を通過する部分については後の木戸川林鉄(今回探索区間を含む)に近いものではなかっただろうか。

設立準備を進める双葉軌道株式会社は、国有林の使用許可や川内村内の土地使用契約を進めつつ工事を行い、大正14年12月には無事に会社設立と登記を果たしている。
翌年3月に掲載された官報によると同社の設立目的は、「福島県双葉郡木戸村ヨリ同郡川内村及、石城郡戸渡村地内ニ至ル林産物並ニ副産物払下及売買、前項林産物並ニ副産物ノ運搬、金銭貸付、前項ニ附帯ノ一切ノ業務」であった。

あくまでも輸送の対象は林産物やその副産物で、一般旅客営業を対象としていない専用軌道である点は木戸川軌道と同じである。また林産物に特化している点においては、まさに民営の森林鉄道といえるものだ。
また注目したい点として、双葉軌道が当初から進めていた木戸駅と川内村を結ぶ軌道の計画の他に、「石城郡戸渡村」に至る軌道の開設も匂わせている点である。石城郡戸渡村は実際には石城郡上小川村の戸渡であり、最終的に木戸川林鉄の終点となった土地である。これは偶然の一致ではないように思う。

また、この双葉軌道株式会社の社長は、先に水害で壊滅した丸三製材所の事実上の経営者・西岡重好その人であった。
だがどういうわけか彼は川内村当局とのさまざまな交渉など表舞台に登場せず、もっぱら会社設立委員長である餘目永綱という人物がそれにあたった。

そしてこの計画は失敗する。しかも協力を惜しまなかった川内の人々に深い禍根を残す形で。

設立委員長餘目永綱こそ、希代のサギ師で彼の下川内に軌道を敷き完成の暁になれば未来はバラ色のごとく話し、下川内の旧家であるS家・資産ナンバーワンを誇ったS家の分家、村でも指折の財政家……(中略)……下川内の資産家は株と称する資金を多くも少なくも巻きあげられたのである。
原の菅波長義翁の談話によると、「軌道をやったのは餘目エイコウという東京者で、金が集まったと山の岸、人足にちょこちょこならすくらいの工事しかしなかった」という。
現在も草・木の影にそのおりの軌道敷の工事あとが残っている。

『川内村史 通史編』より

村史という資料の性格を考えればやや異例に思えるほど恨めしさを滲ませた記述がなされており、同村にとって双葉軌道は完全に詐欺目的の悪辣な会社と認識されたようである。
これが真にはじめから仕組まれた会社ぐるみの悪事であったのか、黒幕は餘目氏だけで社長も被害者の一人であったのか、もしかしたら悪意はどこにもなく単に力及ばず成功しなかった鉄道事業が曲解されたのかは判らない。

そして川内村にはこのときの「工事跡」が残っているとのことだが、具体的な位置は判明していない。この地方のエキスパートである「街道WEB」のTUKA氏も把握されていないとのことだった。大正末期の軌道未成線跡ともなれば、闇雲に探しても見つけるのはかなり難しそうだ。

もし双葉軌道が当初の計画通り開業していた場合はどうなっていただろう。後に大部分が重複している木戸川森林鉄道は誕生しなかったかもしれない。あるいは誕生しても区間が違っていたかもしれない。そして今回探索した区間についてだが、もし双葉軌道が最初に建設していたら現在あるものとは違った廃線景色(おそらくはさらに貧弱な路線だった)が生まれていたことだろう。
といっても現状には劇的な違いは生まなかっただろうが、民間の専用軌道計画が林鉄へ生まれ変わったケースは比較的珍しく興味深い事例といえる(逆パターンの方がいくらか多い)。

こうして一度は着工された女平以奥の川内へ通じる双葉軌道は完成に至らなかったが、それでも同社は旧木戸川軌道の区間を継承し運用を続けており、必要な整備も加えていたようだ。
だが、前述した国有林内の通行許可が有効期限切れとなる昭和8(1933)年に当地の国有林を経営する前橋営林局富岡営林署が双葉軌道の施設を買い上げ、国有林森林鉄道へ組み込んだ。
ここに初めて木戸川森林鉄道(正式名称:木戸川林道)が誕生するのである。



