今回紹介した2006年の探索は、木戸川森林鉄道の最初の探索であり、2019年以降に追加の探索を行っている。
今後その成果についても発表する機会があると思う。
ここでは今回のレポートの締め括りとして、木戸川林鉄が整備されるまでの“前史”を紹介したいと思う。探索当時は知らなかったのだが、なかなかに興味深い内容だった。
多くの林鉄は、“前史”といってもそれは非常にシンプルで、古くからの林業地として前時代的な運材手段(その代表例は河川を使った流材だ)があったところに、国有林経営という大きな経済的後ろ盾を得て、いわゆる国有林林道として森林鉄道が開発される(すなわち国有林森林鉄道である)というものである。
だが、『鉄道廃線跡を歩く』にもあるとおり、木戸川林鉄には前身となった国有林森林鉄道ではない軌道が二つ存在している。
その一つが、次図に位置を示した木戸川軌道である。
今回の探索区間とは直接関係しないが、まずは木戸川軌道を紹介しよう。(キドガワキドウって何度も口に出したくなる日本語だな)
1. 丸三製材所と木戸川軌道
木戸川軌道は、地元の製材所が運材のために開設した民営軌道である。
軌道法に則って営業の免許を与えられた軌道ではないので、いわゆる専用軌道という扱いになる。
今回探索した険しい木戸川の渓谷だが、実は最後に辿り着いた木戸川第一発電所から3kmほど遡ったところを境に緩やかな流れとなり、川内村の耕地や集落が両岸に点在するようになる。さらに遡れば小さな谷底平野にある川内村中心市街地へ至る。
木戸川渓谷の出口(流れ的には入口か)に面するところに、下川内に属する手古岡(てごおか)という集落がある。大正初期に有力な材木商の共同によって設立された丸三製材所は、まもなく下川内一帯の村有林を買い入れ、この手古岡を拠点に従業員数百人を擁する大規模な伐採・製材事業を開始した。まもなくこの地方に「丸三時代」と称されるほどの“今まで見たこともない繁栄”(川内村史)をつくりあげたという。
丸三製材所は、それまで川内で細々と行われていた原始的な運材方法に代わる大規模な輸送手段として、木戸川の急流に目を付けた。夏の時期に木戸川の畔の土場に大量の木材を集めておき、秋の稲刈りが終わる9月末から10月に一気に河口目がけ押し流した。当地方ではこれを木流しと呼んだ(一般には管流しと呼ばれる運材方法であろう)。
『楢葉町史 第一巻(下)』より
左の写真は『楢葉町史』に掲載されている丸三製材所の木流し風景である。木戸川渓谷が太平洋岸の平野部へ出る直前の女平の地で木材を陸揚している風景ではないかと思う。
だが、木戸川を使った流材には多くの問題があった。水量が少ない木戸川渓谷での木材の損耗の激しさや、下流部にある用水堰を度々破損してしまうことへの賠償問題などである。
丸三製材所の事実上の経営者西岡重好は、木戸駅から下川内にいたる山間部を調査、軌道による木材運送に切り替えることを決意した。ところが下川内から直接木戸駅に至ることは当時の技術では不可能であることが判明、木戸村上小塙字女平まで軌道を敷くことにした。時に大正3年2月初旬である。
木戸川軌道の開通により、丸三工場は軌道の最終地である女平に工場を新築、製材を大規模に行っている。
『楢葉町史 第一巻(下)』より
このような経緯で、丸三製材所は木戸駅と女平を結ぶ約5.5kmの木戸川軌道を敷設し、女平以下の川流しをこの軌道に置き換えた。最終的にこの路線が木戸川林鉄の一部に組み込まれることになる。
特筆すべきは、この時点で既に下川内までの軌道の敷設が企図されていたことである。
しかし、今回探索したような険しい峡谷部への軌道敷設は「技術的に困難」であるとして、この部分は引き続き流送に頼ることにしたのであった。
右写真は、女平にあった丸三製材所の製材所だ。
製材された木材が川沿いの土地に膨大に積み上げられている。これを軌道で木戸駅に運んで出荷したのであろう。
残念ながら木戸川軌道については、軌間など施設の詳細は明らかでないが、手押しか馬車軌道として運行されていたのではないだろうか。
丸三製材所が運用したこの木戸川軌道が、木戸川森林鉄道の原点である。
そしてこの施設を次に引き継いだのが、双葉軌道株式会社という名前からして軌道の経営を目的に設立された新会社であった。
2. 双葉軌道の計画と挫折
丸三製材所の経営は当初順調に進んでいたが、大正11(1922)年2月に木戸川流域を襲った大洪水(死者29名)とそれに伴う山崩れによって女平の製材所施設が壊滅し、同社は事業継続が不可能になる。
