道路レポート 塩那道路工事用道路 第8回

公開日 2015.10.11
探索日 2011.09.28
所在地 栃木県日光市〜那須塩原市


―― 遂に苦しみが去って、喜びが来た ――


2011年9月28日、13時8分。

塩那道路に私が再び立った日時だ。

私は朝日よりも先に麓の集落を出発し、以来誰とも遭わず7時間44分を費やして、13kmの“道”を実直になぞった。

スタート直後に自動車止めのバリケードがあったが、やがて自転車すら廃道を前に放棄させられ、以後ひたすらに歩行した。

そしてこの過程において私は、塩那道路の“工事用道路”とされるものの救いようがない実態を確かめる事が出来た。

なんていう表現では生ぬるい。カラダに叩き込まれたといった方がしっくりくる。いい加減ヘトヘトになった。

しかし、それはもういいのだ。


私がこうして無事に塩那道路上に辿りついた時点で、工事用道路の攻略という、この探索の最大目的は果たされた。

私がもしアルピニストであったなら、今は山頂にいるのと同じことだ。

となれば次に成すべきは、記憶と記録という成果をもって帰宅することに他ならない。

だが、お世辞にも面白みがあるとは言えない工事用道路よ、今少し待て。待ってくれ!

確かに今の私には、お前の他に生還すべき道は無いし、時間的に猶予がないことも知っている。

ヤブ漕ぎの身軽さを目論んで装備を選んだ今日の私に、この山で宿る覚悟はない。

だが、少々危険に近付くとしても果たしたいと思えるだけの、もし再訪叶うならばと胸に秘めていた希望があった。

それを今から果たさせてほしい。

簡単には来れないからこそ、今日という絶好の機会を逃したくない。


―― 6年前はヴェールに隠れたままだった、この道の“真価”の享受 ――

全国屈指の観光道路を目指していた塩那 ―スカイライン― 道路からの眺望を確かめることこそ、

私が目指した第2のピーク。最終達成目標であった。



一人きりの作戦会議


2011/9/28 13:08 (出発から7:46)

現在地は、全長約50kmの塩那道路の塩原起点から29.2km、板室終点から21.6kmに位置する、「記念碑」という地点である。
このすぐそばに塩那道路のパイロット道路開通を記念した石碑があるために、このように名付けられた。
地籍としては日光市横川と那須塩原市湯宮の境であるが、石碑がある地点は、僅かに那須塩原側に入っている。

思い返してみると、6年前の平成17(2005)年10月8日に行った一度目の探索では、塩原起点を5:20に出発して、記念碑へ到着したのは12:52だった。つまり29kmを移動するのに7時間32分を要していた。
対して今回の探索では、横川を5:22に出発したが、記念碑への到着は13:08である。13kmの移動に7時間46分を要したことになる。
そもそも移動手段が違っており、6年前は全線で自転車を利用したが、今回は13kmのうち6km近くは歩行を余儀なくされたなど、単純に比較はできない。しかし大雑把に考えても、工事用道路を使ったアプローチは、特段効率的ではないことが判明した。
ただ、物理的に「短距離だった」というだけだった。トホホだ。



「記念碑」という地名は現地の案内板にも書かれている正式なものだが、それとは別に、記念碑がある辺りを含む塩那道路中核の約5km区間を、6年前の私は恥ずかしげもなく、“天空街道”と名付けた。
私がかつての探索で名付けた通称の中には、歳をすこし重ねた今から振り返ると大袈裟で失笑するものもあるが、“天空街道”は例外で、全く名に恥じない実態があるので、今回もこの名前を使うことにする。

“天空街道”は、稀代の長延長50kmを誇る塩那スカイラインの約10分の1の長さを有する、まさに核心的というべき区間である。
残りの45kmは、全てこの“天空街道”へのアプローチに費やしていると言って良い。
この区間は標高600m〜1800mに広く展開する塩那道路の中で最も標高が高く、男鹿岳(1777m)鹿又岳(1817m)日留賀岳(1849m)などの山座を連ねる、鬼怒川水系と那珂川水系の分水嶺(6年前のレポートではしばしば「奥羽山脈の主稜線」としていたが、これは誤りで、奥羽山脈の主脈に属するのは男鹿岳のみ)の稜線に沿って走る、海抜1650m以上の区間のことである。