 3. 木戸川森林鉄道の継承と誕生

「福島の森林鉄道WEB史料室」の木戸川林鉄の項によると、昭和8年度に木戸駅から木戸村大沢上小塙字芝坂国有林に至る7857m(うち隧道252.3m)の軌道が富岡営林署により整備されたが、この際に用地12501反(1.24ha)及び軌条5660mが「買上」されており、この軌条5660mは既設の木戸川軌道の軌条と考えられるとのことだ。また同年、木戸駅に隣接する木戸貯木場が整備されている。

この「国有林森林鉄道化」については、小宅幸一氏の著書『常磐地方の鉄道』(昭和62年)に次のような記述がある。

富岡営林署が敷設した軌道は、全くの新設ではなく、既設の双葉軌道会社を何らかの方法で継承した節がある。営林署の書類の中に同社の文字が散見できるからだ。

『常磐地方の鉄道』より

富岡営林署が双葉軌道とみられる会社より買い上げた軌条は5660mで、これが軌道の長さであるとすれば、ちょうど木戸駅から女平までの長さに合致する。
そしてさらに女平から約2km奥地まで軌道を新設し、全長7857mで芝坂国有林に達したのであろう。国有林森林鉄道としては国有林への到達がまず何よりも重要な要素であったはずだ。
実はこのとき、既に双葉軌道が女平以奥で既に路盤工事を行っていたとしたら、その未成線用地をも継承した可能性があるが、残念ながら詳しい工事内容は明らかでない。


なおこの買い上げが行われた昭和8年には、川内村長を代表者とする9名が、以前は双葉軌道に与えられていた国有地の使用許可を彼らが今後設立する見込みである新会社に引き続き与えるよう農林大臣宛に請願する文書が残っているが、「本敷設線は国有林内を貫通するものなるにより、国有林産物搬出には至大の関係を有するをもって、国自ら経営するの必要を認め、速やかに施工すべく計画中なるをもって、民営のための貸し付けは容認」できないと拒否されている。
既に国有林森林鉄道を開設する計画が決まっているから、その弊害となる民間軌道を国有林内へ入れることはできないというのである。

昭和8年度に国有林の入口に達した林鉄は、翌年にさらに5013m延伸され、全長12870mとなった。(福島の森林鉄道WEB史料室 )
さらに延伸は続き、昭和17(1942)年時点で全長19.43kmとなっていて(常磐地方の鉄道)、今回探索した区間はこの時点で誕生している。
また支線も敷設され、三十郎線(昭和10〜24年)1.82km、あかかり線(昭和20〜32年)2.75km、根小屋線(昭和23〜32年)1.86kmが存在した。(常磐地方の鉄道)
本線は昭和23年の時点で全長20.95kmまで伸び(福島の森林鉄道WEB史料室 )、これが昭和36年に廃止されるまでの最長で、終点は上戸渡にあった。



『常磐地方の鉄道』より、木戸川林鉄による木炭輸送風景


木戸川軌道や双葉軌道、そして川内村が設立を計画していた新設会社の軌道は、いずれも川内村を終点とするものだったが、木戸川林鉄は木戸川第一発電所のすぐ上流で木戸川の右支流である戸渡川に入り、本流の上流にある川内村へ向かうことはなかった。
これは単純に川内村にはほとんど国有林がなかったからであろう。
川内村の関係者としては悔やまれたことだと思う。

その一方で、林鉄によって毎年莫大な量の木材が供給された下流の木戸村では製材業がますます繁栄し、昭和17年には同村の請願もあって富岡営林署から独立して木戸営林署が設立された際には、その用地や官舎などを村が全て寄付している。(昭和29年廃庁となり再び富岡営林署所管となる)




このように、曲折あって最後まで木戸川沿いの木材輸送路に恵まれなかった川内村であるが、この村の林業村としての繁栄はこの程度で脅かされるほど小さなものではなかった。
木戸川沿いの軌道は、裕福だった同村へと外から辿り着こうとした外部資本による軌道の一つでしかなかったのだ。