このタイミングで現われるのが、双葉軌道株式会社による軽便軌道計画だ。
小川功氏の研究ノート「民営森林鉄道におけるビジネス・デザインとコミュニティ・デザインの相克」によると、水害の翌年大正12年に双葉軌道株式会社は、福島県双葉郡木戸村より川内村に通ずる軽便軌道の敷設地、総延長約14マイル(約22.5km)中、国有地約8マイル(約12.9km)の使用許可を昭和8年3月までの貸付期間で農林大臣より得ている。これは国有林を通過する使用許可である。
また『川内村史』によれば、これより先の大正11年12月に同社は川内村議会に対して、「貨物輸送ヲ目的トスル軌道本村地内ニ敷設ノ件ニ関シ、本村ノ承認」を求め、同村はこれを承認している。
四方を山に囲まれていて交通の不便に喘いでいた川内村では、この軽便鉄道事業を「公益事業ニシテ開通ノ暁ニハ本村発展上」に大いにメリットがあると歓迎したのである。
『川内村郷土誌』には、大正12年時点の双葉軌道専用軌道について次のように記されている。
双葉軌道株式会社専用軌道 鉄道常磐線木戸駅ヨリ本村字坂シ内ニ達スル軌道ニシテ延長十七哩ナリ(目下工事中)
これらの情報をまとめると、双葉軌道の計画は、木戸駅から女平までは既設の軌道(木戸川軌道、約3哩≒5km)を利用し、女平から国有林を通り(新設の軌道、8哩≒13km)、さらに川内村内を通って(新設の軌道、6哩≒10km)坂シ内(さかしうち)に至る、合計17哩≒27kmの軽便軌道であった。そして、大正12(1923)年現在、「目下工事中」だったのである。
終点とされた坂シ内は川内村の中心部の地名である。これと起点の木戸駅以外のルートや経由地について詳しい情報はないが、国有林内を通過する部分については後の木戸川林鉄(今回探索区間を含む)に近いものではなかっただろうか。
設立準備を進める双葉軌道株式会社は、国有林の使用許可や川内村内の土地使用契約を進めつつ工事を行い、大正14年12月には無事に会社設立と登記を果たしている。
翌年3月に掲載された官報によると同社の設立目的は、「福島県双葉郡木戸村ヨリ同郡川内村及、石城郡戸渡村地内ニ至ル林産物並ニ副産物払下及売買、前項林産物並ニ副産物ノ運搬、金銭貸付、前項ニ附帯ノ一切ノ業務」であった。
あくまでも輸送の対象は林産物やその副産物で、一般旅客営業を対象としていない専用軌道である点は木戸川軌道と同じである。また林産物に特化している点においては、まさに民営の森林鉄道といえるものだ。
また注目したい点として、双葉軌道が当初から進めていた木戸駅と川内村を結ぶ軌道の計画の他に、「石城郡戸渡村」に至る軌道の開設も匂わせている点である。石城郡戸渡村は実際には石城郡上小川村の戸渡であり、最終的に木戸川林鉄の終点となった土地である。これは偶然の一致ではないように思う。
また、この双葉軌道株式会社の社長は、先に水害で壊滅した丸三製材所の事実上の経営者・西岡重好その人であった。
だがどういうわけか彼は川内村当局とのさまざまな交渉など表舞台に登場せず、もっぱら会社設立委員長である餘目永綱という人物がそれにあたった。
そしてこの計画は失敗する。しかも協力を惜しまなかった川内の人々に深い禍根を残す形で。
設立委員長餘目永綱こそ、希代のサギ師で彼の下川内に軌道を敷き完成の暁になれば未来はバラ色のごとく話し、下川内の旧家であるS家・資産ナンバーワンを誇ったS家の分家、村でも指折の財政家……(中略)……下川内の資産家は株と称する資金を多くも少なくも巻きあげられたのである。
原の菅波長義翁の談話によると、「軌道をやったのは餘目エイコウという東京者で、金が集まったと山の岸、人足にちょこちょこならすくらいの工事しかしなかった」という。
現在も草・木の影にそのおりの軌道敷の工事あとが残っている。
村史という資料の性格を考えればやや異例に思えるほど恨めしさを滲ませた記述がなされており、同村にとって双葉軌道は完全に詐欺目的の悪辣な会社と認識されたようである。
これが真にはじめから仕組まれた会社ぐるみの悪事であったのか、黒幕は餘目氏だけで社長も被害者の一人であったのか、もしかしたら悪意はどこにもなく単に力及ばず成功しなかった鉄道事業が曲解されたのかは判らない。
そして川内村にはこのときの「工事跡」が残っているとのことだが、具体的な位置は判明していない。この地方のエキスパートである「街道WEB」のTUKA氏も把握されていないとのことだった。大正末期の軌道未成線跡ともなれば、闇雲に探しても見つけるのはかなり難しそうだ。
