廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第3次探索編 序

公開日 2017.02.16
探索日 2017.02.07
所在地 千葉県君津市

とんでもない新情報が飛び込んできた!!!


これ以降のレポートは、実のところ、はじめから書く予定があったわけではない。
2013年1月と2014年12月に行った2度の探索の成果は、これまでに公開した全15回ものレポートで余さずに紹介し終えている。
まるきり復習になるが、これまでの探索と机上調査の成果を地図に示したのが左図である。私は、笹川湖に中間部を分断された総延長7.5km前後の「小坪井軌道」という森林鉄道を、この地に発見した。これは千葉県内に存在した唯一の国有林森林鉄道である。

この路線網のうち、机上調査でのみ存在が示唆され、現地踏査が終わっていない区間も一部あるが、それでも現地踏査と机上調査の結果が総延長7.5km程度という数字で照合したことにより、全貌の把握は完了したと考えていた。
いずれ気が向いたときに再訪して一部の未探索区間を埋めることはあるかも知れないが、新たな情報でも無い限り、当分はないと考えていた。

だが、そんな私のオブローダーとしての“平穏なる天下”は、完結から僅か10日で崩れ去った。明智光秀の三日天下ならぬ、ヨッキれんの十日天下であった。
なぜそんなことになったのか。

それは――

 新たな情報が、もたらされたからだ。




今年(2017年)1月6日(机上調査編を公開して完結した10日目)、当サイトの情報提供ページから1本の情報が送られてきた。
情報提供者は、秋田県出身で千葉県在住の後藤氏(さらに、2月上旬に千葉県在住の野村氏からも同様の情報が寄せられた。お二人とも本当にありがとうございました!)

曰く、昭和57(1982)年に「君津市教育委員会上総公民館」が発行した『笹生活史』なる史料にも、小坪井軌道に関する記述がある。 ――というのである。 (「笹」というのは現地の地名で、これまで一連の探索はすべて君津市大字笹の区域内で行われている。明治22(1889)年まで笹村といった。)

果たして、後藤氏よりお送り頂いた誌面には、次のことが書かれていた。

大正14(1925)年8月1日、笹七一三番地に相川佐代吉さんが官舎を建造した、その時点で笹担当区が設置された。また、昭和5(1930)年管内に小坪井事業所が設置され、地元との縁故関係は深くなり、炭材及び用材の払い下げも行うようになった。続いて小坪井官斫伐事業所を開設し、片倉地先より
元清澄山の下まで延べ11.5kmにわたり軌道を敷設し、
トロリーにて木炭や軍需材、官吏用材は運搬された。
片倉に製材所を建設し製品化された。このため製品材の運搬には馬車が、軌道の補修には夫役として働き、副業的収入源でもあった。
しかし、大木の伐採やトロリーの運転などは東京の方が職人で来られ、仮住いで働いていた。この事業も昭和17(1942)年3月で閉鎖となったが、その後も跡地の植林、下刈と地元民は協力を惜しまなかった。
昭和32(1957)年4月、笹担当区事業所は藤林に移転した。一方、笹の事務所は製品事務所としていたが、製品生産事業は閉鎖され、昭和36(1961)年11月まで造林宿泊所として笹に存続している。現在でも地元民8名が常雇いとして官地の見廻りや植林、下刈り、除伐、枝打ち等を行っている。


じゅ じゅ じゅ!

11.5km だとぉ?!

こ、これは大変な数字だ。

これまで小坪井軌道の全長として史料上に出て来た最大の数字は、東京営林局が昭和10(1935)年に発行した『経済更生計画の概要』にあった7.2kmである。
この数字と、第三の証言者から提供された地図および現地探索から推定された全長7.5kmが近似したことから、「探索完了!」と判断していたのだが、その根本が崩れたことになる。

これまでの考えより約4kmも長かったという説が、一気に浮上してきた。

なぜこのような大きな数字の不一致が起きたのか、原因は不明である。
と同時に、その原因を解き明かすことは、相当難しいだろうとも思った。不可能かも知れない。
むしろ、私にとってもう少し容易なのは、この“行方不明の4km”を実際に発見することだろう。
4km規模の軌道跡を新たに発見する事が出来れば、私は現地踏査と机上調査の数字の一致をもう一度取り戻すことが出来る =(イコール) 天下の奪還だ。


“行方不明の4km”は、いずこにありや?


