隧道レポート 国道27号旧道 吉坂隧道 後編

所在地 京都府舞鶴市〜福井県高浜町
探索日 2016.10.17
公開日 2017.12.18


吉坂隧道の東口は、どこにある?

前回、西口を発見したが、内部は落盤のため坑口からわずか20mほどで完全に閉塞していた。
隧道の通り抜けができなかったので、今度は東口を探してアプローチしたい。

ただ、東口の位置については、大きな謎があった。
それは、「大鑑」に本隧道の全長として記載されている141.5mという数字は、峠を潜り抜けるには短すぎるという問題だ。
右図に付した青丸は、西口を中心に描いた半径141mの円だが、この長さでは到底峠を貫くことが出来ないのである。
極端にトンネル内部の勾配を大きく取れば、吉坂峠の頂上辺りに抜けることは不可能でないかも知れないが、それはあまりにも不自然である。

…結論として、「大鑑」のこの数字は誤りなのだ。
しかし、それは現地探索も机上調査も終えた今の見解であり、探索前の段階では東口の位置を考える上での大きな障害になっていた。


前回の冒頭でも述べた通り、吉坂隧道はそれが極端に短命な存在であったためか、歴代の5万分の1地形図に正しい姿で描かれたことがない。
そのため、発見できないことへの警戒が普段よりも強くあり、そのためやや念入りの事前調査を行ってから探索に望んだ経緯があった。

旧地形図に代って旧隧道の位置確定の役に立ってくれたのが、古い航空写真だった。
右図は昭和27(1952)年の航空写真だが、ここにお目当ての吉坂隧道が写っており、坑口前後の道から坑口の位置を推測することが可能である。
そして、変化後の画像はそれから11年後の昭和38(1963)年に撮影されたものである。

2枚の写真を比較してみると、この短い期間に吉坂隧道の西口に通じる「旧道」は、完全に見えなくなってしまった。
新トンネル(青葉隧道)建設に伴う残土(ズリ)で埋め立てた可能性が高そうである。
そして懸案である東口の位置であるが、青葉隧道の東口から非常に近い位置に存在していたように見える。

…場所はだいたい分かったが、これはこれで新たな懸案事項となってしまった。
下手したら建設位置が重なってしまっていて、そのために旧坑口が破壊されてしまった可能性もありそうだ。
(だから今回は西口により大きな期待を抱いていたのだが、閉塞していたものは仕方ない。)



北陸山陰連絡の大使命を受け継ぎ働く、青葉隧道


2016/10/17 16:27 《現在地》

これから現道の青葉隧道を通って、吉坂隧道の東口擬定地へ向う。
青葉隧道は国道27号のバリバリの現役トンネルだが、ただ「通った」というだけで済ませるには惜しい。
なんと言っても、今心を傾けている吉坂隧道の突然の廃止を受けて急遽建設されたトンネルという重大な関連性があるのだ。
少し細かく見ていきたい。

新旧道の分岐地点から見る青葉隧道の印象は、傍らに赤文字の看板で「せまい・カーブ」などと軽いディスりを受けているが、個人的には狭いとかしょぼいという印象はない。
元一級国道のトンネルとしては不足のないサイズだと思うが、古さは感じる。それは今風ではない坑門のデザインのせいだろう。

予備知識として、「大鑑」における本隧道の主なデータは次の通りだ。

吉坂隧道 全長343.6m 幅員7.5m 高さ4.5m 竣工昭和31年 覆工あり 舗装あり

なぜか吉坂隧道という名前になっているが、これは青葉隧道のデータである。
平成16(2004)年度の道路施設現況調査(国土交通省)に、次のデータが収録されている。

青葉隧道 全長343m 幅員7.1m 高さ4.5m 竣工昭和31年 

このように明らかに同じ隧道である。



反対車線に目を向けると、隧道を通り抜けたドライバーに向けられた大きな案内標識が目を惹いた。
内容は県境のトンネルに付き物の「都道府県」と「市町村」の標識なのだが、その2枚に挟まれて舞鶴市をイメージしたと思われる大きなイラストの標識が掲げられていた。
そのイラストの内容が、煉瓦のトンネルの向こうに大きな船とヨットとカモメが配された海空が広がっているという、いかにもトンネルの存在を美化したものなのだ。

この看板の設置者が舞鶴市か京都府か国土交通省かは分からないが、舞鶴とトンネルの関わり深さを印象づける戦略があるのかもしれない。
まあ描かれているのは、煉瓦のトンネルと言うことで、市内の観光名所である北吸隧道だと思う。
交通路としてはこの青葉隧道の方がよほど活躍していると思うが、いかんせん働き過ぎて華がない感じか。ここからは海も見えないしなー。

読者さまからのご指摘で後日判明したのですが、このイラストはトンネルではなく、赤レンガ倉庫の窓だそうで…。てへへ…。



おおっ! この意匠は!