中でも鹿又岳の周辺は標高1800mという本路線の最高地点であるだけでなく、パイロット道路の開通をもって工事中断とされた本路線にあって、例外的に完成形に近い工事が行われたとみられる箇所である。かつまた、最高の眺望を期待できる地点でもある。
塩那道路を未成道として味わうなら、その完成形を垣間見る事の出来る場面は非常に重要なものであるし、ここからの眺望を「晴れた日」に体験したいというのは、再訪の大きな動機であった。

もしも、私に無限の体力か、あるいは時間を操る程度の力があったなら、せめて“天空街道”の区間くらいは全線再訪したに違いないのだが、今日の私は当初の予測以上に工事用道路で体力と時間を奪われた。
そのうえ、位置エネルギーを運動エネルギーに高率変換出来るという魔法のツール“自転車”もない。
今の私は、6年前は持ち込めた自転車を持っていないことを凄く心細く感じていたし、現実として、徒歩のほか移動手段がない状況は行動の自由度を制約していた。
山中泊の準備をしていない以上、登りに7時間を要した道を、夕暮れまでに逆さになぞって下山しなければならない。
大雑把に、かつ経験に頼って予期すれば、この帰路に要する時間は、4時間程度であろうとみる。
自転車回収後は夜道を妥協するとしても、日没時刻17:30から逆算して考えれば、14:15頃には、再びここへ戻って下山体制に入りたい。

現在時刻は13:08である。

たった1時間かよぉぉぉ……。

苦しみの先に巡ってきた、せっかくの楽しみの舞台だったが、その到達目的地を、現在地「記念碑」より片道2km強の位置にある「最高所」と定めたことは、至極、やむを得ないことであった。文句があるなら、工事用道路に言ってくれ。




実際には、じっくり立ち止まって思索したわけではなく、歩きながら行っていた一人きりの脳内作戦会議の報告は以上である。
片道2km、往復4kmという、ささやかながらも自身の限界に挑戦した塩那道路“天空街道”の歩行探索を、これよりレポートする。




「記念碑」付近の塩那道路の変化


13:08 《現在地》 (下山開始リミットまで67分)

6年の歳月の流れは、塩那道路という名の敗残者の健康を、どれだけ害しているだろうか。
この疑問は、現地を直に見るまで確かめる術が無く、ずっと胸に抱いていたことだった。
しかも6年間のうちの後半5年間は、栃木県の施策として「塩那道路の廃道化」が正式に進められていたはずだから、こうして私が目にする光景が極めて大きく豹変していることも、十分に考えられた。
具体的には、かつての路上に満遍なく客土がなされ、そこに多くの草や灌木が植えられているような光景が予測された。

だが、現実はこの通りである。
廃道化工事に着手してから最初の5年でどれだけ工事が進んだかの答えを、この「記念碑」前の光景だけで求めることは危険だが、とりあえず胸をなで下ろした。
実質的な廃道化工事は、まだこの地点にまで及んでいないようだ。
一見して、塩那道路はまだ息をしていた。
往々にして予算に潤沢ではない県の事業は遅速なものだが、塩那道路の廃道化などという、過去の清算じみた後ろ向きとしか言いようがない事業は、他の未来的で希望に満ちた事業の後回しにされているのかもしれない。

しかし、全く変化が無いということは、もちろん無い。
例えば、6年前の我々に工事用道路という(唯一の)脇道の存在を強く意識付けた、「板室方向」と書かれた朽ちかけの標識は、何処へ消えたか、全く見えなくなっていた。
また、厳密に言えば再訪は6年ぶりではなく、5年と約11ヶ月ぶりであったのだが、この1ヶ月という季節の違いから来る風景の変化も、標高1700mという高所においては、案外に大きなものがあった。
そして忘れるはずもない、天候の違い。これも印象を大きく異にする要因となっていた。



この日の“天空街道”は、ひたすらに明るかった。
6年前のただひたすらに悲愴で陰気な、一人なら立ち止まるだけで厭になるような気配が、まるでない。
徹底して山奥であるはずが、ここに道が確かにあるというだけで、気軽な安心感があった。
(冷静に考えれば大いに疑問符がつくが、確かにそう感じた)