4kmというのは、決して短い数字ではない。

在処としては、それなりに規模の大きな谷が、想定されるべきだろう。

そうしたことから、必然的に私の疑いほぼ1個所に絞られた。



“田代川の谷”が、怪しいのではないか?

田代川では、一度目の探索(2013年1月)で坪井沢の軌道と連絡する隧道の存在が明らかとなり、実際に笹川湖に水没した【隧道坑口】が発見されている。
この田代川筋に入った軌道は支線と考えられ(路線名は不明)、後に手にした第三の証言者の地図でも、左図に「支線A」として示したルートが示されていた。

だが、全長300m近い長大な隧道を穿って田代川筋に入ったにしては、少々その先の軌道の長さ(≒受益面積)が足りないような気がしないでもない。
そもそも、「支線A」があるのは田代川の支流である。
本流沿いには現在、田代林道という車道が通じているが、この道が軌道跡であったとすれば、色々と納得が行く気がする。

現在の田代林道は、水没隧道附近の近くから始まり、終点は奇しくも、元清澄山の山頂直下にある。
ここで、“奇しくも”と書いたことには、二つの意味を込めている。
一つは、問題の『笹生活史』の記述との符合である。同書には、「元清澄山の下まで延べ11.5km」とあった。これまで把握していた終点である小坪井沢の奥も、確かに「元清澄山の下」に違いないが、田代川の奥地はさらに元清澄山の山頂に迫っている。
もう一つは下らないことであるが、私がこの一連のレポートのタイトルを「元清澄山の森林鉄道跡」と名付けた時点では、小坪井沢などというローカルな地名を知らなかった故に無理矢理そう名付けたのにも拘わらず、今になって元清澄山と軌道跡とのさらなる接近が現実的に見えてきたということに対する、“奇しくも”だ。


少し話しが脱線したが、他にも田代川沿いに軌道が存在した事を疑う材料はある。

例えば、机上調査編で紹介したにしみやうしろ氏提供の資料『千葉経営区経営案説明書 昭和25年度6次編成』に含まれる右図。
これは一帯の国有林の配置を描いた地図であるが、田代川の奥地、元清澄山の北側山域には広大な国有林が広がっているのが分かる。

このうち、現在の田代林道が通じているのは図中の63,64,65小林班であり、これらの領域には従来把握している軌道は入り込んでいない。
国有林はあるのに軌道はないという空白域なのである。(現在はその役割を田代林道が担っているのであるが)

ちなみに、地図上から読み取れる田代林道の長さは、「水没隧道」附近から「元清澄山山頂」付近の終点まで、約6.5kmである。
探している4kmよりは些か長いが、途中までは軌道跡を利用して林道を建設したなどというのは、飽きるほど聞く話しだ。

こうして私は、田代林道こそが行方不明の軌道跡であるとの考えを固めていった。
正直なところ、軌道跡が林道であるというのは、探索する上では余り萌える展開ではない。
だが、楽であるのも確かだ。
現地へ一度行って林道を軽く自転車で流せば、そこで何かしら軌道跡の名残を見付け、そのまま天下の奪還という結末が見える。
よし、このストーリーで行こう!



田代川源流部に“隧道がある”との情報を、ネット上で発見?!

房総半島内陸部での探索は、ヤマビルや藪の深さの問題から、基本的に12〜2月にしか行わない。

しかし今回は情報を得た時期が良かったため、すぐに探索を行うことを決定し、田代林道についてネットの情報を調べてみたところ、

そこで思わぬ情報を得て、私は騒然となった!!