分かるぞ〜。私には分かる!
特徴的な胸壁の横縞模様に、先代の意匠の影響を感じる! (と、いきり立ってみたものの、冷静になると以下の通り)

全体的にマッシブな印象も変わらないが、こちらの方が遙かに豪華に見える。
アーチリングに本物の石材を用いているから存在感が強いし、件の縞模様もより深く刻まれていて派手だ。極めつけは、胸壁が面一ではなく“逆パラペット”のように坑門部が突出している。この意匠は珍しいものだ。

…うん、正直全体の印象はそこまで似ていない。単に同じ時期にデザインされたから、当時の縞模様の流行が被っただけで、特に意匠を似せる意図はなかったかも知れないとも思えてくる。



洞通鶴舞
昭和三十一年 京都府知事 蜷川虎三

やっぱり扁額が格好いい! より新しいトンネルでありながら、今度は時代に逆行するように敢えて右書きで攻めてきた。
内容も地図などにトンネル名として記載されている青葉隧道(青葉トンネル)ではなく、「舞鶴通洞」と来たもんだ。

「松籟洞」は純然たる嘉名と思われるが、こちらは隧道名そのものだと言っても通用しそうだ。
この扁額を目にするドライバーの9割は解さないだろう「通洞」というネーミングセンスが、古い知識人好きのする感じで惚れる。
国語辞典によると、通洞は鉱山における最も主要な水平坑道をさすものとされ、一般の道路トンネルのネーミングに用いるような用例は示されていないが、この隧道の先の福井県には1本、通洞を正式名称として名乗っているトンネルがある。国道158号(中部縦貫自動車道油坂道路)の越美通洞(福井岐阜県境)がそれである。

この立派な扁額には、28年の長期にわたって京都府政を担った蜷川府知事の名も刻まれており、扁額としてまさに盤石の体制である。
そして、ここまで扁額のことばかり語ってしまったが、古色を帯びた坑門に容赦なく現代の電気設備や信号機などが取り付けられている、フランケンシュタインの怪物じみた姿が、超好き! 抱いて!
廃隧道の悲しみの味と、重労働トンネルの汗の味は、私の中で甲乙付けがたい。


青葉隧道に入った直後、反対車線の側壁に工事銘板を見つけた。
ただし、現代の多くのトンネルに見られる工事銘板のような金属プレートではないコンクリート板であり、記載内容も少ない。

昭和31年3月竣工
青葉隧道
前田建設工業株式会社施工

前田建設工業(wiki)は、ゼネコンの準大手で、福井県が創業の地である。現在は世界中で仕事をしている同社だが、昭和31年当時は福井の県境で国道工事を請け負っていたのか。

それにしても、このような工事銘板は、吉坂隧道にも存在するのかも知れない。
断面の下半分が埋没しているため、確認出来ないが…。




うーおー!

狭くはない!狭くはないが車が多いッ!

そのうえこの激しいカーブだッ!!

路肩の私はガンガン責め立てられている(気がする)。
そりゃ、バンクがかかっているわけでもないのに、写真も傾きますわ。
全長343mのトンネル内最大の特徴が、このキツーイ“バナナ”カーブだった。
敢えてこんな線形になっているのも、旧隧道や災害絡みの“訳あり”なんだろうなぁと、勝手に納得。



それともう一つ、このトンネルの大きな特徴が、これは実際に進入するまで気付かなかったが、片勾配だ。

このトンネルは、京都府から福井県に向って一方的に上っている。
勾配自体はトンネル内にあっても珍しくない緩やかなものだが、トンネル内の県境にサミットがなく、東口まで登り続けているので、全体としては5mを超えるアップがあると思う。

普段なら、だからなんだという程度の話だが、近い位置に隣接する旧隧道との関係を考えると、これも意義深い勾配と思えてくる。




16:30 《現在地》

暴風と爆音に追い立てられながら、東口に到達した!
京都府舞鶴市から、福井県高浜町へ。
しかしいま越えたのは、ただの県境ではない。かつての丹後と若狭の国境、そして、近畿地方と北陸地方という国土の大きな境でもある。
吉坂峠、吉坂隧道、青葉隧道、これらが担う広域交通の使命は、とても重い!

そして、トンネル内ずっと続いていた上り坂の終わりは、この東口のすぐ先にあった。山なりになった路面の勾配が写真でもよく分かる。



青葉隧道の福井県側坑口も、京都府側と全く同じ意匠だが、掘り割りの中にあるので、山地の印象が強い。
扁額の文字はやはり古風な右書きだが、地図や行政資料上の名称である「青葉隧道」と刻まれていた。揮毫者の名はないようだ。

全国的には、隧道の扁額は両坑口で共通のものが用いられることが多いが、関西近辺では片方に嘉名を入れるなどして異なるパターンがしばしば見られる。
その場合でもほとんどは、片側には一般的な隧道名が入れられる。
そう考えると、まだ見ぬ吉坂隧道の東口の扁額には「吉坂隧道」と左書きで刻まれている可能性が高いと予想できた。

さあ、見せてくれ! その姿を!!