そして、平地の人々がきっと暑さに喘いでいると思えるくらいに、この高所の気候は、居心地が良かった。
特に熱くもなく寒くもなく、日光の下に着衣のまま横たわって、そのまま快適に眠れるくらいの温かさと、そよ風があった。

さらに私を安心させたのは、6年前と変わらずそこにある「記念碑」と、やはり変わらずに建つ一棟のプレハブ小屋を見たことである。
前者は仮に廃道化が進んでいてもあるだろうと思っていたが、後者は危ういと思っていただけに、この「変わってなさ」は、安心に繋がった。




盤石に健在だった、記念碑。

今後、本格的に人為的な廃道化工事が行われるとして、この碑はどうするのだろう。
自然石を用いた3m四方はあろうかという巨碑であるから、道が荒れれば荒れるほど運び出すことは難しくなり、この重さでは空輸も容易ではないだろうから、やはり道と運命を共にするのであろうか。

もしここに残り続けるなら、きっと100年後のオブローダーにとっても、この碑は訪れるだけの価値がある遺構になる。
我が国が異常な道路熱に浮かれていた時代を物語る、究極の遺物である。
それに、尾根という立地から考えて、相当の天変地異があっても、(火山噴火で何メートルも火山灰が積もるなどしない限り)、本碑が地上から失われる事は無い。
いずれ遠い未来になって、塩那道路が建設される前の大木の森が一帯に蘇ったとしても、その根元に本碑は残り続ける。



記念碑の台座から眺める、プレハブ小屋と塩那道路。

本当に空が近い。

さすがは“天空街道”だと思う。

6年前にここで見たのは、空と言うよりは雲であったから、今日のこの眺めはとても新鮮。

この先の道でも、きっとこの新鮮な気持ちのまま、さらなる絶景に巡り会えるのだと思うと、刻一刻と失われていくたった1時間というタイムリミットが、口惜しい。




記念碑がある一帯は、稜線の東側に視界が開けている。

しかし、この方角にある那須野が原の広大な平野は、いかに快晴であっても見る事が出来ない。
彼我の間には、標高1908mと僅かに塩那道路より高い大佐飛(おおさび)山が、主脈からポツンと離れて聳え立ち、宇宙に吸い込まれるような青空を画していた。




唯一、大佐飛山の向こうの空間を窺い知れるのは、北東方向に続く木の俣川の深い谷間だけなのだが、それとて最果ては那須岳の主峰群に妨げられており、“地上”に視線は届かない。
関東平野の北端に連なる那須野が原を見下ろすためには、潔く大佐飛山に立つか、せめてこの“天空街道”の北端辺りまで行かねばならないと思うが、その時間はないようだ…。

そしてこの遠い風景はそのまま、塩那道路を板室へと下ることの延々として蜿蜒たる道のりを物語っている。
6年前には位置エネルギー運動エネルギー高率変換器があったので、ここを13時に出発した我々は、なんと15時30分頃に「おわり」へ辿りついたのであるが、21kmあまりの道のりを“歩行”すれば1日がかりである。



13:29 (下山開始リミットまで45分)

記念碑をいま出発した。
のはいいのだが、最初から1時間くらいしかタイムリミットがなかったと理解していたのに、既に残りが45分くらいになっている。

一体ナニガアッタ。
言い訳をすると、私が疲れすぎていて、歩き出しに時間を要したのである。
申し訳ないが、私は皆さまの期待に応える以前に、自分自身の期待にも応えられないかもしれないと思う。
今になって思い知る。今朝からの7時間、特に後半3時間半の激藪バトルが、どれほど私の太腿を徹底的に痛めつけていたか。
これから下りならばまだしも、また少し登るという事実に、私の下半身は肉離れの予感を伴う拒否反応を示した。

足を休ませる必要が生じたのである。それも、この大切なときに限って、15分間も。

この15分間に私は記念碑周りの写真を撮ったり、景色を眺めたり、プレハブ小屋のドアノブに手を掛けたりした。
そしてやっと少し足が回復したので、リュックから最低限の飲食物だけをウェストポーチに移し替え、リュックを記念碑近くに残して、身軽な状態で歩き出した。