木戸川の上流を占める川内村一帯は優秀な薪炭材となる樹木が非常に豊富で、古くから木炭の生産が盛んであった。明治20年代に常磐線が開業し、大消費地である京浜地方や常磐炭田と結びついたことで川内炭はより有利な立地となり、以後多くの資本家が参入して大掛りな産炭事業が営まれた。昭和初期には年間40万俵を出荷するなど日本一の木炭村を標榜し、非常に裕福になった村は全国唯一の無税村であったこともある。

もともと四周を山に囲まれ交通不便な川内村から、木炭などの豊富な林産物を最寄りの国鉄駅へ運び出す軌道の開設は、資本家をしてよほど魅力的なものと写ったらしく、さまざまな計画が勃興した。

その中で実際に村内で運行した路線として、磐越東線の小野新町(おのにいまち)駅を起点に、軌道としては異例の高い峠越えを果たして上川内の大根森(だいこんもり)まで鉄路を延ばすことに成功した新町軌道があった。この路線も専用軌道であったが、ゆくゆくは一般旅客営業を志していて、下川内の牛渕まで伸ばす計画を持っていたものの、夢破れて昭和初期に撤退している。一般には未開業線とされることも多いが、専用軌道としては10年以上も輸送が行われていた。この路線は計画の一部区間が双葉軌道と重複しており、ここに何らかの競争があったのではないかとTUKA氏は想像しておられる。

なお、大正13(1924)年に木戸川を堰き止めて牛渕の近くに木戸川第一発電所を開設した郡山電氣は、新町軌道と母体を同じくしている。そのため同発電所への資材運搬にも新町軌道が利用された可能性がある。ただ不可解なのは、この発電所の開発によって木戸川を使った流材が困難になったとみられるのに、このことの代替になる木戸川沿いの軌道敷設などの補償が行われた形跡がないことだ。これは直前の災害で専ら木戸川で流材を行っていた丸三製材所が壊滅していたために請求者がなかったということなのだろうか。それとも、この区間の軌道開設は双葉軌道が既に計画して工事中であったから、そこに郡山電氣側が何らかの補償を行う手筈であったのだろうか。



『川内村史 通史編』より

川内村を目指した専用軌道としては他にも夏井駅から川内村に至らんとした夏井軌道や、川前駅から目指した川前軌道(村内には到達しなかったが一部区間が運行された)の計画があったほか、夜ノ森駅から川内街道(現在の県道36号小野富岡線)に沿って貨物と旅客を扱う“電気鉄道”を開設せんとする動きも大正初期にはあったようだ。

人口規模的には小さかった村が、ここまで“引く手あまた”となったことからも、川内村の製炭事業がどれほど栄えていた分かろうというものだ。
右写真は昭和初期の風景で、川内村の中心地「町分」の街頭に集められた出荷前の木炭である。もの凄い数である。

しかし、さまざまな計画があった中で、現実に実現したものが少ないのは、昭和初期までに川内街道の整備が進み、それまでの馬車に代わるトラック輸送が台頭したためであった。砂利道を陸続として運炭トラックが走るようになれば、もはや馬車軌道や人力軌道が出る幕ではなかったのであろう。


今回の机上調査は、本編探索の内容からやや離れた“前史”を取り上げるものであったが、あの険しい峡谷を縫って架けられた無数の木橋たちにあり得た if の話は、私にとって刺激的だった。
そしてもしも、 もしもだよ、 もしも新町軌道と双葉軌道が手を組んで全線開通を果たし、そのうえで一般旅客営業まで獲得していたら、阿武隈山地を横断して磐越東線と常磐線を結ぶ全長60kmほどの軽便線が出現していたことになり、これも現代まで生き残ることはなかったにしても、地方交通史上の大きなエポックになっていただろうと想像は膨らむ。



最後に、木戸川軌道→双葉軌道→木戸川林鉄→県道250号の変遷を1枚の地図上でご覧いただきつつ、お別れです。

@
大正3(1914)年
A
大正12(1923)年
B
昭和8(1933)年
C
昭和23(1948)年
D
現在

それではまた次の木戸川林鉄探索でお会いしましょう。