吉坂隧道東口擬定地での捜索


16:31 《現在地》

こ、これは……。

事前の航空写真での調べによって、吉坂隧道の東口擬定地は、青葉隧道東口の南側隣接地と考えていた。
それは、写真内に枠を表示した辺りということになる。

…うん、悪い予感が…。

なお、左上方には旧々道の吉坂峠の深い切り通しが、木立の合間に微かに見えている。この切り通しの見え方は、先ほど発見した吉坂隧道の西口付近からの【眺め】と距離感がよく似ている。
その点からも1本の隧道の表裏として頷ける感じだ。




近寄ってみると…

なるほど…、なるほど……。

現道のガードレールの外側に、平らな三角地が存在している。

事前調査がなければ特になんとも感じなかったかも知れないこの微妙な三角地が、“痕跡”ということになるのだろう。




昭和27(1952)年の航空写真を見ると分かるが、吉坂隧道東口の道路は坑口直前で少しだけ南側にカーブしていた。
それが昭和38(1963)年の航空写真に見る青葉隧道東口の道路は、曲がらずまっすぐ坑口に突入し、カーブはトンネル内に設けているのである。

この東口前の道路の線形の微妙な差異が、“三角地”の正体ではないかと思う。

……とはいえ、こんな些細な事実(事実とも限らない)に興奮できるのは少数派で、大勢が期待しているのは“現物”だと思う。
これよりガードレールを越えて、三角地の調査に入る。




ないよ〜(涙)

あんなにでかかった西口を思えば、実在するなら見逃すはずがない。

でも、見当たらないのである。

もちろん、この写真1枚を撮影して終わりではなく、この上部にある旧々道までの
斜面全域を捜索したが、全くない。陥没痕すら見つからなかった。これが現実。
ほんの15分前に離れた西口のイメージが、急に遠くになったように感じられる。
あれが吉坂隧道がこの世に残した唯一の形見だったなんて…。悲しすぎる。


別アングルからの撮影。

率直な感想として、坑口という特異点を存在させるほどの落差が感じられない。
全体的に斜面が緩慢で、人為的に掘ったり削ったりした形跡が薄いように思う。
東口は現道に近すぎることが不安材料だったが、坑門の痕跡すら見つけられないのは予想外だった。



見つけられない原因はいくつか考えられる。まずは探す場所が違っている可能性。
だがこれはほぼないと思う。しかも、この後で探索範囲を周囲に広げても見つからなかった。

隧道を破滅させたという災害で完全に失われたという可能性。これは十分ありそうなことだし、お手上げである。

現道の工事で失われた可能性。実のところこの可能性が一番高いと思っている。
現地を見た私の感想として、“三角地”や現道に埋め立てられてしまったという説を推したい。

完全な想像の図だが、イメージとしては右図のような感じだ。
旧隧道が災害によって潰滅していたとすれば、旧道の交通を確保したまま新道の工事を行う必要がないし、まして旧隧道がさらなる崩壊の可能性がある不安定なものだったとしたら、埋め立ててしまうという選択肢は十分考えられる。新隧道の掘削で生じた残土があるから、埋め立てを行うのは容易いはず。


“三角地”の山側の法面は、この周辺では例外的に切り立っている。
その表面のシダや苔を少し剥がしてみたところ、どうやら間知石の石垣であるようだ。

この石垣が旧道の坑口へ通じていたものであるかは不明だが、仮に現道の工事に伴って作られたのだとしても、ここに旧道が埋もれていることを否定はしない。
私はどうにもこの三角地が気になって仕方がないのだ。

掘り返して調査されることは永遠にないだろうから、せめて旧状を撮影した写真が見たい。
それが、探索後机上調査の最大の目的となった。




吉坂隧道の東口は実在しない。

結果は不本意ではあるが、ないものはない。
オブローダーは廃道の現状を確かめる使命があり、それは果たされた。
不足のピース探しは机上調査に引き継ごう。

それにしても、この状況を知ってしまうと、ますますあの西口は貴重な存在である。
世の中には人為的に開削されるなどして完全に消失してしまった廃隧道も数多くあるが、この隧道は地中に未知の領域を数百メートルも残していることが想像されながら、そこには決して近づけないという点で、大いに蠱惑的だ。
あまり書くと言い訳じみてくるかも知れないが、分からないからこそ惹かれるというのはあると思う。


16:36 《現在地》

東口から約1km、単調な下りの先に福井県側の最初の集落である六路谷が見えてきた。
この直前に通り過ぎた杉森神社から、吉坂峠の旧々道が引き返している。
私もこの写真を最後に引き返し、旧々道から舞鶴へ戻り、探索を終えた。




吉坂隧道廃止の真相と「写真」を求めて… 机上調査編


災害による廃隧道という事前情報に違わぬ、なんとも厳しい現状であった。
それでも西口が残っていたのは幸いで、おかげで現在まで活躍していても不思議ではないくらいの立派なトンネルであったことが実感できた。
その立派なトンネルを潰滅させた、「角川日本地名辞典」に「災害」とだけ書かれている、昭和28年に起きた出来事は何であったのか。

また、同書によると吉坂隧道は昭和25年の完成とされており、それが事実ならばたった3年しか存続しなかったことになる。
そんな徒花のように散った隧道の在りし日の姿が見たい!!
それは私でなくても思うことだろう。

こうした動機と目的を持って、机上調査をスタートさせた。
そしてその調査は、元一級国道のメジャーな位置にあるトンネルであることを考えれば、予想以上の難航となった。
参考までに、これを執筆している現段階までで確認した“主な”文献を列記するが、本文で採り上げなかったものは基本的に「空振り」だったということである。(私を引き継いで謎を解明しようとして下さる方の参考になれば幸いだ)

主な調査済文献名 (順不同)
  • 舞鶴市史 通史編(中)
  • 舞鶴市史 通史編(下)
  • 舞鶴市史 現代編
  • 舞鶴市史 年表編
  • 高浜町誌
  • 建設省近畿河川国道事務所 50年のあゆみ 記録編
  • 北陸地方建設局三十年史
  • 越前・若狭 峠のルーツ
  • 北陸の峠
  • 敦賀・若狭の百年
  • 新わかさ探訪
  • 福井県土木史
  • 福井県土木史 第II巻