これから紹介するリンク先を現時点で訪れるかどうかは、貴殿の判断にお任せしたい。
ネタバレとか、そういう次元の話しではないのだ。
覚悟の問題を言っている。

もし訪れて読み進めれば、貴殿は見るはずだ。


田代川の最奥、元清澄山のまさしく直下に存在する、渓水流れ通る1本の隧道を!

リンク先の探索者は、左図の位置で隧道を見つけて、実際に通り抜けている。
「川廻しトンネル」であると述べているが、私が知る川廻しは旧河道に耕地を得る目的のものばかりだ。
果たして、集落から果てしなく遠い国境附近(房総半島の中央分水嶺で、現在は君津市と鴨川市の市境だが、かつては上総国と安房国の国境だった)の峡谷に、通常の川廻しトンネルを掘る動機があるだろうか。

軌道という色眼鏡に毒された私には、これが、“行方不明の4km”に属する軌道跡の遺構であるように見えて、仕方がなかった。


……失礼! 肝心な紹介が遅くなった。
私がこの情報を得たのは、スー氏のブログ『降っても晴れても・・・』の「房総 笹川支流田代川を遡る」というエントリーである。



いざ、“結”を越えた最後の闘い、


第3次探索へ!!



「洞門橋」の前の「失われた隧道」。


2017/2/7 6:11 《現在地》

今回の出発地点も、2年前の探索と同じ地点にした。
ここは、県道24号から田代林道(および市道)を1kmほど入った所に架かる、小坪井橋の袂だ。

ここから元清澄山山頂にほど近い田代林道終点まで約6.5kmの距離があるが、スー氏のブログで隧道が発見されたと報告があった場所の入口までは、4.3kmほど。
まずはそこまで田代林道を前進するのだが、途中で、この林道が軌道跡だったと裏付ける何かが見つけられれば、なお良い。

今回もここからの足は自転車だ。行けるところまでは自転車で進むつもり。
未だ周囲は薄暗いが、最大限探索の時間を確保するべく、眠い目を擦りながらの出発となった。




小坪井橋前を出発して1分後に、この場所で立ち止まるのは、もう毎度のことだ。

4年の探索では、ここから片倉ダム完成以前の旧道(手前右の封鎖された道)へ入り、“水没隧道”の発見に至った。その時、旧道へ入ってすぐに【洞門橋】という名の橋のあったことを覚えている。
当時はそれを、“水没隧道”を示唆する橋名ではないかと考えたが、最近の調査から、それは誤りだったことが判明した。

現在の私は、この洞門橋の名の由来は、まさにこの場所、“洞門橋と明澄(めすみ)橋の間にかつて存在した隧道”にあったと考えている。



@
平成12(2000)年

A
昭和55(1980)年

B
昭和19(1944)年

右図は、新旧3世代の地形図の比較だが、昭和55(1980)年版を見ると、洞門橋と明澄橋の間に、ごく短いものではあるが、はっきりとトンネルが描かれている。

だが、片倉ダムの建設に伴う林道の付け替えが行われた後の平成12(2000)年版では、トンネルは消えている。
道路の付け替えに伴って撤去されたとみられる。

逆に昭和19(1944)年版へ遡ると、林道自体が描かれておらず、代わりに「小径」があるが、トンネルは見あたらない。
ここでは紹介しなかった他の版も見たが、昭和40年頃の版で田代川沿いの林道が登場すると同時に、このトンネルは描かれるようになった。

こうした地図を見較べた限りでは、いかにも隧道は林道として誕生したように見えるが、私は個人的に、ここにあった隧道は、軌道に由来するものであった可能性が高いと考えている。

そもそも、地図に描かれていない軌道に隧道があったとしても、それが描かれることはない。
だが、田代川沿いに軌道が存在したとすれば、地形的に、この隧道を経由しないルートは想定しがたい(迂回するような路盤の跡が見あたらない)。