歩き出した序盤は、引き続き東側にのみ眺望が広がっていて、空を除いた大部分は大佐飛山の大きな山体に占められる。
その余りは、南東方向に流れていく大蛇尾(おおさび)川の峡谷に開いた僅かな空間だが、それとてこの方角の果てにある関東平野までは見通されず、本路線の塩原へと通じる果てしない(約30km)経路の一角を占める長者岳(海抜1640m)や、それに連なる小佐飛山によって遮られている。

今はまだ、塩那の真価を発揮出来る位置にはいない。
しかし、少しでも傾ければ眺望が溢れ出る、そんな満水の鼎のように、“天空街道”は地上の高い位置を占めている。
雲という名の蓋を持たない今日は、私がもう少しだけ頑張れれば、もう絶え間なく溢れ出て止まらないはずだった。

歩き出すなり、トボトボという擬音を付けたくなるような疲労感に苛まれた私だったが、身を包む空の青さを励みに、道を追い掛けた。




前述したとおり、記念碑から最高所までは、約2kmの道のりである。
このうちの前半約900mは主稜線の東側を通り、後半は西側に移る。
そしてこの前半部は海抜1700mの等高線からほとんど離れないが、細かく見ると主稜線にある3つの小さなコブをかわすために、微妙な上り下りがある。
自転車ならば、意に介すまでもない小さなアップダウンだが、徒歩で、しかも疲労が蓄積した私には、この3つのコブを越える道でさえも、遠くに感じられた。

写真はふたつめのコブを前に撮影したもので、コブに引きずられるようにして、道がアップダウンしている様子が分かるだろう。
しかも、パイロット道路だからなのだろうが、登りも下りも勾配が結構急で、地味にキツい。
そしてふたつめのコブの向こう側には、とても低いみっつめのコブは見えず、そのままコブではなくて山体と呼ぶべき大きさと高まりを持った鹿又岳が聳えている。
そのピークの辺りが、私が目的地と定めた最高所付近であり、近いと言えば近いのだが、これがなかなか思い通りには行かない。



塩那道路のシンボルとして、ここを訪れた誰もが印象づけられるのが、沿道の数十箇所に立てられた、独自のフォーマットを持った地名案内の看板である。

塩那道路以外でこれを見たことは無く、おそらくこの道だけの特注品なのだろうが、観光道路として一般に解放されたことのない(かつてバイクなどが通った時期があるようだが、一般に「解放」されていたとは思えない)ので、一体誰をターゲットにした案内板なのか不思議なものである。

今回私が歩く行程では、冒頭の「記念碑」で看板の健在を確認しているが、次の設置地点は、そこから約700m離れたふたつめのコブの途中にあり、「大蛇尾展望台」という。
しかしこれが6年前はまだなんとか支柱にへばり付いていたのに、今回は地べたに表を上にして転がっていたのである。
おそらく人為ではなく、風や雪によって自然に脱落したのだろうが、6年前の時点で既に見つからなかった看板が多数あった理由も、これで分かった気がした。
たぶん次に来たとき、「大蛇尾展望台」の位置を知る手掛かりは、失われているだろう。



そしてこれが「大蛇尾展望台」の看板付近から見た、那須連峰の展望である。ご堪能あれ。
正面の大佐飛山の眺めも悪くないが、塩那道路が通る主稜線と大佐飛山を結ぶアーチ状の鞍部を“窓”にして眺める那須連峰が、ここでの白眉である。
ちなみに、手前の鞍部と遠くの那須連峰の間に挟まれ、よく目立つ東西方向の尾根が、この道の終盤を戦う場所だ。

なお、前後の区間に較べ、ここだけが特別に眺望が優れるわけではないのだが、おそらく塩那スカイラインが完成した暁には、近くのふたつめのコブの天辺にちゃんとした展望台(もちろん駐車場とかも)を設置する計画があったものと推測する。
他にも一連の案内看板の地名には、将来的な計画を匂わせるものがいくつかある。
パイロット道路が“本番”の道路へ進化する余地が、こうした地名からも伺えるのだった。



13:46 (下山開始リミットまで29分) 《現在地》

記念碑から約800mを歩き、みっつめのコブに到達。
いよいよこの先で道は主稜線を横切って、その西側へ移っていく。
新たな眺望が得られるようになるまで、もう幾らもかからないだろう。