吉坂隧道は、県境にある隧道であると同時に北陸と近畿という大きな地方の境界でもある。そのため、例えば建設省の年史を探すにしても、「建設省近畿地方建設局」と「建設省北陸地方建設局」の両方にあたる必要があった。それで調査量が増えた部分もある。

また、基本的に「吉坂峠」そのものについては、多くの文献に一通りのことが述べられているし、ネット上にも多くの情報がある。
そこは江戸時代から明治・大正・昭和戦前までの代々の丹後街道である。明治19年頃には荷車が往来する程度まで改良され、後には乗合自動車も通った。明治37年には国道53号線、大正9年に国道35号線というふうに、現行道路法施行以前から長らく国道の座も射止めていた。基本的にこれらの国道は舞鶴鎮守府との関わりから認定されたものだが、我が国の日本海側における重要路線と認識されていた。
それだけに吉坂峠は、現道から見れば旧々道(というかほとんどの文献は旧道としている)でありながら、今も存在感を留めている。
しかし、旧道である吉坂隧道については、短命すぎてスルーされまくっているというのが全体的な印象だった。



吉坂隧道をスルーしなかった貴重な文献の一つが、『高浜町誌』(昭和60(1985)年発行)である。
いくつか引用しよう。

舞鶴には海軍鎮守府がおかれて軍港が開設され、日本海防備の要衝として軍備は着々充実しそれにつて交通も徐々に変革の兆しが見えて来た。そうした中において昭和六年突如満州事変が勃発した。風雲暫くは低迷するかにみえたが程なく昭和十二年日中戦争となり、さらには太平洋戦争に発展するなど、銃後の様相は目まぐるしいばかりの変転を繰返し、交通の上にも大きな変革をもたらした。
すなわち、戦時下の日本は、戦略物資輸送の要路として丹後街道が浮上し、昭和十九年吉坂峠の墜道開鑿工事が始まり昭和二二年に完通したが、時、既に二〇年八月終戦となり軍用道路は一変して経済道路として幅広い面に於いて新たな交通の利便を増大した。
『高浜町誌』より引用

吉坂隧道は戦時中に着工していたとの新情報!!

正直、戦後間もない昭和25年の完成という『角川日本地名辞典』の記述に触れた時点で、舞鶴という旧軍港都市でのことだけに、戦時中の着工である可能性は疑っていた。
戦時中に軍事目的から着工され、しかし終戦までには完成せず、戦後改めて民生用として完成した隧道は、やはり旧軍港都市だった横須賀の国道16号にも複数ある(吾妻、田浦新船越隧道など)。完成せずそのまま放棄された戸倉隧道(『廃道レガシイ』に収録)大間線のようなケースもあるだけに、これは恵まれたケースだったといえるだろう。

なお同書によると、吉坂峠の北側の高地には日露戦争時に六路谷砲台や吉坂堡塁と呼ばれる砲台が建造され、太平洋戦争時には高射砲陣地が整備されて空襲に応戦したという。前者は、高浜や内浦の海岸に上陸した敵を吉坂峠で迎撃するために整備されたとされ、舞鶴の海陸の守りとしてこの峠が重視されていたことが伺える。
こうした情報を元に、旧軍の機密情報を多数公開している「国立公文書館アジア資料歴史センター」を検索してみたが、吉坂隧道の設計や建設にかかわる資料は見つけられなかった。

ともかくこうして大戦の最中に突貫の工事で建設が進められ、戦後間もなく産声を上げた吉坂隧道であったが、その後の活躍は――

昭和二七年六月一〇日この路線は改めて国道第二七号線として指定されたが、昭和二八年の第十三号台風によって墜道の一部が陥没して応急修理がなされたが、いよいよ交通量の増加に伴い、昭和三六年六月二七日この二七号線は、本格的な大改修工事に入り、青葉山トンネル延長三四三.六メートルも路面が拡幅されて六メートル五〇となり、全線完全舗装の上、若狭における幹線道路としての機能を果たしつつある。
『高浜町誌』より引用

昭和28年に隧道を襲った災害は、台風だった!

ただしこの記述を見る限り、吉坂隧道は被災後即座に通行不能になったのではなく、応急修理が行われて利用は続けられたようにとれる。
これは、内部の潰滅しきった現状(→)を見る限り、俄には信じがたいというか、かなり意外な情報である。

また、吉坂隧道の置き換えとして完成した青葉隧道には、現に昭和31年3月竣工の【工事銘板】が取り付けられているので、昭和36年に改修工事が始まったという記述についても(誤りではないのかもしれないが)、それ以前から青葉隧道が供用されていたことは確かだと思う。

さて、この昭和28年台風13号(wiki)とは、いかなる災害であったか。
ウィキペディアによると、同台風は9月25日に近畿地方を中心に高潮や洪水などの災害を発生させ、死者・行方不明者478人、全壊家屋8604棟、床上浸水家屋144300棟、流失家屋2615戸などの甚大な被害を出したとある。