お〜い、誰かここにあった隧道の写真を持っている人はいないか? 
かなり最近まで存在していた、貴重な軌道由来の隧道だった可能性があるんだ…。



いきなりの隧道話でレポートの進行を止めてしまったが、実際には、すぐに通過した。
そして、2年ぶりに明澄橋より奥の田代林道へ、足を踏み入れる。

前回通った時は特に意識しなかったが、軌道跡を疑う視点で見ると、たしかにこの道は非常に平坦で、いかにもそれっぽいと思える。
さすがに鋪装された路面に軌道跡を匂わせるものを見つけることは出来なかったが、幸先良い感触だ。




6:17 《現在地》

出発から6分、500mの地点で、2年前の探索で非常に重要な役割を果たした橋が見えてきた。
前回はこの地図に描かれていない、塞がれた橋を渡って、小坪井沢への峰越アプローチを行った。

今回は橋を渡らず、このまま田代林道を直進する。
そしてここから先は早くも、私にとっての未知のエリアである。



橋の前から眺める田代林道の進行方向。

明澄橋からここまでは、軌道跡らしい道が続いていた。

だが、まだまだ先は長い。未だ明けきらぬ田代川に、初めて深く侵入する。



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怖れていた事態の発生。 この道では、ない?! 


いきなりだが、

緊急事態が発生した。

景色は一見して普通の林道だが、私にとっては、ここに平静を乱される驚きがあった。

怖れていた事態が起きていた。


既にこの道は、

軌道跡ではない!




なぜ、そう判断したのか。

それは――

登りすぎなのである!

僅かな区間で、一気に高度を上げ過ぎだ。
上の写真と右の写真は一連の坂道だが、6:17に通過した分岐のすぐ先から10%前後はある急な登りが200mほども連続しており、道は一気に田代川の河床から離れた。

これは、軌道跡としてあり得ない線形。
……まあ一応は、インクラインやスイッチバックを用いて高度を稼ぎ出したという可能性も、ゼロではないのかもしれないが…。



(←) この急坂区間は、地形図では、こんな感じに描かれている。
正直、この地形図からは、これほど急激な登り坂で田代川から離れるイメージは持たなかったし、それゆえ、“田代林道の軌道由来説”を信じたのだ。

しかし、こうして現地で一度疑いの目を向けて見れば、この先の道のりもなんというか……

あまり、軌道跡っぽくはない。

大きなアップダウンこそないものの………いや、大きくなくても、アップダウンがある時点で、軌道跡としては不自然だった。
図中の左下の辺りなどで、林道は随分と、上ったり、下ったりを、繰り返しているじゃないか。

林鉄というのは通常、山元から土場へ向けて一方的な下り勾配になっていて、そこに上り勾配が入ることは“逆勾配”といって忌避される。
特にこの小坪井軌道ような手押し軌道において、木材を積載した台車を人力で押し上げねばならない逆勾配は、ほぼあり得ないはずなんだ。
インクラインとか、スイッチバックとか、そういう小手先の技以上に根本的な問題だ。


……ということは、どういうことになる?


………… ……… …… …


また、川の中か。

小坪井沢と同じように、

この林道の遙か下を流れる田代川の谷底に、軌道跡はあるのか……?

……その可能性は捨てきれない。 しかし………

前説でリンクを掲載したスー氏ブログを読んだ方は分かるだろうが、ちょうど彼がそこを歩いている。
彼は、私が6:17に通過した分岐のすぐ先で入渓し、林道が再び田代川を渡る上流の地点まで、約5kmも本流を遡行しているのだ。3時間ほどかかったとも書かれていた。

しかし、その間に何か軌道跡らしいものを見つけたということは、確か書かれていなかった。


これで当初の(心に秘めていた)目論見は、崩れ去った。
今回の元清澄山での探索は、田代林道を自転車で流し、その先で少しだけ沢歩きをして問題の隧道を見たら、満足して終わるつもりでいた。
長大な田代川の本流を歩きまわるつもりなど、無かったのだが…。