もし双葉軌道が当初の計画通り開業していた場合はどうなっていただろう。後に大部分が重複している木戸川森林鉄道は誕生しなかったかもしれない。あるいは誕生しても区間が違っていたかもしれない。そして今回探索した区間についてだが、もし双葉軌道が最初に建設していたら現在あるものとは違った廃線景色(おそらくはさらに貧弱な路線だった)が生まれていたことだろう。
といっても現状には劇的な違いは生まなかっただろうが、民間の専用軌道計画が林鉄へ生まれ変わったケースは比較的珍しく興味深い事例といえる(逆パターンの方がいくらか多い)。
こうして一度は着工された女平以奥の川内へ通じる双葉軌道は完成に至らなかったが、それでも同社は旧木戸川軌道の区間を継承し運用を続けており、必要な整備も加えていたようだ。
だが、前述した国有林内の通行許可が有効期限切れとなる昭和8(1933)年に当地の国有林を経営する前橋営林局富岡営林署が双葉軌道の施設を買い上げ、国有林森林鉄道へ組み込んだ。
ここに初めて木戸川森林鉄道(正式名称:木戸川林道)が誕生するのである。
3. 木戸川森林鉄道の継承と誕生
「福島の森林鉄道WEB史料室」の木戸川林鉄の項によると、昭和8年度に木戸駅から木戸村大沢上小塙字芝坂国有林に至る7857m(うち隧道252.3m)の軌道が富岡営林署により整備されたが、この際に用地12501反(1.24ha)及び軌条5660mが「買上」されており、この軌条5660mは既設の木戸川軌道の軌条と考えられるとのことだ。また同年、木戸駅に隣接する木戸貯木場が整備されている。
この「国有林森林鉄道化」については、小宅幸一氏の著書『常磐地方の鉄道』(昭和62年)に次のような記述がある。
富岡営林署が敷設した軌道は、全くの新設ではなく、既設の双葉軌道会社を何らかの方法で継承した節がある。営林署の書類の中に同社の文字が散見できるからだ。
富岡営林署が双葉軌道とみられる会社より買い上げた軌条は5660mで、これが軌道の長さであるとすれば、ちょうど木戸駅から女平までの長さに合致する。
そしてさらに女平から約2km奥地まで軌道を新設し、全長7857mで芝坂国有林に達したのであろう。国有林森林鉄道としては国有林への到達がまず何よりも重要な要素であったはずだ。
実はこのとき、既に双葉軌道が女平以奥で既に路盤工事を行っていたとしたら、その未成線用地をも継承した可能性があるが、残念ながら詳しい工事内容は明らかでない。
なおこの買い上げが行われた昭和8年には、川内村長を代表者とする9名が、以前は双葉軌道に与えられていた国有地の使用許可を彼らが今後設立する見込みである新会社に引き続き与えるよう農林大臣宛に請願する文書が残っているが、「本敷設線は国有林内を貫通するものなるにより、国有林産物搬出には至大の関係を有するをもって、国自ら経営するの必要を認め、速やかに施工すべく計画中なるをもって、民営のための貸し付けは容認」できないと拒否されている。
既に国有林森林鉄道を開設する計画が決まっているから、その弊害となる民間軌道を国有林内へ入れることはできないというのである。
昭和8年度に国有林の入口に達した林鉄は、翌年にさらに5013m延伸され、全長12870mとなった。(福島の森林鉄道WEB史料室 )
さらに延伸は続き、昭和17(1942)年時点で全長19.43kmとなっていて(常磐地方の鉄道)、今回探索した区間はこの時点で誕生している。
また支線も敷設され、三十郎線(昭和10〜24年)1.82km、あかかり線(昭和20〜32年)2.75km、根小屋線(昭和23〜32年)1.86kmが存在した。(常磐地方の鉄道)
本線は昭和23年の時点で全長20.95kmまで伸び(福島の森林鉄道WEB史料室 )、これが昭和36年に廃止されるまでの最長で、終点は上戸渡にあった。
『常磐地方の鉄道』より、木戸川林鉄による木炭輸送風景
木戸川軌道や双葉軌道、そして川内村が設立を計画していた新設会社の軌道は、いずれも川内村を終点とするものだったが、木戸川林鉄は木戸川第一発電所のすぐ上流で木戸川の右支流である戸渡川に入り、本流の上流にある川内村へ向かうことはなかった。
これは単純に川内村にはほとんど国有林がなかったからであろう。
川内村の関係者としては悔やまれたことだと思う。
その一方で、林鉄によって毎年莫大な量の木材が供給された下流の木戸村では製材業がますます繁栄し、昭和17年には同村の請願もあって富岡営林署から独立して木戸営林署が設立された際には、その用地や官舎などを村が全て寄付している。(昭和29年廃庁となり再び富岡営林署所管となる)