『追憶 昭和28年台風13号』(舞鶴市建設部監理課/平成16(2004)年刊)には、市内での土木被害が道路決壊274ヶ所を含む683ヶ所であったと記述されているが、吉坂峠や吉坂隧道については特に触れていなかった。また、『舞鶴市史 現代編』にも、「榎隧道付近山津浪により道路へ土砂を流出し通行不能に陥る」などの記述があるが、やはり吉坂峠、吉坂隧道については記述がない。
市内唯一の一級国道だった国道27号の要衝である吉坂隧道の大事となれば、もう少し多くの記述が割かれていても不思議ではないと思えるが、なぜか舞鶴市側の文献にはこのことがまるで出てこない。


吉坂隧道の顛末について最も詳細な文献は、今のところ『福井県土木史』(福井県建設技術協会/昭和58(1983)年刊)である。

一六、七両年にわたり、同じく内務省直轄事業として大飯郡高浜町、京都府境に至る延長約五〇〇〇メートルを幅員七.五メートル(工費二五万円)に改良し、さらに一八年より吉坂隧道の掘削に入った。
『福井県土木史』より引用

戦前は国道35号線に属していた敦賀〜舞鶴間の国道は、昭和8年頃から全線を幅員7.5mの舗装道路とする計画が進められていた。そして昭和18年には遂に舞鶴の入口にあたる吉坂峠に隧道を掘る工事が、内務省の直轄により着工したというのである。内務省は現在の国土交通省の業務を掌握していた巨大省庁であり、その直轄工事は特に国にとって重要であるか、技術的に困難な工事に対して行われた。(最古の内務省直轄の国道工事は清水国道である)

敦賀市から舞鶴市に至る国道二七号線(旧三五号線)中、高浜町から以南は戦時中から引き続き直轄工事として施工されており、県境の吉坂峠は昭和一八年に着工し昭和二五年九月に完成した。
『福井県土木史』より引用

『高浜町誌』では、昭和19年着工22年“完通”とあったが、『福井県土木史』は昭和18年着工25年9月“完成”としている。
『新わかさ探訪』(関西電力原子力事業本部刊/平成9(1997)年)も、「昭和19年には最初のトンネル建設が始まり、22年に完成したものの、28年の13号台風で一部が陥没。30年9月に現在の国道27号青葉トンネルが新たに設けられました」と、前者の説を採っているが、既に何度も引用している『角川日本地名辞典』は後者の説であった。しかしこれらはどちらも一次資料的ではないので、どちらが正しいとは決めかねる。完通と完成という表現の違いに意味を見出そうというのも、ちょっと無理矢理だろう。これは保留というか、二説があるとするしかなさそうだ。

吉坂隧道は、国の直轄事業として昭和一八年四月一日着工し、昭和二五年九月三〇日に完成した。延長二七三.七メートル、幅員七.五メートル(福井県側一七七メートル、京都府側九六.七メートル)掘削方式は側壁導坑によるドイツ式で施工した。総事業費は、二一,九四七,九六〇円である。
本隧道は戦争中に着工し、戦後の経済的、社会的混乱期を経て、実に八ヵ年の長年月を要したが、その間、労力、材料、機械、輸送等工事施工上多くの隘路があり、その苦労は想像以上のものがあった。 
『福井県土木史』より引用

これが現時点で最も信用しうる、吉坂隧道のデータであり来歴であろう。
全長273.7m、幅員7.5m、総工費約2195万円也。 戦時中から終戦直後の建設で実に多くの困難があったとの記述を疑う余地はまるでない。よくぞ完成させた!

だが、『福井県土木史』の記述の真に素晴らしい所は、この後の記述だ。この難産な隧道の哀れな最期をかなり詳細に記述しているのである。 刮目して、読め!

さて、本隧道は昭和二七年に至り隧道の覆工に亀裂を生じ、同年七月の吉野地震で亀裂は急速に進み、越えて昭和二八年には中央部から崩壊して通行不能となった。二十八年十一月の実測によれば、京都府側四五メートル、福井県側六七メートルを残し中央部一六一メートルが崩壊した。
『福井県土木史』より引用

駄目駄目じゃねーかよぉ…(涙)

この記述を信じるならば(私は信じるが)、昭和28年の台風13号の襲来以前に隧道は既に重大な問題を抱えていたことになる。
昭和27(1952)年に、いかなるきっかけによるかは不明だが、内壁に記録されるほどの亀裂が生じたのが異変の始まりだった模様だ。
同年7月18日に発生した吉野地震(震源は奈良県吉野地方、最大震度5、舞鶴は震度3)で追い打ちを受け、翌28年には中央部から崩壊して通行不能に。
この28年の大崩壊の引き金が件の台風13号であったかもしれないが、その名はここに出ていない。
少し深読みすれば、当時の舞鶴市の記録に吉坂隧道崩壊の記事が出てこないのは、それ以前から既に通行を中止されていたからかもしれない。


…巨大台風に打ちのめされた悲劇の隧道というイメージから、突貫と物資欠乏工事の弊害によって止らない自壊を起こした無残な隧道というイメージが濃厚になった。
悲劇的な隧道であることには変わりはないが、衝撃的な真相の告白だった…!