しかし、もうグダグダ言っていても始まらない。

とりあえず、今はこのまま田代林道を突き進み、スー氏が発見した、田代川源流谷底の隧道を目指す!
それを見て、本当に軌道跡なのかを判断してから、改めて下流のことを考えようと思う。



この上でダラダラと述べたような心中の葛藤を、私は立ち止まってやっていたわけではない。
自転車を漕ぎ進めながらやり、そしてこの写真の橋…「せんきょうばし」…(明澄橋と同じく、手書きの銘板だった)…を過ぎた辺りで、既に述べた結論(とりあえず進もう)に至った。

この(おそらく漢字で書けば)「仙境橋」は、田代川の無名の支流を渡っている。
そして支流を渡る前後の林道は、何の躊躇いもなくアップダウンをしていた。
やはりこの道、軌道跡ではない。



仙境橋を越えてまたひとしきり上りがきつくなり、それを越えると、少し見晴らしの良い広場があった。
そして、「この先車両の転回が出来ません」という、意味深な標識が。
こういうものが出て来たということは、おそらくこの先は…。

右の写真は、田代川の谷越しに元清澄山方面を望んだ眺めだ。
中央の一際高い部分が、標高344mの元清澄山だと思う。
この標高は千葉県の山ではベスト5に入るくらいの高さだが、現在地との標高差は150mにも満たない。
しかし、いかに近く低く見えても、道がなければ簡単に辿り着けないという房総の怖さを、私はもう知っている。

ところで地形図を見ると、この辺りから先には山中には少しだけ平坦な土地が広がっていて、「田代」という地名がふられている。
田代林道や田代川といった名前は、全てこの地名に由来するのだと思われる。
昭和19年の地形図には、周辺にぽつりぽつりと4〜5軒の建物が描かれており、田代集落と呼べるものが存在したようだが、現在の地形図では一軒しか描かれていない。



6:31 《現在地》

スタート地点から1.5km。
そろそろだろうという予感はしていたが、現れた。

封鎖されたゲートだ。

ゲートの周辺には、特に通行止めの理由や対象の説明はない。
というか、駐車禁止と書かれてはいるが、通行止めとはどこにも書かれていない。実力行使的にただ封鎖されていた。
脇は甘いので、歩行者や自転車には容易いが、自動車だとここまでである。

なお、右に分かれる道もあるが、こちらは私道との看板が立っていた。
すぐ先に民家が見えた。




ゲートを過ぎるとすぐにアスファルトの舗装が跡絶えた。
道に沿っていた電信柱もなくなり、いよいよ田代林道という名前に相応しい、本格的な山岳道路が始まる模様である。
願ったり叶ったりである。

また、私は今回の探索をするまで一つ勘違いしていたことがある。
それは、道の駅のある立派な交差点から始まり、元清澄山の山頂付近まで伸びている田代林道は、この山域のメジャーな登山コースだと考えていたことだ。
だが実際にはここまで首都圏の主要な登山コースなら当然ありそうな登山者向けの案内板はまるでなく、むしろ純粋な生活道路であり、そしてここからは林道であるようだった。
願ったり叶ったりである!




ゲートを過ぎてひとしきり下ると、また同じ作りのゲートが現れた。前のゲートから150mくらいしか進んでいないが、頻繁である。そして今度も閉じている。

また脇を抜けると、その先は橋になっていた。
ガードレールに銘板が2枚だけ付いていて、「梨木橋」「なしのきはし」という情報を得た。
竣工年などは不明である。




小刻みに上ったり下ったりしながら進んでいくと、路傍に一台の乗用車が打ち棄てられていた。

路面も所々コンクリートで簡単に鋪装されていたりはするが、落葉が溜まっているし、交通量は見るからに少ない。




さらに進むと、ますます香ばしい雰囲気になってきた。
何か劇的に路面状況の悪化するきっかけ(例えば大崩落)があったわけではないが、轍はどんどん薄れている。
というか、4輪のクルマは、もう長らく入っていない感じがする。
もともと鍵のかかったゲートの奥であるから、少数の関係者しか轍を維持し得ない。そのうえで、関係者にクルマで奥まで行く目的が生じなければ、自然とこんな感じになるのだろう。