また、これまで海抜1700mを基準としたアップダウンだったが、ここからは“天空街道”の中でも最も天空に近い、海抜1750mから1800mの間を行き来する最上階へ立ち上がっていく。
そのための駆け上がりが、今見えている正面の急坂となる。
この坂を登るのは初めてのことであるが(前回は自転車で下っただけ)、思っていた以上に急坂で、しかも長さもあり、気圧された。

もう私は、自分の足を騙すことが出来ていない。
明らかに普段のペースで歩けていないのだ。直近の15分で800mを進んだが、これでは到底14:15までに片道2kmを往復することが出来ない。
もう計画は破綻寸前であった。

だから、もしここで「一天にわかに掻き曇る」なんてことがあったとしたら、私は大事を取って、すぐさま引き返しただろう。
だが、今日の空は高山とは思われぬほどに安定しきっている。
快晴は少しも綻ぶ気配が無いばかりか、夕暮れさえずっと遠くにうずくまったまま近付かず、春と同じくらいに永く日がある気さえした。そのくらいに空は青く澄みわたっていた。

私の中に、数時間前のある頃から徐々に形成され、腹案としてうずくまっていたものが、急激にはっきりと形を見せ始めたのは、この時だった。

その腹案は、確かに出発の時点ではなかった 想定外の行動 に違いはない。

でも、タブーではない。 山に親しむ自由人 ならば、むしろ自然な行動とも思えるもの。


ずばり……



「今夜は、プレハブ小屋で明かそうかと思うんだが。」

さっき、ドアノブを回してみたら、6年前と同じように開いていた。宿は確保されたと知った。

ただし、この塩那絶頂世界には、下界と連絡を取る手段がない。
私が今夜戻らないという計画の変更を誰に伝える術も無いことになる。
しかし、常々こういうこともあろうかと、私は誰にも下山日を伝えないか(最近は安全を考えて)日程に1日の猶予を加えて伝えたうえで、探索している。
ゆえに一晩くらいならば、遭難騒ぎの畏れもない。

私が疲労を押して強行軍の下山を行い、夕暮れの山を彷徨うリスクを思うならば、いかなる風雨にも耐えられるプレハブ小屋で一夜を明かして、明日のんびりと下山したほうが安全だ。ちなみに天気予報は明日も晴れ。体力的にも、精神的にも、これが良手だと思う。
この計画の変更を「遭難寸前」と危惧する人もいるかも知れないが、私はそう思わない。これは廃道探索という、時間の予測が難しい活動の結果に生じた危機を無難に回避し、さらに探索成果の上乗せをも狙った、欲張りな“転進”である。

今夜をプレハブ小屋で明かしてもイイならば、もう私を苦しめるタイムリミットから解放される。今から3時間は、“天空街道”を散歩してOKなハッピーターンとなる。

肝心なのは食料だが、普段から多めに携行しているので、最低2食分(今夜と明日朝)は余裕がある。
水についても、“天空街道”は砂漠同然なので本来ならピンチだが、これまた1日分は余裕がある。
唯一の懸念は寝袋を持っていないことからくる寒さだが、朝のうち身に付けていた薄手のジャンパー(すぐに暑くなって脱いだ)がリュックにあるので、プレハブ小屋で風さえ凌げるならば一晩は耐えられよう。




決めた!!

今夜は塩那道路で寝る!



憑き物が落ちたように悩みを解消した私は、俄然元気を取り戻し、“天空街道”でも特にキツイ登り坂に立ち向かい始める。

そして、頃合いを見て振り返ってみる。

そう。この場所こそ、6年前の私を道中で最も興奮させた眺め。見覚えがある読者も多いだろう。

今では少しこそばゆいが、あまりの興奮で、“万里の長城”とか“バベルの塔”と宣った記憶がある。

そこに再び到達した此度の感想であるが……

極度に解放された心境と、蒼天の景趣の相乗である。 言うまでもなく、

至福。

前回も素晴らしく、今回もまた素晴らしく、塩那の晴曇に甲乙を与え難し!



遂に主稜線の西側に入り込み、6年前はほぼ一面の雲海に溺れていた領域が、

一縷も纏わぬ全裸体となって、私の前に現れた。


そ、それでは見るぞ……。