左図は、『福井県土木史』の記述から再現した、昭和28年11月に実測された吉坂隧道の状況だ。

私の現地の観察に反して、なんとこの隧道の崩壊は両端坑口部ではなく、中央部(それも161mもの長大な区間)で発生したのだという。
161m全てが圧壊したわけではなく、重篤な亀裂などが生じている状況も「崩壊」と記述しているのかも知れないが、それにしてもキツイ。
同位置での復旧ではなく新トンネルの建設へと舵が切られたのも頷けよう。(応急措置をして使い続けたという『高浜町誌』の記述は、やはり少し信じがたい)

しかし不思議なのは、現状との差違だ。
昭和28年当時は西口からも45mの“残存部”があったとされているが、平成28年現在はわずか20mほどの地点で、完全に圧壊している。
わざわざ人為的に壊したのでない限り、本隧道の崩壊は廃止になった後も継続し、遂に現状のようになったのだと考えられる。
滅茶苦茶である…。



記録によると、使用したセメントは、当時の状況により、やむを得ず硬化した古セメントを一部粉砕し、ふるい分けをして混合の上使用したり、またプラスターと称するポルトランドセメント類似品を使用した。当時の二八日間試供体の平均破壊強度は六〇.九kg/㎠であった。崩壊隧道の残存覆工の一部から、試供体をとり破壊した結果一五五.五kg/㎠であった。 
『福井県土木史』より引用

ここが偉いところ。
崩れちゃったで終わりではなく、ちゃんと原因の究明をしている。だから今があるのだ。
詳しい内容は私には解説できないが、とにかく良くない材料を使用したことは崩壊の一因だったという解釈だろう。
しかし、きっとそれ以外にも原因はあったっぽい。それほどに酷い崩れ方をしている。

この災害復旧にあたり、京都府と福井県は建設省に工事を委託することとし、工事は近畿地方建設局福知山工事事務所が担当することになった。
復旧には現道の改良と新隧道案を検討し、現道より中心部で約七〇メートル離して新隧道を掘削することとした。
 総延長 三四三.六メートル  有効幅員 七.五メートル  総事業費 一四七,八一六,〇〇〇円
昭和二九年一〇月一日に着工し、三一年三月三一日に完成した。隧道名も福井県側は青葉隧道、京都府側は舞鶴通洞とした。 
『福井県土木史』より引用

こうして、吉坂隧道完成の5年半後に、現在の青葉隧道が完成したのである。
工費が一気に7倍も高騰しているが、物価の上昇分もあるのだろう。
また、わざわざ隧道名を旧隧道から変えたことが書かれているのは、関係者には短期間で崩壊した吉坂隧道の名前を継承することを避けたい気持ちがあったのかも知れない。
このようなケースは、関東大震災で崩壊した内房線の南無谷隧道が、新トンネルでは岩富隧道を名乗ったような例がある。
ちなみに「青葉」は吉坂峠の約2.5km北北東に聳える通称「若狭富士」の青葉山から得た名前だろう。微妙に県境より福井県側にある山なので、舞鶴側の坑口は舞鶴通洞を名乗ったというのは考えすぎかも知れないが。

ここまでが『福井県土木史』の記述だが、同ページに1枚だけ写真が掲載されている。
そのキャプションには、「吉坂トンネル 国道27号線 高浜町地係 L=273m w=7.5m 昭和25年」とある。

ご覧いただこう。
↓↓↓



『福井県土木史』より転載。

キター!

って、あれ? あれれれ??


…ちょっと待て。

これって、確かに少し古い写真ではあるのだろうけど、明らかに青葉隧道だろ。

青葉隧道の高浜側坑口だろこれは……。 →同アングル

……なんという、残念さだ。
俺が見たいのは、本当の吉坂隧道の姿なんだよ〜。


このほか、先ほど羅列したような多くの資料に目を通しているが、残念ながら吉坂隧道を撮影した写真は1枚も見つけられていない。
戦時中の着工当時は、要塞地帯の軍用道路であって撮影自体難しかったのであろうが、戦後は撮影のチャンスがあったはず。
どこかには写真が眠っていると信じているので、これについては引き続き捜索中である。


『越前・若狭 峠のルーツ』より転載。

また、吉坂隧道の現役当時の写真や図面が発見されていないため、今回の現地探索では未発見に終わった東口の位置についても、確定的な情報を述べることが出来ない。
航空写真及び現地調査により、それが地上に現存していないことはほぼ確定といえるが、なぜ現存していないのかを説明できないのは残念だ。
これについても、かつては青葉隧道の通行人の目に留まる遺構があった可能性もあり、皆様からの目撃談などの情報提供には期待している。

これまでのところ唯一旧隧道の位置を記している資料としては、『越前・若狭 峠のルーツ』(上杉喜寿著/昭和58(1983)年刊)に掲載されている1枚の地図(→)くらいだ。
この地図には、現在の青葉隧道のすぐ南側に並行する「旧トンネル」の記述がある。
しかし、著者がこの旧トンネルを見ているかは、本文中に記述がないので不明である。当時まで東口が露出していたのだとすれば重大な情報だが、同時期の撮影とみられる先ほどの『福井県土木史』にあった写真も現状とあまり違う感じがしないので、期待は薄そうだ。

今回、京都府立図書館のレファレンスサービスを利用して、マイクロフィルムとして所蔵されている地方紙「京都新聞」のバックナンバーについても、最低限の調査を行った。
具体的には、これまでの机上調査で判明した吉坂隧道や青葉隧道それぞれの起工日や完成日前後3日間について関係記事の有無を確認したのであるが、全く見つけることが出来なかった。
見出しの検索が出来ないため悉皆調査が出来なかったのは残念だ。


これは余談に属する話だが、一通り調べ終えてみて、一つこれだけは言いたいということがある。

道路トンネル大鑑の吉坂隧道のデータは、滅茶苦茶じゃねーかよ!