実は、このように田代林道の奥が廃道状態になっていることもスー氏のブログで知った。そして、これを自転車で走るのが今日の秘かな楽しみだった。



6:55 《現在地》

スタートから2.8km(最初のゲートから1.3km)で、またしても田代川の無名の支流を渡る橋が現れた。
やはり銘板は2枚だけで、「節貫橋」「ふしぬきはし」と分かった。

この道は、本当にMTBで走っていて楽しい道だ。
猫の目のように谷と尾根の景色が入れ替わり、同時に上りと下りも変化する。
二つ上って一つ下るくらいのペースで、少しずつ房総半島の中央分水嶺へ忍び寄っていく。


節貫橋からしばらく進んだ所で、ついに物理的にクルマを通せんぼする自然障害が現れた。大きな倒木だ。

それにしても、ゲートを過ぎて砂利道に変わってからの方が、道幅が広い。狭いところでも4m、大部分は5mある。
これは私の想像だが、ゲート以降の田代林道は単なる林道としてではなく、登山バスの運行などを想定して整備されていないだろうか。

あまり知られていない事実だが、現在は君津市内で完結している「房総スカイライン」の昭和45年当初の構想ルートは、富津岬から勝浦まで半島を横断するというものであり、高宕山から清澄山へ峰伝いに走る壮大なスカイラインになるはずだった。だが、高宕山の天然記念物の問題などで全ルートを変更し、計画を縮小したのが現在のスカイラインである。当初構想の詳細なルートは決定しなかったが、元清澄山の一帯はまさにその経路上にあたっている。 …悪い癖で、本題とは全く関係ない未成の構想話に脱線してしまった。



7:13 《現在地》

新しい朝が来た〜♪

出発から1時間が経ったところで、ようやく山の端から今日の日が昇ってきた。

一瞬で世界の色が変わる。

轍の消えた広い道は、私を喜ばせるためにあるかのようだった。



今は再び下り坂に入っているが、この少し手前のピーク辺りが、田代川と林道の高低差が最大になる場所だった。7〜80mはあるだろう。

右の写真はキロポストだ。
これには「6.0」と書かれていた。
前後の数字のものは見あたらない。

房総の林道には、思わず「土の穴〜〜!」と叫び出したくなる(?!)ものが多いが、ここは珍しく高山然としている。
標高1000mと言われても普通に信じられそうな景色だ。本格派と言っても良い。



GPSで進捗を確認しながら進んでいるので分かるが、はじめは随分遠いと思っていた“今日の歩き出しの地点”は、もう間もなくだ。

田代川の源流へ入るためには、田代川を渡る橋から行くのが手っ取り早い。
そんなわけで、明澄橋以来の登場となる、田代川を渡る橋を目指して進んで来た。

この写真の橋ではない。
これはまたしても、無名の支流を渡る橋。
「倉見橋」といった。珍しく竣工年の表示があり、「昭和44年10月竣功」だという。
田代林道がこの辺りまで伸びてきた時期を示していそうだ。




7:22 《現在地》

来たッ!

次に見えてきた橋こそが、田代川源流の入口となる橋!

豪快な掘り割りを一気に駆け下って、未だ日の届かぬ谷底の橋上に躍り出た。
なんと、ここに来て1枚も銘板を持たない橋だった。
重要な位置を占めているのに、気の効かない。

…んなことはどうでもいい!!

問題は、4kmぶりに再会したこの田代川に、軌道跡があるのかどうか ――そこに尽きる。



それでは、谷底を覗いてみます…。

↓↓↓



…………


……


わからん。


だが、先人はこの谷川の奥に、間違いなく“隧道”を見た。


次回、“源流の隧道”へ!