このように、曲折あって最後まで木戸川沿いの木材輸送路に恵まれなかった川内村であるが、この村の林業村としての繁栄はこの程度で脅かされるほど小さなものではなかった。
木戸川沿いの軌道は、裕福だった同村へと外から辿り着こうとした外部資本による軌道の一つでしかなかったのだ。
木戸川の上流を占める川内村一帯は優秀な薪炭材となる樹木が非常に豊富で、古くから木炭の生産が盛んであった。明治20年代に常磐線が開業し、大消費地である京浜地方や常磐炭田と結びついたことで川内炭はより有利な立地となり、以後多くの資本家が参入して大掛りな産炭事業が営まれた。昭和初期には年間40万俵を出荷するなど日本一の木炭村を標榜し、非常に裕福になった村は全国唯一の無税村であったこともある。
もともと四周を山に囲まれ交通不便な川内村から、木炭などの豊富な林産物を最寄りの国鉄駅へ運び出す軌道の開設は、資本家をしてよほど魅力的なものと写ったらしく、さまざまな計画が勃興した。
その中で実際に村内で運行した路線として、磐越東線の小野新町(おのにいまち)駅を起点に、軌道としては異例の高い峠越えを果たして上川内の大根森(だいこんもり)まで鉄路を延ばすことに成功した新町軌道があった。この路線も専用軌道であったが、ゆくゆくは一般旅客営業を志していて、下川内の牛渕まで伸ばす計画を持っていたものの、夢破れて昭和初期に撤退している。一般には未開業線とされることも多いが、専用軌道としては10年以上も輸送が行われていた。この路線は計画の一部区間が双葉軌道と重複しており、ここに何らかの競争があったのではないかとTUKA氏は想像しておられる。
なお、大正13(1924)年に木戸川を堰き止めて牛渕の近くに木戸川第一発電所を開設した郡山電氣は、新町軌道と母体を同じくしている。そのため同発電所への資材運搬にも新町軌道が利用された可能性がある。ただ不可解なのは、この発電所の開発によって木戸川を使った流材が困難になったとみられるのに、このことの代替になる木戸川沿いの軌道敷設などの補償が行われた形跡がないことだ。これは直前の災害で専ら木戸川で流材を行っていた丸三製材所が壊滅していたために請求者がなかったということなのだろうか。それとも、この区間の軌道開設は双葉軌道が既に計画して工事中であったから、そこに郡山電氣側が何らかの補償を行う手筈であったのだろうか。
『川内村史 通史編』より
川内村を目指した専用軌道としては他にも夏井駅から川内村に至らんとした夏井軌道や、川前駅から目指した川前軌道(村内には到達しなかったが一部区間が運行された)の計画があったほか、夜ノ森駅から川内街道(現在の県道36号小野富岡線)に沿って貨物と旅客を扱う“電気鉄道”を開設せんとする動きも大正初期にはあったようだ。
人口規模的には小さかった村が、ここまで“引く手あまた”となったことからも、川内村の製炭事業がどれほど栄えていた分かろうというものだ。
右写真は昭和初期の風景で、川内村の中心地「町分」の街頭に集められた出荷前の木炭である。もの凄い数である。
しかし、さまざまな計画があった中で、現実に実現したものが少ないのは、昭和初期までに川内街道の整備が進み、それまでの馬車に代わるトラック輸送が台頭したためであった。砂利道を陸続として運炭トラックが走るようになれば、もはや馬車軌道や人力軌道が出る幕ではなかったのであろう。
今回の机上調査は、本編探索の内容からやや離れた“前史”を取り上げるものであったが、あの険しい峡谷を縫って架けられた無数の木橋たちにあり得た if の話は、私にとって刺激的だった。
そしてもしも、 もしもだよ、 もしも新町軌道と双葉軌道が手を組んで全線開通を果たし、そのうえで一般旅客営業まで獲得していたら、阿武隈山地を横断して磐越東線と常磐線を結ぶ全長60kmほどの軽便線が出現していたことになり、これも現代まで生き残ることはなかったにしても、地方交通史上の大きなエポックになっていただろうと想像は膨らむ。
最後に、木戸川軌道→双葉軌道→木戸川林鉄→県道250号の変遷を1枚の地図上でご覧いただきつつ、お別れです。
@ 大正3(1914)年 | |
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A 大正12(1923)年 | |
B 昭和8(1933)年 | |
C 昭和23(1948)年 | |
D 現在 |
それではまた次の木戸川林鉄探索でお会いしましょう。