いつも大変お世話になっている同書であるが、ここまで「正しくない」データを羅列しているのは初めて見る。
なぜこんなことになっているのか? 単純に提供されたデータが正しくなかったのか、編集の段階でミスがあったのか、別の理由があるのか不明である。

そういえば、吉坂隧道や青葉隧道については旧版地形図の表記も正確性を非常に欠いている。

右図は昭和40(1965)年補測調査版の5万分の1地形図「舞鶴」の一部だ。
ここに描かれている国道のトンネルは、時期的には青葉隧道であるはずだが、現在の地図と比較するとあまりにも不正確である。
トンネル内のカーブが反映されていない程度はよくあることだが、長さが倍も違うし、当然に坑口の位置もぜんぜん違ってしまっている。

これら本来ならば正しいはずの行政や行政の近くで作られた資料の多くが誤謬を孕んでいることは、吉坂隧道の短命がもたらした様々な行政上の混乱やイレギュラーな出来事に起因しているのかも知れない。


最後になったが、このレポートを書くために改めて「松籟」の音を聞いてみたら、ほろっときた話をしたい。

私は立派な松林が海岸線に広がっている秋田県潟上市(旧天王町)に長く住んでいたので、この音は子供の頃からよく聞いていたし、松籟という言葉があることも覚えていた。だが、その実際の音はほとんど忘れてしまっていた。
ぜひあなたもこの動画で聞いてみて欲しい。

どうだろう?
何かの音に似ているとは思わないだろうか。
松籟は、トンネルを多くの車が行き交う音に、とてもよく似ている。
青葉隧道が今も奏で続けている、生きたトンネルの音だ。

私は現地で「松籟洞」の扁額を見つけたとき、「閉塞を打破する風穴のイメージを重ね合わせて、そこに松風の爽やかさを込めたのかもしれない」との所感を述べた。
間違ってはいないかも知れないが、現実の長い時を活躍するトンネルの実像の前では些か詩的に過ぎるきらいがある。
むしろ松籟の音は、戦時戦後という極限状況下の工事を潜り抜けて誕生出来た隧道に対し、万全の構造ではないけれどもそれでも永く活躍してほしい。そんな関係者からのエールだったのではないか。
何が正解という話ではないのだが、私はそのように解釈することで、一層この隧道が好きになった。


旧道は少しもなく、廃隧道もわずか20mのみ。
でも、語りたい内容はとても多い探索になった。



追記: 旧隧道の完成間近を伝える地元紙の記事が発見された!
2018/2/9追記

まだ終わらんよ!
本文執筆後、京都府立図書館のレファレンスサービスにより、吉坂隧道について記述している以下の4点の文献の存在が新たに判明した。

  1. 『京都府百年の年表 7 建設・交通・通信編』(京都府立総合資料館・編 京都府・発行 昭和45(1970)年)
  2. 『京都新聞 昭和25年1月26日号』
  3. 『週刊庁内の動き 38』(京都府企画管理部広報課・編、発行)
  4. 京都府庁文書 『吉坂隧道復旧工事設計書(建設省委託) 昭和28〜30年度』

「1.」の記述の内容は以下の通りである。

昭25(1950)年 6・30 福井県青郷と舞鶴市を結ぶ国道35号線吉坂トンネル開通(全長280m、幅7.5m、コンクリート、昭18建設省直轄着工) 京都 1・26、庁内の動き38 
『京都府百年の年表 7 建設・交通・通信編』より引用

この内容は、既出の『福井県土木史』にある「吉坂隧道は、国の直轄事業として昭和一八年四月一日着工し、昭和二五年九月三〇日に完成した。延長二七三.七メートル、幅員七.五メートル」という記述とほぼ変わらないが、微妙な違いもある。まず完成日が3ヶ月違っている。そして延長も6mほど違う。だが、違う理由が述べられていないので、これだけでは追求しようがない。

この資料の私にとって重要な部分は、後半の「京都1・26」という記述だった。
これは、「京都新聞」の昭和25年1月26日号に関連記事があることを示している。ここから、「2.」の資料に出会うことができたのだ! (京都府立図書館には京都新聞のバックナンバーがほぼ全てマイクロフィルムとして所蔵されているが、内容や見出しの検索ができないため、作業量的な問題から、従来は関係する記事が未発見だったのだ。

それでは続いて今回の追記の本命、『京都新聞 昭和25年1月26日号』の紹介だ。
これが、吉坂隧道に関係する現在までに確認されている唯一の新聞記事だ。
そして、私の念願の一つが叶えられるような内容でもあった(問題もあったが)。
複写を入手したので、さっそく紙面をご覧ただこう! 



『京都新聞 昭和25年1月26日号 朝刊2面』より転載。

念願だった“旧隧道の写真”キタキター!!

紙面には、この第2面で一番目立つ大きな写真が2枚、掲載されていた。(戦後間もないこの時期の紙面の見出しを、興味本位でいくつか抜き出してみよう。「持ち帰った死亡者名簿 高砂丸引揚者が殊勲の記録」「“出来心”愛に勝てず 刑余者に注ぐ一看守の篤行」「女の抱合い心中 未遂」「青酸カリみそ汁 放とうの兄殺害図る」)
そのうちの1枚が、明らかにトンネル内で撮影されていた。
作業服を身につけた大勢の人影が見えており、工事現場であろう。既に内壁の巻き立ても済んでいるようだ。出口の光は見えない。
これこそ、現在は舞鶴側坑口からわずか数メートルしか現存しない“幻”の旧隧道、その初めて目にした内部写真である!

キャプションにはこう書かれている――「写真上は完成急ぐトンネル工事 下は吉坂峠(×印)と改修された国道三十五号線」。

下の写真には遠景で坑門が写っていると思うのだが、いかんせん2枚ともマイクロフィルム化時点でホワイトバランスが崩れていて(レファレンス談)、鮮明さを欠いてしまっているのが惜しい。だがそれでも調査進展の確かな一歩だ! 思いのほか、遠かった。ここまで。

もちろん、本文にも注目すべき内容があった。見出しから順に見ていこう。

「吉坂峠トンネル近く完成」

「京都―福井、物資交流の動脈開く」

上り下りの九十九折で京都―福井両府県境の難所といわれる吉坂峠トンネルは昭和十八年着工以来ようやく完成に近づき、今春四月には長さ二八十㍍、幅七㍍五十、コンクリートの厚さ六十㌢の近代設備を誇るトンネルが開通、自動車がゆうゆう行き交うことが出来るようになり、国道三十五号線としてトンネルに続く路線千六百㍍も同時開通する。これによっていままでのような交通途絶の憂いも去り、福井県側は青郷、京都府側は舞鶴市、両方の物資交流はひん繁となることは明らかである。現場はいま最後の仕上げとして内部の土運び出し、舗装工事に厳寒、積雪をついて営々と工事が進められている。建設省舞鶴国道改良工事事務所の計算によると国費八千万円、延人員二十一万人、コンクリート千三百㌧を要したこのトンネルには鉄路を除いたら日本で三番目、京福随一の大トンネルである。 
『京都新聞 昭和25年1月26日号 朝刊2面』より引用

ここまで一気に引用したが、最後の部分のインパクトが強すぎて、他が霞む。
鉄路を除いたら日本で三番目の大トンネル」って、本当に〜? 第1位は栗子隧道(全長約900m)として、第2位はどこだ〜。ちょっと盛ってないか〜??
ともあれ。8000万円の国費を投じ(昭和25年の大卒銀行員の初任給は約3000円。現在は約20万円。そこから計算すると、当時の8000万円は現在の53億円程度に相当。ただしこれでも国道のトンネル工事としては安くみえる)、着工から7年で延べ21万人が従事したというスケールは、確かに戦後間もないこの頃にあって間違いなく大工事だったろう。

ちなみに、『福井県土木史』だと総工費は約2195万円となっていたので、国費8000万円とは開きがあるが、これも“盛り”なのか、前後の道路工事も含んだ額なのか。
また、記事中では「今春四月」には開通するとなっているが、前述『京都府百年の年表』では6月30日開通、『福井県土木史』だと9月30日開通となっている。どちらにしても、1月時点の目論見からは遅れたらしい。

そしてこの本文の後に付けられているのが、舞鶴国道改良工事事務所長の談話である。
ここにようやく、報道としては少しばかり枝葉に属するような、人間味のある、しかし後に編纂された文献からは真っ先に削られてしまったような情報が出てくるのである。

奥野所長談 昭和十八年以来戦争中も細々ながら建設を続けてきたが、戦時中から終戦と悪条件が重なって資材も欠乏しセメントも各種のものが入り交じって後から取替え工事をしたこともある。工事に伴う犠牲者がなかったことが何より喜びですが、これによって両府県民のうける恩恵は非常に大きいものがあるでしょう。  
『京都新聞 昭和25年1月26日号 朝刊2面』より引用

たったこれだけの短い文章だが、真っ先に出てくる戦中および終戦直後の工事という悪条件は、言い尽くせないものがあったのだろう。
そしてそのために劣悪なセメントが用いられ、これが因子となって、2年後の昭和27年の覆工への亀裂発生、その翌年の自然災害を引き金とした完全崩壊となっていったとみられるわけだが、それを伝える後の記録では出てこなかったけれど、問題のある戦時中のセメントを後から取替え工事をしたこともあったのである。
工事の関係者はひたすらの悪条件に痛めつけられ、もはや途中で向上心を捨て、ただ無気力にトンネルを作ったのではなかったと思う。
現実に起きたことは非情だったが、それが当時この現場に関わった全員が頑張れたぎりぎりの限界だったということではないだろうか。結果、殉職者だけは出さずに済んだ。
私はそう好意的に解釈したい。



さて、今回の追記はだいぶ長くなった。
まだ「3.」と「4.」という新発見資料の説明をしていないのだが、これらはいずれも京都府立図書館には所蔵がない。
代わりに、京都府の公文書館機能を有する「京都学・歴彩館」に所蔵があることを確認した。
ただし、内容は未見である。

これらは実際に現地へ行かなければ閲覧できないため、京都まで行く必要がある。
だが、特に「4.」の『吉坂隧道復旧工事設計書』というのは全3冊の大作らしいので、より鮮明な旧隧道写真の発見や、未だ残された最大の謎である“福井県側坑口の位置問題”の解決が、大いに期待できるのである!

続報を待て!





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